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第8話 ー不正アクセス容疑ー ②
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夕方、駅へ向かう道は、昼間とは違う色合いを帯びていた。アスファルトの上に落ちる影が長く伸び、街灯が一つずつ順番に灯っていく。
「ふー、お腹いっぱい」
「……私も。パフェ、思ったよりお腹に溜まる」
「でも完食した真白、えらい。さすがカッコいい——」
「禁止」
「えー」
恋が口を尖らせる。真白は苦笑しながら、小さく首を振った。
「今日は、その単語を何回も聞いたから……。これ以上聞くと溶けそう」
「それはそれで見てみたいけど」
恋はそう言って笑ったあと、ふと真白の横顔を覗き込んだ。
「でもさ、真白」
「なに?」
「もしまた、なんか変なこと起きても……」
恋の声色が、少しだけ真面目になる。
「あたし、真白が前みたいに一人で抱え込むのは、やっぱりやだな」
その言葉に、真白は足を止めかけて、すぐに歩を緩めた。
「……うん」
夕暮れの光が、二人の影を足元に長く伸ばしている。
「ちゃんと、相談する。恋に」
「約束?」
「約束」
そう言うと、恋は満足そうに頷いた。
「じゃあさ、あたしも約束する」
「?」
「あたしも、真白の隣で、ちゃんと笑ってる。どんな変なこと起きても、“真白、カッコいい”って言い続ける」
「だから、その単語——」
「これは譲れない」
恋は真剣な顔で言い切った。真白は、もう反論する気力もなくなって、代わりに小さく笑った。
「……わかった。じゃあ、聞き慣れるようにがんばる」
「よし。それでこそ真白」
駅前に近づくにつれ、行き交う人の数が少しずつ増えていく。改札前に着くと、二人は足を止めた。
「じゃあ、また明日学校でね」
「うん。また明日」
互いに手を軽く振り合って、別々の改札へ向かう。恋の姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、真白は何度か振り返ってしまった。
家に戻ると、リビングには夕食のいい匂いが漂っていた。軽く今日の出来事を母に話し、シャワーを浴びて部屋に戻る。
机の上には、今日買ってもらった狐のブックマーカーと、クレーンゲームでもらった白い犬のぬいぐるみが並んでいる。
ベッドの端に腰を下ろしながら、真白はそっとブックマーカーを手に取った。小さな狐のチャームが、指先の動きに合わせてかすかに揺れる。
「……カッコいい、か」
ぽつりと呟いて、天井を見上げる。
ログの揺らぎや、暗号文の残像は、まだ完全には消えていない。それでも、今日は一日、恋と一緒に笑って過ごせた。怖い記憶の上に、別の記憶が少しずつ重なっていく感覚がある。
スマホの画面を点けると、恋からのメッセージが一件届いていた。
『今日めっちゃ楽しかったー! 真白のカッコいいとこ、またいっぱい見れた。明日もよろしくね!』
文末の「!」の多さに、思わず笑いが漏れる。
『私も楽しかった。パフェは当分いいかも。明日も、よろしく』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
『了解! おやすみ、真白』
短いメッセージの中に、不思議なほどの安心感があった。
「おやすみ、恋」
そう呟いて、真白はスマホを伏せる。
窓の外では、風がカーテンを静かに揺らしていた。夏と秋の境目のような涼しさが、部屋の中に流れ込んでくる。
——明日も、平穏でありますように。
祝日明けの朝、教室の空気は、連休前とは少し違っていた。
まだ眠そうにあくびをかみ殺す生徒もいれば、連休の出来事を嬉々として話しているグループもいる。そのざわめきの中で、真白は自分の席に座り、そっと鞄から教科書を取り出した。
現代文の教科書の間には、昨日買ってもらったばかりの狐のブックマーカーが挟まっている。小さな金属のチャームが、ページをめくるたびにかすかに揺れた。
「お、真白、それもう使ってる」
