6 / 8
第五章
しおりを挟む
第五章
第一景
紫翠が「ふがふが」と怒っている。
それを眺めて、緋逸は笑み崩れた。怒っている姿も普段となんらかわらず可愛い。
なにを怒っているのかとしばらく考え、ああ、と緋逸は納得する。昨晩、酒を飲みすぎた自覚はあった。それを紫翠に叱られているのだ。しっかり者の妻が、ダメな夫の朝帰りを叱っているようで……うん、悪くない。
これは夢か幻か、それとも男の願望がつくりだす情けない妄想か、むっつりと膨れる紫翠は小人ではなく、人並みの大きさになっている。白く、なめらかな肌。こちらを見下ろす、その桃のような頬に触れてみたいと伸ばしかけていた緋逸の手が、つと止まる。紫翠を、どこかで見たことがあるのだ。否、紫翠に似た、誰かを……。
「其方、俺とどこかで逢っていないか……?」
聞きようによっては陳腐な口説き文句が声になったかどうか――。
「痛ッ」
痛みに呻いた緋逸は、ぱかんと目を開けた。枕に顔を埋めたままの両眼に映ったのは、今まさに顔面に蹴りをいれようとする紫翠の姿。「うわ、待て」と頼む前に、紫翠の蹴りが鼻に決まった。
「いッ――つぅ、……これは何度目の蹴りだ? かなり顔が痛いんだが」
「王様が悪いのです!」
「俺が? もしかして、寝相が悪くて其方を潰しかけたのか?」
緋逸と紫翠は相も変わらず、同じ寝台で仲よく並んで寝ている。紫翠の年齢を知った時点で遠慮した緋逸は長椅子で寝ようとしたのだが。紫翠に「なぜですか?」と真顔で訊かれたことで、歳上の男として却ってひっこみがつかなくなったのだった。
「違います。何度呼んでも王様が起きないからです!」
「……うん? ああ、もう朝か。だからって紫翠、蹴って起こすことはないだろう。歳頃の娘が、夜着の裾が捲れるのも構わずに足を振り上げるなんてよくないだろうに」
「足の問題など今はどーでもいいのです! 時刻が問題なのです!!」
「時刻? ……ああ、朝餉か。腹が空いたのか」
「おお、空きましたけども」
「そうか、すまなかった」
空いたお腹を宥めるように下腹を撫でていた紫翠は、ハタと我に返る。
「いいえ、違うのです王様。王様は、なんたらいうお堂のお掃除当番なのでしょう? 毎朝の重要な日課だと言っていたではありませんか。でももう巳刻なのです、たいへんな朝寝坊をしてしまったのです!」
「言われてみれば室内は随分と明るいな」
「なにを呑気な!」
「なあ、紫翠。それで、そんなに怒っているのか?」
「当たり前です。これは遅刻です。仕事の遅刻はひとつの罪ですよ」
厳しいな、と苦笑しながら、緋逸はここでやっと寝台に身を起こした。行儀悪く片あぐらをかいて座る。
「あのな紫翠、カッカと立腹のところ悪いんだが。今日は休みなんだよ」
「あぐらをかいてないで早く支度をするのです――? 今、休みと言いましたか?」
「そう、朝廷の官は臘(ろう)日(じつ)の三日間、特別休暇を与えられるんだ。だから今日は朝議も行われない。というわけで、堂の掃除は少しくらい遅くなっても平気なんだよ」
「おっ、そうなのですか。知りませんでした」
「俺も悪かった。言うのを忘れていたんだ。冬至にも七日の休みがあったんだが、俺は行事なんかでバタバタしていて休めなくて。それもあってちょっと浮かれていてな、昨夜、ついつい酒を飲みすぎたから」
「浮かれる? なにか良いことでも?」
初の連休を紫翠とどうやって過ごそうか――と考えて浮かれていたとは、緋逸に言えるわけはない。それでも緋逸の顔は次第に笑み崩れていく。
「王様? まだ酔っているのですか?」
「酔っていない。まずは其方の空腹を満たさなくてはな。それから堂の掃除をして」
緋逸が本日のあれこれを楽しく想像していると、紫翠が小首を傾げた。
「お休みということは、外朝内は空っぽなのですか?」
「や、当番制で出仕している者もいるはずだ」
「では、お着物の片袖を脱いで派手に着崩している大将軍様もお休みですか?」
「派手なナリといえば、羲奎か? そういえば、浮かれていて羲奎が休みをとるのか訊いていなかったな。でもたぶん、休むだろう」
