群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

16 午後3時の出来事

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(…しまったなぁ)

 ウィンドウ越しに見え隠れする香月の姿を眺めながら、直樹は想像以上に待たされそうだという確信めいた思いに、焦りにも近い感情を抱き始めていた。
 女性の買い物には時間が掛かるものだと一般論的な知識として持ってはいたが、即断の多い香月もそうであるとまでは考えていなかった直樹である。

 今日は道場に行く日であり、早目に向かおうかとも考えていたのだが。
 この様子では早目どころか、いつもより遅い時間になるかもしれない。
 早目に行かなければいけない理由も特に無いのだが、ひとつ予定が狂うというのはその後の予定を練り直さねばいけないという事に繋がるので、個人的にはあまり歓迎できる状況ではない。

(まぁ、いいか)

 予定は予定だ。分刻みで行動を決める程に多忙でもなし、道場の件にしても今日という日程だけで細かい時間など指示されてもいないのだ。
 それに、自身の予定を優先するあまりに香月との時間を蔑ろにするのは本意ではない。

 直樹はひとつだけ静かに深呼吸をすると、鷹揚に構えていこうと決め込んだ。

「それで、香月ったらですねー」

 直樹がそうこうと考え込んでいる間も、その隣では希理が楽しそうに言葉を紡いでいた。
 荷物持ちくらいはしようと香月に同行した直樹であったが、香月の服選び――ましてや、下着売場に足を踏み入れるつもりは毛頭もなかった。
 そんな理由でショップに面する歩道で待ちに徹している次第ではあったが、直樹1人を蚊帳の外にしてしまうのもどうかと言い出した希理と、そこに引っ張られる形の思惟子との3人で香月の買い物が終わるのを待っていた。

(えへへー)

 直樹が知らないクラスでの様子を話題にしながら、希理は心の中で浮き足立つ感覚に身を任せていた。
 普段は香月にべったりの直樹である。
 香月がガードしているという訳でもないが、あまり親しげに会話ができるでもなし、こうして直樹と並んで立つという機会は実に貴重なものだ。

 希理の知る直樹は、彼氏の理想像に限りなく近い。
 顔良し、成績良し、運動神経も抜群。
 性格は……直接的な交流が少ないために不明な部分だが、香月の言動を見ている限りは問題があるようには思えない。

 そして香月以外に甘い顔を見せないのは、貞操観念的な意識が強いのだろうと希理は考えている。
 見る者によっては堅物だと感じるかもしれないが、希理は一途さであると好ましく見ている。
 香月という存在がなければアタックできるのに、と考えている女子が多数存在するのも知っている。
 だが逆に、希理はこう考えるのだ。
 香月がいなければ、こうして隣に並ぶ事さえ難しいのではないかと。

 希理とて友情は何物にも代えがたいものだと捉えており、親友である香月を出し抜いてまで直樹に彼氏になって欲しいと思っている訳ではない。

(でも、もしも。もしもよ……)

 もしも、直樹に求められたりすれば。
 形ばかりの抵抗を示しながらも、なし崩し的に応じてしまうに違いないと、希理は妄想を膨らませる事がある。
 香月の名を呼び謝りながらも、力強い直樹の腕に身を任せてしまう自分……。
 想像するだけで背徳的な痺れが背筋を伝ってきてしまう。

(…ちょっと、希理)

 思惟子に腕をつつかれ、希理は反射的に弛みかけていた口元を引き結んだ。

(っとと。あぶないあぶない)

 自己陶酔の世界に入り込みかけていた希理は、さりげなく口元を拭った。幸いにも涎は出ていなかった。
 重度というほどではないにしろ、この妄想癖は直したいものだと希理は常々考えている。
 しかし現実はそう甘いものでもなく、希理の意識はたびたび妄想の渦へと沈み込んでしまう。

 雪乃や思惟子は、希理を恋に恋する少女だと評しており、周囲の者もそうだという認識を持っている。
 自分の思い描く世界に浸ってしまうのは仕方ない事だと開き直ってはいるのだが、それが要因のひとつとなって希理の恋人へと立候補する男子が現れないというのはなんとも皮肉めいている。

「ちょ、ちょっと中の様子を見てきますねー」

 直樹に呆けている顔を見られたかもしれないという恥ずかしさが、希理にその場を離れるようにと強く促した。
 希理自身もそれに逆らわずに、脱兎の如く直樹の傍らから一歩を踏み出す。

「え……!」

 まさか希理が飛び出すと考えてもいなかった直樹は、完全に反応が遅れていた。
 大きく踏み出した希理の爪先は、すぐ近くの角より現れていた一団の進路にこれ以上ないタイミングで重なってしまった。

 運の悪い事にその一団は重量級の御婦人方で構成されており、猪突とさえ形容できそうな迫力ある行進は、小柄な希理をものともせずに弾き飛ばす。

「――っ!?」

 自分の進行方向に重なった一団を認識していなかった希理は、自身に何が起きたのか察する間も無く意識を途切れさせた。
 もしこの場にいたのが香月であったならば、直樹は咄嗟にその腕を掴んで引き戻すだけの注意を払っていたかもしれないが、それは言い訳にすぎない。

