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10 ~因縁の始まり
しおりを挟む魏書店の二階には、阿愁と也恭の寝起きしている室がある。
朝イチで出かけていた阿愁が戻ってみると。
なんと! 室の中がぐちゃぐちゃに荒らされていた。
さもありなん。
野郎二人が互いの胸ぐらをつかんで取っ組み合いのケンカをしている。
「ちょ、ちょっ」
阿愁の、どうした野郎共という呆れた呟きは届いていない。というか、阿愁が帰ってきたことにも気づいていない。阿愁は久しぶりのことで忘れかけていた、怒りの感覚を思い出した。深く息を吸う。
「也恭! 袁洪!」
怒り心頭で声を張れば、狭い室の中でドタンバタン暴れていた野郎共の動きが止まる。
おかげさまというべきか、裏返る壺にかかわった記憶はすっかり消えていた。
「ちょっとそこに座れっ」
ちーんという音が聞こえてきそうなほど野郎二人は縮こまって正座している。
「で、なんでケンカしてたのよ?」
なぜ人は断固たる意思表示をするとき腕を組んでしまうのだろう。
立ったまま腕組みしている阿愁は威圧的に問い質す。
「姐サンの兄サンだから『兄サン』て呼んだのに。『旦那サン』て呼べってしつこいから」
まずは袁洪が答えた。
「『旦那さん』と呼べって言ってんのに、『兄さん兄さん』しつこいから」
今度は也恭が答える。
(あーなるほど)
これだけで状況を理解してしまう、自分がイヤになる阿愁である。
「あのね、洪。也恭は呼び方にうるさいの。『旦那さん』て呼べと言ったら譲らないから今後は面倒でも希望どおりに呼んであげ――て、ん? 『旦那さん』? なんで旦那さん?」
阿愁は、也恭に訊いた。
也恭はバカですかという目で、阿愁を見上げている。
「旦那さん、合ってるだろ。俺は魏書店の旦那さんなんだから」
「うー、そうねうん」
言いくるめられたような奇妙な感じを覚えながら、阿愁は座榻〈低い腰かけ〉を引っ張ってきて腰をおろす。寝台には布団が敷いてあったはずだが、取っ組み合いのケンカのせいで布団は吹っ飛んでいた。
「也恭は怪我人なんだから寝てろって言ったのに。洪には見張っとけって言ったでしょ」
脇腹を怪我している也恭は夜着姿である。
目を離せばトンズラしてしまうので、薬を買いにいっている間、袁洪を見張りにおいていったのだ。まさか人と鬼が子供のようにケンカしているとは予想外である。
野郎共は正座している足がしびれてきたらしい。仕方ないので許してやることにした。阿愁が布団を引き寄せれば、也恭は寝台の上に移動して片あぐらをかいている。
「にしても。珍しいわね、也恭がしくじるなんて」
也恭の左脇腹には大きな青あざがあった。見ているだけで痛々しく、肋骨が折れているんじゃないかと心配になったほどだ。大丈夫だと言われても也恭の『大丈夫』は経験上アテにならず、慌てた阿愁は朝イチで塗り薬を買いに出たのだった。
「俺がしくじったんじゃない」
心底不愉快そうに也恭が反論する。
どれだけ否定しようとも、男をタラしこんで騙しているときに負傷したのだから『しくじった』のだ。妓楼にいたのは身を隠すためで、ついでに傷が癒えるまでは小銭を稼ごうと、妓女として臨時雇いしてもらったのだという。
転んでもタダでは起きない男、それが也恭である。
「妓女ねえ。也恭が筝を弾けるなんて初耳」
「妓女じゃない。芸妓だ。今度筝を聞かせてやろう。俺の奏でる音色は見事で、『音韻が珠玉のように輝いて、まさに玉響の如し。谷を吹き抜ける松風のように清婉な響きで、聴いていて、身体が天空を翔けるような心地』と評されているんだからな」
