キスから始まる恋心

にのみや朱乃

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12. 心変わり

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 わたしが瀧本くんに一緒に帰ろうと言ったのは初めてかもしれない。

 わたしの手元にはマフラーが入った紙袋がある。悠夏と二人で選んだ、紺色の無地のマフラー。今日の帰りで二人きりになったら瀧本くんに渡すのだ。瀧本くんの好みがわからなかったから、柄のないものを選んだ。喜んでもらえるだろうか。

 瀧本くんはどんな反応をするのだろう。マフラーを買ってあげると言った時、なんだか少し照れくさそうだった。実際にマフラーを渡されたら、あの瀧本くんでも恥ずかしそうに顔を赤らめたりするのだろうか。それは見てみたい。いつもわたしばかりが恥ずかしい思いをしているのだから、たまには逆襲してやりたい。

 放課後の騒がしい廊下を抜けて、待ち合わせ場所の図書館に向かう。心の中では教室まで迎えに行きたいのだけれど、それは恥ずかしい。前はよく何も考えずに教室の前まで行けたなと思う。好きだということを自覚してしまったら、迎えに行くという行為がとても彼女らしく思えてしまって、そんなことをわたしがして良いのだろうかと思ってしまうのだ。図書館での待ち合わせも、似たようなものかもしれないけれど。

 図書館に向かう途中の廊下で、生活指導の女性教師とすれ違った。わたしは指摘を受けるようなことはしていないから、そのまま会釈をして通り過ぎようとする。

「あ、二場さん?」
「はい?」

 まさか呼び止められると思っていなかったわたしは、先生の前をちょっと通り過ぎてから振り返る。何かいけなかっただろうか。スカート丈も守っているはずだけれど。それに、わたしは生活指導の先生に名前を覚えられるような人間だっただろうか。
 先生は言いにくそうにしながら、自分の前で腕を組んだ。

「あなた、瀧本くんと仲良いわよね?」
「ええ、まあ」

 自分で頷くのも恥ずかしいが、最近はだいたいいつも一緒にいるのだから否定することもできない。わたしが曖昧に頷くと、先生は苦い顔をした。

「ちょっと、お願い事があるのだけど」
「わたしに、ですか?」
「そう。瀧本くんにね、生活態度を改めるように言ってほしいのよ」

 そう来たか。周りから攻めるとは、先生方も相当困っているように思える。

「瀧本くんがかなり校則を違反しているのは知っているでしょう? 彼の周りの子も徐々に酷くなってきているの。彼の影響なのだと思うのだけれど、ピアスを付ける子がかなり増えてきてしまっていて」

「わたしから言っても、瀧本くんは変わらないと思いますけど」

「この際、ピアスはとりあえず見逃してもいいから、まず髪の色と服装をどうにかしてほしいのよ。それだけでもだいぶ印象が違うでしょう? あなたからさりげなく黒髪のほうが恰好良いとか言ったら、それで黒に染めてくれないかしら」
「どうでしょう。瀧本くん、聞いてくれないと思いますよ」
「私たちが言っても聞かないけれど、同じ歳の女の子から言ったら変わるんじゃないかしら」

 おかしな理論だと思ったけれど、先生は至って真面目だ。いったんピアスは諦めると言っているあたり、かなり手を焼いているのだろう。少しずつ瀧本くんの生活態度を改善していって、いつかはピアスまで取ろうということか。

 でも、瀧本くんの茶髪は親への反発でもある。わたしが染めろと言ったところで、聞く耳を持たないのではないだろうか。わたしの言葉にそこまでの威力があるとは思えない。
 わたしが答えを渋っていると、先生はさらに畳みかけてきた。

「このままだと、教師の中での瀧本くんの立場もどんどん悪くなる。瀧本くんを救うことにもなるのよ。このまま素行が悪い状態が続くと、何もしていないのに、何かあったら疑われるような子になってしまうかもしれない」

 学校内で何か事件があった場合に、普段の素行の悪さが響くと言いたいのだろう。瀧本くんが勝手に犯人にされてしまう可能性がある、ということか。それは、困る。

「ええと、言うだけ言ってみてもいいですけど、変わらなくてもいいですか?」

 わたしは予防線を張りながら承諾する。先生はぱっと顔を明るくした。

「ありがとう。大丈夫よ、瀧本くんも男なんだから。彼女から黒のほうが似合うって言われたら一発で変えるわ」
「せ、先生、わたし彼女じゃないので」
「あら、違った? ごめんなさい、てっきりそうなのだと思って」