「ではでは、王様の護衛官はいないのでしょうか?」
「なんだ、俺が独りだと頼りないか? ちょっと腹が立つが……羲奎が休みのときは左右の将軍が当番制で俺にひっついてくるよ」
心底安心したように息を大きく吐き出す、紫翠。緋逸は、羲奎がいないことで紫翠との休日を満喫できると、ここでもウキウキに浮かれている。
「そうですか、大将軍様はお休みなのですね」
ところがどっこい、そうはならないのが世の常である。
「王様王様、大将軍様はいるではありませんか。よかったですね」
「よくなかったですね」
腰に提げた巾着袋の覗き窓からひょっこり顔を出して紫翠が言った。簡素な袍に着替えて鍬を担いだ緋逸は、やさぐれて返事をする。
「なにか言いましたか、王」
「なにも」
振り向きもせずに応じる緋逸にくっついてくるのは、羲奎。その後ろには、自他共に弓の名手であることを認める右将軍が、弓矢を背負って付いてきている。更にその後ろには、王の日々の言動を記録する修撰が、紙と筆を片手に歩いている。
「どうして修撰まで?」
「監修国史の命とのこと。以後年末まで休みなく傍に控えると回覧がありました」
「年末まで? 今日は休みのはずなのに、皆、妙に物々しいな」
「そうですか」
羲奎は素っ気なかった。それも仕方のないこと。今し方、緋逸と羲奎は「街に行く」「行かせない」で一悶着やらかしたばかりなのだ。堅苦しい紫霄宮を出て、紫翠と街でのんびり楽しもうと目算していた緋逸にしても、大幅に予定を狂わされて不満たらたらの状態だった。
そんなこんながあって、紫翠になにがしたいか尋ねてみると、
『紫霄宮の裏庭にある野菜園に行ってみたいのです』
とせがまれた。そこで緋逸は一計を案じ、庭でとった野菜で手づくりの夕餉を振る舞ってやろうと、鍬を担いで出かけてきたのだ。ここでも羲奎は「王がそのような」といい顔をしなかったが、緋逸は完全に無視をした。
「さ、着いた」
護衛たちと距離をとった緋逸は、土から伸びる野菜の陰になるように巾着袋ごと紫翠を降ろした。陶器製の箱に湯を入れて暖をとる湯(ゆ)湯(たん)婆(ぽ)の上に、紫翠を載せてやる。ここ数日は曇天が続き、辺りは冷気で満たされている。今日はわずかに風もあって、午を過ぎて間もない時刻であるにもかかわらず、上から伸しかかるような寒さを覚えた。
「寒くないか?」
「ないです。王様がもこもこと着せてくれたのですが故に。熱いくらいです」
「ハハ、まあ、あれだ、リスみたいに着膨れしているが。風邪をひいたらたいへんだからな、湯湯婆の上でのんびりしていろ」
「いえ。のんびりなどしていられないのです!」
「なんで?」
「食べるお野菜は私が選ぶのです。それを王様がせっせと掘り返すのがよろしい」
「はいはい」
ここは紫霄宮裏の禁苑であり、北側には泰山が聳えている。紅葉の季節を遠く過ぎた泰山には色がなく、ここでも視覚的に寒さを感じた。緋逸と紫翠がいるのは、王のための野菜園の一角で、足許には蕪、大根、白菜、葱などがすくすくと育っていた。
「さても問題は、今夜はなにをつくるか、だが」
紫翠にビシバシ指示を飛ばされ、緋逸は言われたとおりにせっせと野菜を掘り返す。もとより緋逸は武人としての心得があるので、王であっても泥にまみれることを厭う気持ちはない。野良仕事という庶民的なことに大きな幸せを感じる緋逸は夕餉の献立を組み立てながら、意外にも休暇を楽しんでいた。
「ふう。少し休憩させてくれるか」
立てた鍬の柄に手を置いて、緋逸は畑の真ん中で一休みする。かなりな労働に手巾で汗を拭いつつ、護衛のほうを見た。ちょうど羲奎は右将軍と離れて、風上のほうへ歩いていくところだった。
「王様はかわっていますね」
「そうか?」
「小娘の私があれこれ指示をしてお野菜を掘らされても、ムカッとしないのですか?」
「や、別になんとも」
「寒さ対策のために上着も縫ってくれました。ご飯も忘れずにちゃんと用意してくれます」
「どれも大したことじゃないだろう」
本来なら、もっと贅沢をさせてやれるのだ。これは緋逸の偽りなき本心だった。
