2 / 3
瘴気を払ってくれたのは、この世の何よりも大切な人。
しおりを挟む
ある日魔界に大量の瘴気があふれ出し、私はその瘴気に包まれ獣となってしまった。
瘴気が発生した原因は、一つしかない。人族の何処かの国が、禁止されている異世界召喚の術を行ったのだ。恐らくだが、最近きな臭くなっている帝国が犯人だろう。
獣とは言え魔族の長、理性もあればある程度の力も残っている。私を止めようとするレインを振り切り、召喚された異世界人を救い出すため人族の住む大陸へと向かった。
然し、大陸に降り立った後私の体調が急変した。身体は熱を持ち、息も苦しい。今まで平気だったのは、魔界の大気中に含まれている魔力のお陰だったらしい。
こんな調子では異世界人を探すどころではない。その前に、私の身が瘴気に犯され知性のない魔物となってしまう。
私のような魔力の強い者が魔物となれば、国の一つや二つ滅ぼしてしまうだろう。それに、魔界の住人たちも混乱する。今この場で、魔物になるわけにはいかない。
そう思い魔界に帰ろうとした時、不思議な魔力を感じた。半ばつられるようにそちらへ向かうと、不思議な服を着た少年と青年の間のような年頃の男が立っていた。
間違いない、この魔力の流れは異世界人だ。恐らくだが、召喚術を行使する魔術師の実力が足りずに召喚する座標がずれてしまったんだろう。
彼は私の姿を見た後、怯えたようにじわじわと後ずさっていく。仕方のない事ではあるが、怯えた顔をされると少々心にくるものがある。なるべく怯えさせないように努めるものの、彼の背後から異様な気配を感じた。
獣となった私よりも、一回りほど大きい魔物化したオーク。思わず警戒する唸り声を上げた後、彼の服を咥えて走り出す。
あのオークを倒す事は大した労力ではないが、異世界人にそんなグロテスクな現場を見せる訳にはいかない。
以前保護した異世界人の中には、魔物を殺す現場を見て心を病んだ者もいた。出来るだけ彼らには、心穏やかに過ごしてほしいのだ。
然し次第に、私の体調が悪化してきてしまった。綺麗な泉まで辿り着いた後、少々乱雑に彼を放る。
申し訳ないとは思ったが、このまま彼を巻き込んで倒れ私の下敷きにするよりかはマシだろう。彼は打ちつけた鼻を押さえながら私を振り返った。
そんな彼は、あろう事か私に近寄ってこようとする。いけない、異世界人にとって瘴気がどのように作用するのかが分からない今、不用意に近付ける訳にはいかない。
彼を怖がらせるのは本意ではないが、態と怒ったように唸り声を上げた。
「…ぐるるる」
「う、唸らないでくれよ…俺も、君に敵意なんてないんだ。さっきは、助けてくれてありがとう」
そう言った彼の手は、微かに震えていた。きっと、恐怖で竦む心を奮い立たせているんだろう。
そんな健気な姿に、私の身体から力が抜けていく。何故だかは分からない。だが、彼は瘴気に触れても大丈夫なような気がしたのだ。
訳がわからずに顔を逸らすと、近くにいた彼の気配が揺らいだ。私のすぐ隣までやってきた彼は、
「随分苦しそうだけど、毒でも食らったのか?」
「……」
何と説明したら良いのやら。然し、今の私では喋る事もままならない。
答えられないという意思表示をする為、黙ったままちらりと視線を向ける。そもそも彼自身も返事を貰うつもりは無かったようで、特に何も言われなかった。
すると彼は暫く虚空をじっと見つめた後何かを追い返すように手をパタパタと動かし始める。
余りにも不審な行動をじっと見つめていれば、私の視線の意図を理解していないのか小首を傾げた。
「黒いもやもや払ってんの。なんかこれ、よくない気がするし…もしかして、見えてない?」
「わふ」
彼の問い掛けに答えるように一声鳴く。見えない、そう言うように。
すると彼は私の返答に驚いたのか、驚いたように目を見開く。幼さの残る顔立ちのそんな表情は、とても愛らしい。