 悪びれた様子もなく、先生は形だけ謝った。わたしの恋心には気づかれているのかもしれない。生徒だけでなく、教師にまで勘違いされているとは。わたしと瀧本くんは距離が近すぎるのだろうか。今更改めようとも思わないけれど。

「じゃあ、よろしくね。応援しているわ」
「はあ。ありがとうございます」

 わたしの恋路の応援なのか、瀧本くんに物申すことへの応援なのかはわからなかった。先生はそのままヒールの音を響かせながら去っていく。

 瀧本くん、わたしが言ったら怒らないかなあ。お前にそんなこと言われたくないって怒られたらどうしようか。いきなり怒ることはないだろうが、機嫌を悪くされるのは嫌だ。わたしは平和に帰り道を過ごしたい。

 どうやって話を持っていけば良いのだろう。もう、正直に言ってしまおうか。生活指導の先生が困っているから髪を染めないか。ううん、先生の味方をするのかと思われそうで、瀧本くんからしたら良い気分にはならないだろうか。

 わたしは悩みながら図書館に着く。瀧本くんが図書館の外の廊下で暇そうに窓の外を見ていた。わたしが来たことに気づくと、寄りかかっていた壁から身体を離す。

「遅かったな。誰かに捕まったか?」

 鋭い。先程の光景を見ていたのではないかと思ってしまう。
「うん。ちょっと、生活指導の先生にね」
「詩織が? なんだよ、何に引っかかったんだ?」
「あ、ううん、わたしじゃなくて、ね」

 言い淀む。逃げるように瀧本くんの瞳をちらりと見たら、それだけで瀧本くんはわたしの言葉の先を察したようだった。

「俺のことか? あいつら、遂に詩織に手を出しやがったか」

 瀧本くんは舌打ちをして苛立ったように言う。遂に、ということは、瀧本くんはいつかわたしに話が行くと思っていたのだろうか。まさしくその通りの展開となった。

 瀧本くんが歩き出したから、わたしもその横に並ぶ。いつもの帰り道なのに、なんだかいつもより緊張感がある。瀧本くんは生活指導の先生のことを考えているのだろう。

「何言われたんだよ。どうせ、あいつの生活態度をどうにかしろってことだろ?」
「まあ、そんな感じ。まず茶髪をどうにかできないかって言ってた」
「黒染めしろって? わざわざそんなことで詩織を呼び止めんなよ、俺に言えよ」
「瀧本くんに言っても変わらないからわたしに言いに来たんだって」
「ふぅん。あいつらも苦労してんだな、俺の交友関係まで調べやがって」

 廊下から外に出ると、寒風が身体を突き刺す。寒さについ身を小さくしてしまう。今日は風があるから余計に寒く感じられるようだ。

 こういう時、ちゃんと付き合っていたら手を繋いだりとか、腕に抱き着いたりとか、そういうことをしても許されるんだろうな。羨ましい。わたしは瀧本くんと付き合っているわけではないから、そういうことはしない。できない。いや、付き合っていたとしても、恥ずかしくてそんなことはできないかもしれない。

 瀧本くんは手をスラックスのポケットに入れていたけれど、寒そうにしているわたしを見て、からかうように手を差し出してきた。

「寒いなら手でも繋ぐか?」
「馬鹿なの? 繋がないよ、誰かに見られたらどうするの」
「へえ。見られなきゃいいんだ?」

 言葉尻を捉えられて、わたしは頬が熱くなった。確かにそうだよ、見られなかったら別にいいんじゃないかって思ったよ。よく聞いてるなあ、まったく。
 わたしは自分の気持ちを隠す。ちゃんと隠せているかどうかは不安。

「だめ。そういうのは、ちゃんと付き合ってる人たちがすることなの」
「じゃあ今から付き合う? 俺はずっと詩織を待ってるんだけどなぁ?」
「その髪、わたしが染めてあげようか。誰も文句言わないくらい真っ黒にしてあげるよ」

 わたしが瀧本くんを睨みながら言うと、瀧本くんは不意に真顔に変わった。その変化に心臓がどくんと脈打つ。瀧本くんから目が離せなくなる。

「詩織はどっちがいいと思う。黒に染めるのか、このままか」
「ええ? ううん、そうだね」

 もう少し冗談っぽく聞いてくれればわたしも答えやすいのに、どうしてそんな本気のトーンで聞いてくるのだろうか。わたしも真剣に答えざるを得ない。

 瀧本くんは、わたしが染めてほしいと言ったら染めるのだろうか。今のままの俺に惚れさせるとか、そういう自信満々な瀧本くんしかイメージにないから、わたしの言葉に従う彼は想像できない。もしかして、多少丸くなったのだろうか? 他人の意見を聞けるくらいに?