湯湯婆の縁に座って足をぶらぶらさせている紫翠は、その返事を受けて少し首を伸ばした。二人の距離を近づけようとしたのかもしれない。紫翠はにっこりと笑った。
「王様、私は――」
紫翠がなにか言いかけた、その刹那。遠くから、ザッ、と音がした。地を震わすほどの激しい音は風上から。緋逸が素早くそちらを向けば、周辺の物が一斉に揺れている。突風が吹いたのだ。しかしその強さは尋常ではない。常緑樹の木々の葉が枝ごと折られて舞い上がり、小石や地上に置いてあった桶などと一緒に吹き飛ばされてくる。緋逸は咄嗟に紫翠の楯となったが、風のほうが速かった。両腕で顔を庇いつつ、紫翠を目で追う緋逸は異変に気づいた。
自分の周囲だけ、無風なのだ。周りはもの凄い勢いで風に巻かれているというのに。緋逸の周りには見えない障壁でもあるかのように、蒼白い雷光を散らして風が避けていく。
「なッ――これはいったい」
不思議に思い、腕を下ろしたとき。
「王様ッ」
紫翠の小さな叫びが耳をかすめた。見れば紫翠は突風に巻き上げられ、空へと攫われていく。このままでは、風がやんだとき紫翠は天から地へと真っ逆さまに落下することになる。地に叩きつけられたら最後、小人の紫翠などひとたまりもない! 紫翠を追う緋逸は戦慄して目を見開いた。その視界に、体力のない修撰が手にしていた紙をばら撒きながらよろよろと飛ばされていく姿を捉える。更にその前方にしかと捉えたのは、右将軍の姿。
「右将軍、俺のもとへ来いッ!」
叫んでも、異常な風の轟音に声がかき消されたのか。屈強な右将軍も風に吹き飛ばされないよう踏ん張るだけで精一杯らしい。「ちッ」と舌打ちした緋逸は右将軍のもとまで走り、その背から弓と矢を奪い取った。数拍も迷っている余裕はない。緋逸は飛ばされていく紫翠を狙って弓に矢をつがえる。強烈な風が却って紫翠の動きを封じ、身体を安定させていた。
「俺を信じろッ!」
一声叫んで弓弦を弾く。風下へ向かい的確に放たれた矢は風に乗り、はためく紫翠の上着の裾を貫いて近くの木の先端に突き刺さった。これで安堵している暇はなかった。邪魔とばかり弓を捨てた緋逸は木に駆け寄り、木の幹に矢ごとぶら下がったままの紫翠のもとへと登っていく。必死の想いで手を伸ばした。
「紫翠ッ、無事かッ」
「大丈夫です。ありがとうなのです、王……様」
「おいッ、紫翠ッ、目を開けろッ、どうした紫翠ッ」
緋逸の手の中で、それきり、小人の紫翠が目蓋を上げることはなかった。
遅れて乾清殿に着いた羲奎は、右将軍から事の次第を聞いていた。
「尋常ならざる風が吹きました。陛下は私の弓をとり、風下へ矢を放った様子。情けないことに私はその場に踏みとどまるのが精一杯で、状況を確認できず。申し訳ありません」
「いや、いい。それで王は?」
「矢を放った後、陛下は木に登られて。降りてすぐ、乾清殿へと駆けていかれました。風がやんですぐに私もあとを追いましたが、陛下の俊足にはかなわずに」
「それは仕方なかろうよ」
羲奎は溜め息を吐いた。王は優れた運動能力をもっている。天賦の才に加えて、六十年目を見越した幼き頃よりの鍛錬の賜物であろうが、武人としては一流の腕を誇るのだ。技は多少荒削りであっても、天性の勘はズバ抜けていた。
「私が乾清殿に着きましたときには、陛下は……その」
「なんだ?」
「……たいへん申し上げ難いことに……半狂乱の状態で。『医官を呼べ』『薬の手配を』と大声で怒鳴り散らすばかりで、全く要領を得ず。……日頃口数の少ない陛下があのように声を荒げる姿を初めて見ましたので、私も驚いてしまって」
「医官は来たのか?」
「先程出ていきました。捕まえて話を訊きましたが、『陛下はご無事です』と青ざめながら繰り返すばかりで。その他一切には震える口唇を閉ざしたままでした」
「ふむ」
そのまま王は私室にこもり、顔すら見せないという。廊下で話し込む羲奎たちの少し奥では、修撰がせっせと筆を紙に走らせている。自分も災難に遭ったばかりだというのに、なんとも逞しく勤勉な姿だった。それほど監修国史に脅されでもしているのだろうか?
