術師たちの沈黙

碧井永

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9 ~裏返る壺

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 寅の刻午前3時に降りだした雨は二刻ほどでやんでしまった。
 やんだ後の朝の空気は一変していた。暑さが増し、空の青さが目に眩しい。
 ひと月半続いた雨期の、最後の雨だったのだろう。雨期が明けたのだ。
 雨がやんだのを見計らって買い物に出かけた阿愁あしゅうは、西市を歩いていた。
 東西の市の中は道が井字形につくられている。これが【市井しせい】の言葉の由来になったともいわれていた。並ぶ店舗の数は、数万。市の中心部には中央行政機関太府寺に属する市署ししょがおかれていて、市内で営業する商人や職人の監視と管理を行っている。
 あくびした阿愁はひとつ伸びをした。
(あー眠い)
 昨夜は一睡もしていない。なんでこんなことに――と、夜との境を曖昧にしたままの出来事を思い出しているうちに、耳が子供の甲高い声を拾った。
 響いてくる声の出所を探せば、石橋の下、砂利の多い小川の川縁で兄と妹らしき二人がなにやら言い争っている。歳は十歳前後だろうか。子供が好きではない阿愁だが、聞くともなしに会話を聞いてしまう。たぶん、なけなしの思い出に浸っていたせいだ。
(兄と妹という)
 自分の境遇に重ねてしまったのだろう。
 兄の也恭やきょうは二十歳になった頃からあまり家に帰ってこなくなった。ちょうどその頃からだったと阿愁は記憶しているが、『兄さんと呼ぶな』と言いだした。『也恭と呼べ』と。
 名呼びにどれほどの価値があるのか不明だが、逆らえば面倒なコトになる。
(どうせ女絡みだろうし)
 手のかかる妹がいると知られればモテなくなるとでも思ったのだろう。
(知らないって本当に幸せだ)
 男の姿の也恭はよく、女人じょせいから秋波を送られている。
(女装術で完璧にバケるとも知らないで)
 無害そうな顔つきの柔弱な男は、妙齢の女人の脳内では優しい男と変換されるのだろうか。しかし騙されてはイケナイ。也恭は肉食男子である。
(あの孔雀男、そろそろどうにかしないと)
 孔雀男とは、博識で有能で自分をひけらかす男のこと。
(也恭の場合、ほかの意味もくっついてくるけどね)
 幼い兄妹の会話は続いている。どうやら一つの壺を奪いあっているらしい。
「ん?」
 そこで。
 阿愁が思わず前髪を払うほどの出来事が起きた。よく見えるように距離を縮めたくて橋の欄干から身をのりだす。見間違いではない。
 兄妹で取りあっていた壺が〝裏返った〟のだ。
 だけでなく、素焼きの壺は布のようにヒラヒラしている。
(うそ、なんでこんな街なかに)
 間違いなく、壺のである。
 どうするか迷ったのはわずかのことだった。
 普段なら、目立ちたくない阿愁は放っておく。助けない。けれどこのときは、也恭のことを考えていたからだろうか。身体からだが動いてしまっていた、目立ってはいけないのに。
 夜の闇にまぎれて動くならともかく、今は陽のあたる時刻。しかも人前で、誰が見ているかわからないのに身体は止まらない。橋から下りて、吸い寄せられるように兄と妹のもとまで走る。
 頭の片隅で何者かが『やめておけ』と忠告していても。
「どうしたの?」
 息を弾ませながら話しかければ、謎の大人の登場に面喰っていた二人のうち、兄が先に立ちなおった。
(おお、さすがはお兄ちゃん)
 妹の前では情けない姿をさらしはしない。世の兄の手本のようである。素晴らしい。なんだかんだで仲のよさそうな兄妹に視線を合わせるため、阿愁はしゃがみ込んだ。
「こいつが砂利の中から石を拾ったんだ」
 兄が応じれば、妹は違うと頬をふくらませて、
「きれいな石」
「うるさいなもう、わかったよきれいな石を拾って、それで誰かに盗られないように入れ物が欲しいってゴネるもんだから、ちょうど流れてきた壺を見つけたんで俺が川に入ってとってきたんだけど」
 話に頷きながら阿愁は思う。