 わたしは瀧本くんの明るい茶色の髪を見る。最初は面食らったけれど、見慣れてしまえばどうということはない。でもそれは、彼の中身を知っているからであり、よく一緒にいるからだろう。何も知らない人が見たら、瀧本くんはどう見ても不良だ。こんなに中身は優しい人なのに、初対面ではその優しさを悟ってくれる人はまずいない。それはとても悲しいことだ。

「もう少し、暗い色でもいいんじゃないかな」
「暗い色?」
「うん。黒じゃないんだけど、もうちょっと暗い、ダークブラウンみたいな。校則に違反しないぎりぎりの茶色だったら、もっと瀧本くんに近づきやすくなりそう」

 わたしの提案に、瀧本くんは小さく頷いた。

「そのほうが詩織も俺と一緒にいるの楽か?」
「や、別に髪の色がどうでも変わらないけど。ただ、その色だと周りからは悪い人と思われちゃうからさ。それは、正直悲しいかなって思う。瀧本くんいい人なのに」

「詩織が何ともないなら別に染めなくていいんじゃねえの。周りの奴らが何をどう言おうが関係ねえだろ」
「まあ、家には呼びづらいよね。こんな不良と付き合うんじゃないって言われそう」

 わたしが深く考えずに言うと、瀧本くんは考え込んでしまった。お母さんはわたしが瀧本くんみたいな人と一緒にいることを知らない。こんな場面を見られたら、わたしが学校でどんな人と一緒にいるのか不安視されてしまいそうだ。わたしがうまく説明できれば良いのだけれど、その自信はない。瀧本くんも第一印象最悪からスタートすることになる。

 やがて瀧本くんは小さくため息を吐き、わたしのほうを見た。

「それはまずいな。このままだと詩織の家に挨拶に行けねえってことだろ」
「挨拶が要るのかどうかはわかんないけどね。でも、家に来るなら染めてほしいな」
「わかった。染める」
「は? ええ、染めるの? ほんとに?」

 あまりに突然の心変わりに、わたしは驚いてしまった。瀧本くんはスマートフォンを手にして操作している。画面を覗き見たら、美容院の予約状況を見ているようだった。

「この先考えたら、詩織の家に行けねえのはまずいだろ。いつでも行けるような状態にしておかねえと、何があるかわかんねえからな」
「何もないでしょ。ていうか、この先ってなに?」
「お前がいつか俺の彼女になったらいずれ挨拶に行くだろ。一人娘の彼氏なんてただでさえハードル高いんだから、見た目で損するわけにはいかねえ」

 俺の彼女になったら。その前提は揺るぎない事実のような言い草だった。どうして、そんな恥ずかしい未来予想を堂々と言うことができるのだろうか。聞いているこちらが恥ずかしくなってしまう。しかも恋心を自覚してしまった手前、訂正しづらい。訂正してしまえば、自分からその未来を否定することになってしまいそうで、わたしは瀧本くんの肩を叩くだけにした。

「お、今日空いてんじゃん。今日行ってくるわ」
「そ、そんな無計画でいいの? お父さんに反発して染めたとか言ってなかった?」

「詩織がどう思うかのほうが大事だろ。お前の家に行ける色にするから安心してくれ。明日にでも彼氏ですって紹介してくれていいぞ」
「しないから。いきなり連れてきたらお母さんびっくりしちゃうでしょ」

「まあ、そうだな。彼氏がいるってところはちゃんと話しておかないとな」
「言っとくけど、瀧本くんはまだ彼氏じゃないんだからね。そこ間違えないでよ」
「はいはい。詩織はいつ彼氏にしてくれるんですかねぇ」