羲奎は、王のいる私室の扉を無言で見つめている。
花開不同賞 花開くも同(とも)に賞(め)でず
花落不同悲 花落つるも同に悲しまず
欲問相思處 問わんと欲す 相思の処
花開花落時 花開き花落つるの時
「……『春になり花が咲きましたが、愛するあなたと一緒に賞でることもできず』……それは昔の名妓・薛濤(せつとう)の詠んだ詩ですね。私も大好きな詩なのです」
震える目蓋を上げながら紫翠が言った。寝台脇の椅子に座っていた緋逸は、ぐっと身を乗り出す。
「紫翠、目が覚めたのか!」
「愛する者に相(あい)逢(あ)うことのできぬもどかしさ、片時も胸裡(きょうり)を去らぬ恋心を表した秀逸な詩なのです。でも、なぜでしょう。王様が詠むと、私は死ぬような気がしてくるのです」
「あ、おい紫翠、起きるな。カラ笑いしている場合じゃない。其方は身体に強い衝撃を受けて意識を失っていたんだ。絶対安静だと医官が言っていた」
起き上がりかけていた紫翠に手を貸してやりながら、緋逸は小さな身体を横たえてやる。
小人の存在を他者に知られたくなかったが、ためらっている余裕はなかった。医官にはきつく口止めしておいたがうまくいったかどうか。それでも緋逸は、なにより紫翠の身を優先させた。
「助けてくれて、ありがとうなのです王様」
「もう礼は言ってもらった。それに俺も……女人の其方に向けて矢を放つなど、少々考えなしだったかもしれない。咄嗟にはそれしか思いつかなくて……すまない」
「いいのです。おかげでこうして私はここにいるのですが故に。それにしても、すごい風でした。怪風(かいふう)かと思ったのです」
「怪風? 鬼の類いか?」
「そうです。青みを帯びた紫色の旋風は、人の肌に小さな切り傷をつくりながら通り過ぎていく――と聞いたことがあるのです」
「先程のに色みはなかったが、怪風だろうか?」
わかりません、と力なく首を振る紫翠の顔はまだ、血の気が失われたまま。
「もういい紫翠、なにも考えずに休め」
紫翠の姿があまりに儚くて、思わず緋逸は手を差し延べていた。触れるだけで壊れてしまいそうで、そっと差し出した人差し指の先に、紫翠のか細い両手が添えられる。
「そんなに悲しそうな顔をしないでください。王様にはお世話になってばかりなのです。私もなにか、女らしく、ここらでドンッと恩返しをしなければなりません」
「女らしくって……あ、ならひとつ、頼みがある」
「私は身体が小さいので、それに見合った労働しか提供できませんけども」
「ハハ、労働はしなくていいよ。……俺の名を……呼んでくれないか?」
紫翠は惑うように細い顎を傾けた。
「王様の名は、愛する王后様であっても呼ばないもの、と聞いていました」
「らしいな。俺も別に、名を呼ぶ呼ばないはどうでもいいと思っていたんだが。其方には呼んでもらいたくなった。其方の声で、俺の名を。身分に関係なく其方の意思で」
しばらく紫翠は考える素振りをしていたが、笑って頷く。
「わかったのです。王様の名を教えてください」
「緋逸だ」
「なるほど、です」
「なるほど?」
「赤華という年号のことです。赤は緋、華は精華を意味するのではありませんか? きっと〝緋の真価〟という意味がこめられているのですよ。浪漫(ロマン)をかき立てる命名なのです」
そういえば、と緋逸も思い出す。年号については朝廷で揉めて定まらず、結局、俚韵と彪之と羲奎の三人が額を寄せ合い、意見を出し合って「赤華」に落ち着いたのだ。三人の共通の想いが年号にこめられているのだとしたら――緋逸は微笑した。
「そうかもしれないな」