瘴気は本来、視認できない。私やレインのような力の強い魔族は、空気の淀みとして捉えられる。一般的な魔族はその淀みすら感じ取れない。
歴代魔王の中には、魔眼という特殊な目を持って生まれた魔王も居る。その魔眼持ちの魔王は瘴気を黒い霧のような状態で視認する事ができたらしい。
然し、異世界人が魔眼を持っていたという文献はない。異世界人はその強さと特殊性から召喚した国が秘匿する事が多かった。故に、そもそもの文献も少ないんだろう。
「…おぉ、殆ど消えた」
彼の小さな呟きが聞こえる。どうやら私は、大分長い事考え込んでいたらしい。
そう言われれば、さっきとは比べ物にならないくらい調子がいい。まだ全快とは言えないが、八割程は回復しているようにも感じる。
ふとそこで、思い出す。過去に二人ほど存在が確認された異世界人の能力を。確か女性は聖女、男性は聖人と呼ばれていた。…つまり、目の前の彼は聖人の可能性が高いという事になる。
聖女、聖人は祈りの力で瘴気を浄化出来る唯一の存在だ。対価は、己の命。命を以って世界を浄化し、慈しむ。
そんな事、させてたまるか。此方の住人の勝手な都合で呼び出し、命を使えだと?馬鹿馬鹿しい。彼にも命があって、心がある。この事は完全に隠し通し、彼を絶対に守ってやらねばならない。
そう決意を改めていれば、何かがおかしかったのか彼はくすくすと笑い始めた。それ程気を許してくれるのは有り難いが、少々複雑だ。
文句を言うように軽く唸ってみるものの、私は怖くないと察してしまったんだろう。穏やかな表情で、私の背を撫で始めてしまった。
心を許してもらえず病んでしまうよりはずっと良いが、些か不満もある。私はちゃんと知性も理性も持ち合わせているので、愛玩されるのは本意ではない。
然しまぁ、良いか。そう思ってしまうくらいには彼に好意を抱いてしまった。毛並みに沿うように撫でる掌が、存外心地よかったのもそれに拍車をかけたのかもしれない。彼の生涯を見守りたいと、半ば無意識に考えていた刹那。
突如、私の身体が強い光を放つ。一瞬で気怠さが吹き飛び、身体の形も変わり始める。
「…あの、えーっと…」
「はっ…すまない、余りにも突然の事で動揺していた。まず、此度は私を蝕んでいた瘴気を払ってくれた事感謝する」
恐る恐る此方を伺う声にはっとする。突然瘴気が全て払われ、人型に戻った身体をまじまじと見ていたから。
あぁ、私の仮説は当たってしまった。彼は異世界から召喚された聖人だ。恐らく、どの国も彼を喉から手が出るほどに欲しがるだろう。彼を巡って、戦争が起きたって可笑しくない。
その前に、私が保護しなければ。魔界は魔族と共に居なければ入る事が出来ない。仮に入ってこれたとて、私が拒否してしまえば追い出す事も可能だ。彼にとって、一番安全なのは魔界に他ならない。
「異世界人様、どうか私と共に魔界まで来て頂けないだろうか」
そっと手を取ってそう懇願すれば、彼は酷く動揺していたようだった。はて、私は何か変な事でも言ってしまったのだろうか?
◇
「陛下!陛下大変です!」
異世界人…カナタを保護してから暫くが経った。彼は文句も言わず日々平穏に過ごしている。
そんなある日の真夜中、カナタに付かせている部下のレインが私の執務室に慌てて駆け込んできた。ふむ、カナタは今頃寝付いたのか。随分と夜更かしだな。
そんな事を暢気に考えていれば、レインがバンッと勢いよく机を両手で叩く。おい、茶がこぼれるだろう。
カタカタと揺れるカップを持ち上げていれば、レインは私を呆れたような目で見ていた。
「陛下、何を暢気な事をなさってるんですか!カナタ様が元の世界の話を持ち出したというのに!」
「あぁ、カナタの暮らしていた国はニホンと言うらしい。そこでは魔法は存在せず、デンキを通してキカイを動かして…」
「違います!カナタ様が、家族の事を気になさっておられるんです!帰る方法はないのかと…!」
レインの切実な声に、雷に打たれたような衝撃が走る。カナタが、帰る?どこに?ニホンに?