机の横から、木下恋がひょこっと顔を出した。いつものミディアムボブをひとつにゆるくまとめていて、連休明けなのにどこか余裕のある笑顔だ。
「う、うん。せっかくだから」
「いいねー。あたしのハートもちゃんと仕事してるよ」
恋は自分の教科書を開いて、ハート型のブックマーカーを見せてくる。小さなハートが光を受けてきらっと光った。
「……それ、ほんとに意味はナイショ?」
「ナイショ。真白が気になってくれてるうちは、内緒のままがいいの」
「ずるい」
「あ、そうだ」
恋は何かを思い出したように、椅子の背もたれにもたれかかった。
「今日、放課後どうする? あたし、生物の小テストあるから、図書室でノートまとめようかなって思ってるんだけど」
「図書室……」
その単語に、真白の胸の奥が少しだけざわつく。静かな図書室は好きだし、集中もしやすい。けれど、ここ最近「静かな場所」が、必ずしも平穏を意味しないことを、何度か思い知らされた気もする。
それでも、恋と一緒なら——そう思い直して、真白は頷いた。
「じゃあ、一緒に行く。情報のレポート、まだ途中だし」
「決まり! 放課後、昇降口前ね」
恋は満足げに笑うと、チャイムの音に促されるように自分の席へ戻っていった。
ホームルームが始まり、今日の連絡事項が淡々と告げられる。黒板の端には、今週の予定表が貼られていた。そこには、さりげなく〈図書委員会 図書室PCメンテナンス〉と小さな字で書かれている。
——メンテナンス。
真白はその文字を見て、少しだけ眉をひそめた。校内ネットワークの調子は、決して悪くない。ただ、前の事件のあとにセキュリティ関連の見直しが行われていて、その一環なのだろうと思う。
「じゃあ、今日も一日よろしくな」
担任の締めの言葉に、生徒たちの返事が重なった。
放課後の図書室は、昼間よりもさらに静かだった。
本棚の間をすり抜けるように、数人の生徒が行き来している。ページをめくる音と、鉛筆が紙を滑る音が、かすかに重なって聞こえてくる。
真白と恋は、窓際近くの二人掛けの机に座った。外はすでに少しずつ夕暮れの気配を帯び始めていて、窓ガラス越しの光は柔らかいオレンジ色になりつつある。
「じゃ、あたしは生物ノートと戦ってくるわ……」
恋は大きく伸びをしてから、ノートと教科書を机の上に広げた。
「真白は?」
「情報のレポート。校内ポータルにログインしないと、課題のファイルが見られなくて」
「あー、あのちょっと重いやつね」
恋は苦笑いを浮かべる。
「この前ログインしようとしたら、ずっとぐるぐるしてたし」
「今日は、ちゃんと動いてくれるといいけど」
真白はそう言いながら、図書室の端に並んだ共有端末の方を振り返った。あいにく二人で並んで使える席は埋まっていて、今空いているのは少し離れた席だけだ。
「ごめん、ちょっと向こうの端末使ってくる。終わったら戻るね」
「うん。何かあったら連絡して」
恋の言葉に頷いて、真白は椅子から立ち上がった。
共有端末の列の一番奥に座り、電源ボタンを押す。画面に学校のロゴが表示され、やがてログイン画面へと切り替わった。
真白は、支給されている生徒用アカウントのIDとパスワードを入力する。指先は迷いなくキーを叩いているが、その動きの裏には、無意識のうちに「何かおかしな挙動はないか」という観察の意識が張り巡らされていた。
——これは、いつものログイン画面。
URLも、画面右下の証明書情報も、見覚えのあるものだ。ほんの少しだけ胸を撫で下ろして、「ログイン」ボタンをクリックする。
校内ポータルのトップページが表示され、そこから科目別のフォルダへと進む。情報のフォルダを開くと、「レポート課題」のリンクが現れた。
「……よかった。ちゃんとある」
小さく呟いて、真白はそのリンクをクリックする。
その瞬間だった。
画面が一瞬、ふっと暗くなる。固まったように見えた次の瞬間、見慣れたログイン画面が、再び表示された。
「え……?」
たった数秒の出来事なのに、真白の心臓は大きく跳ねた。
——セッション切れ? このタイミングで?