ちょっとなにを言っているのかわからない、というふうに阿愁が目を眇めれば。
感情を読んだのか隣に座る袁洪が、
「要は爽快ってことじゃねーの」
とこっそり耳打ちしてくれた。さすがは妓楼で遊び回っていただけのことはある。
「筝だけじゃない。俺は笛もいける」
惜しみなく己の才をひけらかす。也恭はブレずに也恭だった。
(多芸多才なのは知ってたけど)
才能豊かな面に触れて驚かされるたび、いったいどこで学んだのだろうと、阿愁はいつも不思議だった。阿愁が読み書きと算学を習ったのも学堂ではなく、也恭からなのだ。庶人の出にしては知識を蓄えすぎている。なんにでも手をだして一通り学んでいる、という印象があった。
いつでも訊けるからという余裕があってこれまでは流してきたが。今日こそ訊いてみるかと阿愁が口を開きかけたとき、バサりと音がした。
也恭が胸元から扇子を引っ張り出して開いたのだ。
「どうしたのそれ?」
見覚えのない品だった。
扇面には、片端から中央へ向けて蘭と竹が描かれている。要から下げられているのは玉の飾りで見事なつくりだ。男から奪った扇子だろうが、それにしては形が小さい。
(そっか、也恭は女装術を駆使しているから)
也恭を女だと思いこんでいる男から贈られたとすれば、女物。
見せびらかして気が済んだのか、ドヤな顔の也恭は閉じた扇子で鼻先をトントンと叩いていた。自慢げな顔は子供っぽく、とても緋芭よりひとつ歳上とは思えない。実年齢よりはるかに若く見えるのだ、せいぜい二十代半ばといったところだろう。
「俺はよい仕事をした」
「よくない。ヘタを踏んでしくじったくせに。捕まったら終わりなのよ」
「だからしくじってない」
「じゃあその怪我はなにっ?」
こいつ全然わかってないなと阿愁は横っ面を張り倒したくなった。
これまで也恭が傷をつくることはなかったので考えが至らなかったのだが。
(不吉なこと、考えたくもないけれど)
もし、悪事をはたらいているときに怪我をしてそのまま身を隠し、万が一にも落命することがあれば。――今朝方、鈍色の空を眺めていて、ふと思いついたとき。
急に胸のあたりが凍えたような気がした。
(あたしは知らないまま)
女装術を秘密にしているから、誰にも也恭の居場所を尋ねられない。
(なら、あたしに知らせがくるのはいつ?)
唯一の家族を失う瞬間を、自分は知らないまま。そんな別れはつらすぎないだろうか。
(あたしは耐えられるだろうか)
こんな重苦しい気持ちになったのは初めてで阿愁はうろたえるしかできなかった。
空気までが灰色に濁ったように感じたほどだ。
「なんのために孔宣貸し出してると思ってんの。孔宣はどうしたのっ?」
沈む想いは怒りでごまかすしかない。それしか方法が浮かばない阿愁は、垂れたままの也恭の黒髪をむんずと引っぱった。
「いった、おい痛い。引っぱっても孔宣出ないって。や、今回孔宣は、いった」
兄と妹が連呼している『孔宣』というのは、孔雀の鬼の名字である。
いつも人の形をしている孔宣の妖術を、発紅という。この妖術は、体をゆすって放つ紅色の光の中に、人であろうが鬼であろうが物であろうが、なんでも取りこんでしまう。光に取りこんだブツは、再び体をゆすれば自由に取り出せた。
なんとも便利な、この妖術に目をつけたのが也恭である。
阿愁が孔宣を手許においたのは幼い頃、それも偶然の出来事だった。それから何年か経って、也恭が突然貸してくれと言いだしたのだ。なぜかと問えば。
『男から頂戴した財物を誰にも見つからないように隠しておけるだろ。で、頃合いをみて売っぱらう。俺達はそのもうけで暮らせばいいんだ。ついでに本も仕入れてきてやる』
だった。もう阿愁はなんと応えてよいかわからなくなった。
(それでも)