「そうですよ。冬を越した朝廷には――春になれば、大輪の赤い花が咲くのです。だからなにも心配しなくてよいのです。貴方は我を貫けばよろしい。きっと貴方色の真価にたどり着くことができるでしょう。私は貴方こそが鼎国の君主に相応しいと信じます――」
――緋逸。
宝物のようにそっと、けれどしっかりと名を呼ばれて、緋逸の目の奥がじわと熱くなる。どんな賞讃にも増して、それは嬉しく。紫翠は微笑んだまま目を閉じて、そのまま眠ってしまった。
第二景
薄曇りの暗い空の下、まるで花束のように華やかな一団が歩いてくる。
後宮の外回廊の先にそれを見とめた嬋玉は、脇に寄って頭を垂れた。歩いてくる者たちの先頭にいるのは、次代の王后と目される瀛来羅。場合によっては、百花の王たる後宮の支配者ともなる女人である。嬋玉の家は下級貴族より余程財の貯えがあったが、王族の娘と一介の街娘では、身分に天と地ほどの差があった。ここは庶人の嬋玉が道を譲るのが道理。しかし嬋玉は、すれ違いざまに思い切って顔を上げた。
「お初に御目文字いたします。わたくし、名を嬋玉と申します」
何度か遠目に見かけたことはあったが、互いに対顔するのは初めてのこと。
突然に話しかけられた来羅は、数歩通り過ぎてから歩みを止めた。孔雀の羽根でつくられた羽扇で顔の半分を覆い、結い髪に挿された多くの簪と耳墜(みみかざり)を揺らして嬋玉を振り返る。その犬のようにぱっちりとした丸い目許には不快さが滲んでいた。
「ごきげんよう。貴女は確か、玄家の娘でしたわね」
明らかに妓楼の娘であることを馬鹿にしていた。実際のところ、女を売る商売は胸を張れたものではない。こうして二人並んでみても、その身分の違いはくっきりと現れている。
嬋玉は後宮に来て与えられた侍女を一人連れているだけだが、来羅は実家から連れてきた侍女も含めて六人を引き連れていた。羽織っている上着も狐白裘(こはくきゅう)と呼ばれている狐の白い毛皮であり、滅多に手に入らぬ当代の一級品だった。
「貴女ご自慢の白磁のような肌には、わたくしの真白き毛皮も霞んでしまいますわ。本当に美しい肌だこと。殿方なら皆、財を積んででも触れたがるというもの」
羽扇をひらひらさせて来羅が言った。もちろん、身体を開いて金を得る商売を営む家の娘を卑しめる発言である。
「僭越ながら、来羅様。わたくしは白肌を自慢したことなど、一度もありません。触れられたことも。来羅様のお美しさは日増しに光り輝くばかり。わたくしなど、とてもとても。王陛下もその魅力に惹かれて、来羅様のお足許に跪くのではございませんか」
「…………」
「わたくしの気のせいでなければ、来羅様の美貌は〝冬〟になりまして随分と増したように存じます。もしかして夜毎、陛下のご寵愛を賜っていらっしゃるのでは?」
来羅の双眸は動かない。殊更「冬」を強調した嬋玉も、黙って来羅を見返している。
このとき本来であれば、来羅の侍女が嬋玉の無礼を止めるところである。が、あまりに二人が周囲を凍らすほどの気を発したために、震え上がって動けなかったのだった。
「だとしたら?」
挑発的に来羅が言った。
「だとしたら、とても喜ばしいことにございます」
返事をする嬋玉を流し目に見るだけで、来羅は再び歩き出した。簪と耳墜の揺れるさやかな音を残して回廊の奥へと消えていく後ろ姿に向かい、嬋玉は笑みを浮かべる。
「ふふ、私ったら大胆が過ぎたかしらね。でも、内側から溢れ出る活力は隠しおおせるものではないわ」
政務の合間に、剣を片手にする緋逸は乾清殿への道を急いでいた。突風騒動の翌日には紫翠はすっかり元気になっていて、紫翠本人も「完全復活です」と背を仰け反らせて笑っていたが、緋逸は心配で堪らなかった。なにしろ相手は小人であり、人の医術が通じるのか懸念されるのだ。治療法などもなく、滑って転んだだけで死んでしまうのではなかろうか? それもあって紫翠には、王の「私室で休んでいるように」と言いおいている。