「――っと」

 独楽のように回転した希理の身体は、三回転ほどもしてから直樹に抱き止められた。

「希理っ!?」

 普段は強い口調を発しない思惟子が、血相を変えて駆け寄った。

「「「あ~ら、ゴメンナサイね~」」」

 希理を弾いた一団は野太い声をハモらせながら、およそ重量級とは思えぬ速度で去っていった。無理矢理にでも引き止めるべきかと迷った思惟子だったが、友人の身を案じて無視を決め込んだ。

「希理!!」

 再度の呼びかけに、希理がうっすらと目を開く。その瞳は混濁しており、きちんと焦点を結ぶには時間がかかりそうだ。

「目を回しただけだから、大丈夫だと思うが……」

 希理の身体が弾かれる瞬間を見ていた直樹は、そう判断した。
 幸いにして頭部への衝撃は避けられていたし、少し休めば問題なく回復する筈だ。
 打撲くらいはあるかもしれないが、そこは希理自身に確認して貰った方が良いだろう。

「とにかく深呼吸しろ。できるか?」

 直樹の呼び掛けに揺り動かされ、希理の口がゆっくりと開く。その肺が大きく動くのを直樹は感じ取った。
 虚ろな視線に変化は無かったが、直樹の言葉を実行できているのだから大丈夫だろう。

「……!
 先輩っ! 離れてっ!」

 安堵の表情を浮かべた直樹だったが、思惟子から発せられた突然の言葉に身を硬くする。
 言葉だけを見れば、親友の体を恋人でもない異性が抱きしめているという状況が気に入らないとも受け取れる。
 しかし、その表情と言葉のニュアンスはそうは言っていなかった。

 端的に言えば、思惟子は直樹に逃げろと言っている。

「――っ!?」

 どういう事かと問おうとした瞬間、直樹の胴が強く締め付けられた。
 腕の中にあった希理が、直樹の背に腕を回してきたのだ。
 鍛え込んでいる直樹からすれば脅威になるようなものでこそなかったが、希理の小柄な体躯を考えると、俄かには信じ難い膂力である。

「ねぇ、せんぱぁい……」

 ここで初めて希理が言葉を発する。
 まだ意識が朦朧としているのか、その瞳同様にまどろんだ声色だった。

「わたしのこと、すき……?」

 は?

「そ、そりゃあ……まぁ」

 香月の友人だし、嫌うだけの理由はない。
 そういう意味で答えたつもりだったが、突拍子もない状況での質問だったために、直樹の口からは曖昧な言葉しか出てこなかった。
 そしてその返しでは不味かったのだと、思惟子の微妙すぎる表情から悟ったが、時すでに遅し。

「へー? 二人がそんな関係になっていたなんて知らなかったわー」

 いつの間にそこに居たのか、踊るようなロゴが大きく印刷された紙袋を抱えた香月と目が合った。
 状況は把握しているのだろうが、どうフォローしたものかと妙案の出ない様子の雪乃はあさっての方向に視線を投げかけるばかり。
 頼みの綱の思惟子も、諦めて下さいと力なく首を振っている。

「い、いやその、これはだな……」

 どうしてこうなるんだ、そんな思いが直樹の頭の中に渦巻く。
 自分にやましい所はほんの一点さえ存在していない。希理の発言におかしな部分こそあれども、目を回している状況では責められるものでもない。
 この場に罪のある者など存在しない筈なのに、罪の意識にも似た感情が直樹を責め立てる。

「うんうん、なにかしら。申し開きがあるのなら、聞くだけ聞いてあげるわよ?」

 いつもと変わらない香月の口調だが、その目はまったく笑っていない。

「せんぱいー。わたしも、だいすき~ぃ」

 そして状況をひとつも理解していない希理が、直樹の胸板に頬を擦りつける。

「……! ………!!」

 とにかく言葉を紡ごうとする直樹だったが、その顎と唇は引き攣ったような上下運動しかしてくれない。
 香月の視線の動きから目を離せず、思惟子や雪乃が割って入ってくれる事に期待し、泣き出しそうになる自分自身を叱責する。

 この場を上手く逃れる言い訳を考えねば。
 きちんと状況説明するための順序立てを考えねば。
 それよりもまずは自分にしがみつく希理を引き離さねば。
 いっその事、土下座して謝り倒してしまうというのはどうだろうか。

 様々な事が次々と直樹の思考を埋め、遂にはそのどれもが空回りしてしまう。

「………」

 そんな直樹の様子を暫く無言で見やっていた香月だったが、見ているだけの状態に飽きたのか、頭を軽く左右に振った。
 そして無言のまま、直樹らに向けて歩を進める香月。
 その足取りはまったくの無造作であり、飾り気の無い分、得体の知れない迫力に満ちている。

 革靴の底が地を叩く音は、まるで何かのカウントダウンのように直樹の脳髄に突き刺さり、顔面から引く血の気がまるで他人事のように感じられる。

「ちょっと――」

 香月が口を開いた瞬間、金管楽器の大音量が周囲に空気を震わせた。

 直樹の後方に位置する噴水広場に設置された大時計が午後3時を告げるメロディを奏で始めたのだ。
 3時かー。3時だねー。通行人のそこかしこからそんな会話が聞こえてくる。

「さっ、3時かっ!? すまん! 俺、道場に行かなくちゃ! 師匠を待たせるなんて、できないしなっ!!」

 それだけを一気に捲し立てると、直樹は脱兎の如くその場からの逃亡を果たした。
 希理をどう引き剥がしたかなど、欠片も記憶には残っていない。
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