…元の世界に、カナタが帰りたがっている?
事実に気づいた瞬間、私は思わず立ち上がっていた。駄目だ、帰るなんて。でも元の世界に帰るほうが、カナタにとって幸せなのだろうか?魔界で私たちと暮らすより、本当の家族の下へ…そんな事、考えるまでもないというのに。
然しどうしようもなく嫌だ、カナタと離れたくない。私の傍で、ずっと穏やかに笑っていて欲しい。
不意に見せる幼い笑顔も、穏やかに景色を眺める顔も…優しく、私の名前を呼ぶ声も。
「…あぁ、そうか。私はカナタの事が…」
今ようやく理解した。私は、カナタの事がどうしようもなく愛おしい。
彼の全てを手に入れたい、私の全てを捧げたい…この魔界全てを放り出してでも、ずっとずっとカナタの傍にいたい。
どくどくと心臓が早鐘を打ち、カナタへの愛おしさが止め処なく溢れ出てくる。今までこんなにも誰かを思った事がないから、戸惑いも少なからず存在する。
でもそれ以上に今すぐカナタを抱き締めたい。あぁ、今すぐカナタの顔が見たい。
「お待ちください陛下、今は真夜中です!カナタ様はぐっすりお休みになられてます!…っオリオン!」
「はっ…そうだな、今は駄目だ。レイン、明日の朝私はカナタに求婚する!そうだ、花束を作らねば!」
「オリオン、待ちなさい!オリオン!!!」
私はレインの制止を振り切り、庭園の庭師の暮らす小屋へと全力で走った。
◇
「なーんて事もありましたねぇ…あの時のオリオンは、本当に大暴走してました」
「む、何か変なところがあったか?私はカナタに対して全力だっただけだ」
「えぇ、それはもう…全力過ぎて、誰も止められませんでしたよ。ねぇ、カナタ様?」
同意を求めるように問い掛けた後、レインが真っ白な花束を墓標に供える。この下には、カナタが安らかに眠っている。
私がカナタに出会ってから数十年、カナタは特に大きな病気を患うことなく安らかに老衰で眠りについた。
彼の死は、魔界全土に伝わった。彼の墓参りに訪れる魔族を後を絶たず私たちも大忙しで、漸く終わった頃には彼の死から数年が経過してしまっていた。
その間に魔王の座も部下に譲り、引継ぎ等の面倒な事も終わらせている。これで私は、晴れて自由の身になった。
「オリオン、本当に行くんですか?この術式は完全ではないですし、貴方が消滅する事だってありえるのに」
「何、問題ないさ。私が消えたとしてもこの世に未練はない。寧ろ、成功すれば儲けものよ」
心配そうに此方を見つめるレインに、悪戯な笑みを向ける。既に術者は準備していて、私が赴くだけだ。
愛しい愛しいカナタ。私の憶測が正しければ、今度は私がそっち側へと渡れるはずだ。
そしたらまた出会いから始め、結ばれよう。万が一そちらに行けなかったとしても、カナタが死んでしまったこの世に未練は一つもない。
全て君に会うために、準備は整えてある。あとはもう、術式を起動させるだけだ。
「…カナタ、未来永劫君だけを愛している」
カナタの墓標に囁いた言葉は、彼の元へと届いてくれただろうか?