大股で歩く緋逸の後ろには、羲奎がいる。休憩の度に乾清殿へ戻るようになった王を訝しんでいた羲奎も、最近は慣れたのか、はたまた諦めたのか、表情もかえずに従うようになっている。近頃でかわったことといえば、左右の将軍のどちらかも交代で付いてくることと、傍付きの修撰が創作意欲をかき立てられた物書きのようにひたすら筆を動かしていること。
緋逸にしても、意外な心境変化があった。以前であれば、何事があっても仕事の合間に私室に戻るなどという面倒なことはしなかった。しかし今となっては、紫翠の顔を見ずにはいられない。気づけば、紫翠ととりとめのない会話をして、安らぎを得たいと常に願っている自分がいる。なにより紫翠の存在自体が、緋逸の唯一の安らぎとなっていた。
それだけ紫翠が、緋逸の心の大半を占めているのだ。
千里の道を歩いたように感じながら私室の扉を開けると、窓際に置かれた円卓の上に積んである本のてっぺんに登った紫翠が、窓の硝子に張りついて外をじっと見つめていた。
「ただいま紫翠。そんなところに登って危ないじゃないか、俺のいない間に落ちたらどうするんだ。……なにを見ている?」
緋逸が問うても、紫翠は窓の外から視線を逸らさない。緋逸も硝子越しに前庭のほうへ視線をやれば、数羽の雀が「チュンチュン」と鳴きながら、地面を飛び跳ねていた。
「……雀を見ていたのか?」
「そうです。こちらを見上げている雀さんがいるでしょう。あの子は、ここで死んでしまった雀さんのお友達だったそうです」
そう言われても緋逸にはなんのことやらさっぱりだった。数回首を捻ってから、
「……ああ、毒入り饅頭を食べて死んでしまった雀か?」
「はい。とてもお気の毒なことをしてしまいました。だからお詫びしていたのです」
「……そうか」
確かに気の毒だな、と雀に同情しながら、緋逸は茶の用意をするために踵を返す。そこで、ふと足を止めた。
「うん? 紫翠は鳥の言葉がわかるのか?」
「わかります。私は解(かい)鳥語(ちょうご)を扱えますから」
「えっ!?」
緋逸は目を瞠った。解鳥語とは読んで字の如し、鳥の言葉を理解する術である。十二(ぜったい)呂(おん)律(かい)を基本として、その他の知識を同時に駆使することにより、鳥の鳴き声を聞き分けるのだ。この術を扱える者は少なく、古来より重宝される存在であった。
人相術、解鳥語を駆使できるのに加えて、紫翠は霊符を書くこともできる。本を読む速度も人より速く、何気なく口にした詩を即座に言い当てもする。それは紫翠に相当な学のある証拠。緋逸はまじまじと紫翠を見下ろした。目と目が合えば、小人の紫翠はにっこり笑う。
「鳥さんの言葉がわかると、なかなかに便利です。鳥さんは常に空を飛ぶことで大地を鳥瞰していますから、世の出来事に対し情報通だったりするのですよ」
「へ……え」
「人に関する噂もテンコ盛りに知っています。噂好きなのですね」
「……そうなのか。なら俺が、どんなふうに噂されているのか訊いてくれないか」
すると紫翠は本の山からひょいひょいと下りて円卓に立ち、腰に両手をあてながらもの凄い勢いで緋逸を見上げた。その間も緋逸は、紫翠が落っこちるんじゃないかと、両手を出したり引っ込めたりしていた。
「情けない、です王様! 貴方は鼎主たるに相応しいと私が言いましたのに、まだそんな他人の陰口にビクビクしているのですか!!」
「あ……や、その」
陰口にビクビクしていなかった緋逸も、紫翠に怒られてビクッと身体が固まった。茶器を用意する手を止め、答えに窮しながら苦笑する。