校内ポータルは、一定時間操作がなければセッションが切れてログアウトされる仕様になっている。でも、今はリンクをクリックしたばかりだ。タイマーが動く暇なんてない。
違和感を覚えながら、真白は画面の上部に表示されているURLに目をやった。
「……」
校内ポータルのURLは、何度も見てきた。ドメイン名も、パスの構造も、ほとんど暗記してしまっている。
——なのに。
そこに表示されている文字列は、「ほとんど」同じで、「ほんのわずか」違っていた。
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ではなく、
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その程度のスペルミスなら、普段なら見落としていたかもしれない。でも、画面が一瞬真っ暗になった直後に出てきた「もう一度ログインしてください」というメッセージと、その下にある入力フォームの配置が、微妙に違うことに気づいてしまった。
「……偽物」
思わず声に出していた。
すぐ隣の席で勉強していた生徒が、不思議そうにこちらを見たが、真白は気づかないふりをして視線を画面に戻す。
——今、ここでパスワードを入れたら、どうなる?
考えるまでもない。入力されたIDとパスワードは、どこか別のサーバへ送られる。
偽のログインページ——フィッシング。
それを頭の中で単語として認識した瞬間、背筋を冷たいものが走った。
校内ネットワーク上で、それをやる?
こんな、教室でも図書室でも使う共有端末で?
手を伸ばしかけていたキーボードから、指をそっと引っ込める。心臓が、さっきから落ち着かないリズムを刻んでいた。
代わりに、真白はポケットから自分のスマホを取り出した。校内Wi-Fiに接続し、ブラウザを開いて手入力で校内ポータルのURLを打ち込む。
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エンターキーを押すと、スマホの画面には見慣れた本物のログイン画面が表示された。試しにそこから情報のフォルダへ進み、さっきと同じ「レポート課題」のリンクをタップする。
——こちらでは、普通にページが開かれる。
内容も、提出フォームも、見慣れたものだ。
どう見ても、スマホからアクセスしたルートは安全だ。ということは——。
真白は、ごくりと唾を飲み込んだ。
——この端末で、何かが“差し替えられている”。
とにかく記録を残さなければ——。
真白は、そう考えて端末のキーボードに手を伸ばした。とはいえ、パスワードを打つわけではない。Ctrlキーとプリントスクリーンキーを押し、画面のスクリーンショットを取得する。
学校の端末には、簡易的なスクリーンショットツールが入っているだけだが、それで十分だ。保存先のフォルダを、個人のドキュメント領域に変更し、「偽ログイン画面」とわかるようなファイル名を付けて保存する。
同時に、画面下部にあるステータスバーの情報も目に焼き付ける。証明書の発行者名、接続の暗号化状況、ロード中に一瞬だけ表示された「別ドメインへのリダイレクト」のメッセージ。
「……これ、完全に狙ってやってる」
か細い声で呟いたそのとき、図書室の別の席から「あれ?」「え、またログイン?」という声が聞こえてきた。
真白ははっとして顔を上げる。
数台離れた端末で作業していた二年生が、いぶかしげな顔でモニターを見つめている。その画面にも、さっき真白が見たのと同じ「ログイン画面」が表示されていた。
「あの、さっきまで課題のページ見てたのに、急にログアウトされて……」
「私のも、いきなりログイン画面になった」
ひそひそとした声が、図書室の静かな空気の中で妙に目立つ。
真白は、胸の中で何かがざわつくのを感じた。
——私だけじゃない。
偶然、自分の端末でおかしな挙動が起きたのだと思い込もうとしていた部分が、静かに崩れていく。
これは、もっと広い範囲で起きている。
「図書室にいる生徒」なのか、「校内ネットに接続している端末全部」なのかまではわからない。でも、少なくとも、今この場にいる複数の端末で同じことが起きているのは確かだ。
真白は、ポケットに入れっぱなしだったスマホを握りしめた。恋とのトーク画面を開きかけて、指を止める。
——まず、先生。
図書室の司書教諭に声をかけるか、それともその前に担任へ直接連絡するか。迷う時間は短かった。
真白は校内メールアプリを開き、担任の名前を選択する。