『ちょうど流れてきた』なんて都合のいいことがあるわけはなく、壺の鬼は小川の中で流れのままに浮き沈みしながら、人にとり憑く機会をうかがっていただけのこと。『見つけた』のが運の尽きであり、兄と妹はすでに鬼に憑かれている。
「で、どうしたの?」
「きれいな石を壺に入れたんだけど、今度は取り出せなくなったんだ」
 妹の手でヒラヒラ揺れているのは、どう見ても布だった。現場を目撃していなければ、この布がもとは素焼きの壺だなんて絶対に思わない。
 人は、己の目で見たものしか信じられないものだ。
 人は怪しいものを目にした瞬間、己の精神状態を疑ったりしない。怪しき存在に対して見間違いだろうかと思うことはあっても、自分の頭がおかしくなったとは思わない。
 ましてや二人は子供、素直に眼前の光景を受け入れてしまう。
 兄と妹は形を変えた怪しいものを自分の目で見てしまったのだから。
「石を壺に入れたのに、石を出そうと手を突っ込んだら布になっちゃったのね」
「「うん」」
 つたない説明を大人が理解してくれたのが嬉しいのか、二人は声をそろえて頷いた。
 阿愁も、わかっているからねという含みをこめて頷き返す。
 兄が川で拾った鬼は、成人男子が小脇に抱えられる程度の大きさだ。見た目は飾り気のない素焼きの壺で、中に貯えた物を取り出そうと手を突っ込むと、手を出したと同時に壺が裏返ってしまう。まるで、布袋を裏返すように。そしてそれは、まんま布になるのだ。
 当然、中身は取り出せない。
 長時間経過すると中身は消失してしまう。でも、今なら。
「じゃあ、おねえちゃんが取ってあげる」
 すると二人は目玉が落ちそうなほど目を大きく見開いた。
「ムリだよ」
「うん、ムリだよ。石、取れなかったもん」
 兄と妹がかわるがわる言う。
「大丈夫だから。任せて」
 布になった鬼は少し間をおけば壺の姿に戻る。それを待って、阿愁は手を突っ込んだ。
 これは物精に分類される鬼で、名字を『水鬼壺すいきこ』という。
「中身をもらうわよ水鬼壺」
 言いながら手をぐいっと引き出せば、壺は壺のまま。布にはならなかった。
 兄妹の顔の高さに合わせ、阿愁は握っていたてのひらを広げる。
 壺に入っていたのは、ガラスでつくられた藍色の小さな石が一つ。洒落た円錐形をしているから、貴族が使う碁石だろう。庶人の子には珍しい品かもしれない。
 街東に暮らす貴族が西市まで出向いた際に落としたのだろうが、落とし物は拾った者に権利がある。はず。と、阿愁は手前勝手に解釈し、
「はい、どうぞ」
「「うわあ」」
 またも兄妹の声がそろった。喜んで顔を見合わせている。
「ねえ、おねえちゃん。なんで? なんで取れたの?」
 兄が興味津々に訊いてくる。
「ふふー、内緒です」
「ええっ」
「ねえ、おねえちゃん。その壺、どうするの?」
 今度は妹だった。兄の口マネをしたのかもしれないが、いいトコロを衝いている。
(うーん、どうしよっかな)
 壺を抱えて阿愁は立ち上がった。その短い間に決断する。
「川で拾ったんだから、川に戻そう」
 兄妹の同意を得ないまま、阿愁は壺の鬼を川に流してしまう。
 壺はどんぶらこと流れていった。
(山水にむ鬼だもの)
 水鬼壺は、壺でありながら川に棲む。地上にはあがらず、人家では滅多に遭遇しないというのが特徴の鬼で、そこがおもしろくもある。
 鬼は山、川、海を含む人々の生活領域に入り込み、確かに存在する。人とは相いれない存在であるから危険がないとは言いきれないが、山海に生きる獣達と等しく、ある程度の鬼は放っておいてよいと阿愁は考えていた。
「わあ、流れていっちゃったね」
「うん、いっちゃったね」
 兄と妹が小川を眺めて名残惜しそうに呟いている。
 怪しい存在に遭遇したのに、恐怖体験として記憶に刻まれてはいないようだ。あまり口外してほしくない出来事ではあるが、子供のこと。ヘンに口止めすれば、不思議話を自慢したい気持ちも湧いて逆に言いふらしてしまうかもしれない。
 ここは沈黙するに限る。
 助けてしまったわずかな後悔も一緒に流してしまおうと、阿愁は川を見つめていた。





《次回 因縁の始まり》




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