犬も食わない物語

胡暖

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犬も食わない馴れ初め

秘密の逢瀬と心の音 ~sideR~

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「恋愛はね、好きになった方が敗けなのよ」

 いつものように父を良いように使いながら、母が勝ち誇ったように笑った。
 その顔を見て、俺は絶対負けたくない、と思ったんだ。


 ◆


(くそ、またあいつが一番か)

 心の中で軽く舌打ちをしながらも、表情には1ミリも出さずに、掲示板に張られたテストの順位を見上げる。その瞬間、後ろから肩をつかまれ、衝撃でよろける。

「すげーな!ルーク、お前また2番じゃん!」
「まーな、偶々ヤマが当たったわ」
「んなこと言って、こそこそ勉強してんじゃねーの?」
「ねーよ、俺と遊び回ってんの誰だよ!」
「あ、俺か!」

 クラスの奴と笑っていると、周囲から次々と賛辞を投げ掛けられる。それに照れ臭そうに返しながらも、視線はただ一人の方をこっそりと見ていた。

 アイリス。
 彼女は、誰も守っていない校則を律義に守り、その癖のない髪を顎の辺りで切り揃え、気崩すことなく制服を着てしゃんと立っていた。生真面目で、頑固で。反抗心の塊みたいな世代の同級生たちに遠巻きにされたとて、気にしていないように自分を貫いている。
 ガリ勉を隠すことなく教室でも熱心に勉強し、常に俺の上に名前を置く。
 ヘラヘラと楽しくもない会話をしながら、処世術で付き合いたくもない奴らと付き合っている俺とは真っ向に位置する女。
 鼻持ちならない女。

 ただ、表立って突っ掛かることはしない。俺の世間体キャラクターがあるからな。
 だからこそ、放課後に図書室で勉強しているあいつのところに行って、そっと嫌みを言うことで鬱憤を晴らしている。

 最初は偶然だった。
 図書館で借りたまま、本の返却を忘れていたら、司書から連絡が来たのだ。それで、本を返しに行ったら、その本を次に借りたいと待っていたのがアイリスだった。
 それまで彼女と言葉を交わしたことなどなかったが、ついポロリと本音が出た。

「お前女なのに、こんな堅い本読むのな」
「…女が読んだらダメだとその本に書いてあった?」

 やべっと思った瞬間切り返されて、チクリといたずら心が沸き上がる。

「別にー。ただ、こんな本読んでる暇があったら青春でも謳歌した方がいいんじゃねーの?あ、そんな相手なんかいないか?」

 もともと、深層心理で良く思ってなかったのだろう、皮肉な言葉がするすると出る。
 アイリスはため息をつくと、まっすぐ俺を見て言いはなった。

「仲良くもない他人とダラダラと無為に時間を使うくらいなら、その本の1冊でも読んでる方が余程有意義な人生だわ」

 そしてふん、と鼻を鳴らすと歩き去っていった。
 意外と好戦的なその性格にポカンとした後、自分のこの皮肉屋な部分は周囲には隠していたのに、と青くなった。

 暫くは戦々恐々としていたが、アイリスは俺の事を誰にも言わなかったようだった。
 一月も経つと、まぁ、言う友達もいないのだろう、そう開き直った。

 それからだ、図書室で彼女を見かける度に、寄って行って嫌味を言うようになったのは。

 ◆

 今日も嫌みを言ってやろう、そう思って適当に友人達を巻いた後、図書室に向かう。
 アイリスはやっぱりそこにいて、自分の席にも着かず、こちらに背を向けた状態で立っていた。

「よーぅ、ガリ勉女。こんなとこで何して……」

 彼女を覗き込むように近づいて、そこで彼女の様子がおかしいことに気がついた。
 顔面を蒼白にした彼女は、借りてきただろう本をギュッと握りしめて震えていた。その視線の先を追うと…。

「……蜘蛛?」

 こちらの声に反応してびくりと震える方。
 ふーん、と状況を理解して、にんまり目を細める。

「あ、お前の肩にも…ってうわ!」

 ちょっと脅かしてやろうと思って冗談を言った瞬間彼女が腕の中に飛び込んできた。

「取って取って取ってぇぇぇ!!!」
「ちょ、ま、分かったか落ち着け!ほら、取れた!もういない!!!」

 彼女の柔らかさと、香る良い匂いにこちらも焦る。
 肩を適当に払ってやると、彼女はその場にぺたりとへたり込んだ。

「あ、ありがとう…」

 涙ぐむアイリスはひどく小さく見えた。いつも凛と真直ぐ前を向いている姿からは想像もできない弱り切った姿に、彼女の秘密を握ったと心の中でほくそ笑んだ。

 そして定期的に彼女に囁くのだ、「あ、蜘蛛」と。そうすると彼女は判断力が低下するのだろう、近くにいる物に縋り付く。まぁ、俺なんだが。しばらくギュッと抱きしめた後、適当に肩を払ってやると、彼女はいつもしょんぼりとした顔で「ありがとう」と呟くのだ。

 もはやお決まりとなったやり取り。なんでこいつは疑いもしないのか。ま、それをいいことに、こちらもやめる気などない。いつもすましたアイリスの取り乱した顔が見られるこの一瞬を気に入っているのだから。

 今日も性懲りもなく、「蜘蛛だ」と囁き、飛び込んできた彼女の柔らかさを堪能し、頬で彼女の髪のつややかさを感じる。だんだんと彼女を抱きしめる時間が長くなっているが、飛び込んでくるアイリスが悪いのだ。こちらは受け止めてやっているだけなのだから。
 アイリスの震える声がする。

「と、取れた…?」
「…まだ」
「ねぇ、も、取れた?」
「んー。すばしっこいなー、こいつ」

 適当に彼女の背で片手を遊ばせる。

「ホントまだ、取れない?」
「ちょっと取れないなー」
「…ふぇっ」

 アイリスの声が嗚咽に変わり、やべっと心の中で呟く。

「取れた!やっと取れた!!すばしっこい奴でさー」

 がばっと彼女を放したが遅かった。幼子のようにぼろぼろと涙をこぼすアイリスに、狼狽える。

「悪かったよ、悪かった!泣くな…なぁ、頼むから」

 そっとハンカチを差し出してアイリスの顔をぬぐう。それでも後から後から零れてくる涙に途方に暮れた。
 ハンカチをアイリスに握らせると、一緒に地べたに座り込んでそっと彼女を抱き寄せる。幼子のようにしがみついてくるアイリスをしばらく抱いていた。

 突然ぐいっと体を離される。

「も、もう大丈夫!」

 顔を真っ赤にしたアイリスは、ありがとうと吐き捨てるように呟くとそのまま図書室を立ち去った。
 俺は立ち上がれないまま、顔を両手でおおってため息をつく。

(だめだ、これ、だめだ)

 気づきかけた心にきつくきつく蓋をして、見ない振りをする。
 これ以上近づくのは危険だ。そして、涙を流す彼女の姿は思いの外堪える。
 俺はその日からそっとアイリスと距離を取った。
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