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薄明に花びらの舞う
昔日の旅路を辿り
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テウスの助言が功を奏したのか。それ以降、ニモタータまでは何の滞りもなく。その先は、宵花がかなり詳しかった。
道中、フィーヴァシルフェに大きく悩まされるようなこともなく。もちろん、そう気楽なものではなかったけれども。
リュクワまで、長旅を楽しむゆとりもある程度には楽な道行きであった。
心配していた追跡よりむしろ、郷里に居る時にはそれほど濃くはなかった魔法の不安定化の影を、そこここに感じる事の方が多かった。
「今は未だ鬱積為て居る丈」憂いを帯びた瞳で、宵花。
「——けれど此の儘では、何れ暴発為るわ」
鬱積。
そう、そうなのだろう。
ふと体を撫でる、この、言い知れぬ淀みのような、重苦しさのような……
何となく息詰まるような何かは。
しかしそれも、ミアルカに入ってからは、ぱったりと薄らいだ。旅の口伝てに耳に挟んだところによれば、なんでも最近、魔法を安定させる技術の実用化に成功したらしい。さすが世界に聞こえる魔法大国と感心したものだったが、宵花の評は「一時しのぎにしか過ぎない」と辛口なものであった。
「一時しのぎでも良いことじゃないか。僕達にとっても余裕は大事だろ?」
「然う楽観出来た物じゃ無いわ。
元々、愚かな事だったの。
撓んだ物は、元に戻ろうと為る。
其れは明白で、予期為れて居た事。
然して実際、限界迄来て居た。其処に、決定的な楔が打ち込まれたのよ?此の百年が微睡む様だったからと言って、状況が急激に変わらない保証は無いわ。
其の可能性を少しでも低く為る為にも、貴方とわたしが共に居る意義が有るのだけれども」
最後の方は、独りごちるように。白い息に乗って空に溶けていった。
それを、目で追って。
改めて寒さを感じ入る。
マガディを出ておよそ三月。故郷では暑さの盛りを迎えている頃だというのに、曽祖父の話に聞いた通り、まったく季節が逆戻りしたかのような寒さだった。
身震いして、コートの襟元をいじる。
決して経験のない寒さではない。が、彼の感覚では真冬と言ってもいい寒さであるにもかかわらず、ここの辺りの人にとってはこれでも暖かいらしく。手に入る服もそれほどしっかりした物ではないのには辟易した。
「それにしても、凄いなぁ」
帽子を軽く押さえて。空に吸い込まれていってしまいそうな、薄すらと青みを帯びる儚げな建物の稜線を仰ぎ見、柔らかな色の瞳を細める。
まるで、ガラス細工で出来ているみたいだ。
ニモタータを始めここに来るまでにも立派な都はいくつかあったが、明らかにこの街は際立って非日常的だった。
この世界の歴史と共に歩んできたと言っても過言ではない。
ゆうに二千年以上になるか。その、刻まれた歳月の重みがもたらすものであろうか。目に映る景色はあくまで華やぎ、軽やかですらあるにもかかわらず、身の締まるような深みを感じさせる。空気すら違って思えた。
(神話の中に迷い込んだみたいだ、と言ったら大げさかな?
でも実際、神話の時代から続いているんだもんなぁ)
無論、長い年月の間戦火と無縁であったわけではない。創建時そのまま、とはいかないだろうが。
通りは、光の当たり方で幾重にもその表情を変えて——
優しく、物静かな日の光を受け燦とさんざめく……
信じられないぐらい幻想的だった。
夢なのだろうかと疑ってしまいそうだ。
(でも、夢じゃない。
僕は今、英雄と同じ空気を吸っているんだ……!)
ここまでの旅路も含めて、改めてそのことを実感して。少しく気分が高揚するのを感じた。
「楽しそうね」目元を和ませて、宵花。
「うん、だって何もかも想像以上で。
あれもこれも、話に聞くのとは大違いだ。ここは、魔法の力に満ちている!」
氷晶岩というらしい。この近くで採れるという石材からして馴染みの無いものであったが。街全体がうっすらと青みを帯びて見えるのは、それのせいとのことだった。その名の通り、水か氷の中を歩っているような感覚を生起させる。
実際、そうしたイメージを企図したものらしい。現在では再現不可能な技術のようだが、宙に浮いた驚くべきオブジェなど、そこここにそうしたモチーフが多用されていた。
複雑に絡み合った模様が施された、けれど、なめらかでツルツルとした街路
本当に、ついぞ見たことのない、曲線で構成された継ぎ目のない建物群……
この都市を構成するどれもこれもが驚異的であったが、それらを総合したこの街そのものが、とてつもなく繊細で風雅な織物のように素晴らしい調和をなし、一個の作品と評しても過言ではない趣を備えていた————。
「あっ」目抜きの街路の先、大広場に建つものに目を止めて、「見て!宵花!
あんな所にレベッカの像が有るよ!」
興奮して、思わず走り寄る。
これも氷晶岩でできているらしい。そうでなかったなら実物と勘違いしてしまいそうなほど自然で、精巧な作りだった。
(息遣いまで聞こえてきそうだ……)
すっかり感心して、像に見入る。
かの有名な佩剣、アンドヴァリに軽く左手を添え。
軽く引き締まった口元、
強い意志を湛えた瞳でやや上方を見据えて。
彼女の持つ、きりりと引き締まった雰囲気がよく再現されていた。肖像画よりもさらに青みが抜けた感があるので、あの絵が描かれた頃よりも後の姿なのかもしれない。けれど、若い頃の面影もちゃんと残って……
キラトーでの記憶を反芻しかけたところで、ファルーズはハッと我に返った。
「大罪人ジェラルド・メイヤーズに共鳴する過激派との交戦により散って行った英雄、レベッカ・ジュベルト・フォックスを偲び、その業績を顕彰する、ね。丸でプロパガンダの塊ね。彼の国王らしい」
台座に付された由緒を眺めながら、どこか醒めた口調で宵花。
舞い上がって、彼女があまりレベッカの話題を好まないことを失念していた。
悔いつつ、ファルーズは慌てて話題の矛先を変える。
「え~と、図書館はこのすぐ近くだよね」
「ええ。
彼の建物よ」
スッと、纎手が左手、やや奥まったところ。花樹に囲まれた庭園のような一角を指し示す。相当広い敷地らしく、ここからだと、うねるような建物の上の方しか見えない。今はちょうど花盛りの時期に当たると見え、青の目立つこの街にあって、しだれた黄みの花がひときわ鮮やかに、美しく咲き誇っていた。
「専念できそうで良かったね」
「ヴィスーンとか言うのの事?
然うね。然う過信出来た物じゃ無いけど、悪くは無い条件ね。暫く籠もる事に成るでしょうし」
ヴィスーン。正式にはルンド=ヴィスィーン・サアル・ランドゥン・イングルドは、ミアルカを盟主として大回戦の後に設立された組織だ。その名の通り世界の安寧とそのための諸国家共存の潤滑油の役割を期するもので、本部は確か、マガディの北、ルュー大湖南岸の小国、ティーヴェ・フィーナにあるはずだ。ヴィスーンへの参加は各国の自由だし、そこで決められた事は強制ではない。けれども今や、加盟していない国の方が珍しいくらいだし、そこで決められた事は一定の重みを持つ。そのヴィスーンがここ最近フィーヴァシルフェの取り締まりに熱意を示し始めたらしい。となれば、ミアルカの、まして首都であるここは連中にとってはだいぶ居心地が悪い場所のはずだ。宵花は差し当たって、レベッカの腹心の友、クロリス・ベレスフォードの論文にラーベへの道を開く手がかりを求めるつもりなのだという。必然、腰を落ち着ける必要があるのだが、なにせ不本意ながら追われるようになってしまった身だ。ひと所に長く留まれるかもしれない条件は貴重なものであった。
甘酸っぱい香りを運びながら、気まぐれに強まる風に散らされる花の舞の中。庭園の奥、宙より染み出たひと雫の水の滴りの流れ落ちるままに時を止めたような外観の建物を目指して進み、
「わあ、凄いな、ここも」
「王立」と冠するだけあって外も一段と手の込んだ造りであったが、中はさらに驚嘆し尽くすしかないものであった。
帝国様式という、今では限られた場所でしか見られない逸物らしい。
外側からは壁で中を窺うことなどできなかったというのに、中はまるで逆。周囲を囲む壁は見えず、まるで庭園の続きにいるかのようだった。けれど、確かに建物の中なのだ。天井と床があるし、振り返れば今しがた彼らが入ってきた扉もちゃんと存在している。それに、外と違って触れる空気がほの暖かい。
なんだか、妙で不思議な心地だった。
「宵花は、ここには何度か?」
「否、此処を利用為るのは初めてよ。でも図書館自体は馴染みが無い訳では無いから、要領は分かるわ」
実際宵花は手回し良く、入館には身分証明が必要だと先んじて冒険者共同体発行の書類を用意していた。そもそもその共同体への登録だって、こうした事態を想定して行っておいたものだ。おかげで受付で撥ねられることなく円滑に奥へと入ることができた。
「図書館て入るの結構面倒なんだね」場所柄、声を潜めてファルーズ。
それでも、いやに自分の声が響いてしまっているように感じられた。
「此処は特別よ。貴重な蔵書が多いから」同じく小声で、宵花。
(本当に、不思議なひとだ。時世に疎いかと思えば、こんな風にいやに世慣れてもいる)
一体、何がこの少女を形作ったのか
知りたい、
この人のことを。
もっと。
けれど、その応えは冷ややかな拒絶であることは目に見えていて。
問うことを、グッと堪える。
(僕達は、ずっとこんな感じなんだろうか。
旅の最後まで……)
「探したいのは、あわいの森に関する記述なの。没年から遡って……
然うね、取り敢えず八四二年迄の全論考を特定為る所から始めましょう」
まずは没年をはっきりさせなくてはならない。とはいえ、名の通った人物だ。探すというほどの手間も掛からなかった。そこから期間をざっくりと二分して、めいめい仕事に取り掛かる。
(まるで貸切みたいだな)
身元の証明さえできれば誰でも利用できるらしいが、実際のところ利用者は限られているようで人影はまばらだった。
目的の本を手にすると、居場所を定めて黙々と文字を追う。
こんなに文字ばかりをずっと眺め続けるのは今日が初めてかもしれない。これまで書物との関わりが薄かったから気がつく機会がなかったが、席を立つといったらたまにぐらいの環境に身を置いて、どうやら彼は体を動かす方が向いているらしいと自覚する。
細かい文字ばかりの視野にクラクラしてきて、作業の合間、息抜きも兼ねてなんとはなしに上を見上げる。
今居る所は二階。
上を見れば当然上の階とこの階との仕切りがあるはず……なのだが。そこにあるはずの境界に遮られることなく視線は遥か上、梢の天蓋に覆われたような天井まで届く。その高みからは、外観と連動したものだろう。うねる水がほっそりと流れ落ちていた。
どうも内装は樹を基調としているらしい。
床もつるつるの感触に反して木の根が複雑に絡まり合っているように見えるし、耳に届く足音もまさに木のそれだ。圧倒的に膨大な文字という名の森に取り巻かれた子リスにでもなった気分だった。
この図書館での調べものがこんなに手間暇の掛かるものだとは思ってもみなかった。彼の感覚としては、せいぜい三~四日も籠もれば終わるつもりでいたのだ。
(ぜんっぜんそんなのじゃ間に合わないな、これは)
都合良くクロリス・ベレスフォードの全論考をまとめた一覧があれば、どんなに良かっただろう……。
行く手に聳える山の高さに思いを及ぼすと、気が遠くなっていくようだった。
朝から、ほぼ閉館まで。
ひたすら無味乾燥な文字と格闘するする日々が続いた。
そうして、一週間と少し。
「これで最後だね」
本を閉じて、ファルーズ。
息をついて、大きく伸びをする。
「御疲れ様」ほのかに笑みを添える彼女に、
「宵花も」笑み返す。
課題をこなして分かったことがある。
クロリス・ベレスフォードは——少なくとも調べた範囲では——三~五年に一本まとまった成果を発表してきた。だが、晩年の十二年間はそれがパッタリと途絶えてしまうのだ。研究それ自体は続けていたらしいにもかかわらず、だ。
そして目指す記述には、ただ一度として行き当たることはなかった。
「是だけ探しても丸で当たらないなんて……。
もっと細かく為ても屹度無駄ね。後は閉架だけれど……」
宵花の歯切れが悪かった理由はすぐに分かった。閉架の図書に接することができるのはごく限られた人間のみだったのだ。なんの後ろ盾もない彼らがこれ以上ここで知り得ることは何もなかった。
「他に手掛かりは有るの?」
図書館の中でこれ以上の会話は憚られたので、とりあえず外に出て。適当な所で足を止める。
「ベレスフォード邸へ行きましょう」
少し瞑目して後。
深々たる黒玉の、美しい瞳をパチリと開いて宵花は切り出した。
「他に探せそうな場所と言ったら、もう其処位しか無い」
「どこに有るか知ってるの?」
「ええ。
でも古い情報だから今は如何かしら……。兎に角行って見ましょう」
ベレスフォード邸は通称学者街と呼ばれる地区にあり、図書館のある中心部からはそれなりに距離があるらしい。けれども宵花曰く、馬車を利用するほどでは無いとのことで、歩いて向かうこととなった。彼としては同じ街の中を乗り物で移動するという発想自体が馴染みのないものであったのだが。リュクワはその大きさにおいても、日常とは掛け離れているのだと実感する。
王城を横目にしばらく行き。
目的の地区に差し掛かったところで、宵花が不意に立ち止まった。
「此の店……」
視線を追うと、なんとなく洒落た雰囲気の店に行き当たった。カフェというものだ。これもまた縁のないものであったが、この街に来るまでにも何度か見掛けたことがあった。
カウンターに座って軽く飲み物を注文し。合間を見て店主と思しき品のある男性に話しかける。
「済みません、此の近くにベレスフォードさんの御宅は有りませんか?」
「学者一家のベレスフォードさんかい?