『図書室の共有端末で、校内ポータルの偽ログイン画面が出ています。
URLが「porrtal……」になっていて、本物と違います。
他の二年生の端末でも、急にログイン画面が出ているようです』
短く、しかし必要な情報だけは落とさないように文章を打ち込み、送信ボタンを押した。
送信済みマークが表示されると同時に、胸の中の不安が少しだけ形を変える。誰かに「共有した」ことで、ひとりで抱えている感じが薄らいだ。
——あとは、反応を待つしかない。
真白はそう思いながら、画面から視線を離した。
数分後、図書室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、真白たち二年C組の担任だった。彼は司書教諭に軽く会釈したあと、共有端末の列を見渡し、真白を見つけるとまっすぐこちらへ歩いてきた。
「柏加」
呼ばれて立ち上がると、担任は声を潜めて言った。
「メール、見た。ちょっと画面見せてくれるか?」
「はい」
真白は席を譲り、先生に椅子を勧める。担任はスクリーンに映し出されたログイン画面をじっと見つめ、マウスを動かしてURLバーをクリックした。
「……なるほどな」
小さく呟いてから、今度は自分のスマホを取り出し、校内ポータルにアクセスする。本物のログイン画面のURLと、目の前の偽画面とを見比べ、ゆっくりと頷いた。
「確かに、ドメインが違う。これは……」
言葉を切り、担任は周囲の様子をうかがった。数台離れた端末でも、同じようにログイン画面が表示されているのが見える。
「図書室にいる二年生で、同じ状態になっているのを見たか?」
「はい。さっき、急にログアウトされたって声が聞こえて……。多分、さっきから使っていた端末は、ほとんどが二年生だと思います」
「一年や三年は?」
「そこまでは確認できていなくて……」
担任はしばらく考え込み、その後、司書教諭のところへ歩み寄って小声で状況を説明し始めた。司書教諭の表情がみるみるうちに真剣なものに変わっていく。
しばらくのやり取りのあと、司書教諭が図書室全体に向けて声を上げた。
「今、共有端末をお使いの人は、手を止めてください。しばらくの間、校内ポータルへのログインは行わないようにお願いします」
その呼びかけに、生徒たちはざわめきながらも従った。キーボードを打つ音がぴたりと止まり、代わりにひそひそ声があちこちから聞こえてくる。
「どうしたんだろ」
「またシステム不具合?」
「テスト前なのにやめてほしいんだけど……」
そんな声を背中に受けながら、真白は自分の席へ戻ろうとした。その途中で、窓際の席でこちらを心配そうに見ている恋と目が合う。
恋のスマホの画面には、「大丈夫?」と打ちかけのメッセージが見えていた。真白は小さく頷き、指で「後で話す」と口の形だけで伝える。
恋は少しだけ不安げな表情を浮かべながらも、頷き返した。
「ふー、お腹いっぱい」
「……私も。パフェ、思ったよりお腹に溜まる」
「でも完食した真白、えらい。さすがカッコいい——」
「禁止」
「えー」
恋が口を尖らせる。真白は苦笑しながら、小さく首を振った。
「今日は、その単語を何回も聞いたから……。これ以上聞くと溶けそう」
「それはそれで見てみたいけど」
恋はそう言って笑ったあと、ふと真白の横顔を覗き込んだ。
「でもさ、真白」
「なに?」
「もしまた、なんか変なこと起きても……」
恋の声色が、少しだけ真面目になる。
「あたし、真白が前みたいに一人で抱え込むのは、やっぱりやだな」
その言葉に、真白は足を止めかけて、すぐに歩を緩めた。
「……うん」
夕暮れの光が、二人の影を足元に長く伸ばしている。
「ちゃんと、相談する。恋に」
「約束?」
「約束」
そう言うと、恋は満足そうに頷いた。
「じゃあさ、あたしも約束する」
「?」
「あたしも、真白の隣で、ちゃんと笑ってる。どんな変なこと起きても、“真白、カッコいい”って言い続ける」
「だから、その単語——」
「これは譲れない」
恋は真剣な顔で言い切った。真白は、もう反論する気力もなくなって、代わりに小さく笑った。
「……わかった。じゃあ、聞き慣れるようにがんばる」
「よし。それでこそ真白」
駅前に近づくにつれ、行き交う人の数が少しずつ増えていく。改札前に着くと、二人は足を止めた。
「じゃあ、また明日学校でね」
「うん。また明日」
互いに手を軽く振り合って、別々の改札へ向かう。恋の姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、真白は何度か振り返ってしまった。
家に戻ると、リビングには夕食のいい匂いが漂っていた。軽く今日の出来事を母に話し、シャワーを浴びて部屋に戻る。
机の上には、今日買ってもらった狐のブックマーカーと、クレーンゲームでもらった白い犬のぬいぐるみが並んでいる。
ベッドの端に腰を下ろしながら、真白はそっとブックマーカーを手に取った。小さな狐のチャームが、指先の動きに合わせてかすかに揺れる。
「……カッコいい、か」
ぽつりと呟いて、天井を見上げる。
ログの揺らぎや、暗号文の残像は、まだ完全には消えていない。それでも、今日は一日、恋と一緒に笑って過ごせた。怖い記憶の上に、別の記憶が少しずつ重なっていく感覚がある。
スマホの画面を点けると、恋からのメッセージが一件届いていた。
『今日めっちゃ楽しかったー! 真白のカッコいいとこ、またいっぱい見れた。明日もよろしくね!』
文末の「!」の多さに、思わず笑いが漏れる。
『私も楽しかった。パフェは当分いいかも。明日も、よろしく』
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
『了解! おやすみ、真白』
短いメッセージの中に、不思議なほどの安心感があった。
「おやすみ、恋」
そう呟いて、真白はスマホを伏せる。
窓の外では、風がカーテンを静かに揺らしていた。夏と秋の境目のような涼しさが、部屋の中に流れ込んでくる。
——明日も、平穏でありますように。
祝日明けの朝、教室の空気は、連休前とは少し違っていた。
まだ眠そうにあくびをかみ殺す生徒もいれば、連休の出来事を嬉々として話しているグループもいる。そのざわめきの中で、真白は自分の席に座り、そっと鞄から教科書を取り出した。
現代文の教科書の間には、昨日買ってもらったばかりの狐のブックマーカーが挟まっている。小さな金属のチャームが、ページをめくるたびにかすかに揺れた。
「お、真白、それもう使ってる」
机の横から、木下恋がひょこっと顔を出した。いつものミディアムボブをひとつにゆるくまとめていて、連休明けなのにどこか余裕のある笑顔だ。
「う、うん。せっかくだから」
「いいねー。あたしのハートもちゃんと仕事してるよ」
恋は自分の教科書を開いて、ハート型のブックマーカーを見せてくる。小さなハートが光を受けてきらっと光った。
「……それ、ほんとに意味はナイショ?」
「ナイショ。真白が気になってくれてるうちは、内緒のままがいいの」
「ずるい」
「あ、そうだ」
恋は何かを思い出したように、椅子の背もたれにもたれかかった。
「今日、放課後どうする? あたし、生物の小テストあるから、図書室でノートまとめようかなって思ってるんだけど」
「図書室……」
その単語に、真白の胸の奥が少しだけざわつく。静かな図書室は好きだし、集中もしやすい。けれど、ここ最近「静かな場所」が、必ずしも平穏を意味しないことを、何度か思い知らされた気もする。
それでも、恋と一緒なら——そう思い直して、真白は頷いた。
「じゃあ、一緒に行く。情報のレポート、まだ途中だし」
「決まり! 放課後、昇降口前ね」
恋は満足げに笑うと、チャイムの音に促されるように自分の席へ戻っていった。
ホームルームが始まり、今日の連絡事項が淡々と告げられる。黒板の端には、今週の予定表が貼られていた。そこには、さりげなく〈図書委員会 図書室PCメンテナンス〉と小さな字で書かれている。
——メンテナンス。
真白はその文字を見て、少しだけ眉をひそめた。校内ネットワークの調子は、決して悪くない。ただ、前の事件のあとにセキュリティ関連の見直しが行われていて、その一環なのだろうと思う。
「じゃあ、今日も一日よろしくな」
担任の締めの言葉に、生徒たちの返事が重なった。
放課後の図書室は、昼間よりもさらに静かだった。
本棚の間をすり抜けるように、数人の生徒が行き来している。ページをめくる音と、鉛筆が紙を滑る音が、かすかに重なって聞こえてくる。
真白と恋は、窓際近くの二人掛けの机に座った。外はすでに少しずつ夕暮れの気配を帯び始めていて、窓ガラス越しの光は柔らかいオレンジ色になりつつある。
「じゃ、あたしは生物ノートと戦ってくるわ……」
恋は大きく伸びをしてから、ノートと教科書を机の上に広げた。
「真白は?」
「情報のレポート。校内ポータルにログインしないと、課題のファイルが見られなくて」
「あー、あのちょっと重いやつね」
恋は苦笑いを浮かべる。
「この前ログインしようとしたら、ずっとぐるぐるしてたし」
「今日は、ちゃんと動いてくれるといいけど」
真白はそう言いながら、図書室の端に並んだ共有端末の方を振り返った。あいにく二人で並んで使える席は埋まっていて、今空いているのは少し離れた席だけだ。
「ごめん、ちょっと向こうの端末使ってくる。終わったら戻るね」
「うん。何かあったら連絡して」
恋の言葉に頷いて、真白は椅子から立ち上がった。
共有端末の列の一番奥に座り、電源ボタンを押す。画面に学校のロゴが表示され、やがてログイン画面へと切り替わった。
真白は、支給されている生徒用アカウントのIDとパスワードを入力する。指先は迷いなくキーを叩いているが、その動きの裏には、無意識のうちに「何かおかしな挙動はないか」という観察の意識が張り巡らされていた。
——これは、いつものログイン画面。
URLも、画面右下の証明書情報も、見覚えのあるものだ。ほんの少しだけ胸を撫で下ろして、「ログイン」ボタンをクリックする。
校内ポータルのトップページが表示され、そこから科目別のフォルダへと進む。情報のフォルダを開くと、「レポート課題」のリンクが現れた。
「……よかった。ちゃんとある」
小さく呟いて、真白はそのリンクをクリックする。
その瞬間だった。
画面が一瞬、ふっと暗くなる。固まったように見えた次の瞬間、見慣れたログイン画面が、再び表示された。
「え……?」
たった数秒の出来事なのに、真白の心臓は大きく跳ねた。
——セッション切れ? このタイミングで?
校内ポータルは、一定時間操作がなければセッションが切れてログアウトされる仕様になっている。でも、今はリンクをクリックしたばかりだ。タイマーが動く暇なんてない。
違和感を覚えながら、真白は画面の上部に表示されているURLに目をやった。
「……」
校内ポータルのURLは、何度も見てきた。ドメイン名も、パスの構造も、ほとんど暗記してしまっている。
——なのに。
そこに表示されている文字列は、「ほとんど」同じで、「ほんのわずか」違っていた。
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ではなく、
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その程度のスペルミスなら、普段なら見落としていたかもしれない。でも、画面が一瞬真っ暗になった直後に出てきた「もう一度ログインしてください」というメッセージと、その下にある入力フォームの配置が、微妙に違うことに気づいてしまった。
「……偽物」
思わず声に出していた。
すぐ隣の席で勉強していた生徒が、不思議そうにこちらを見たが、真白は気づかないふりをして視線を画面に戻す。
——今、ここでパスワードを入れたら、どうなる?
考えるまでもない。入力されたIDとパスワードは、どこか別のサーバへ送られる。
偽のログインページ——フィッシング。
それを頭の中で単語として認識した瞬間、背筋を冷たいものが走った。
校内ネットワーク上で、それをやる?
こんな、教室でも図書室でも使う共有端末で?
手を伸ばしかけていたキーボードから、指をそっと引っ込める。心臓が、さっきから落ち着かないリズムを刻んでいた。
代わりに、真白はポケットから自分のスマホを取り出した。校内Wi-Fiに接続し、ブラウザを開いて手入力で校内ポータルのURLを打ち込む。
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エンターキーを押すと、スマホの画面には見慣れた本物のログイン画面が表示された。試しにそこから情報のフォルダへ進み、さっきと同じ「レポート課題」のリンクをタップする。
——こちらでは、普通にページが開かれる。
内容も、提出フォームも、見慣れたものだ。
どう見ても、スマホからアクセスしたルートは安全だ。ということは——。
真白は、ごくりと唾を飲み込んだ。
——この端末で、何かが“差し替えられている”。
とにかく記録を残さなければ——。
真白は、そう考えて端末のキーボードに手を伸ばした。とはいえ、パスワードを打つわけではない。Ctrlキーとプリントスクリーンキーを押し、画面のスクリーンショットを取得する。
学校の端末には、簡易的なスクリーンショットツールが入っているだけだが、それで十分だ。保存先のフォルダを、個人のドキュメント領域に変更し、「偽ログイン画面」とわかるようなファイル名を付けて保存する。
同時に、画面下部にあるステータスバーの情報も目に焼き付ける。証明書の発行者名、接続の暗号化状況、ロード中に一瞬だけ表示された「別ドメインへのリダイレクト」のメッセージ。
「……これ、完全に狙ってやってる」
か細い声で呟いたそのとき、図書室の別の席から「あれ?」「え、またログイン?」という声が聞こえてきた。
真白ははっとして顔を上げる。
数台離れた端末で作業していた二年生が、いぶかしげな顔でモニターを見つめている。その画面にも、さっき真白が見たのと同じ「ログイン画面」が表示されていた。
「あの、さっきまで課題のページ見てたのに、急にログアウトされて……」
「私のも、いきなりログイン画面になった」
ひそひそとした声が、図書室の静かな空気の中で妙に目立つ。
真白は、胸の中で何かがざわつくのを感じた。
——私だけじゃない。
偶然、自分の端末でおかしな挙動が起きたのだと思い込もうとしていた部分が、静かに崩れていく。
これは、もっと広い範囲で起きている。
「図書室にいる生徒」なのか、「校内ネットに接続している端末全部」なのかまではわからない。でも、少なくとも、今この場にいる複数の端末で同じことが起きているのは確かだ。
真白は、ポケットに入れっぱなしだったスマホを握りしめた。恋とのトーク画面を開きかけて、指を止める。
——まず、先生。
図書室の司書教諭に声をかけるか、それともその前に担任へ直接連絡するか。迷う時間は短かった。
真白は校内メールアプリを開き、担任の名前を選択する。
『図書室の共有端末で、校内ポータルの偽ログイン画面が出ています。
URLが「porrtal……」になっていて、本物と違います。
他の二年生の端末でも、急にログイン画面が出ているようです』
短く、しかし必要な情報だけは落とさないように文章を打ち込み、送信ボタンを押した。
送信済みマークが表示されると同時に、胸の中の不安が少しだけ形を変える。誰かに「共有した」ことで、ひとりで抱えている感じが薄らいだ。
——あとは、反応を待つしかない。
真白はそう思いながら、画面から視線を離した。
数分後、図書室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、真白たち二年C組の担任だった。彼は司書教諭に軽く会釈したあと、共有端末の列を見渡し、真白を見つけるとまっすぐこちらへ歩いてきた。
「柏加」
呼ばれて立ち上がると、担任は声を潜めて言った。
「メール、見た。ちょっと画面見せてくれるか?」
「はい」
真白は席を譲り、先生に椅子を勧める。担任はスクリーンに映し出されたログイン画面をじっと見つめ、マウスを動かしてURLバーをクリックした。
「……なるほどな」
小さく呟いてから、今度は自分のスマホを取り出し、校内ポータルにアクセスする。本物のログイン画面のURLと、目の前の偽画面とを見比べ、ゆっくりと頷いた。
「確かに、ドメインが違う。これは……」
言葉を切り、担任は周囲の様子をうかがった。数台離れた端末でも、同じようにログイン画面が表示されているのが見える。
「図書室にいる二年生で、同じ状態になっているのを見たか?」
「はい。さっき、急にログアウトされたって声が聞こえて……。多分、さっきから使っていた端末は、ほとんどが二年生だと思います」
「一年や三年は?」
「そこまでは確認できていなくて……」
担任はしばらく考え込み、その後、司書教諭のところへ歩み寄って小声で状況を説明し始めた。司書教諭の表情がみるみるうちに真剣なものに変わっていく。
しばらくのやり取りのあと、司書教諭が図書室全体に向けて声を上げた。
「今、共有端末をお使いの人は、手を止めてください。しばらくの間、校内ポータルへのログインは行わないようにお願いします」
その呼びかけに、生徒たちはざわめきながらも従った。キーボードを打つ音がぴたりと止まり、代わりにひそひそ声があちこちから聞こえてくる。
「どうしたんだろ」
「またシステム不具合?」
「テスト前なのにやめてほしいんだけど……」
そんな声を背中に受けながら、真白は自分の席へ戻ろうとした。その途中で、窓際の席でこちらを心配そうに見ている恋と目が合う。
恋のスマホの画面には、「大丈夫?」と打ちかけのメッセージが見えていた。真白は小さく頷き、指で「後で話す」と口の形だけで伝える。
恋は少しだけ不安げな表情を浮かべながらも、頷き返した。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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