 喋りながら歩いているうちに学校から少し離れてきたからか、瀧本くんは自然な動作でわたしの手を取った。冷たい空気に冷やされたわたしの手に、瀧本くんの手の温もりがじんと伝わってくる。指を絡められると離したくなくなってしまう。それは、きっと、寒いから。

「ちょっと。手繋ぐのはだめって言ったでしょ」
「厳しいな。今いけそうな雰囲気だったと思ったのに」
「いけそうな雰囲気とかないから。いつでもいけないから」

 わたしの抵抗は口だけだ。手を振り払うことはできない。繋がれた手が嬉しくて、愛しくて、ずっと握っていたくなる。この温もりを離したくない。そんな気持ちが、わたしの理性を鎖のように縛り付ける。彼女でもないのにこんなことをしてはいけないという道徳観を心の奥深くに沈めてしまう。

 良いじゃないか。瀧本くんが勝手に手を繋いできた。わたしは従っているだけ。

 それは悪魔の囁きだ。自分の気持ちを隠して、瀧本くんの積極性に甘えている。わたしは何も悪くないんだと、自分で自分を正当化している。

 瀧本くんもきっとそれがわかっている。たぶん、わたしの気持ちにも気づいている。わたしが敗北を宣言するのをじっと待っているのだ。わたしが早く負けを認めるように、こうやって触れてきて揺さぶっているのだ。それで実際に揺さぶられているのが悔しい。

「詩織の手、冷てえな。手袋とかしたほうがいいんじゃねえの」
「手袋は」

 手袋なんてしたら瀧本くんと手を繋げないでしょ。口から出ていきそうになった言葉を寸前で飲み込む。不自然なところで言葉を切ったから、瀧本くんが不思議そうな顔でわたしを見ている。わたしはふぅっと息を吐いて、強引に話題を変えた。

「あ、そうだ。瀧本くんにプレゼント」
「は? ああ、なんかあんの?」

 話題を切り替えられたことを疑問に思いながらも、瀧本くんはわたしの話の先を促す。
 わたしは空いている手で持っていた紙袋を瀧本くんの前に掲げた。瀧本くんが紙袋を受け取る。中身が何なのかは予想できていないようだった。

「なんだよこれ。何のプレゼント?」
「マフラー。あげるって約束してたでしょ」
「あれ本気だったのか? くれるにしても、クリスマスかと思ってた」
「寒いから早いほうがいいかと思って。ちゃんと毛じゃない素材のやつ選んだよ」
「さんきゅー。開けてもいいか?」

 瀧本くんは嬉々とした様子で紙袋を見ている。そんなに喜んでもらえるとは思わなかった。

「家で開けて。恥ずかしいから」
「なんでだよ。もしかしてラブレターでも入ってるのか?」
「入ってない。入ってるならもっとちゃんと渡すよ」

 渡す時に告白しろと言っていた悠夏の言葉を思い出す。そんなことが言えるなら、わたしはきっとこんなに困っていない。教科書を貸すように、何でもない物のように渡すだけで精一杯だ。男子にプレゼントを贈るということさえ初めてなのだから。

 瀧本くんはまだ嬉しそうに頬を緩めたまま、紙袋を空いた手に持つ。わたしがあげた物を瀧本くんが持っているというだけで、なんだか照れてしまう。

「マフラーのお返しに何か渡したいんだが、何がいい?」
「別に。それも、お礼だから。いろいろ助けてもらったお礼だって言ったでしょ」
「そうはいかねえだろ。お揃いのネックレスとか指輪でも買うか?」

 お揃いのアクセサリには心惹かれるものがある。けれど、彼女でもないのにそんな物を着けるなんてどうかしている。そういうのはちゃんと結ばれてからだ。わたしはまだ、瀧本くんにこの想いを告げる自信はない。

「校則違反でしょ。わたしは生活指導の先生に睨まれたくない」
「大学入るまで我慢か。まあ、仕方ねえな」

 瀧本くんは残念そうに言う。わたしは自分の気持ちを落ち着けるために冷たい空気を肺に送り込む。どうして、未来のことをそう簡単に言うのかなあ。

「休みの日ならいいんじゃねえの。シンプルなネックレスなら大丈夫だろ」
「お揃いの物は付き合ってから、ね。まだ彼女じゃないから。そこ忘れないで」
「まだ、ね。はいはい、わかりましたよ」