ああ、あるよ」
仕事の手を止め。丁寧なことに、店主は表に出て説明をしてくれた。
「まず通りを渡って、向こうの方にまっすぐ。二つ目の曲がり角を曲がって、三軒目の家だよ。
君たち、学生さんかい?」
「ええ。クロリス・ベレスフォードの研究に就いて調べて居まして。有り難う御座います。助かりました」
勘定を支払い、店を後にする。
「これも君の力なのかい?」
「力……?」りりんと頭飾りを揺らして、きょとんと首をかしげ。
ふふ、と軽く吹き出す。
「そんなのじゃ無いわ。わたしは彼の店がクロリスの行き付けだと知って居た丈。だから今如何成って居るのか聞けるのじゃないかと思って。
引っ越してなくて助かったわ」
場所は分かっているという言葉通り。教えられた道順を反芻する風もなく勝手をわきまえた足取りで通りを進むと、
「ここね」
迷いなく店主が言った家の前に立ち、戸の装飾に触れる。
装飾はどうやらドアノッカーの役目を果たすものであったらしい。
「どなた?」
声を乗せて、ふわりと風が漂った。
「突然の訪問を御許し下さい。クロリス・ベレスフォードの研究に就いて伺いたい事が有るのです。勿論、今日で無くても構いません。御時間を頂けないでしょうか」
「あら、学生さん?
ええ、構いませんよ。ちょっと待っていてくださいね」
魔法の気配が途切れ、少しして。
「ようこそ。いらっしゃい」
先ほどの声の女性が二人を迎え入れる。
どうやら彼女がこの屋の主人であるらしかった。「ベレスフォード夫人」というともっとおっとりとした人を想像していたのだが、もう年輩と形容される年の頃であるにもかかわらず颯爽とした足取りの、きびきびとした人だった。武を生業としている———というわけではないだろうけれども、もしかしたら何らかの心得があるのかもしれない。
「娘は研究びたりでほとんど帰って来ないでしょ?一人で過ごすにはここは大き過ぎちゃって。お客さんは大歓迎よ」
応接間に通される間も、その後も。社交的な夫人の力で会話は自然と途切れることなく続いた。
茶を飲みながら、三人であれこれと話に興じる。といっても宵花は、特に身の上について当然言葉少なで。主に彼が喋っていたのだったが。
他もそうだったがこの部屋は一層、レース編みが随所に用いられているのが印象的だった。必ずしもこの屋敷の主人の好みというわけではなく、ミアルカはレース編みが盛んなのだという。
そういえば、宿にも使われていたことを思い出す。
この家のレース編みの大部分は先代の夫人と今の夫人の作らしいが、クロリスが編んだものもあるらしい。
「嗚呼、確かに得意そうかも」
「ふふ、そう思う?でもお義父さんたら、凝り性だから。結構こじらせてるのよ。良かったら、後で見せてあげるわね。
それで、二人はクロリスの研究の何を知りたいの?」
「彼があわいの森に就いて何か遺して居ないか調べたいのです。図書館を当たって見たのですが、全く其れらしい記述を見つける事が出来なくて……。それで、此方に彼の書いた物が遺されて居るのなら、是非其れを見せて頂ければ、と」
「あわいの森……」少し考え、
「クロリスの研究に空白が有るのはご存知?」
「はい。晩年の十二年間のことですよね」
「そう。
この件はもしかしたら、そこに絡むのかもしれないわ。でも、そういう事なら娘を呼ばなくてはね」
テーブルの一角に手を滑らせると、女中に言伝る。
たぶん、ドアノッカーと似た仕組みなのだろう。
「さて、と。
あなた達、どうやら体を動かすのは苦手ではないようね。もし良かったら、ちょっと軽い運動をしてみない?」
「はあっ!」
夫人の鋭い突きを躱した宵花が懐に飛び込み、突き返す。
至近からの一手。
しかし夫人は素早く武器を起こして受け流すと、反撃に転じる。
実戦さながらの、熱い攻防だった。
もちろん、これはあくまで競技。ルールはあるし、使っている道具も本物ではない。しかし上手の二人の戦いは思わず引き込まれ、手に汗握るものであった。
夫人は薙刀を、対する宵花は少しでも慣れたいからとリヴァテウムに似た細身の剣を構えている。
ミアルカでは薙刀競技が盛んで、中でも夫人は指折りの選手であったらしい。現役引退後も、こうして改築した中庭で鍛錬を続けているのだという。主流は薙刀同士だが異種戦もあるとの事で、道具も一通りのものが揃っていた。
慣れの差を差し引いても、夫人は往時が垣間見える強さだった。
彼が取れたのは、三本中最初の一本のみ。
宵花はさすが、対等に渡り合って見えるが——
「そこまで!」
審判を務めていた女中の掛け声が、勝負の終わりを告げる。接戦を制したのは夫人だった。
「あなた、本当に筋が良い」兜を脱ぎ、差し出されたタオルで汗を拭いながら。
「でも、確かに刺突中心の動きは不慣れなのね。所々で修正を入れていたでしょう。以前のやり方が余程体に入り込んでいるのね」気付いたようにファルーズの方を向き、
「ああ、もちろん君も悪くない。ただ、何というか——そう、場数が違うのね。彼女の動きには殺気が籠もっている。相対していると、ひやりとさせられる。
けど、あなたはそのままでいいと思うの。なにも相手を叩きのめすことだけが武の道ではないでしょ?」
「年甲斐もなくこんなことして。腰痛めるわよ」
コツコツと、ヒールの音を響かせて。
短めの丈のスカートから、大胆にさらした足が覗く。
割って入った声の主はこざっぱりとした恰好の、しかし、派手な印象の女性だった。
「お帰りなさい、イェルリカヤ」
「大事な用件ってこの子達の事?
私に何の用。貴重な時間を割くだけの価値が有るんでしょうね」まとめられた髪からこぼれた、金にも見える淡い茶のひと房を払いのける。
(うっわー……)
その態度はキツイを通り越して——
有り体に言ってしまえば、感じが悪かった。
「何て言うか……
血筋を感じるわね」
ぼそりと。宵花が小声でもらす。
「あなたを呼んだのは、わたし」たしなめるような口調で、夫人。「あなたのお祖父さんの最後の研究のことよ」
「お爺様の?だってそれはお爺様自らが処分したって……」
「ええ、そう。その成果をまとめた手記は封じられてあなたのお父さんに託され、そしてわたしに引き継がれた。書斎の鍵と一緒に、ね。
この子達の話を聞くのなら、あなたに譲るわ。わたしが持っていても仕方がないし、元々あの人はそのつもりだったのだもの」
「……良いわ。聞いてあげる」
少し、考えた後。
イェルリカヤは取引を受け入れた。
運動でかいた汗をざっと流すと、ファルーズ達は再び応接間に集まった。
「あわいの森?
……覚えがないわね。お爺様の研究でそんなの」
「イェルリカヤが言うのなら間違いないわね。やっぱり、有るとすればこの手記の中」
「それか、そもそもそんなものには関わっていないか。
第一、どうしてそれを調べようと?知ってどうしたいわけ?ニッチな分野を突き詰めることに目覚めたというワケでもなし。あなた達、学生でも研究者でもないみたいだし」
「……然うね」
ややの沈黙を挟み、
「貴女なら一笑に付したりは為ないでしょう」
宵花は、以前彼に話したことを再び語った。
自らの使命のこと。そのために必要なことを。
「——つまりあなた達はほぼ行き当たりばったりに飛び出して、取り敢えずお爺様の研究に縋ろうと。
ふぅん……」
くるくると指先で金茶色の髪をもてあそびながら。
(トゲっぽいなぁ。
その通りといえばその通りなんだけど)
夫人が詫びるような目差を向けてくるのへ、柔らかに笑み返す。
実際、取り付きにくいもののこの女性のことは嫌いではなかった。きっと芯の部分が嫌な感じでは無いからなのだろうなと思う。
「……質したい所は色々あるけれど、差し当たって、あなた妙に確信有りげだけれど、お爺様がそのあわいの森とかいうのを調べてたってどういう根拠で言ってるの?」
「其れは……」ほんの僅か、彼の方に視線を向け、「わたしがレベッカ・ジュベルト・フォックスの記憶を持って居るから。彼女の記憶では、確かにクロリスはあわいの森に興味を持って居るようだった」
「レベッカの記憶?」さすがに眉をひそめ、イェルリカヤ。
「……煙に巻いている、という風でもなさそうね。
まあいいわ。あなたの前提に乗りましょう。
とすると確かにお爺様の研究に何も痕跡が残っていないというのは不自然ね。封じられた研究がそれに絡んでいる蓋然性は高い……」
二の句までには、しばらくの間があった。
「……面白そうな話ね。それに、お爺様の最後の研究にも大いに興味がある」
「この子達の頼みを引き受けるのね?
