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8 ~術師と術師 《第一部終話》
しおりを挟むすべては[百鬼律]に書かれている。
阿愁を斬ろうとしている鬼は、『女人をさらう、または女人のもとへ通いこれを淫しもてあそぶ』と。そして『とり憑き、理性と記憶と抵抗力を失わせる』。
濮陽と歐冶の一対の武器が鬼に渡った経緯については曖昧である。剣仙から奪った、剣仙から与えられた、剣仙から教えられて自らつくったなど様々であり、いずれにしろ、仙人がかかわっているのであれば鬼の愛用する剣は厄介な代物であった。
研ぎ澄まされた白刃に、一歩も引かない阿愁の姿が映る。
二者の距離が縮まるにつれ刃に映った像は大きくなり、――そのとき。
「袁洪ッ!」
叫んだのは阿愁。
袁洪、それがこの鬼の名字である。
まるで呼ぶ声が支配力となったように、袁洪の動きが不自然に停止する。名字が拘束の鎖となり、つながれたかのようであった。
事実、召鬼法執行者の声は呪縛となり、名字を呼ぶことで鬼を拘束する。
「あんたが暴力をふるうから。順番が逆になっちゃったけど、あたし、あんたの名字を知ってるのよね」
「ちッ」
袁洪が舌打ちした。阿愁は予想外だというふうに鼻の頭にシワを寄せる。
「拘束されてるのに。あんた、しゃべれるの」
「だったらなに? てか、ホントに人かよ。化け物じゃん。ありえねーんだけど」
「今なんて言った?」
「は?」
「今なんて言った?」
「…………。ホントに人かよ。化け物じゃん。……です」
二口の大剣を振り上げたまま踏みこんだ体勢で固まっている袁洪が、ボソボソと返事をする。抗えないくせにカラ威張り、完全な負け惜しみである。
この鬼は人の形に変じているが、人ではない。正体は、大猿が化けた妖怪。
美丈夫に変ずるというしゃらくさいまねをする。世の女人の敵である。
「さあて、どうしようかな」
「は? なにが? ……です」
「碧水獣のごはんにしちゃおっかな」
嬉しいとばかりにグゥオと応える碧水獣。今の今まで碧水獣は、袁洪の片足にかじりついていた。虎の鬼はしつこいのだ。
「ね、今夜は働いてお腹空いたよね。碧水獣」
「こんなちっこい虎がオレを食うわけないだろ――て、ゲ」
阿愁に名字を呼ばれた碧水獣の体が大きくなっていく。木道からはみ出てしまった四肢は、池の中に突っこまれていた。
一般的な虎の三倍ほどにまでなった碧水獣にがばりと口を開けられて、強気に押しまくる袁洪も呻いた。上顎の二本の牙からは空腹を主張するように涎が垂れていて、袁洪は動揺を隠せなくなったらしい。
「マジか。こいつ、ひょっとして鬼を食う?」
「正解です」
「あーわかったわかりました反省しました降参しますもうしません助けてください」
「えー」
「えーじゃないって。ほらもうオレの頭がばっといかれちゃってるじゃん。助けてって」
袁洪は名字によって拘束されているので動けない。名剣という武器を手にしているのに、まさに宝の持ちぐされ。振りかぶったままの状態で碧水獣にされるがままだ。
「わかった。助ける」
これは阿愁ではない。袁洪が言ったのだ。
「助ける? 助けてくださいでしょ」
「ちがっ。……姐サンに呼ばれたら、必ず助ける。これからずっと」
「ずっと?」
むむっ、と阿愁は考えをまとめるために目を伏せる。
(この鬼、武に秀でているし。意表を衝いて賢いのよね)
姐サンと呼ばれたのが気になるが、お嬢さんよりはマシだから今はおいておく。
正直に言えば阿愁は常日頃から、武に長けた鬼がいたら便利なのにと思っていた。手許にいるにはいるのだが、その鬼は諸事情あって貸し出してしまっている。自分のもとにとどまってはいないのだ。危機迫ったときに自由に呼びだせないのが難点であった。
碧水獣だけでも充分ではあるが、人の形をとれる鬼はなにかと役に立つ。
(使えるか)
わりと簡単に決めて阿愁は頷いた。
「いいわよ」
「ありがと姐サン」
「そのかわり。約束を違えたら」
「たら?」
「陰間の果ての果てまで碧水獣に追いかけさせるから。絶対に逃げられないからね」
「う」
憶えておきますと袁洪は、しおしおと項垂れた。
契約成立と同時に、袁洪の拘束が解ける。しゅんと空を切るような音がして袁洪の両手から剣が消えたのもそのときだった。
(よし、やっと帰れる)
一件落着とあくびをかみころし、碧水獣を小型に戻したところで。
「待ちなさい美丈夫っ!」
二者の背後から怒鳴り声がぶつけられた。
見れば、裾をたくし上げた妓女が一人、回廊から飛び降りてこちらへと走ってくる。
「食い逃げなんて許さないわっ」
叫ぶ妓女は肩に筝を担いでいる。もしかして筝で美丈夫を殴るつもりか? 商売道具だろうに。なんとも勇敢な妓女である。
「ちょっと洪、藍生楼でも飲み食いしたの?」
急いで袁洪に問えば。
「てへ」
笑われた。
「笑ってる場合ですかっ」
阿愁はムカッときて、袁洪の頭をはたく。
「へらへらすんな。高級妓楼の一晩の相場っていくらなのっ? 銭、払えないのにー」
銭の手持ちがないという意味ではなく、魏書店は財政難であるから払えない。
一難去ってまた一難。
他人のフリをすればいいだけなのに、手許におくと決めたのだから鬼であっても身内、突き放せない。それも阿愁なのだ。こんなところは人並みを上回って真面目であった。
阿愁は頭を抱えたくなった。どうするか、一目散に駆けてくる妓女を見つめながら、
(ん? あれ? どこかで……)
妓女も阿愁を見ていた。というよりも、小脇に抱えている白い仔虎を見ていた。人物を特定するためにこれ以上のモノはないといわんばかりにじっと見ていた。
「也恭!」
「阿愁」
阿愁と妓女の声が重なって白み始めた空に吸いこまれていく。
妖艶な妓女は妓女ではなく、正確には女でもない。
女装術を駆使している兄がそこにいた。
そして。奇しくも妹は男装中であった。
空に吸いこまれるように響いた声を、上空でさらう者がいた。
「これはまた、おもしろいところに居合わせたものだ」
呟きをこぼしたのは、弼戈いわく美貌の巫祝。その姿は誰にも見えない。
巫祝は仙術を駆使して藍生楼に入った。
風から風へと風脈を伝う風遁の術であり、身体と精神を清浄にして宇宙の気の流れと一体化しているので、常人では気配すら捉えられない。つまり、風に隠れて覗き見していた。
興味があったのだ、弼戈が上に報告していた『消える美丈夫』の話に。
ここのところ鬼にわずらわされていたので余計に気になったというのもある。遊里で語られている不思議話がどの程度のものか確かめに来ただけなのに。
南曲の藍生楼に目星をつけてやって来たのではない。小粋な女遊びに理解は示しても色を好むわけではなく、ちやほやされるのも好まない。先日接待されたのが藍生楼であり、何人か見知った妓女がいる。一度顔を合わせた男ならご機嫌とりも短縮できて効率的で妓女達の口も軽くなるだろうと、情報を仕入れるために入りこんだのだ。
(であるのに)
こんな偶然があるものなのか。
巫祝の薄い口唇が笑みを形づくった。
《次回 裏返る壺》
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