瘴気が発生した原因は、一つしかない。人族の何処かの国が、禁止されている異世界召喚の術を行ったのだ。恐らくだが、最近きな臭くなっている帝国が犯人だろう。
獣とは言え魔族の長、理性もあればある程度の力も残っている。私を止めようとするレインを振り切り、召喚された異世界人を救い出すため人族の住む大陸へと向かった。
然し、大陸に降り立った後私の体調が急変した。身体は熱を持ち、息も苦しい。今まで平気だったのは、魔界の大気中に含まれている魔力のお陰だったらしい。
こんな調子では異世界人を探すどころではない。その前に、私の身が瘴気に犯され知性のない魔物となってしまう。
私のような魔力の強い者が魔物となれば、国の一つや二つ滅ぼしてしまうだろう。それに、魔界の住人たちも混乱する。今この場で、魔物になるわけにはいかない。
そう思い魔界に帰ろうとした時、不思議な魔力を感じた。半ばつられるようにそちらへ向かうと、不思議な服を着た少年と青年の間のような年頃の男が立っていた。
間違いない、この魔力の流れは異世界人だ。恐らくだが、召喚術を行使する魔術師の実力が足りずに召喚する座標がずれてしまったんだろう。
彼は私の姿を見た後、怯えたようにじわじわと後ずさっていく。仕方のない事ではあるが、怯えた顔をされると少々心にくるものがある。なるべく怯えさせないように努めるものの、彼の背後から異様な気配を感じた。
獣となった私よりも、一回りほど大きい魔物化したオーク。思わず警戒する唸り声を上げた後、彼の服を咥えて走り出す。
あのオークを倒す事は大した労力ではないが、異世界人にそんなグロテスクな現場を見せる訳にはいかない。
以前保護した異世界人の中には、魔物を殺す現場を見て心を病んだ者もいた。出来るだけ彼らには、心穏やかに過ごしてほしいのだ。
然し次第に、私の体調が悪化してきてしまった。綺麗な泉まで辿り着いた後、少々乱雑に彼を放る。
申し訳ないとは思ったが、このまま彼を巻き込んで倒れ私の下敷きにするよりかはマシだろう。彼は打ちつけた鼻を押さえながら私を振り返った。
そんな彼は、あろう事か私に近寄ってこようとする。いけない、異世界人にとって瘴気がどのように作用するのかが分からない今、不用意に近付ける訳にはいかない。
彼を怖がらせるのは本意ではないが、態と怒ったように唸り声を上げた。
「…ぐるるる」
「う、唸らないでくれよ…俺も、君に敵意なんてないんだ。さっきは、助けてくれてありがとう」
そう言った彼の手は、微かに震えていた。きっと、恐怖で竦む心を奮い立たせているんだろう。
そんな健気な姿に、私の身体から力が抜けていく。何故だかは分からない。だが、彼は瘴気に触れても大丈夫なような気がしたのだ。
訳がわからずに顔を逸らすと、近くにいた彼の気配が揺らいだ。私のすぐ隣までやってきた彼は、
「随分苦しそうだけど、毒でも食らったのか?」
「……」
何と説明したら良いのやら。然し、今の私では喋る事もままならない。
答えられないという意思表示をする為、黙ったままちらりと視線を向ける。そもそも彼自身も返事を貰うつもりは無かったようで、特に何も言われなかった。
すると彼は暫く虚空をじっと見つめた後何かを追い返すように手をパタパタと動かし始める。
余りにも不審な行動をじっと見つめていれば、私の視線の意図を理解していないのか小首を傾げた。
「黒いもやもや払ってんの。なんかこれ、よくない気がするし…もしかして、見えてない?」
「わふ」
彼の問い掛けに答えるように一声鳴く。見えない、そう言うように。
すると彼は私の返答に驚いたのか、驚いたように目を見開く。幼さの残る顔立ちのそんな表情は、とても愛らしい。
瘴気は本来、視認できない。私やレインのような力の強い魔族は、空気の淀みとして捉えられる。一般的な魔族はその淀みすら感じ取れない。