じゃあ、これはあなたのものよ」
夫人が膝の上に乗せていた手記と鍵を娘に差し出す。
イェルリカヤは受け取るなり彼らのことなど忘れたように手記にかじりついていたが、突如高笑いを上げた。
「お爺様らしい」
生き生きと薄青の瞳を煌めかせ。
それは、とても無垢な表情だった。
「あなた達の方の封——そうね、ややこしいから以降は楔と呼びましょう——この手の魔法は焦点に合わせて配置されるのが基本よ。焦点の位置、楔の数、そしてその場所が一箇所分かっているのなら、それをとっかかりに推測できる可能性は高いわ。
こういうの、私の専門じゃないんだけど……ま、詰まったら手伝わせればいっか。でもまずはお爺様の挑戦を受けるので良いわね?」
「構わないわ。貴女の遣る気が頼りだもの」
「この件、どっちも相当時間を注ぎ込む事を覚悟しなくてはならないわね」下あごに親指を当て、思案する。
「私の研究の方は……まあ良いとして、別件が厄介ね……。
そうね、これにただちに取り掛かる代わりに、あなた達に私の仕事をやってもらうわ」
「僕達にできる事なら喜んで。けど、僕には魔法の専門知識なんて有りませんよ」
宵花に目をやると、彼女も首を振る。
「もちろん、出来もしない仕事なんて振らないわ。
ある村でちょっと問題が起こっていてね。そこの調査よ。と言っても原因の目処は大体ついているの。だからあなた達は現地に行って、その証明をしてきてくれれば良いってワケ。簡単でしょ?私の助手ってことにするから道中の煩いもないし」
「大丈夫なんですか?そんなので……」
「文句なんか言わせやしないわよ」
不敵な笑みを浮かべて、イェルリカヤは言った。
宣告通りイェルリカヤの手際は見事なもので、翌日の昼にはもう話がついて出立の運びとなった。夫人の好意によりベレスフォード邸に彼らの部屋を用意してもらえたうえ、必要なものは全て手配されることになったので、彼らの持ち物だけでみれば随分とすっきりしていた。
「聞いても良いかな?」
あてがわれた馬車に乗り込んでしばらくして。
ファルーズは思い切って口を開く。
「君がレベッカの記憶を持ってるっていう話」
彼女はレベッカの縁者ではないと言っていた。けれどやはり、何らかの繋がりがあったのだ。
が、
「何れ分かる事よ」
彼女の応えは予期した通り、取りつく島もなく。けれどそこには、ファルーズへの確かな信頼も感じられて……。
濃い、しかし透徹した眼から目を逸らし。複雑な思いで、彼は密かにため息を漏らす。
馬車はしっかりとした造りで、揺れもほとんどと言って良いほどなかった。これまでの旅で何度か出会った馬車という乗り物のイメージを大きく覆すものだ。これもきっとミアルカの技術なのだろう。道行きは思いのほか快適なものになりそうだった。
地図上で見る限り、サンジョ・レーゼまでは馬車ならば三~四日もあれば着く距離と思えた。だが実際に掛かったのはその倍。整備された、街道と呼ばれても恥ずかしくはない道が一応通ってはいたのだが、辺鄙な場所のためか間にある丘陵地帯を大きく蛇行するように通っていたのだ。こういう所もイェルリカヤが忌避した部分だったのかもしれない。根拠はないが。
着いたのは朝方。よく冷えた空気の中、立ち籠める靄ごしの朧な光にじわりと滲むように集落の姿が浮かぶ。都会育ちのイェルリカヤの目から見れば村と呼ぶほかないのだろうが、彼の感覚からしてみればこれは町だった。
「ようこそ、この度はわが町のためにこんな遠方までご足労ご苦労様でございます。卑賤な身ではございますが、畏れ多くもレーゼ伯爵に代わりまして御礼申し上げます」
考えてみれば当たり前のことなのだろうが、わざわざ出迎えが待ち受けていたのには面食らった。しかも下にも置かぬ扱いだ。面食らったを通り越して、正直、ギョッとした。
オルホフと名乗ったその男に改めて身分を示し簡単な挨拶をする。とはいえ非公式の身分であるため、彼らの立場を担保するのは制服ではない。一見上着に縫い取られているように見える研究所の紋章がその証だった。
「見える」と表したのは現に縫い取りではないからだ。普段はピタリと貼り付き激しい動きをしても剥がれないが、必要があればごく簡単に取れる優れものだった。今は紋章だけでも十分証の役目を果たしたが、高度な技術であるためにまず模造品が出回りようがないという点も立派な証明となり得た。
(けど、この恰好じゃ釣り合わなかったかなぁ)
世界一と名高い王立研究所にはそれに伴う権威も備わっている。一方で徹底した能力主義でもあり、研究員になるのに生まれや血筋は問題とはならない……のだが。やはりある程度の魔法の能力が必要となるため、自然、構成は貴人の出に偏っている。そのことも考え合わせればオルホフの対応はまさしく妥当なものだ。
そもそも見合うような持ち合わせと言われても困ってしまうのだが。何よりごり押しの人選なのだ。警護までは付いていない。道中の事やここでの事がある。いつもの服装がいいだろう、と。あの時はさらりと納得してしまったのだけれども。なにせ今着ている服はその辺で買い求めた間に合わせの服装だ。さすがにみすぼらしくはないが普段着もいいところで、申し訳ないほどに扱いに対してちぐはぐ。まるでコントだ。所員は変人の多さでも有名らしいので不審には思われないかもしれないが。
どうも居心地の悪さが急激に頭をもたげてきた。
(……違うか。
服が問題なんじゃない)
高祖母がどうだろうと彼自身は生まれながらの庶民で、しかもほんのひよっこだ。こうした公的な立場というものには、とんと縁がなかった。待遇に自覚が追いついていないのだ。だから似合わない服を着せられているような違和を感じるのだ。
「それにしても、いやはや、お若いですな。もっと年嵩の方が来られるかと。
——失礼でしたかな?」
「いえ、御気に為さらず。無理も有りません。
わたし達は助手なのです」
宵花の方は少なくとも傍目には慣れたもので、オルホフとの社交を流暢にこなしていた。
(でも、しっくりくるなぁ)
むしろ戸惑う姿の方が想像しづらかった。それはそれで可愛かっただろうけれども。
(これもレベッカの記憶のお陰なのかな。それとも、宵花自身の?)テウスは良家の令嬢と思っているようだったけれども。(実際、どうなんだろう……)
テウスはそれなりの根拠を持っていたようだった。彼も、ありえない話ではないと思う。
けれどいずれにしろ、本当に彼女のことを何も知らない。
宵花と旅を始めて三月になる。
重ねた時間の長さだけ打ち解けてきているような気はするのだが、自身を語る言葉は依然寡黙で、出自についてもこの町の霧よりなお濃く没していた。
「なるほど、道理で。
いや、それにしても若くはありませんかな。しかも二人お揃いで」
「良く言われます。けれど研究所では然う珍しくも無いのですよ」
「はあー。さすが都は違いますなー。
ところで、ベレスフォードさんと仰いますと、あの?」
宵花には名乗る家名が無いという。それでは障りがあるだろうということで、ここではベレスフォードで通すことになっていた。
「ベレスフォードと名乗って居てもわたしは遠縁でして——
————」
車窓からは宿も見えたが、案内されたのはオルホフの家だった。出迎えを任されるだけあってこの土地の有力者のようで、他の家よりも立派だった。
ここまで彼らを運んでくれた御者は客室に、彼らは離れの棟にそれぞれ通される。増築されたらしいここは何代か前の当主がアトリエとして用いていたのだそうだが、彼らの用に供するためだろう。居心地よく設えられていた。
「都の方には何かと不自由でしょうが。どうぞ何でもお申し付けください」
「心遣い感謝為ます。所で伯爵の御加減は如何でしょうか?矢張り御挨拶申し上げないと言うのは……」
「いいえっ!とてもお会いになれる状態ではっ。
お二人のことは私の方からお屋敷にお伝え申しますので」
「然うですか……。ではお願いします」
見るからに安堵した様子で、オルホフは引き下がっていった。
「……ベレスフォードさんの推測、当たりかな」
「ええ、恐らく」
それを隠すのは道理には合わないのだが、小さな町だ。そういうこともあるだろう。
持ち物の整理を終えるとオルホフに言い置いて町に出る。案内を買って出た彼に宵花は、あちこち歩き回りたいからと断った。
オルホフの申し出に他意はなかったようで、誰かが彼らの行動を監視している感じではなかった。そして、宵花の言葉も方便ではなく。最重要の祭りの場へはまっすぐ向かわず靄に煙る町を二人、散策していた。
靄は先程よりもだいぶ薄らいでいたが、それでもまだその存在を意識せずにはいられない程にははっきりとした密度で漂っていた。リュクワの氷晶岩一色の街並みに対して、サンジョ・レーゼは資源に恵まれているせいもあるだろう。多くの建物は氷晶岩と木材とを絶妙に絡み合わせて建てられていた。パッと見た印象こそ素朴だが部分部分に手間が光り、この薄霧と周囲の深い木立とにピタリと調和して——
そう、まさに
胸を打たれるほどに、印象的な光景を成しており。
この風景の中を歩くのは、なかなか良いものだった。
もちろん、ただ浸っていただけでは無い。宵花が気に掛かると言うのだ。ファルーズとしても彼なりに注意をして見てはいた。が、その間、目立っておかしなことは見当たらず。町の人の方も特に彼らを避けたり警戒するような素振りはない。むしろ愛想がいい方だった。
しいて言うなら、
(少しひっそりし過ぎている、かな)
息を潜めているというところまではいかないが、この町の規模にしては、何か。
とはいえ、ささやかなことだ。単なる思い込みかもしれない。いずれにせよ、大勢に影響するような類ではなかった。
「やっぱりおかしい。おかしいわ」宵花がそう漏らしたのは、ざっと一周巡ったところでだった。
「嗚呼、おかしいと言っても対処の仕方を変えなくてはならないとか然う言う事は無い筈よ。只……
然うね、問題に為れなかった所が引っ掛かった丈」
「問題にされなかった所?」
「失敗の構造が見えたと言うか」
祭りの場へと向かいながら。
イェルリカヤはここで彼らに求める役割についての指示しかしなかった。その辺りのことを指しているのだろう。
「此の土地に就いて、如何思う?」
「土地?」大まかにサンジョ・レーゼ近郊を思い浮かべながら、「……そういえば、周りに何にもなくてこの町だけ孤立してるよね。土地には恵まれてるみたいなのに——」
そこまでなぞって、その不自然さに今更ながらに気づく。
(そうだ、おかしい)
豊かなのはこの町の周りだけ、なのだ。
急に、寒さが染み入ってくる感じがした。
バッと後ろを、霧の波間に漂うように見え隠れする美しい町を見下ろす。
町は変わらずそこにある。夢の住人でなくなった所で消えたりなどしない。
けれど幻でないことが、逆に恐ろしかった。
「此処は元々住むには向かない土地なのよ。其れを魔法で無理矢理土地其の物の性質を置き換えて居る。其の効果を持続為せる為に依代が必要なのね。可也大仕掛けで、然して危険な魔法よ。此の規模だから何とか体が持つけれど」
「そんなことを……。
それで伯爵は……」
唾を飲み込む。
喉がひりついているような気がした。
「でも、凄いね。まるで神様みたいだ」
「古い魔法なのだと思うわ」軽くうなずき、宵花。「其れにしても良く考えられて居る。けれど、邪な遣り口ね。わたしは好かないし、正直不快だわ。
……わたしが言うのも烏滸がましいけれどね」
自嘲にも似たものを浮かべる。
ズキリと、胸が痛んだ。
そんな顔をして欲しくなかった。
けれど、
その奥にあるものを
彼女のことを
知らない彼に、どんな言葉が掛けられるというのだろう…………
祭場は丘の上の領主の館をさらに見下ろす頂にあるらしい。町と館とを境する林の分岐道を経て、いよいよ登りらしい登りに差し掛かる。
どうしようもなくて。
探しあぐねた末、結局、形になって出たのは彼の気持ちには沿わない言葉だった。
「君は魔法を感じ取ったの?」
強い魔力に恵まれた人は魔法の在り方を感じ取る能力にも優れるのだという。彼の高祖母にまつわる物語にもそうしたくだりがあった。
「ええ」
「全然気付かなかったよ。
……本当なのかな?
僕の高祖母がフィオナ・マクラオドだっていうの」
彼の兄弟も親も親戚も、それこそフィオナの子であるはずの曽祖父まで。誰一人として魔法の才に特別抜きん出てはいなかった。
魔力の高さは血統に依存する。
この常識に立って見るなら、なんとも不可解だった。多少話が盛られているとしてもフィオナが稀な魔力の持ち主であったことは間違いないらしいのに。
「無理もないわ。先祖返りは本人丈の物。例え子であっても其の力が受け継がれたりは為ない。
……間違いないと思うわ。貴方がフィオナの血筋だと言うの。面影が有るもの、彼女の」
「そっか。
……ありがとう、宵花」ふわりと笑んで。髪のひと房をつまむ。
「なんかスッキリしたよ。僕だけが違うから、昔ちょっとした行き違いがあってトラウマになりかけた事があったんだ」
「其れは違うわ」
足を止め、宵花が彼を見据える。
「フィオナの髪と目の色も先祖返りに因る影響よ。だから、貴方の其れはフィオナに似たからじゃない。わたしと同じ。貴方も、歪みを引き受けて居るから然う成って居るのでしょう」
「歪み……。
じゃあ、僕にあるっていう力とフィオナとは関係ない?」
「ええ。偶然よ」
(それならフィーヴァシルフェは?)
彼らが一族の誰でもない彼にこだわる理由は、また別のところに有るのだろうか。
小一時間ほど登ると、見晴らしの良い場所に出た。見上げるほどの石柱が目を引く。
祭りの場だ。
「眺めが良い!
……けど、ずいぶん離れた所でするんだね」
ここからだと丁度市域全体を見渡すことができるので、そういう意味ではふさわしい場所なのかもしれないが……
広さもそれなりにはある。しかし、町の規模を考えれば余裕があるとは言えないだろう。世の中にはたった数人で行うような密儀もあるというけれども、少なくともサンジョ・レーゼはそうではない。儀式の時こそ静謐が要求されるものの、その前後は、それはもう賑やかなものだという。だとすれば、もっと適当な所があるだろうに。
「段取りが大事なのよ、斯ういうのは」
石柱に触れながら、宵花。
石柱の周りには、リュクワのような継ぎ目のない氷晶岩の床が広がっており、どちらにも呪文と思しきものがびっしりと描かれている。
「ここに、これを使えば良いんだね」
イェルリカヤから渡されたものを取り出す。
手のひら大の輪だ。魔法の暴走を鎮めるためのものだった。
「待って!