 瀧本くんは繋いだ手を優しく握ってくる。付き合っていないならこれは何なのだと訴えられているような気がする。わたしは瀧本くんから目を逸らして、何にも気づかないふりをする。

 住宅街に入り、ようやく人通りが少なくなる。あんなに人がいるところで手を繋いでいたけれど、誰にも見られていないだろうか。自分の欲望に負けすぎて、人目を憚るのを疎かにしてしまっていた。学校の誰かに見られていたらどうしようと、今更ながら不安になる。

 わたしが瀧本くんのほうを見ると、瀧本くんと目が合った。瀧本くんはわたしを見つめていたようだった。

「詩織」
「な、なに? なんか、怖いんだけど」
「今度、家に来ないか」
「家? 瀧本くんの?」
「そ。俺の家。大丈夫だ、母さんは家にいるから」

 瀧本くんは二人きりではないということを強調する。まあ、二人きりでも、瀧本くんはわたしが嫌がったら何もしてこないだろうし、むしろ二人きりのほうが緊張しないかもしれない。お母さんに会うというほうが緊張感がある。

「母さんに紹介したいんだ。俺にもまともな友達がいるんだって」

 瀧本くんとお父さんの喧嘩に巻き込まれているお母さん。息子が不良の道を選んでしまって、ショックを受けていたと言っていた。瀧本くんなりにお母さんのことを考えているのだろう。自分が悪い人間とばかり付き合っているのではないと証明して、お母さんを安心させたいのかもしれない。確かに、わたしならその辺にいる女子高生なのだから、不良ではない人間だと思ってもらえることだろう。

 そうだ。瀧本くんのためだ。わたしが彼の家に行きたいんじゃない。何かを狙っているわけじゃない。これは、友達として、瀧本くんのお願いを聞いただけだ。

「いいよ。いつにする?」
「また連絡する。一応、母さんにも一声かけておきてえからな」
「そう。いつでもいいよ。瀧本くんの都合がいい時で」
「助かるよ。詩織だったら母さんも安心するだろうし」

 瀧本くんは安堵した表情を見せる。こんな見た目だけれど、瀧本くんはきっと親思いなのだ。お父さんとは上手くいっていないにしても、それでお母さんにまで反発することはない。そこはきっと区別しているのだろう。

 瀧本くんの家か。男の子の部屋ってどういう感じなんだろう。瀧本くんだから、結構散らかっていてもおかしくない。わたしが来るから片付けるのだろうか。ありのままを見たい気持ちはある。男の子の部屋にあるという、エッチな本とかは瀧本くんの部屋にもあるのだろうか。漁ったら怒りそうだなあ。でも、漁ってみたいなあ。

「何にやにやしてんだよ。俺の部屋に行けることがそんなに嬉しいか?」
「瀧本くんのプライベートって謎だったから。どんなお部屋なのかと思って」
「普通だぞ、帰って寝るだけの部屋だしな。ああ、ベッドはでかいかもしれない」
「そうなの? シングルじゃないんだ?」
「まあな。だから、詩織が泊まるってなっても大丈夫」

 泊まる? わたしが、瀧本くんの部屋に?

 わたしが耳まで赤くなって睨みつけると、瀧本くんはへらっと笑っていた。

「いっそお泊まりにするか? 俺は全然構わねえ」
「大問題でしょ。いきなり女の子が来たらお母さんだって困っちゃうよ」
「どうかねえ。試してみてもいいけど」
「だめ。うちのお母さんだって許さないよ、男の子の家に泊まるなんて言ったら」
「そこはほら、友達の家に泊まるって言えば嘘にならねえだろ。まだ友達なんだから、まだ」
「うるさい」

 わたしは瀧本くんの肩をグーで殴った。友達という関係性を悪用している。まだの部分を強調するのはやめてほしい。わたしの恋心が膨れ上がりそうになる。
 瀧本くんは楽しそうに笑いながら、その切れ長の瞳でわたしを見つめてくる。

「お泊まりはもう少し先か。詩織が俺に惚れたら、だな」
「そう。何事にも順序があるでしょ。彼女でもない子にお泊まりとか言っちゃだめ」
「詩織は固いなぁ。友達でも二人で旅行とかあるだろ? それもだめなのか?」
「よくないでしょ。間違いの元だよ」
「旅行ももう少し先、ね。お前いつ俺に惚れるの?」