歴代魔王の中には、魔眼という特殊な目を持って生まれた魔王も居る。その魔眼持ちの魔王は瘴気を黒い霧のような状態で視認する事ができたらしい。
然し、異世界人が魔眼を持っていたという文献はない。異世界人はその強さと特殊性から召喚した国が秘匿する事が多かった。故に、そもそもの文献も少ないんだろう。
「…おぉ、殆ど消えた」
彼の小さな呟きが聞こえる。どうやら私は、大分長い事考え込んでいたらしい。
そう言われれば、さっきとは比べ物にならないくらい調子がいい。まだ全快とは言えないが、八割程は回復しているようにも感じる。
ふとそこで、思い出す。過去に二人ほど存在が確認された異世界人の能力を。確か女性は聖女、男性は聖人と呼ばれていた。…つまり、目の前の彼は聖人の可能性が高いという事になる。
聖女、聖人は祈りの力で瘴気を浄化出来る唯一の存在だ。対価は、己の命。命を以って世界を浄化し、慈しむ。
そんな事、させてたまるか。此方の住人の勝手な都合で呼び出し、命を使えだと?馬鹿馬鹿しい。彼にも命があって、心がある。この事は完全に隠し通し、彼を絶対に守ってやらねばならない。
そう決意を改めていれば、何かがおかしかったのか彼はくすくすと笑い始めた。それ程気を許してくれるのは有り難いが、少々複雑だ。
文句を言うように軽く唸ってみるものの、私は怖くないと察してしまったんだろう。穏やかな表情で、私の背を撫で始めてしまった。
心を許してもらえず病んでしまうよりはずっと良いが、些か不満もある。私はちゃんと知性も理性も持ち合わせているので、愛玩されるのは本意ではない。
然しまぁ、良いか。そう思ってしまうくらいには彼に好意を抱いてしまった。毛並みに沿うように撫でる掌が、存外心地よかったのもそれに拍車をかけたのかもしれない。彼の生涯を見守りたいと、半ば無意識に考えていた刹那。
突如、私の身体が強い光を放つ。一瞬で気怠さが吹き飛び、身体の形も変わり始める。
「…あの、えーっと…」
「はっ…すまない、余りにも突然の事で動揺していた。まず、此度は私を蝕んでいた瘴気を払ってくれた事感謝する」
恐る恐る此方を伺う声にはっとする。突然瘴気が全て払われ、人型に戻った身体をまじまじと見ていたから。
あぁ、私の仮説は当たってしまった。彼は異世界から召喚された聖人だ。恐らく、どの国も彼を喉から手が出るほどに欲しがるだろう。彼を巡って、戦争が起きたって可笑しくない。
その前に、私が保護しなければ。魔界は魔族と共に居なければ入る事が出来ない。仮に入ってこれたとて、私が拒否してしまえば追い出す事も可能だ。彼にとって、一番安全なのは魔界に他ならない。
「異世界人様、どうか私と共に魔界まで来て頂けないだろうか」
そっと手を取ってそう懇願すれば、彼は酷く動揺していたようだった。はて、私は何か変な事でも言ってしまったのだろうか?
◇
「陛下!陛下大変です!」
異世界人…カナタを保護してから暫くが経った。彼は文句も言わず日々平穏に過ごしている。
そんなある日の真夜中、カナタに付かせている部下のレインが私の執務室に慌てて駆け込んできた。ふむ、カナタは今頃寝付いたのか。随分と夜更かしだな。
そんな事を暢気に考えていれば、レインがバンッと勢いよく机を両手で叩く。おい、茶がこぼれるだろう。
カタカタと揺れるカップを持ち上げていれば、レインは私を呆れたような目で見ていた。
「陛下、何を暢気な事をなさってるんですか!カナタ様が元の世界の話を持ち出したというのに!」
「あぁ、カナタの暮らしていた国はニホンと言うらしい。そこでは魔法は存在せず、デンキを通してキカイを動かして…」
「違います!カナタ様が、家族の事を気になさっておられるんです!帰る方法はないのかと…!」
レインの切実な声に、雷に打たれたような衝撃が走る。カナタが、帰る?どこに?ニホンに?
…元の世界に、カナタが帰りたがっている?