……これは——」
「!」
ソレがなんなのか。
考えるよりも先に、体は動いていた。
まるで空気から滲み出たようだった。
辛うじて人型に見えなくもない。
ソレは影のように朧で、不安定に、ゆらゆらと揺らめいていた。
宵花とソレとの間に割って入り、伸ばされた腕を斬り払う。
正体不明の何かなのだ。
効かないこと前提の牽制のつもりだったのだが、案に相違して功を奏したらしい。手応えらしい手応えもなければソレのどこにも損なわれた所は無かったが、表情を歪め、苦悶の叫びを上げたようだった。
「ファルーズ。
剣を収めて」
「?
……!もしかしてあの魔物が」
「ええ、間違いない。アレは、レーゼ伯爵よ」
宵花の見立てでは、この町の問題を解決するためには儀式をやり直す必要があるとのことだった。
オルホフに掛け合って領主邸に話を通してもらい、彼らが呼ばれ……
進言通り、この年二度目のサンジョ・レーゼの豊作祈念の儀が執り行われることとなった。
「儀式に用いられる祭具と祝詞にございます」
日取りが決まった後。領主邸の使いがなんとわざわざ彼らのもとに必要なものを届けに訪れたのには驚かされた。
伯爵家にとって彼らは懇ろに遇すべき客であっても立場はあちらの方が上。彼らが「伯爵の病」の建前を暴いてどうこうしたわけでもない。であればなおさら異例のことのはずだが、それだけ切実なのだろう。
執事が宵花に渡したのは実用に用いるなんてことはとても信じられない、古風で、華やかも華やか。美術品のように細かく手の込んだ装飾という装飾に隈なく覆い尽くされた、発光しているのではないかと錯覚してしまいそうな色々な意味で目がチカチカする箱と錫杖だった。その箱の中には、これまた見たこともないような結構な漉きの紙が収められている。
宵花はその紙を広げてさっと目を通すと、丁寧な所作で元のように戻し執事に差し出す。
「いえ……祝詞は儀式の場に持ち込んで頂いて構わないのですが……」当惑した様子で、執事。
「ええ、良く承りました。ですので御返し致します。それから錫杖ですが、斯ういった類の呪具に大事なのは物其の物では有りません。使い手との相性、然して、其の意図為る事です。ですので、代わりに拝借致したい物が有るのですが——」
宵花の願いに、執事は半信半疑の面持ちでうなずいた。
儀式の日取りまで、半月足らず。必要なのは儀式部分のみであるため当然祭りは省く方向だったのだが、オルホフら町の人々が大いに張り切った結果、結局、祭りも合わせて行われることになった。簡略化するといっても二度の祭りは少なくはない負担のはずだが、彼らの表情はむしろ生き生きと輝き、町の雰囲気も明るく浮き立つように感じられた。
分かるような気がする。
理屈ではないのだ、こういうのは。
「大丈夫なの?
伯爵のこと。放っておいても」
事態の中心にあって、しかし伯爵は厄介な腫物のようなものだ。触れようとすれば、これまで上手く行っていたものがこじれるかもしれない。見ない振りを貫けるものならば、確かにそれに越したことはないだろう。けれどそもそも儀式をやり直さなければならないのは、一度解呪した上で改めて依代を据え直さなければ伯爵を元に戻すことができないからなのだという。であれば、やはり伯爵を捕えるなりしておくべきなのではないか。所在不明なままでは、最悪、儀式が頓挫する可能性だってある。
「ええ。全ては在る可く為て在る可き所に収まる物よ。
……不安?」
無頓着なようでいて、宵花は結構心の機微に聡い。
そっと寄り添うように。
自分でも気付いていなかったわだかまりを示すことがあった。
「そりゃあ、ね」
空を見上げる。
一面の星空だ。月は無い。
明日は新月。祭りの日だ。
気持ちを整理し直すと。
眉間にしわを寄せ、曖昧にうなずく。
「宵花ほどじゃないけど、僕の責任も軽くはないからね。
タイミングを間違えたら、君も伯爵と同じように……」
「勿論危険は有るわ。けれど、貴方は失敗為ない」
それは励ましというより、予言めいた響きを帯びていた。
それでも、彼に向けられた表情は思いの外やわらかく……
その
甘やかな目差に当てられて
冷えた夜気に場違いな火照りを感じた。
「宵花は本当に落ち着いてるね。呪文だって見なくて良いなんて」
意志の力でわずかに視線を外し、ファルーズ。
声が上擦っていやしないかと心配になる。
「あら、わたしだって緊張為て居ない訳では無いわ」心外そうに、柳眉をやや跳ね上げて。
珍しい反応だった。
「でも、然うね、呪文に関しては不安は無い。斯ういうのは暗記為る物では無い物。必要なのは理解。然う為れば、言葉は自然と流れる物よ」
呪文は長大だ。普通に詠むだけでも二時間に迫る長さだという。儀式全体では日没から始まり、この時期だとおそらく未明辺りまで、だいたい六時間前後。いつもは祭り部分も合わせて半日近く掛かるものだという。これほど大掛かりで本格的な祭りに立ち会うのは初めてだった。
宵花の出番は祭儀の終盤。それまでは、延々と場を整える儀式が行われる。これを担うのはレーゼ家の人間だ。
詠唱に入ると半ば忘我の境地に入る術者を補佐するのは、この町まで彼らを送り届けてくれた御者だ。レーゼ家の人手が足りていないということもあるが、何よりこの御者、ただの御者ではなかったのだ。こうした事態に備えて魔法の知識に明るい人物を充てていたらしい。
残るは、時機を見計らって魔法の暴走を鎮める者。それが彼の役割だった。
場に臨むにあたって宵花が纏ったのは、最初に着ていたあの風変りな服だった。日数があるからとリュクワから取り寄せたのだ。
かくして。
立ち姿から歩く姿まで。
まるで、今日こうして用いるために揃えられたかのように、恐ろしくピタリとこの場にはまっていたのだった。
力が場に満ち。
りんりん、と。先触れのような鈴の音を引き連れて。
淡く微かに光を発し始めた舞台の上を、伏し目がちに、しめやかな足取りで宵花が進み出る。
石柱の前に跪き、左手を地に、右手を柱に添えると——————
美しく整った唇より、耳が痺れとろけてしまうような韻律が滑り出した。
その瞬間。
彼にも分かった。
突風が吹き抜けるかの如く。場の力が瞬く間に励起されるのを。
どよめきが起こった。
刻まれた呪文が一層強く輝きを放ち始める。
(いよいよ始まる……!)
されどこれらの事事は幻にも似て、神族の血を享けた者の目にのみ映るもの。もしここに無恵者がいたならば、ただ訝しいだけであっただろう。彼らにとっては、なにひとついつもと変わらない景色なのだから……。
すっと宵花が立ち、帯に挿していた扇を広げゆるやかに動かす。
出会った時と同じ。
舞うかのような所作だった。
ふわり
と。
扇の軌跡に光が漂う。
光といっても普段目にする光とは違う。ずっと前、幼い頃に曽祖父に連れて行ってもらった祭りで見たことがある。
刻刻と放つ光彩の移り変わるこれは、可視化された魔力の澱。
滅多に見られるものではない。
場と使い手。
どちらをも必要とするというものだった。
鳥肌が立つような感覚がして。
軌跡だけではない。光はひと振り舞うごとにあちこちからゆらゆらと立ち上るようになっていた。
気付けば周り中、いや、もっと——サンジョ・レーゼの市域全体から。
だが……。
沸き立つそれらが、悶えるように不安定に捩れ始めた。
御者の視線を感じて。
ハッと我に返る。
イェルリカヤから指定された通りに呪文を唱え、石柱へと輪を投げる。輪はちょうど真上でピタリと静止すると、クルクルとすごい勢いで回転を始め。弾けるように光ったと思うと、石柱から床にかけて疾く稲光の迅さで呪が駆け抜け、消えた。
魔力がうねる。
術者の意の下に下りその御するものとなったそれは祭祀の心臓部、根源へと集合し——
その光華はいよいよ強く、濃く、鮮烈に。みるみる内に難解細密錯綜する文様を織り成していった。
嘆声が溢れる。
それは彼のものであると共に、満場のものでもあった。
ここは、
この場は、
この空間は——…………
完全に、宵花のものだった。
その一挙手一投足に
紡ぐ清歌に誰もが釘付けとなり
ああ
どうして目を離してしまうことなど出来ようか……
美しい
あまりにも美しすぎる光景だった。
言葉にならない感動が胸を突き上げ、涙となって汪溢する。
終わって欲しくない。
このまま時の流れから切り取られて
この時間が、
この瞬間が、
永遠に続いてくれとさえ思った。
過ぎ行く時を感じさせぬ間に。
辺りはうっすらと白み、何時の間に現れたのか。宵花の前にはあの魔物——レーゼ伯爵が蹲るようにわだかまっていた。
祭りは、終焉を迎えようとしていた。
巨大な文様が渦を巻き始める。
それは急速に収斂し、伯爵の体へと吸い込まれて行った。
「宵花っ、
っ……!」
頰を上気させて。
けれど、何とこの思いを表せば良いのか……——。
彼のもとに静かに歩み来る宵花に駆け寄る。
「流石に疲れたわ」
そうは言うものの、見た目には分からない。
いや、出さないようにしているのだろう。彼女は強い女性だ。
が、しかし、言われてみれば何となく雰囲気が……
あれだけの魔法を行使したのだ。こうして立っているのもやっとなのかもしれない。
「さすが王立研究所の方!素晴らしい実力をお持ちだ。ぜひ当家に抱えたいくらいです」
声が割って入る。
身なりからしてもこの人がレーゼ伯爵なのだろう。
慌てて礼をとる。
「御加減は如何でしょう」
伯爵は鷹揚に彼らの礼を直すと、
「こうしてあなた達と話ができる程度には快調ですよ」感じの良い笑みを浮かべる。「我が感謝をぜひ受け取って頂きたい。今日は、いえ、何日かどうぞ屋敷の方に。研究所には私の方からその旨伝えておきましょう」
断るなんてとんでもないような熱のこもった誘いなのだが、
「勿体ない御言葉。感に堪えません。ですが御気持ちに添い兼ねます事、どうか御容赦願います」
宵花は丁寧に、しかしながらきっぱりと撥ねつけた。物腰はやわらかいのだが……
口を出すことをはばかられるような気配を感じて、ファルーズは成行きを見守ることにする。
「そうですか……。残念ですが、無理を強いるのは良くありませんね」やわらかな相好を崩さないままに、伯爵。「辺鄙な場所ですが、きっとまたお越しください。いつでも歓迎致しますよ」
宵花の体調を慮ってくれたのだろう。伯爵の計らいにより、彼らは速やかにオルホフ邸へと引き取ることができた。
「何かまずい事でもあった?」
ひと息ついてからファルーズが問う。
「案外鈍いのね」ため息混じりに宵花。
ここにきていよいよ疲労の色が濃く滲んできていた。
「此処で気の有る素振りを見せたら後が面倒な丈。押しの強い人でなくて助かったわ。研究員証が少しは役に立ったのかも知れないわね」
間もなく、宵花に眠りに入った。
ただの眠りではない。何日も昏昏と、だ。
「大事ありませんよ。あれは負荷の高い魔法でしたから。必要なだけ休まれたら必ずお目覚めになりますよ」
御者はそう言うが……。
代償を伴うような魔法ではない。
その、はずだ。
ただ——
(「気を付けなくてはいけないよ。常ならざるものは神がお召し上げになってしまわれるから……」)
昔語りの一節が、不気味な予言のように頭の内側でこだまする。
強すぎる力は、それを行使する者に必ず報いを求めるという。
心配だった。
宵花は何か一線を超えてしまっていたのではないか。
何かと、引き換えにしてしまったのではないか、と。
「だから言ったじゃない、杞憂だって」
優雅にティーカップを傾けながら、イェルリカヤ。
リュクワに着いた翌日、宵花はごく普通に目を覚ました。
「すみません、お騒がせしてしまって……」
赤面する。
ベレスフォード夫人にまで要らぬ心配をかけてしまった。
「手記の方は如何ですか」
「進んではいる。けれどまだあなた達の役に立つような段階ではないわ。取り敢えず、分かっている所に行ってみたら?進捗があれば魔法で知らせるから」
「然うね。待って居ても仕方がない。
行きましょう、リルガースへ」
道中、フィーヴァシルフェに大きく悩まされるようなこともなく。もちろん、そう気楽なものではなかったけれども。
リュクワまで、長旅を楽しむゆとりもある程度には楽な道行きであった。
心配していた追跡よりむしろ、郷里に居る時にはそれほど濃くはなかった魔法の不安定化の影を、そこここに感じる事の方が多かった。
「今は未だ鬱積為て居る丈」憂いを帯びた瞳で、宵花。
「——けれど此の儘では、何れ暴発為るわ」
鬱積。
そう、そうなのだろう。
ふと体を撫でる、この、言い知れぬ淀みのような、重苦しさのような……
何となく息詰まるような何かは。
しかしそれも、ミアルカに入ってからは、ぱったりと薄らいだ。旅の口伝てに耳に挟んだところによれば、なんでも最近、魔法を安定させる技術の実用化に成功したらしい。さすが世界に聞こえる魔法大国と感心したものだったが、宵花の評は「一時しのぎにしか過ぎない」と辛口なものであった。
「一時しのぎでも良いことじゃないか。僕達にとっても余裕は大事だろ?」
「然う楽観出来た物じゃ無いわ。
元々、愚かな事だったの。
撓んだ物は、元に戻ろうと為る。
其れは明白で、予期為れて居た事。
然して実際、限界迄来て居た。其処に、決定的な楔が打ち込まれたのよ?此の百年が微睡む様だったからと言って、状況が急激に変わらない保証は無いわ。
其の可能性を少しでも低く為る為にも、貴方とわたしが共に居る意義が有るのだけれども」
最後の方は、独りごちるように。白い息に乗って空に溶けていった。
それを、目で追って。
改めて寒さを感じ入る。
マガディを出ておよそ三月。故郷では暑さの盛りを迎えている頃だというのに、曽祖父の話に聞いた通り、まったく季節が逆戻りしたかのような寒さだった。
身震いして、コートの襟元をいじる。
決して経験のない寒さではない。が、彼の感覚では真冬と言ってもいい寒さであるにもかかわらず、ここの辺りの人にとってはこれでも暖かいらしく。手に入る服もそれほどしっかりした物ではないのには辟易した。
「それにしても、凄いなぁ」
帽子を軽く押さえて。空に吸い込まれていってしまいそうな、薄すらと青みを帯びる儚げな建物の稜線を仰ぎ見、柔らかな色の瞳を細める。
まるで、ガラス細工で出来ているみたいだ。
ニモタータを始めここに来るまでにも立派な都はいくつかあったが、明らかにこの街は際立って非日常的だった。
この世界の歴史と共に歩んできたと言っても過言ではない。
ゆうに二千年以上になるか。その、刻まれた歳月の重みがもたらすものであろうか。目に映る景色はあくまで華やぎ、軽やかですらあるにもかかわらず、身の締まるような深みを感じさせる。空気すら違って思えた。
(神話の中に迷い込んだみたいだ、と言ったら大げさかな?