 瀧本くんは冗談めいた口調で問いかけてくる。既に惚れているなんて言うことはできなくて、わたしはふいと顔を逸らして小声で答えた。

「さあ。瀧本くんの努力が足りないんじゃないの」
「俺の努力が足りねえの? そうか、俺の努力の問題だったのか。なるほどねえ」

 瀧本くんの顔を見ることができず、わたしは無言を貫いた。顔を見たらこの恋心が暴走してしまいそうだ。まだ、この想いを明かす時じゃない。まだ、わたしは心の整理ができていない。

 わたしのマンションが見えてくる。いつもこの辺りで瀧本くんとはお別れだ。繋いだままの手を離すのは惜しいけれど、そうも言っていられない。また明日、瀧本くんと一緒に帰れることを祈ろう。きっと瀧本くんが連絡してくれるはずだ。
 瀧本くんが足を止める。今日もここでお別れということだ。わたしは手を繋いだまま、瀧本くんを見上げる。

「じゃ、また明日な。朝ここで待ってるから」
「え? いいよ、待つならエントランス入っててよ、寒いでしょ」
「なんだ、朝待つのはいいのか。じゃあエントランスで待ってるわ」
「なんかすごく引っかけられた気分なんだけど?」
「いやあ、朝も一緒に行けるとはなあ。努力する時間が増えて嬉しい限りだ」

 瀧本くんはにやにや笑って、わたしの手を離した。寒風がわたしの指の間を抜けて、喪失感を抱かせる。わたしはそれを感じないために、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ。

 朝から瀧本くんと一緒か。それは、嬉しいけれど、大丈夫なのだろうか。あらぬ勘違いを加速させてしまうのではないだろうか。まあ、今そんなことを言っても、一緒に帰っている時点で何も変わらないか。朝も一緒に来たんだなくらいにしか思われないだろう。

 わたしは自分への言い訳を終えて、瀧本くんに手を振って別れを告げようとする。
けれど、瀧本くんはわたしを抱き締めてきた。わたしは瀧本くんにされるがまま、瀧本くんの胸に顔を埋める。瀧本くんの良い匂いがする。

「マフラー、ありがとな。また明日」
「ん。またね」

 わたしは顔を上げる。瀧本くんの整った顔をじっと見つめてしまう。離れたくないという思いが伝わらないように祈りながら、伝わってほしいとも思ってしまう。矛盾した気持ちがわたしの喉で戦って、どちらも外に出ていくことができない。

 瀧本くんはやわらかく笑った。わたしの大好きな表情。どくん、と心臓が脈打つ。

「なんだよ。俺に努力する時間をくれんの?」
「なんでもない。じゃあね」
「そうかよ。じゃあ、また明日な」

 そう言って、瀧本くんはわたしと唇を重ねた。心のどこかで待ち望んでいた感触に、わたしの心が沸く。息が続く限り、瀧本くんと口づけを続けたくて堪らない。優しいキスに頭が蕩けていきそうになる。わたしはもう、瀧本くんから離れたくなくなる。行かないでほしいと言わんばかりに、瀧本くんのブレザーの裾を掴んでしまう。

 体感としてはほんの一瞬にも思えたキスだった。瀧本くんの唇が離れていくと、わたしはまた追いかけるように見つめてしまう。瀧本くんは優しく微笑んだ。

「また、明日な」

 瀧本くんの指がわたしの唇に触れる。わたしはきっと物欲しそうにしていたのだ。自分が恥ずかしくなって、わたしは頬を赤くして俯いた。

 瀧本くんの抱擁も解かれて、いよいよわたしは今日の別れを実感する。寂しさを隠すように微笑みを張り付けて、わたしは瀧本くんに軽く手を振った。

「じゃあね」
「おう。髪染めてくるわ」
「うん。明日楽しみにしてる」

 瀧本くんもひらひらと手を振って、来た道を戻っていく。わたしは瀧本くんの姿が見えなくなるまで見送っていた。それくらい、別れるのが惜しかったのだ。

 どうしよう。もう、自分を誤魔化しているのが辛い。自分に正直になってしまいたい。

 でも、それは許されないのだ。傷つくのは自分だ。

 今のままの関係が、いちばん心地良いのだ。何も見られることはないのだから。
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