事実に気づいた瞬間、私は思わず立ち上がっていた。駄目だ、帰るなんて。でも元の世界に帰るほうが、カナタにとって幸せなのだろうか?魔界で私たちと暮らすより、本当の家族の下へ…そんな事、考えるまでもないというのに。
然しどうしようもなく嫌だ、カナタと離れたくない。私の傍で、ずっと穏やかに笑っていて欲しい。
不意に見せる幼い笑顔も、穏やかに景色を眺める顔も…優しく、私の名前を呼ぶ声も。
「…あぁ、そうか。私はカナタの事が…」
今ようやく理解した。私は、カナタの事がどうしようもなく愛おしい。
彼の全てを手に入れたい、私の全てを捧げたい…この魔界全てを放り出してでも、ずっとずっとカナタの傍にいたい。
どくどくと心臓が早鐘を打ち、カナタへの愛おしさが止め処なく溢れ出てくる。今までこんなにも誰かを思った事がないから、戸惑いも少なからず存在する。
でもそれ以上に今すぐカナタを抱き締めたい。あぁ、今すぐカナタの顔が見たい。
「お待ちください陛下、今は真夜中です!カナタ様はぐっすりお休みになられてます!…っオリオン!」
「はっ…そうだな、今は駄目だ。レイン、明日の朝私はカナタに求婚する!そうだ、花束を作らねば!」
「オリオン、待ちなさい!オリオン!!!」
私はレインの制止を振り切り、庭園の庭師の暮らす小屋へと全力で走った。
◇
「なーんて事もありましたねぇ…あの時のオリオンは、本当に大暴走してました」
「む、何か変なところがあったか?私はカナタに対して全力だっただけだ」
「えぇ、それはもう…全力過ぎて、誰も止められませんでしたよ。ねぇ、カナタ様?」
同意を求めるように問い掛けた後、レインが真っ白な花束を墓標に供える。この下には、カナタが安らかに眠っている。
私がカナタに出会ってから数十年、カナタは特に大きな病気を患うことなく安らかに老衰で眠りについた。
彼の死は、魔界全土に伝わった。彼の墓参りに訪れる魔族を後を絶たず私たちも大忙しで、漸く終わった頃には彼の死から数年が経過してしまっていた。
その間に魔王の座も部下に譲り、引継ぎ等の面倒な事も終わらせている。これで私は、晴れて自由の身になった。
「オリオン、本当に行くんですか?この術式は完全ではないですし、貴方が消滅する事だってありえるのに」
「何、問題ないさ。私が消えたとしてもこの世に未練はない。寧ろ、成功すれば儲けものよ」
心配そうに此方を見つめるレインに、悪戯な笑みを向ける。既に術者は準備していて、私が赴くだけだ。
愛しい愛しいカナタ。私の憶測が正しければ、今度は私がそっち側へと渡れるはずだ。
そしたらまた出会いから始め、結ばれよう。万が一そちらに行けなかったとしても、カナタが死んでしまったこの世に未練は一つもない。
全て君に会うために、準備は整えてある。あとはもう、術式を起動させるだけだ。
「…カナタ、未来永劫君だけを愛している」
カナタの墓標に囁いた言葉は、彼の元へと届いてくれただろうか?
627
あなたにおすすめの小説
期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています
ぽんちゃん
BL
病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。
謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。
五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。
剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。
加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。
そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。
次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。
一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。
妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。
我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
同性婚が当たり前の世界。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
植物チートを持つ俺は王子に捨てられたけど、実は食いしん坊な氷の公爵様に拾われ、胃袋を掴んでとことん溺愛されています
水凪しおん
BL
日本の社畜だった俺、ミナトは過労死した末に異世界の貧乏男爵家の三男に転生した。しかも、なぜか傲慢な第二王子エリアスの婚約者にされてしまう。
「地味で男のくせに可愛らしいだけの役立たず」
王子からそう蔑まれ、冷遇される日々にうんざりした俺は、前世の知識とチート能力【植物育成】を使い、実家の領地を豊かにすることだけを生きがいにしていた。
そんなある日、王宮の夜会で王子から公衆の面前で婚約破棄を叩きつけられる。
絶望する俺の前に現れたのは、この国で最も恐れられる『氷の公爵』アレクシス・フォン・ヴァインベルク。
「王子がご不要というのなら、その方を私が貰い受けよう」
冷たく、しかし力強い声。気づけば俺は、彼の腕の中にいた。
連れてこられた公爵邸での生活は、噂とは大違いの甘すぎる日々の始まりだった。
俺の作る料理を「世界一美味い」と幸せそうに食べ、俺の能力を「素晴らしい」と褒めてくれ、「可愛い、愛らしい」と頭を撫でてくれる公爵様。
彼の不器用だけど真っ直ぐな愛情に、俺の心は次第に絆されていく。
これは、婚約破棄から始まった、不遇な俺が世界一の幸せを手に入れるまでの物語。
炊き出しをしていただけなのに、大公閣下に溺愛されています
ぽんちゃん
BL
希望したのは、医療班だった。
それなのに、配属されたのはなぜか“炊事班”。
「役立たずの掃き溜め」と呼ばれるその場所で、僕は黙々と鍋をかき混ぜる。
誰にも褒められなくても、誰かが「おいしい」と笑ってくれるなら、それだけでいいと思っていた。
……けれど、婚約者に裏切られていた。
軍から逃げ出した先で、炊き出しをすることに。
そんな僕を追いかけてきたのは、王国軍の最高司令官――
“雲の上の存在”カイゼル・ルクスフォルト大公閣下だった。
「君の料理が、兵の士気を支えていた」
「君を愛している」
まさか、ただの炊事兵だった僕に、こんな言葉を向けてくるなんて……!?