でも実際、神話の時代から続いているんだもんなぁ)
無論、長い年月の間戦火と無縁であったわけではない。創建時そのまま、とはいかないだろうが。
通りは、光の当たり方で幾重にもその表情を変えて——
優しく、物静かな日の光を受け燦とさんざめく……
信じられないぐらい幻想的だった。
夢なのだろうかと疑ってしまいそうだ。
(でも、夢じゃない。
僕は今、英雄と同じ空気を吸っているんだ……!)
ここまでの旅路も含めて、改めてそのことを実感して。少しく気分が高揚するのを感じた。
「楽しそうね」目元を和ませて、宵花。
「うん、だって何もかも想像以上で。
あれもこれも、話に聞くのとは大違いだ。ここは、魔法の力に満ちている!」
氷晶岩というらしい。この近くで採れるという石材からして馴染みの無いものであったが。街全体がうっすらと青みを帯びて見えるのは、それのせいとのことだった。その名の通り、水か氷の中を歩っているような感覚を生起させる。
実際、そうしたイメージを企図したものらしい。現在では再現不可能な技術のようだが、宙に浮いた驚くべきオブジェなど、そこここにそうしたモチーフが多用されていた。
複雑に絡み合った模様が施された、けれど、なめらかでツルツルとした街路
本当に、ついぞ見たことのない、曲線で構成された継ぎ目のない建物群……
この都市を構成するどれもこれもが驚異的であったが、それらを総合したこの街そのものが、とてつもなく繊細で風雅な織物のように素晴らしい調和をなし、一個の作品と評しても過言ではない趣を備えていた————。
「あっ」目抜きの街路の先、大広場に建つものに目を止めて、「見て!宵花!
あんな所にレベッカの像が有るよ!」
興奮して、思わず走り寄る。
これも氷晶岩でできているらしい。そうでなかったなら実物と勘違いしてしまいそうなほど自然で、精巧な作りだった。
(息遣いまで聞こえてきそうだ……)
すっかり感心して、像に見入る。
かの有名な佩剣、アンドヴァリに軽く左手を添え。
軽く引き締まった口元、
強い意志を湛えた瞳でやや上方を見据えて。
彼女の持つ、きりりと引き締まった雰囲気がよく再現されていた。肖像画よりもさらに青みが抜けた感があるので、あの絵が描かれた頃よりも後の姿なのかもしれない。けれど、若い頃の面影もちゃんと残って……
キラトーでの記憶を反芻しかけたところで、ファルーズはハッと我に返った。
「大罪人ジェラルド・メイヤーズに共鳴する過激派との交戦により散って行った英雄、レベッカ・ジュベルト・フォックスを偲び、その業績を顕彰する、ね。丸でプロパガンダの塊ね。彼の国王らしい」
台座に付された由緒を眺めながら、どこか醒めた口調で宵花。
舞い上がって、彼女があまりレベッカの話題を好まないことを失念していた。
悔いつつ、ファルーズは慌てて話題の矛先を変える。
「え~と、図書館はこのすぐ近くだよね」
「ええ。
彼の建物よ」
スッと、纎手が左手、やや奥まったところ。花樹に囲まれた庭園のような一角を指し示す。相当広い敷地らしく、ここからだと、うねるような建物の上の方しか見えない。今はちょうど花盛りの時期に当たると見え、青の目立つこの街にあって、しだれた黄みの花がひときわ鮮やかに、美しく咲き誇っていた。
「専念できそうで良かったね」
「ヴィスーンとか言うのの事?
然うね。然う過信出来た物じゃ無いけど、悪くは無い条件ね。暫く籠もる事に成るでしょうし」
ヴィスーン。正式にはルンド=ヴィスィーン・サアル・ランドゥン・イングルドは、ミアルカを盟主として大回戦の後に設立された組織だ。その名の通り世界の安寧とそのための諸国家共存の潤滑油の役割を期するもので、本部は確か、マガディの北、ルュー大湖南岸の小国、ティーヴェ・フィーナにあるはずだ。ヴィスーンへの参加は各国の自由だし、そこで決められた事は強制ではない。けれども今や、加盟していない国の方が珍しいくらいだし、そこで決められた事は一定の重みを持つ。そのヴィスーンがここ最近フィーヴァシルフェの取り締まりに熱意を示し始めたらしい。となれば、ミアルカの、まして首都であるここは連中にとってはだいぶ居心地が悪い場所のはずだ。宵花は差し当たって、レベッカの腹心の友、クロリス・ベレスフォードの論文にラーベへの道を開く手がかりを求めるつもりなのだという。必然、腰を落ち着ける必要があるのだが、なにせ不本意ながら追われるようになってしまった身だ。ひと所に長く留まれるかもしれない条件は貴重なものであった。
甘酸っぱい香りを運びながら、気まぐれに強まる風に散らされる花の舞の中。庭園の奥、宙より染み出たひと雫の水の滴りの流れ落ちるままに時を止めたような外観の建物を目指して進み、
「わあ、凄いな、ここも」
「王立」と冠するだけあって外も一段と手の込んだ造りであったが、中はさらに驚嘆し尽くすしかないものであった。
帝国様式という、今では限られた場所でしか見られない逸物らしい。
外側からは壁で中を窺うことなどできなかったというのに、中はまるで逆。周囲を囲む壁は見えず、まるで庭園の続きにいるかのようだった。けれど、確かに建物の中なのだ。天井と床があるし、振り返れば今しがた彼らが入ってきた扉もちゃんと存在している。それに、外と違って触れる空気がほの暖かい。
なんだか、妙で不思議な心地だった。
「宵花は、ここには何度か?」
「否、此処を利用為るのは初めてよ。でも図書館自体は馴染みが無い訳では無いから、要領は分かるわ」
実際宵花は手回し良く、入館には身分証明が必要だと先んじて冒険者共同体発行の書類を用意していた。そもそもその共同体への登録だって、こうした事態を想定して行っておいたものだ。おかげで受付で撥ねられることなく円滑に奥へと入ることができた。
「図書館て入るの結構面倒なんだね」場所柄、声を潜めてファルーズ。
それでも、いやに自分の声が響いてしまっているように感じられた。
「此処は特別よ。貴重な蔵書が多いから」同じく小声で、宵花。
(本当に、不思議なひとだ。時世に疎いかと思えば、こんな風にいやに世慣れてもいる)
一体、何がこの少女を形作ったのか
知りたい、
この人のことを。
もっと。
けれど、その応えは冷ややかな拒絶であることは目に見えていて。
問うことを、グッと堪える。
(僕達は、ずっとこんな感じなんだろうか。
旅の最後まで……)
「探したいのは、あわいの森に関する記述なの。没年から遡って……
然うね、取り敢えず八四二年迄の全論考を特定為る所から始めましょう」
まずは没年をはっきりさせなくてはならない。とはいえ、名の通った人物だ。探すというほどの手間も掛からなかった。そこから期間をざっくりと二分して、めいめい仕事に取り掛かる。
(まるで貸切みたいだな)
身元の証明さえできれば誰でも利用できるらしいが、実際のところ利用者は限られているようで人影はまばらだった。
目的の本を手にすると、居場所を定めて黙々と文字を追う。
こんなに文字ばかりをずっと眺め続けるのは今日が初めてかもしれない。これまで書物との関わりが薄かったから気がつく機会がなかったが、席を立つといったらたまにぐらいの環境に身を置いて、どうやら彼は体を動かす方が向いているらしいと自覚する。
細かい文字ばかりの視野にクラクラしてきて、作業の合間、息抜きも兼ねてなんとはなしに上を見上げる。
今居る所は二階。
上を見れば当然上の階とこの階との仕切りがあるはず……なのだが。そこにあるはずの境界に遮られることなく視線は遥か上、梢の天蓋に覆われたような天井まで届く。その高みからは、外観と連動したものだろう。うねる水がほっそりと流れ落ちていた。
どうも内装は樹を基調としているらしい。
床もつるつるの感触に反して木の根が複雑に絡まり合っているように見えるし、耳に届く足音もまさに木のそれだ。圧倒的に膨大な文字という名の森に取り巻かれた子リスにでもなった気分だった。
この図書館での調べものがこんなに手間暇の掛かるものだとは思ってもみなかった。彼の感覚としては、せいぜい三~四日も籠もれば終わるつもりでいたのだ。
(ぜんっぜんそんなのじゃ間に合わないな、これは)
都合良くクロリス・ベレスフォードの全論考をまとめた一覧があれば、どんなに良かっただろう……。
行く手に聳える山の高さに思いを及ぼすと、気が遠くなっていくようだった。
朝から、ほぼ閉館まで。
ひたすら無味乾燥な文字と格闘するする日々が続いた。
そうして、一週間と少し。
「これで最後だね」
本を閉じて、ファルーズ。
息をついて、大きく伸びをする。
「御疲れ様」ほのかに笑みを添える彼女に、
「宵花も」笑み返す。
課題をこなして分かったことがある。
クロリス・ベレスフォードは——少なくとも調べた範囲では——三~五年に一本まとまった成果を発表してきた。だが、晩年の十二年間はそれがパッタリと途絶えてしまうのだ。研究それ自体は続けていたらしいにもかかわらず、だ。
そして目指す記述には、ただ一度として行き当たることはなかった。
「是だけ探しても丸で当たらないなんて……。
もっと細かく為ても屹度無駄ね。後は閉架だけれど……」
宵花の歯切れが悪かった理由はすぐに分かった。閉架の図書に接することができるのはごく限られた人間のみだったのだ。なんの後ろ盾もない彼らがこれ以上ここで知り得ることは何もなかった。
「他に手掛かりは有るの?」
図書館の中でこれ以上の会話は憚られたので、とりあえず外に出て。適当な所で足を止める。
「ベレスフォード邸へ行きましょう」
少し瞑目して後。
深々たる黒玉の、美しい瞳をパチリと開いて宵花は切り出した。
「他に探せそうな場所と言ったら、もう其処位しか無い」
「どこに有るか知ってるの?」
「ええ。
でも古い情報だから今は如何かしら……。兎に角行って見ましょう」
ベレスフォード邸は通称学者街と呼ばれる地区にあり、図書館のある中心部からはそれなりに距離があるらしい。けれども宵花曰く、馬車を利用するほどでは無いとのことで、歩いて向かうこととなった。彼としては同じ街の中を乗り物で移動するという発想自体が馴染みのないものであったのだが。リュクワはその大きさにおいても、日常とは掛け離れているのだと実感する。
王城を横目にしばらく行き。
目的の地区に差し掛かったところで、宵花が不意に立ち止まった。
「此の店……」
視線を追うと、なんとなく洒落た雰囲気の店に行き当たった。カフェというものだ。これもまた縁のないものであったが、この街に来るまでにも何度か見掛けたことがあった。
カウンターに座って軽く飲み物を注文し。合間を見て店主と思しき品のある男性に話しかける。
「済みません、此の近くにベレスフォードさんの御宅は有りませんか?」
「学者一家のベレスフォードさんかい?
ああ、あるよ」
仕事の手を止め。丁寧なことに、店主は表に出て説明をしてくれた。
「まず通りを渡って、向こうの方にまっすぐ。二つ目の曲がり角を曲がって、三軒目の家だよ。
君たち、学生さんかい?」
「ええ。クロリス・ベレスフォードの研究に就いて調べて居まして。有り難う御座います。助かりました」
勘定を支払い、店を後にする。
「これも君の力なのかい?」
「力……?」りりんと頭飾りを揺らして、きょとんと首をかしげ。
ふふ、と軽く吹き出す。
「そんなのじゃ無いわ。わたしは彼の店がクロリスの行き付けだと知って居た丈。だから今如何成って居るのか聞けるのじゃないかと思って。
引っ越してなくて助かったわ」
場所は分かっているという言葉通り。教えられた道順を反芻する風もなく勝手をわきまえた足取りで通りを進むと、
「ここね」
迷いなく店主が言った家の前に立ち、戸の装飾に触れる。
装飾はどうやらドアノッカーの役目を果たすものであったらしい。
「どなた?」
声を乗せて、ふわりと風が漂った。
「突然の訪問を御許し下さい。クロリス・ベレスフォードの研究に就いて伺いたい事が有るのです。勿論、今日で無くても構いません。御時間を頂けないでしょうか」
「あら、学生さん?
ええ、構いませんよ。ちょっと待っていてくださいね」
魔法の気配が途切れ、少しして。
「ようこそ。いらっしゃい」
先ほどの声の女性が二人を迎え入れる。
どうやら彼女がこの屋の主人であるらしかった。「ベレスフォード夫人」というともっとおっとりとした人を想像していたのだが、もう年輩と形容される年の頃であるにもかかわらず颯爽とした足取りの、きびきびとした人だった。武を生業としている———というわけではないだろうけれども、もしかしたら何らかの心得があるのかもしれない。
「娘は研究びたりでほとんど帰って来ないでしょ?一人で過ごすにはここは大き過ぎちゃって。お客さんは大歓迎よ」
応接間に通される間も、その後も。社交的な夫人の力で会話は自然と途切れることなく続いた。
茶を飲みながら、三人であれこれと話に興じる。といっても宵花は、特に身の上について当然言葉少なで。主に彼が喋っていたのだったが。
他もそうだったがこの部屋は一層、レース編みが随所に用いられているのが印象的だった。必ずしもこの屋敷の主人の好みというわけではなく、ミアルカはレース編みが盛んなのだという。
そういえば、宿にも使われていたことを思い出す。
この家のレース編みの大部分は先代の夫人と今の夫人の作らしいが、クロリスが編んだものもあるらしい。
「嗚呼、確かに得意そうかも」
「ふふ、そう思う?でもお義父さんたら、凝り性だから。結構こじらせてるのよ。良かったら、後で見せてあげるわね。
それで、二人はクロリスの研究の何を知りたいの?」
「彼があわいの森に就いて何か遺して居ないか調べたいのです。図書館を当たって見たのですが、全く其れらしい記述を見つける事が出来なくて……。それで、此方に彼の書いた物が遺されて居るのなら、是非其れを見せて頂ければ、と」
「あわいの森……」少し考え、
「クロリスの研究に空白が有るのはご存知?」
「はい。晩年の十二年間のことですよね」
「そう。
この件はもしかしたら、そこに絡むのかもしれないわ。でも、そういう事なら娘を呼ばなくてはね」
テーブルの一角に手を滑らせると、女中に言伝る。
たぶん、ドアノッカーと似た仕組みなのだろう。
「さて、と。
あなた達、どうやら体を動かすのは苦手ではないようね。もし良かったら、ちょっと軽い運動をしてみない?」
「はあっ!」
夫人の鋭い突きを躱した宵花が懐に飛び込み、突き返す。
至近からの一手。
しかし夫人は素早く武器を起こして受け流すと、反撃に転じる。
実戦さながらの、熱い攻防だった。
もちろん、これはあくまで競技。ルールはあるし、使っている道具も本物ではない。しかし上手の二人の戦いは思わず引き込まれ、手に汗握るものであった。
夫人は薙刀を、対する宵花は少しでも慣れたいからとリヴァテウムに似た細身の剣を構えている。
ミアルカでは薙刀競技が盛んで、中でも夫人は指折りの選手であったらしい。現役引退後も、こうして改築した中庭で鍛錬を続けているのだという。主流は薙刀同士だが異種戦もあるとの事で、道具も一通りのものが揃っていた。
慣れの差を差し引いても、夫人は往時が垣間見える強さだった。
彼が取れたのは、三本中最初の一本のみ。
宵花はさすが、対等に渡り合って見えるが——
「そこまで!」
審判を務めていた女中の掛け声が、勝負の終わりを告げる。接戦を制したのは夫人だった。
「あなた、本当に筋が良い」兜を脱ぎ、差し出されたタオルで汗を拭いながら。
「でも、確かに刺突中心の動きは不慣れなのね。所々で修正を入れていたでしょう。以前のやり方が余程体に入り込んでいるのね」気付いたようにファルーズの方を向き、
「ああ、もちろん君も悪くない。ただ、何というか——そう、場数が違うのね。彼女の動きには殺気が籠もっている。相対していると、ひやりとさせられる。
けど、あなたはそのままでいいと思うの。なにも相手を叩きのめすことだけが武の道ではないでしょ?」
「年甲斐もなくこんなことして。腰痛めるわよ」
コツコツと、ヒールの音を響かせて。
短めの丈のスカートから、大胆にさらした足が覗く。
割って入った声の主はこざっぱりとした恰好の、しかし、派手な印象の女性だった。
「お帰りなさい、イェルリカヤ」
「大事な用件ってこの子達の事?
私に何の用。貴重な時間を割くだけの価値が有るんでしょうね」まとめられた髪からこぼれた、金にも見える淡い茶のひと房を払いのける。
(うっわー……)
その態度はキツイを通り越して——
有り体に言ってしまえば、感じが悪かった。
「何て言うか……
血筋を感じるわね」
ぼそりと。宵花が小声でもらす。
「あなたを呼んだのは、わたし」たしなめるような口調で、夫人。「あなたのお祖父さんの最後の研究のことよ」
「お爺様の?だってそれはお爺様自らが処分したって……」
「ええ、そう。その成果をまとめた手記は封じられてあなたのお父さんに託され、そしてわたしに引き継がれた。書斎の鍵と一緒に、ね。
この子達の話を聞くのなら、あなたに譲るわ。わたしが持っていても仕方がないし、元々あの人はそのつもりだったのだもの」
「……良いわ。聞いてあげる」
少し、考えた後。
イェルリカヤは取引を受け入れた。
運動でかいた汗をざっと流すと、ファルーズ達は再び応接間に集まった。
「あわいの森?
……覚えがないわね。お爺様の研究でそんなの」
「イェルリカヤが言うのなら間違いないわね。やっぱり、有るとすればこの手記の中」
「それか、そもそもそんなものには関わっていないか。
第一、どうしてそれを調べようと?知ってどうしたいわけ?ニッチな分野を突き詰めることに目覚めたというワケでもなし。あなた達、学生でも研究者でもないみたいだし」
「……然うね」
ややの沈黙を挟み、
「貴女なら一笑に付したりは為ないでしょう」
宵花は、以前彼に話したことを再び語った。
自らの使命のこと。そのために必要なことを。
「——つまりあなた達はほぼ行き当たりばったりに飛び出して、取り敢えずお爺様の研究に縋ろうと。
ふぅん……」
くるくると指先で金茶色の髪をもてあそびながら。
(トゲっぽいなぁ。
その通りといえばその通りなんだけど)
夫人が詫びるような目差を向けてくるのへ、柔らかに笑み返す。
実際、取り付きにくいもののこの女性のことは嫌いではなかった。きっと芯の部分が嫌な感じでは無いからなのだろうなと思う。
「……質したい所は色々あるけれど、差し当たって、あなた妙に確信有りげだけれど、お爺様がそのあわいの森とかいうのを調べてたってどういう根拠で言ってるの?」
「其れは……」ほんの僅か、彼の方に視線を向け、「わたしがレベッカ・ジュベルト・フォックスの記憶を持って居るから。彼女の記憶では、確かにクロリスはあわいの森に興味を持って居るようだった」
「レベッカの記憶?」さすがに眉をひそめ、イェルリカヤ。
「……煙に巻いている、という風でもなさそうね。
まあいいわ。あなたの前提に乗りましょう。
とすると確かにお爺様の研究に何も痕跡が残っていないというのは不自然ね。封じられた研究がそれに絡んでいる蓋然性は高い……」
二の句までには、しばらくの間があった。
「……面白そうな話ね。それに、お爺様の最後の研究にも大いに興味がある」
「この子達の頼みを引き受けるのね?