孔宣は人語を解する武に秀でた鬼だ。
運動オンチの也恭の世話役にはちょうどよいかとも思いなおし、孔宣には也恭の言うことだけをきくようにとお願いして、軽い気持ちで貸し出してしまっていた。
「孔宣は護ってくれなかったのっ?」
也恭を優先するようにお願いしているので、阿愁が呼んでも孔宣は出現しない。
「なんとか言いなさいよっ。孔雀男のくせに孔雀を使いこなせないなんて情けないっ」
「なんとも言わせないのおまえだろ。ちょい落ち着け。あれが常識はずれすぎるんだよ」
ハゲたら責任とれよと自分の髪を奪い返しながら、也恭が吐き捨てるように言った。
「あれ?」
「巫祝だよ。国都城内に巫祝が滞在してるんだ」
「巫祝って方術を駆使するっていう?」
「それな」
そこで也恭は沈黙し、しばらく立てた膝に顎をのせて考えこんでいる様子だったが。
「おまえも充分に用心しろ」
「は? なんであたし? いつも用心してるけど」
「そっちじゃない」
「そっちじゃないならどっち?」
「左眼のことじゃないし、放置遊戯のことでもないぞ」
「放置遊戯って?」
「おまえ、鬼を放っておけないだろ。遊び心というか、ま、そういうとこ」
「鬼とのかかわりには注意してるって。で、なんなのよ?」
問いつめられて真顔になる、也恭。なまじ若く見えるので、真面目な顔をされると子供が隠し事を白状するかのような緊迫感が漂う。つられて阿愁も何事かと緊張した。
「あれ、めちゃめちゃ美青年なんだ」
阿愁はぽかんと口を開けた。完全に理解するまで五拍、そして。
またかと思って、隣に座る袁洪をちらりと見やる。
美丈夫の次は、美青年。
(もはや【美】にとり憑かれているのではなかろうか)
「書聖の書も運ばれることだし」
也恭がぼそっと呟きをこぼしたが、【美】の呪いにかかっている阿愁は聞き逃した。
兄妹の間に隙間ができるような奇妙な間が空いて。
不意に也恭がガッと両の肩をつかんでくる。
「おまえ、転ぶなよ」
誰が美青年ごときに転ぶものかと、阿愁は心の中だけで文句をたれた。
二階に也恭を残し、阿愁と袁洪は階下の書店へ入った。
「なー姐サン。孔宣て、孔雀の鬼だよな」
疑問形なのか、微妙な言い方で袁洪が声をかけてくる。そこでふつりと言葉は途切れてしまった。鬼は己のことを語らない、だから黙ったのだろうと阿愁は察した。
(武に長けた鬼同士、因縁でもあるのかしらね)
手早く開店準備を終え、沈黙したままの袁洪をうかがいつつ阿愁は口を開く。
「洪もありがとう。お疲れさま、もういいわよ」
すると袁洪はぎょっとして立ちすくみ、なんとも表現しがたいフクザツな顔をした。
「なに?」
「いや……」
歯切れが悪い。
「なによ、訊きたいことがあるならどーぞ」
「じゃなくて。……『ありがとう』なんて言われたの初めてで」
「え」
とんでもない告白をされて、阿愁はまじまじと袁洪を見つめてしまった。
(能力の高い鬼だから見鬼師に使役されたことなかったのかしら)
無窮に流れる時の中、とり憑く以外で人との交わりがなかったのかもしれない。
「言葉ってあったかいんだな。胸がほわんとなって、ちっとびっくりしたつーか」
片手で項を押さえて袁洪が苦笑する。
「じゃあまた呼んでよ」
照れているのか、そっぽを向いて告げてから。袁洪はふっと姿を消した。
(人よりも鬼のほうが素直なんてね)
也恭と比べ、笑えるなと阿愁は思った。
それはそうと。
たかが女装術の小悪党に巫祝が出張ってくるとは。
(その巫祝ヒマか)
それだけこの国が平和なのだろうか。
《次回 怪盗はいなくなった》
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