さらに、裏切ったはずの元婚約者まで現れて――!?
婚約破棄されて捨てられた精霊の愛し子は二度目の人生を謳歌する
135
BL
春波湯江には前世の記憶がある。といっても、日本とはまったく違う異世界の記憶。そこで湯江はその国の王子である婚約者を救世主の少女に奪われ捨てられた。
現代日本に転生した湯江は日々を謳歌して過ごしていた。しかし、ハロウィンの日、ゾンビの仮装をしていた湯江の足元に見覚えのある魔法陣が現れ、見覚えのある世界に召喚されてしまった。ゾンビの格好をした自分と、救世主の少女が隣に居て―…。
最後まで書き終わっているので、確認ができ次第更新していきます。7万字程の読み物です。
オメガだと隠して魔王討伐隊に入ったら、最強アルファ達に溺愛されています
水凪しおん
BL
前世は、どこにでもいる普通の大学生だった。車に轢かれ、次に目覚めた時、俺はミルクティー色の髪を持つ少年『サナ』として、剣と魔法の異世界にいた。
そこで知らされたのは、衝撃の事実。この世界には男女の他に『アルファ』『ベータ』『オメガ』という第二の性が存在し、俺はその中で最も希少で、男性でありながら子を宿すことができる『オメガ』だという。
アルファに守られ、番になるのが幸せ? そんな決められた道は歩きたくない。俺は、俺自身の力で生きていく。そう決意し、平凡な『ベータ』と身分を偽った俺の前に現れたのは、太陽のように眩しい聖騎士カイル。彼は俺のささやかな機転を「稀代の戦術眼」と絶賛し、半ば強引に魔王討伐隊へと引き入れた。
しかし、そこは最強のアルファたちの巣窟だった!
リーダーのカイルに加え、皮肉屋の天才魔法使いリアム、寡黙な獣人暗殺者ジン。三人の強烈なアルファフェロモンに日々当てられ、俺の身体は甘く疼き始める。
隠し通したい秘密と、抗いがたい本能。偽りのベータとして、俺はこの英雄たちの中で生き残れるのか?
これは運命に抗う一人のオメガが、本当の居場所と愛を見つけるまでの物語。
劣等生の俺を、未来から来た学院一の優等生が「婚約者だ」と宣言し溺愛してくる
水凪しおん
BL
魔力制御ができず、常に暴発させては「劣等生」と蔑まれるアキト。彼の唯一の取り柄は、自分でも気づいていない規格外の魔力量だけだった。孤独と無力感に苛まれる日々のなか、彼の前に一人の男が現れる。学院一の秀才にして、全生徒の憧れの的であるカイだ。カイは衆目の前でアキトを「婚約者」だと宣言し、強引な同居生活を始める。
「君のすべては、俺が管理する」
戸惑いながらも、カイによる徹底的な管理生活の中で、アキトは自身の力が正しく使われる喜びと、誰かに必要とされる温かさを知っていく。しかし、なぜカイは自分にそこまで尽くすのか。彼の過保護な愛情の裏には、未来の世界の崩壊と、アキトを救えなかったという、痛切な後悔が隠されていた。
これは、絶望の運命に抗うため、未来から来た青年と、彼に愛されることで真の力に目覚める少年の、時を超えた愛と再生の物語。
完結·氷の宰相の寝かしつけ係に任命されました
禅
BL
幼い頃から心に穴が空いたような虚無感があった亮。
その穴を埋めた子を探しながら、寂しさから逃げるようにボイス配信をする日々。
そんなある日、亮は突然異世界に召喚された。
その目的は――――――
異世界召喚された青年が美貌の宰相の寝かしつけをする話
※小説家になろうにも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる