キスから始まる恋心

にのみや朱乃

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13. わたしの秘密

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 朝だ。瀧本くんと一緒に登校すると約束した朝。

 わたしはいつもより早く起きて、念入りに準備していた。いつもわたしより早く家を出るお母さんと一緒に朝食を済ませて、しっかり身支度を整えて、今は自分の部屋で瀧本くんが来るのを待っていた。お母さんはすごく不思議がっていたけれど、早く目が覚めたのだということで押し切った。まさか、男の子と待ち合わせしているなんて言えるはずもない。お母さんは腑に落ちないような感じだったが、忙しさに負けて追及せずに家を出ていった。

 わたしは学習机の椅子に座ったまま、ぼんやりと考えていた。瀧本くんにはいつか言わなければならない。わたしの背中にくっきりと残った火傷と傷痕について。

 わたしは幼い頃、父親から虐待を受けていた。あの頃は抵抗する術もなくて、ただ泣き叫んで許しを乞うだけだった。痛くても苦しくても、誰も助けてくれなかった。ある日突然警察が来て、父親を連れていくまで、わたしは痛めつけられてきたのだ。あの警察は、近所の人が呼んでくれたのかもしれない。後から知ったことだが、お母さんも暴力を受けていたようだった。今では離婚して、わたしはここまでお母さん一人の手で育てられてきた。

 あの時の傷痕は今でも残っている。わたしの背中には、煙草を押し付けられてできた火傷の痕や、虐待によって残ってしまった傷痕がいくつもある。服を着てしまえば見えない位置だったことが幸いだった。誰にも知られることはなく、わたしはひっそりとこの汚点を隠し続けてきた。誰かに見られて、気持ち悪いと言われるのが怖かった。

 わたしの想いを押し留めているのは、この傷痕だ。こんな醜いものさえなければ、わたしは今頃瀧本くんに敗北を認めていることだろう。瀧本くんにこの恋心を白状していることだろう。いつか瀧本くんにこの傷痕を見られてしまった時に、それまで積み上げてきたものが壊れてしまうのではないかと不安なのだ。この傷痕がきっかけで別れてしまうことになったとしたら、わたしはきっと耐えられない。だったら、初めから付き合わなければ良いのだ。今のままの心地よい関係に甘えて、踏み出さなければ良いのだ。わたしはそう思ってしまっている。

 でも、瀧本くんなら、そんなもの気にしないと言ってくれるような期待もある。わたしはその期待感と恐怖に挟まれたまま、最近を過ごしている。踏み出したい。けれど、その先に待っているかもしれない絶望が怖い。

 どうにか隠し通せないかとも思ったけれど、わたしが瀧本くんに勝てるはずがない。わたしが何かを隠していることを知ったら、瀧本くんはあの手この手で暴こうとするだろう。わたしがそれを捌けるはずがないのだ。すぐに知られてしまうのは目に見えている。

 瀧本くんと付き合いたいなら、この醜い傷痕を晒さなければならない。どうしたら良いのだろう。わたしは肺に溜まった悪い空気を押し出すように、深く息を吐いた。

 そこへ、瀧本くんから連絡があった。エントランスに着いたら連絡してほしいと言ってあったのだ。思っていたより少し早いけれど、わたしの支度は終わっているし、早く会いたい気持ちが強かった。わたしは返信して、鞄を持って家を出る。

 瀧本くんは本当に髪の毛を染めたのだろうか。どんな色になったのだろう。ちゃんと校則に違反しないぎりぎりのラインを攻めているのだろうか。これでもまだ明るかったら染めた意味があまりない。どうせ染めるならしっかりと黒に近づけてほしいところだ。わたしはエレベータで階下に降りながら、瀧本くんとの再会を楽しみに待つ。

 エレベータが一階に着く。わたしは少し緊張しながらエントランスに行く。

 瀧本くんは壁に寄りかかってスマートフォンを見ていた。その髪の色は明るい茶色から黒に近い茶色に染められている。地毛でもありそうなくらい、黒に近い茶色だった。髪も全体的に短くなっていて、ピアスがなければ不良だとは思われない見た目になっていた。わたしがあげたマフラーも首に巻いていて、ますます普通の人のように見える。

 激変だ。わたしは思わず足を止めて瀧本くんを凝視してしまった。瀧本くんはわたしが来たことに気づき、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「おはよう。どうだ、染めてきたぞ」
「う、うん。いいじゃん、似合ってるよ。こっちのほうが恰好いい」

 わたしが褒めると、瀧本くんは珍しく照れたような顔を見せる。

「そうか? なんか一般人になった気がしてまだ落ち着かねえんだけどな」
「いいんだよ一般人で。服装とか見た目で目立たなくていいの」
「そうかよ。まあ、詩織がこのほうがいいって言うなら、いいか」

 わたしと瀧本くんは並んで歩き出す。朝、自分の家の前から一緒にいるなんて、なんだか変な感じだ。もし瀧本くんと付き合うようになったら、これが毎朝の光景になるのだろうか。それはそれで、毎朝の準備が大変そうだなあ。

「母さんがすげえ驚いてた。どうしたの、何があったの、だってよ」
「まあ、そうだよね。わたしも染めるとは思わなかったもん」

「詩織が家に呼べないとか言うからだろ。これでどうだ、今日にも家に行けるか?」
「これなら偶然お母さんに見られても大丈夫そう。家にはまだ呼ばないけど」

「なんだよ。いつ呼んでくれるんだ?」
「まずお母さんに瀧本くんのこと話さないとね。いきなりキスしてきた不届き者がいますって」
「お前さ、その紹介は悪意あるだろ。第一印象最悪じゃねえか」

 瀧本くんは笑うが、これは事実だ。第一印象が悪かったことも事実だ。何も捻じ曲げてはいない。瀧本くんはもうあの日のことを忘れてしまったのだろうか。わたしがどれだけ衝撃を受けたか、瀧本くんは知らないのかもしれない。

「もうちょっとちゃんと紹介してくれよ。朝も昼も夜も忘れられないくらい好き、とか」
「言えるわけないでしょそんなこと。お母さんに変な目で見られるよ」

 瀧本くんの瞳が動揺を示す。最近知ったのだが、瀧本くんの動揺は目に現れやすい。

「なに? わたしなんか変なこと言った?」
「いや、別に。付き合ってる男の子がいるの、とかが無難なんじゃねえの」
「付き合ったらね。うん、付き合ったら、瀧本くんのことお母さんにちゃんと報告する」
「で、いつ付き合ってくれんの?」
「さあ? わかんない」

 わたしは自分の気持ちに蓋をして笑う。本当は今すぐにでも付き合いたい。でも、わたしの背中に残る傷痕がわたしを引き留める。この気持ちを明かしてはならないと立ち塞がる。
 瀧本くんは肩を竦めて、それから不敵な笑顔を見せた。

「まあいいけどな。時間の問題だろうし、ゆっくり待つことにするわ」
「なにその余裕。わたしが急に誰かに惹かれたらどうするの?」

「俺がもっと惚れさせりゃいい話だろ。俺を甘く見るなよ?」
「その自信はどこから来るの? その自信が羨ましいよ」
「自分に自信がなきゃ女は寄ってこねえよ。知らねえ奴にも舐められるしな」
「ふうん。そっか」

 瀧本くんくらい自分に自信があったら、わたしもこの傷痕に負けずに瀧本くんに愛を告げられるのだろうか。きっと、わたしは自分に自信がないのだろう。愛されているという自信も、愛してもらえるという自信も。

 学校が近づいてくると、同じ制服を着た生徒の数も増えてくる。みんながこちらを見ているような気がして、わたしは意識的に瀧本くんとの距離を取る。帰り道はいつも手を繋ぐくらいだけれど、今はそういうわけにはいかない。変な噂がどんどん流れてしまう。

 瀧本くんはそれが気に入らなかったのか、わざとわたしの手に触れてきた。わたしがさりげなくブレザーのポケットに手を入れると、瀧本くんは不満そうに言う。

「なんだよ、朝は手繋げねえって?」
「当たり前でしょ。ていうか、帰りだってだめなんだよ。なんでいつの間にか手繋ぐのが当然みたいになってるの」
「詩織が受け入れてるから。嫌だったら振り払うだろ?」
「わかった。じゃあ今日から振り払う」
「嫌なのか?」

 瀧本くんは感情の見えない目でわたしをじっと見つめている。わたしの心が見透かされているような気がして、わたしはふいと顔を逸らした。

「嫌、じゃ、ないけど、やっぱりそういうのはさ、付き合ってからするのが普通でしょ」
「どうかねえ。付き合ってなくても仲良かったら手繋ぐんじゃねえか?」
「ええ? そういうもの?」
「そういうものだと思ってりゃいいんじゃねえの。普通とか普通じゃねえとか、考えてたら頭おかしくなっちまうだろ。というわけで、俺は繋いでもいいと思う」

 瀧本くんがそう断言するものだから、手を繋いでも良いような気分になってしまう。わたしだって本当は瀧本くんの手に触れたい。邪魔をしているのは羞恥心と理性だ。あとは、周りの人から突き刺さるであろう好奇の視線。

 わたしはそれらの要素に負けて、俯きながら瀧本くんに告げた。

「い、今は、だめ。帰りなら、いいから」
「今更恥ずかしがるなよ。俺とお前が手を繋いで登校したってもう誰も何も言わねえよ」
「そういうのが変な噂の元になるんでしょ。とにかく、人が多いうちはだめ。わかった?」
「はいはい。じゃあ、帰りのお楽しみってことだな」

 瀧本くんも自分の手をスラックスのポケットに入れる。その微妙な距離感を埋めたくなってしまって、わたしは瀧本くんにほんの少しだけ身を寄せた。瀧本くんが気づかないくらい微かだけれど、わたしはそれでも心が軽くなった気がした。

 校門をくぐると、同じ学年の生徒の姿も増えてくる。誰もがこちらを見て驚いているように思える。瀧本くんの印象が変わりすぎているからだろう。どうせならピアスも外して、完全に真面目な人になってしまえば良かったのに。そうしたら、不良だからというだけで立っていた根も葉もない噂も静まるだろうに。

 わたしと瀧本くんが土間でいったん別れようとした時に、向こうから背の高い男子生徒がにやにやしながらわたしたちを見ていた。あれは、いつも瀧本くんと一緒にいる人だ。
 瀧本くんは思い切り嫌そうな顔をして、わたしの肩を軽く押した。

「先行ってろ。後でまた連絡する」
「え? ああ、うん、またね」

 わたしが軽く手を振ると、瀧本くんは片手を挙げて応えた。わたしはそのまま自分の靴箱に向かう。瀧本くんは友人のほうに歩いていく。

「てめえ、何にやにやしてんだよ気持ち悪いな」
「一葉、お前どうしたんだよその頭。彼女に何か言われたか?」
「うるせえな。悪いか」
「あの一葉が女の言うこと聞くなんてなぁ。何なの、尻に敷かれてんの?」

 ばしっと叩く音がした。痛え、と叫ぶ声がする。

「すげえ大切にしてんじゃん、あの子のこと。今朝も一緒に来るとか、お前マジで狙ってんの?」
「狙ってんだよ。髪染めるくらいにはな」

 瀧本くんの声が聞こえて、わたしは上履きを取り落としそうになった。だめだ、早くここからいなくならないと、わたしは聞いてはいけないことを聞いてしまいそうだ。

「本気じゃん。あの子可愛いもんなぁ、ちょっと俺にも紹介してくれよ」
「やだよ。詩織は俺のものなの。お前みたいな軽い奴に紹介できるか」

「ちょっと話すくらいいいだろ? 俺だって可愛い子と話してえよ。じゃあ別の子紹介してくれよ、たくさんいるだろ?」
「自分で引っかけてこいよ。お前だって周りに女いるだろ」
「手伝ってくれよ一葉。彼女にバレなきゃいいじゃねえか」

「無理。最近さ、マジで詩織以外の女に興味ねえの。全然可愛いと思えねえの」
「惚気かよ。くっそぉ、いいよなあ。何なんだよ、一葉ばっかりいい女にモテてさあ」

 瀧本くんたちは笑いながら去っていく。わたしはその場に座り込んでしまって、立ち上がれなくなってしまう。

 わたし以外の女に興味がない。瀧本くんははっきりとそう言った。その言葉が楔のようにわたしの心に突き刺さって、頭の中を焦がす。わたしは口元を押さえて、ともすれば出ていってしまいそうな呻き声を抑える。

 なんなの。友達にこんなこと言ってるんだ。そりゃあ変な噂も立つよ。

 わたしが聞いていないと思って油断したのだろうか。あれは瀧本くんの本心のようだった。
聞かなければ良かった。聞かなければ、わたしはまだ瀧本くんが冗談を言っているのだと、本気でわたしのことを好きなわけではないと言い訳することができたのに。あんな調子で、わたしにしか興味がないと言われてしまったら、もう本気だと信じるしかない。

 あとはわたしの勇気だけなのだ。この傷痕を告白する勇気があれば、わたしはきっと瀧本くんと恋人になることができるのだ。その瞬間は目の前にあって、今日の帰りにでも実現することができる。後ろめたい思いもなく一緒に帰ることができる。

 でも。でも、わたしは、この傷痕を明かす勇気がない。気持ち悪いと思われることが怖い。

 先に悠夏に相談しよう。悠夏に背中を押してもらおう。悠夏なら、わたしの勇気の炎を燃え上がらせてくれるはずだ。もしかしたら、悠夏はわたしを止めるかもしれない。わたしの知らない瀧本くんを知っているかもしれない。

 わたしは立ち上がり、自分の教室に向かった。頬の熱さは取れそうになかった。
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