じゃあ、これはあなたのものよ」
夫人が膝の上に乗せていた手記と鍵を娘に差し出す。
イェルリカヤは受け取るなり彼らのことなど忘れたように手記にかじりついていたが、突如高笑いを上げた。
「お爺様らしい」
生き生きと薄青の瞳を煌めかせ。
それは、とても無垢な表情だった。
「あなた達の方の封——そうね、ややこしいから以降は楔と呼びましょう——この手の魔法は焦点に合わせて配置されるのが基本よ。焦点の位置、楔の数、そしてその場所が一箇所分かっているのなら、それをとっかかりに推測できる可能性は高いわ。
こういうの、私の専門じゃないんだけど……ま、詰まったら手伝わせればいっか。でもまずはお爺様の挑戦を受けるので良いわね?」
「構わないわ。貴女の遣る気が頼りだもの」
「この件、どっちも相当時間を注ぎ込む事を覚悟しなくてはならないわね」下あごに親指を当て、思案する。
「私の研究の方は……まあ良いとして、別件が厄介ね……。
そうね、これにただちに取り掛かる代わりに、あなた達に私の仕事をやってもらうわ」
「僕達にできる事なら喜んで。けど、僕には魔法の専門知識なんて有りませんよ」
宵花に目をやると、彼女も首を振る。
「もちろん、出来もしない仕事なんて振らないわ。
ある村でちょっと問題が起こっていてね。そこの調査よ。と言っても原因の目処は大体ついているの。だからあなた達は現地に行って、その証明をしてきてくれれば良いってワケ。簡単でしょ?私の助手ってことにするから道中の煩いもないし」
「大丈夫なんですか?そんなので……」
「文句なんか言わせやしないわよ」
不敵な笑みを浮かべて、イェルリカヤは言った。
宣告通りイェルリカヤの手際は見事なもので、翌日の昼にはもう話がついて出立の運びとなった。夫人の好意によりベレスフォード邸に彼らの部屋を用意してもらえたうえ、必要なものは全て手配されることになったので、彼らの持ち物だけでみれば随分とすっきりしていた。
「聞いても良いかな?」
あてがわれた馬車に乗り込んでしばらくして。
ファルーズは思い切って口を開く。
「君がレベッカの記憶を持ってるっていう話」
彼女はレベッカの縁者ではないと言っていた。けれどやはり、何らかの繋がりがあったのだ。
が、
「何れ分かる事よ」
彼女の応えは予期した通り、取りつく島もなく。けれどそこには、ファルーズへの確かな信頼も感じられて……。
濃い、しかし透徹した眼から目を逸らし。複雑な思いで、彼は密かにため息を漏らす。
馬車はしっかりとした造りで、揺れもほとんどと言って良いほどなかった。これまでの旅で何度か出会った馬車という乗り物のイメージを大きく覆すものだ。これもきっとミアルカの技術なのだろう。道行きは思いのほか快適なものになりそうだった。
地図上で見る限り、サンジョ・レーゼまでは馬車ならば三~四日もあれば着く距離と思えた。だが実際に掛かったのはその倍。整備された、街道と呼ばれても恥ずかしくはない道が一応通ってはいたのだが、辺鄙な場所のためか間にある丘陵地帯を大きく蛇行するように通っていたのだ。こういう所もイェルリカヤが忌避した部分だったのかもしれない。根拠はないが。
着いたのは朝方。よく冷えた空気の中、立ち籠める靄ごしの朧な光にじわりと滲むように集落の姿が浮かぶ。都会育ちのイェルリカヤの目から見れば村と呼ぶほかないのだろうが、彼の感覚からしてみればこれは町だった。
「ようこそ、この度はわが町のためにこんな遠方までご足労ご苦労様でございます。卑賤な身ではございますが、畏れ多くもレーゼ伯爵に代わりまして御礼申し上げます」
考えてみれば当たり前のことなのだろうが、わざわざ出迎えが待ち受けていたのには面食らった。しかも下にも置かぬ扱いだ。面食らったを通り越して、正直、ギョッとした。
オルホフと名乗ったその男に改めて身分を示し簡単な挨拶をする。とはいえ非公式の身分であるため、彼らの立場を担保するのは制服ではない。一見上着に縫い取られているように見える研究所の紋章がその証だった。
「見える」と表したのは現に縫い取りではないからだ。普段はピタリと貼り付き激しい動きをしても剥がれないが、必要があればごく簡単に取れる優れものだった。今は紋章だけでも十分証の役目を果たしたが、高度な技術であるためにまず模造品が出回りようがないという点も立派な証明となり得た。
(けど、この恰好じゃ釣り合わなかったかなぁ)
世界一と名高い王立研究所にはそれに伴う権威も備わっている。一方で徹底した能力主義でもあり、研究員になるのに生まれや血筋は問題とはならない……のだが。やはりある程度の魔法の能力が必要となるため、自然、構成は貴人の出に偏っている。そのことも考え合わせればオルホフの対応はまさしく妥当なものだ。
そもそも見合うような持ち合わせと言われても困ってしまうのだが。何よりごり押しの人選なのだ。警護までは付いていない。道中の事やここでの事がある。いつもの服装がいいだろう、と。あの時はさらりと納得してしまったのだけれども。なにせ今着ている服はその辺で買い求めた間に合わせの服装だ。さすがにみすぼらしくはないが普段着もいいところで、申し訳ないほどに扱いに対してちぐはぐ。まるでコントだ。所員は変人の多さでも有名らしいので不審には思われないかもしれないが。
どうも居心地の悪さが急激に頭をもたげてきた。
(……違うか。
服が問題なんじゃない)
高祖母がどうだろうと彼自身は生まれながらの庶民で、しかもほんのひよっこだ。こうした公的な立場というものには、とんと縁がなかった。待遇に自覚が追いついていないのだ。だから似合わない服を着せられているような違和を感じるのだ。
「それにしても、いやはや、お若いですな。もっと年嵩の方が来られるかと。
——失礼でしたかな?」
「いえ、御気に為さらず。無理も有りません。
わたし達は助手なのです」
宵花の方は少なくとも傍目には慣れたもので、オルホフとの社交を流暢にこなしていた。
(でも、しっくりくるなぁ)
むしろ戸惑う姿の方が想像しづらかった。それはそれで可愛かっただろうけれども。
(これもレベッカの記憶のお陰なのかな。それとも、宵花自身の?)テウスは良家の令嬢と思っているようだったけれども。(実際、どうなんだろう……)
テウスはそれなりの根拠を持っていたようだった。彼も、ありえない話ではないと思う。
けれどいずれにしろ、本当に彼女のことを何も知らない。
宵花と旅を始めて三月になる。
重ねた時間の長さだけ打ち解けてきているような気はするのだが、自身を語る言葉は依然寡黙で、出自についてもこの町の霧よりなお濃く没していた。
「なるほど、道理で。
いや、それにしても若くはありませんかな。しかも二人お揃いで」
「良く言われます。けれど研究所では然う珍しくも無いのですよ」
「はあー。さすが都は違いますなー。
ところで、ベレスフォードさんと仰いますと、あの?」
宵花には名乗る家名が無いという。それでは障りがあるだろうということで、ここではベレスフォードで通すことになっていた。
「ベレスフォードと名乗って居てもわたしは遠縁でして——
————」
車窓からは宿も見えたが、案内されたのはオルホフの家だった。出迎えを任されるだけあってこの土地の有力者のようで、他の家よりも立派だった。
ここまで彼らを運んでくれた御者は客室に、彼らは離れの棟にそれぞれ通される。増築されたらしいここは何代か前の当主がアトリエとして用いていたのだそうだが、彼らの用に供するためだろう。居心地よく設えられていた。
「都の方には何かと不自由でしょうが。どうぞ何でもお申し付けください」
「心遣い感謝為ます。所で伯爵の御加減は如何でしょうか?矢張り御挨拶申し上げないと言うのは……」
「いいえっ!とてもお会いになれる状態ではっ。
お二人のことは私の方からお屋敷にお伝え申しますので」
「然うですか……。ではお願いします」
見るからに安堵した様子で、オルホフは引き下がっていった。
「……ベレスフォードさんの推測、当たりかな」
「ええ、恐らく」
それを隠すのは道理には合わないのだが、小さな町だ。そういうこともあるだろう。
持ち物の整理を終えるとオルホフに言い置いて町に出る。案内を買って出た彼に宵花は、あちこち歩き回りたいからと断った。
オルホフの申し出に他意はなかったようで、誰かが彼らの行動を監視している感じではなかった。そして、宵花の言葉も方便ではなく。最重要の祭りの場へはまっすぐ向かわず靄に煙る町を二人、散策していた。
靄は先程よりもだいぶ薄らいでいたが、それでもまだその存在を意識せずにはいられない程にははっきりとした密度で漂っていた。リュクワの氷晶岩一色の街並みに対して、サンジョ・レーゼは資源に恵まれているせいもあるだろう。多くの建物は氷晶岩と木材とを絶妙に絡み合わせて建てられていた。パッと見た印象こそ素朴だが部分部分に手間が光り、この薄霧と周囲の深い木立とにピタリと調和して——
そう、まさに
胸を打たれるほどに、印象的な光景を成しており。
この風景の中を歩くのは、なかなか良いものだった。
もちろん、ただ浸っていただけでは無い。宵花が気に掛かると言うのだ。ファルーズとしても彼なりに注意をして見てはいた。が、その間、目立っておかしなことは見当たらず。町の人の方も特に彼らを避けたり警戒するような素振りはない。むしろ愛想がいい方だった。
しいて言うなら、
(少しひっそりし過ぎている、かな)
息を潜めているというところまではいかないが、この町の規模にしては、何か。
とはいえ、ささやかなことだ。単なる思い込みかもしれない。いずれにせよ、大勢に影響するような類ではなかった。
「やっぱりおかしい。おかしいわ」宵花がそう漏らしたのは、ざっと一周巡ったところでだった。
「嗚呼、おかしいと言っても対処の仕方を変えなくてはならないとか然う言う事は無い筈よ。只……
然うね、問題に為れなかった所が引っ掛かった丈」
「問題にされなかった所?」
「失敗の構造が見えたと言うか」
祭りの場へと向かいながら。
イェルリカヤはここで彼らに求める役割についての指示しかしなかった。その辺りのことを指しているのだろう。
「此の土地に就いて、如何思う?」
「土地?」大まかにサンジョ・レーゼ近郊を思い浮かべながら、「……そういえば、周りに何にもなくてこの町だけ孤立してるよね。土地には恵まれてるみたいなのに——」
そこまでなぞって、その不自然さに今更ながらに気づく。
(そうだ、おかしい)
豊かなのはこの町の周りだけ、なのだ。
急に、寒さが染み入ってくる感じがした。
バッと後ろを、霧の波間に漂うように見え隠れする美しい町を見下ろす。
町は変わらずそこにある。夢の住人でなくなった所で消えたりなどしない。
けれど幻でないことが、逆に恐ろしかった。
「此処は元々住むには向かない土地なのよ。其れを魔法で無理矢理土地其の物の性質を置き換えて居る。其の効果を持続為せる為に依代が必要なのね。可也大仕掛けで、然して危険な魔法よ。此の規模だから何とか体が持つけれど」
「そんなことを……。
それで伯爵は……」
唾を飲み込む。
喉がひりついているような気がした。
「でも、凄いね。まるで神様みたいだ」
「古い魔法なのだと思うわ」軽くうなずき、宵花。「其れにしても良く考えられて居る。けれど、邪な遣り口ね。わたしは好かないし、正直不快だわ。
……わたしが言うのも烏滸がましいけれどね」
自嘲にも似たものを浮かべる。
ズキリと、胸が痛んだ。
そんな顔をして欲しくなかった。
けれど、
その奥にあるものを
彼女のことを
知らない彼に、どんな言葉が掛けられるというのだろう…………
祭場は丘の上の領主の館をさらに見下ろす頂にあるらしい。町と館とを境する林の分岐道を経て、いよいよ登りらしい登りに差し掛かる。
どうしようもなくて。
探しあぐねた末、結局、形になって出たのは彼の気持ちには沿わない言葉だった。
「君は魔法を感じ取ったの?」
強い魔力に恵まれた人は魔法の在り方を感じ取る能力にも優れるのだという。彼の高祖母にまつわる物語にもそうしたくだりがあった。
「ええ」
「全然気付かなかったよ。
……本当なのかな?
僕の高祖母がフィオナ・マクラオドだっていうの」
彼の兄弟も親も親戚も、それこそフィオナの子であるはずの曽祖父まで。誰一人として魔法の才に特別抜きん出てはいなかった。
魔力の高さは血統に依存する。
この常識に立って見るなら、なんとも不可解だった。多少話が盛られているとしてもフィオナが稀な魔力の持ち主であったことは間違いないらしいのに。
「無理もないわ。先祖返りは本人丈の物。例え子であっても其の力が受け継がれたりは為ない。
……間違いないと思うわ。貴方がフィオナの血筋だと言うの。面影が有るもの、彼女の」
「そっか。
……ありがとう、宵花」ふわりと笑んで。髪のひと房をつまむ。
「なんかスッキリしたよ。僕だけが違うから、昔ちょっとした行き違いがあってトラウマになりかけた事があったんだ」
「其れは違うわ」
足を止め、宵花が彼を見据える。
「フィオナの髪と目の色も先祖返りに因る影響よ。だから、貴方の其れはフィオナに似たからじゃない。わたしと同じ。貴方も、歪みを引き受けて居るから然う成って居るのでしょう」
「歪み……。
じゃあ、僕にあるっていう力とフィオナとは関係ない?」
「ええ。偶然よ」
(それならフィーヴァシルフェは?)
彼らが一族の誰でもない彼にこだわる理由は、また別のところに有るのだろうか。
小一時間ほど登ると、見晴らしの良い場所に出た。見上げるほどの石柱が目を引く。
祭りの場だ。
「眺めが良い!
……けど、ずいぶん離れた所でするんだね」
ここからだと丁度市域全体を見渡すことができるので、そういう意味ではふさわしい場所なのかもしれないが……
広さもそれなりにはある。しかし、町の規模を考えれば余裕があるとは言えないだろう。世の中にはたった数人で行うような密儀もあるというけれども、少なくともサンジョ・レーゼはそうではない。儀式の時こそ静謐が要求されるものの、その前後は、それはもう賑やかなものだという。だとすれば、もっと適当な所があるだろうに。
「段取りが大事なのよ、斯ういうのは」
石柱に触れながら、宵花。
石柱の周りには、リュクワのような継ぎ目のない氷晶岩の床が広がっており、どちらにも呪文と思しきものがびっしりと描かれている。
「ここに、これを使えば良いんだね」
イェルリカヤから渡されたものを取り出す。
手のひら大の輪だ。魔法の暴走を鎮めるためのものだった。
「待って!
……これは——」
「!」
ソレがなんなのか。
考えるよりも先に、体は動いていた。
まるで空気から滲み出たようだった。
辛うじて人型に見えなくもない。
ソレは影のように朧で、不安定に、ゆらゆらと揺らめいていた。
宵花とソレとの間に割って入り、伸ばされた腕を斬り払う。
正体不明の何かなのだ。
効かないこと前提の牽制のつもりだったのだが、案に相違して功を奏したらしい。手応えらしい手応えもなければソレのどこにも損なわれた所は無かったが、表情を歪め、苦悶の叫びを上げたようだった。
「ファルーズ。
剣を収めて」
「?
……!もしかしてあの魔物が」
「ええ、間違いない。アレは、レーゼ伯爵よ」
宵花の見立てでは、この町の問題を解決するためには儀式をやり直す必要があるとのことだった。
オルホフに掛け合って領主邸に話を通してもらい、彼らが呼ばれ……
進言通り、この年二度目のサンジョ・レーゼの豊作祈念の儀が執り行われることとなった。
「儀式に用いられる祭具と祝詞にございます」
日取りが決まった後。領主邸の使いがなんとわざわざ彼らのもとに必要なものを届けに訪れたのには驚かされた。
伯爵家にとって彼らは懇ろに遇すべき客であっても立場はあちらの方が上。彼らが「伯爵の病」の建前を暴いてどうこうしたわけでもない。であればなおさら異例のことのはずだが、それだけ切実なのだろう。
執事が宵花に渡したのは実用に用いるなんてことはとても信じられない、古風で、華やかも華やか。美術品のように細かく手の込んだ装飾という装飾に隈なく覆い尽くされた、発光しているのではないかと錯覚してしまいそうな色々な意味で目がチカチカする箱と錫杖だった。その箱の中には、これまた見たこともないような結構な漉きの紙が収められている。
宵花はその紙を広げてさっと目を通すと、丁寧な所作で元のように戻し執事に差し出す。
「いえ……祝詞は儀式の場に持ち込んで頂いて構わないのですが……」当惑した様子で、執事。
「ええ、良く承りました。ですので御返し致します。それから錫杖ですが、斯ういった類の呪具に大事なのは物其の物では有りません。使い手との相性、然して、其の意図為る事です。ですので、代わりに拝借致したい物が有るのですが——」
宵花の願いに、執事は半信半疑の面持ちでうなずいた。
儀式の日取りまで、半月足らず。必要なのは儀式部分のみであるため当然祭りは省く方向だったのだが、オルホフら町の人々が大いに張り切った結果、結局、祭りも合わせて行われることになった。簡略化するといっても二度の祭りは少なくはない負担のはずだが、彼らの表情はむしろ生き生きと輝き、町の雰囲気も明るく浮き立つように感じられた。
分かるような気がする。
理屈ではないのだ、こういうのは。
「大丈夫なの?
伯爵のこと。放っておいても」
事態の中心にあって、しかし伯爵は厄介な腫物のようなものだ。触れようとすれば、これまで上手く行っていたものがこじれるかもしれない。見ない振りを貫けるものならば、確かにそれに越したことはないだろう。けれどそもそも儀式をやり直さなければならないのは、一度解呪した上で改めて依代を据え直さなければ伯爵を元に戻すことができないからなのだという。であれば、やはり伯爵を捕えるなりしておくべきなのではないか。所在不明なままでは、最悪、儀式が頓挫する可能性だってある。
「ええ。全ては在る可く為て在る可き所に収まる物よ。
……不安?」
無頓着なようでいて、宵花は結構心の機微に聡い。
そっと寄り添うように。
自分でも気付いていなかったわだかまりを示すことがあった。
「そりゃあ、ね」
空を見上げる。
一面の星空だ。月は無い。
明日は新月。祭りの日だ。
気持ちを整理し直すと。
眉間にしわを寄せ、曖昧にうなずく。
「宵花ほどじゃないけど、僕の責任も軽くはないからね。
タイミングを間違えたら、君も伯爵と同じように……」
「勿論危険は有るわ。けれど、貴方は失敗為ない」
それは励ましというより、予言めいた響きを帯びていた。
それでも、彼に向けられた表情は思いの外やわらかく……
その
甘やかな目差に当てられて
冷えた夜気に場違いな火照りを感じた。
「宵花は本当に落ち着いてるね。呪文だって見なくて良いなんて」
意志の力でわずかに視線を外し、ファルーズ。
声が上擦っていやしないかと心配になる。
「あら、わたしだって緊張為て居ない訳では無いわ」心外そうに、柳眉をやや跳ね上げて。
珍しい反応だった。
「でも、然うね、呪文に関しては不安は無い。斯ういうのは暗記為る物では無い物。必要なのは理解。然う為れば、言葉は自然と流れる物よ」
呪文は長大だ。普通に詠むだけでも二時間に迫る長さだという。儀式全体では日没から始まり、この時期だとおそらく未明辺りまで、だいたい六時間前後。いつもは祭り部分も合わせて半日近く掛かるものだという。これほど大掛かりで本格的な祭りに立ち会うのは初めてだった。
宵花の出番は祭儀の終盤。それまでは、延々と場を整える儀式が行われる。これを担うのはレーゼ家の人間だ。
詠唱に入ると半ば忘我の境地に入る術者を補佐するのは、この町まで彼らを送り届けてくれた御者だ。レーゼ家の人手が足りていないということもあるが、何よりこの御者、ただの御者ではなかったのだ。こうした事態に備えて魔法の知識に明るい人物を充てていたらしい。
残るは、時機を見計らって魔法の暴走を鎮める者。それが彼の役割だった。
場に臨むにあたって宵花が纏ったのは、最初に着ていたあの風変りな服だった。日数があるからとリュクワから取り寄せたのだ。
かくして。
立ち姿から歩く姿まで。
まるで、今日こうして用いるために揃えられたかのように、恐ろしくピタリとこの場にはまっていたのだった。
力が場に満ち。
りんりん、と。先触れのような鈴の音を引き連れて。
淡く微かに光を発し始めた舞台の上を、伏し目がちに、しめやかな足取りで宵花が進み出る。
石柱の前に跪き、左手を地に、右手を柱に添えると——————
美しく整った唇より、耳が痺れとろけてしまうような韻律が滑り出した。
その瞬間。
彼にも分かった。
突風が吹き抜けるかの如く。場の力が瞬く間に励起されるのを。
どよめきが起こった。
刻まれた呪文が一層強く輝きを放ち始める。
(いよいよ始まる……!)
されどこれらの事事は幻にも似て、神族の血を享けた者の目にのみ映るもの。もしここに無恵者がいたならば、ただ訝しいだけであっただろう。彼らにとっては、なにひとついつもと変わらない景色なのだから……。
すっと宵花が立ち、帯に挿していた扇を広げゆるやかに動かす。
出会った時と同じ。
舞うかのような所作だった。
ふわり
と。
扇の軌跡に光が漂う。
光といっても普段目にする光とは違う。ずっと前、幼い頃に曽祖父に連れて行ってもらった祭りで見たことがある。
刻刻と放つ光彩の移り変わるこれは、可視化された魔力の澱。
滅多に見られるものではない。
場と使い手。
どちらをも必要とするというものだった。
鳥肌が立つような感覚がして。
軌跡だけではない。光はひと振り舞うごとにあちこちからゆらゆらと立ち上るようになっていた。
気付けば周り中、いや、もっと——サンジョ・レーゼの市域全体から。
だが……。
沸き立つそれらが、悶えるように不安定に捩れ始めた。
御者の視線を感じて。
ハッと我に返る。
イェルリカヤから指定された通りに呪文を唱え、石柱へと輪を投げる。輪はちょうど真上でピタリと静止すると、クルクルとすごい勢いで回転を始め。弾けるように光ったと思うと、石柱から床にかけて疾く稲光の迅さで呪が駆け抜け、消えた。
魔力がうねる。
術者の意の下に下りその御するものとなったそれは祭祀の心臓部、根源へと集合し——
その光華はいよいよ強く、濃く、鮮烈に。みるみる内に難解細密錯綜する文様を織り成していった。
嘆声が溢れる。
それは彼のものであると共に、満場のものでもあった。
ここは、
この場は、
この空間は——…………
完全に、宵花のものだった。
その一挙手一投足に
紡ぐ清歌に誰もが釘付けとなり
ああ
どうして目を離してしまうことなど出来ようか……
美しい
あまりにも美しすぎる光景だった。
言葉にならない感動が胸を突き上げ、涙となって汪溢する。
終わって欲しくない。
このまま時の流れから切り取られて
この時間が、
この瞬間が、
永遠に続いてくれとさえ思った。
過ぎ行く時を感じさせぬ間に。
辺りはうっすらと白み、何時の間に現れたのか。宵花の前にはあの魔物——レーゼ伯爵が蹲るようにわだかまっていた。
祭りは、終焉を迎えようとしていた。
巨大な文様が渦を巻き始める。
それは急速に収斂し、伯爵の体へと吸い込まれて行った。
「宵花っ、
っ……!」
頰を上気させて。
けれど、何とこの思いを表せば良いのか……——。
彼のもとに静かに歩み来る宵花に駆け寄る。
「流石に疲れたわ」
そうは言うものの、見た目には分からない。
いや、出さないようにしているのだろう。彼女は強い女性だ。
が、しかし、言われてみれば何となく雰囲気が……
あれだけの魔法を行使したのだ。こうして立っているのもやっとなのかもしれない。
「さすが王立研究所の方!素晴らしい実力をお持ちだ。ぜひ当家に抱えたいくらいです」
声が割って入る。
身なりからしてもこの人がレーゼ伯爵なのだろう。
慌てて礼をとる。
「御加減は如何でしょう」
伯爵は鷹揚に彼らの礼を直すと、
「こうしてあなた達と話ができる程度には快調ですよ」感じの良い笑みを浮かべる。「我が感謝をぜひ受け取って頂きたい。今日は、いえ、何日かどうぞ屋敷の方に。研究所には私の方からその旨伝えておきましょう」
断るなんてとんでもないような熱のこもった誘いなのだが、
「勿体ない御言葉。感に堪えません。ですが御気持ちに添い兼ねます事、どうか御容赦願います」
宵花は丁寧に、しかしながらきっぱりと撥ねつけた。物腰はやわらかいのだが……
口を出すことをはばかられるような気配を感じて、ファルーズは成行きを見守ることにする。
「そうですか……。残念ですが、無理を強いるのは良くありませんね」やわらかな相好を崩さないままに、伯爵。「辺鄙な場所ですが、きっとまたお越しください。いつでも歓迎致しますよ」
宵花の体調を慮ってくれたのだろう。伯爵の計らいにより、彼らは速やかにオルホフ邸へと引き取ることができた。
「何かまずい事でもあった?」
ひと息ついてからファルーズが問う。
「案外鈍いのね」ため息混じりに宵花。
ここにきていよいよ疲労の色が濃く滲んできていた。
「此処で気の有る素振りを見せたら後が面倒な丈。押しの強い人でなくて助かったわ。研究員証が少しは役に立ったのかも知れないわね」
間もなく、宵花に眠りに入った。
ただの眠りではない。何日も昏昏と、だ。
「大事ありませんよ。あれは負荷の高い魔法でしたから。必要なだけ休まれたら必ずお目覚めになりますよ」
御者はそう言うが……。
代償を伴うような魔法ではない。
その、はずだ。
ただ——
(「気を付けなくてはいけないよ。常ならざるものは神がお召し上げになってしまわれるから……」)
昔語りの一節が、不気味な予言のように頭の内側でこだまする。
強すぎる力は、それを行使する者に必ず報いを求めるという。
心配だった。
宵花は何か一線を超えてしまっていたのではないか。
何かと、引き換えにしてしまったのではないか、と。
「だから言ったじゃない、杞憂だって」
優雅にティーカップを傾けながら、イェルリカヤ。
リュクワに着いた翌日、宵花はごく普通に目を覚ました。
「すみません、お騒がせしてしまって……」
赤面する。
ベレスフォード夫人にまで要らぬ心配をかけてしまった。
「手記の方は如何ですか」
「進んではいる。けれどまだあなた達の役に立つような段階ではないわ。取り敢えず、分かっている所に行ってみたら?進捗があれば魔法で知らせるから」
「然うね。待って居ても仕方がない。
行きましょう、リルガースへ」
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