以前は、頭を下げる者たちがどんな顔をしているのか気になっていたものだが、紫翠と共に暮らすようになってからは不思議と気にならなくなっていた。それは少なからず紫翠の励ましもあったからだろう。そうではなくて、緋逸が今訊きたかったのは、小人である紫翠の存在が医官の口から洩れていないか、ということだった。だが、まあいいか、と緋逸は浮かべていた笑みの種類をかえる。紫翠がなんと助言してくれるか、興味が湧いたのだ。
「そうだな、少しばかりビクついているのかもな」
「いいですか、王様」
そこに座れとばかりに椅子を指差されて、緋逸は従順に腰かけた。
「万人に好かれるなんて無理なのです」
「うん?」
「どんなに心清き人でも、その善行が鼻につくと嫌う者もいるのです。それが一国の支配者ともなれば尚更でしょう。たとえ王様が民(たみ)百姓(ひゃくせい)を救うために良き法を施(し)いたとしても、すべての民を救えるわけはありません。救われなかった一部の民は当然、王様を恨みます。でもそれは、仕方のないことなのです。この世のどこにも、完璧などというものは存在しないからです」
「ああ」
「故に、です王様。王たる者が心を砕かねばならないのは、朝廷に蔓延するつまらない噂話などではなく、一国の在り方というもの。自分が臣下を、民を、どのように導いていきたいのか、その一点に限るのです!」
「なんとまあ、身も蓋も無い高説だな」
「ぬ。ここは謹聴するところ、笑っている場合ではありません!」
「うん? ああ、悪かった」
「つまりです王様。王様は、私と接するように気楽に周囲と接すればよいのです」
「…………え」
「何事も力みすぎると却って本領を発揮できずに失敗するものですから」
盲点を衝かれたようで、緋逸はしばし絶句した。茫然とする緋逸から視線を切り離した紫翠は、再び窓のほうへと顔を上向ける。
「今回、犠牲になった雀さんの死を無駄にしてはいけません」
「……紫翠は動物が好きなのか? 出逢いのときもリスと一緒にいただろう?」
「泰山にいたのは身ひとつで放り出されたからで、食べる物もなく――」
「?」
「――そうですね、わりと好きです。あのときはリスさんのご飯を横取りしてしまって、今でも申し訳なく思っています」
未だ幼さの揺らめく横顔に、昏い影がさっと滲んだ。紫翠は女人にしては度胸があり、物言いのはっきりしたところの目立つ、神経の図太い娘だと緋逸は認識していた。緋逸にしてみれば、そこが大いに気に入っていたのだが。一羽の雀の死を悼み、自分の行いを悔いて詫びの言葉を口にする、情の深い一面も隠しもっている。
繊細な娘なのだな、と緋逸はいっそうの興味をそそられた。こういう極端から極端へ感情が走る娘が傍にいて支えてくれれば、乾坤一擲を賭して甲戌神将に相対し敗れようとも、「退屈知らずの人生だった」と大笑いしながら死んでいけるだろうから。
第三景
赤華八年、小寒の終わりのこと。
一年で最も寒さの厳しい時季を迎えるこの頃、毎年緋逸は泰山へ散策に出かけることにしている。あと幾日もすれば国都・凛寧にも鉛色の雲が南下して雪が降り始め、紫霄宮裏の泰山も雪に閉ざされてしまうからだ。これは緋逸のちょっとした息抜き行事でもあった。
その日。昼餉の席で、「紫翠も一緒に行くか?」と誘ってみると、
「私は残ります」
と、躊躇なく断られた。いつからか忘れたが、紫翠は午の休憩の終わりから、茶飲み休憩の前までを、庭園で過ごすようになっていた。今日もその「庭園に行きたい」と言ったのだ。それもあって緋逸は、宣政殿への道程の途中にある庭園に、日に何度も寄っている。
緋逸にしてみれば、独りでなにをしているのか気にせずにはいられなかったものの、女人の行動を詮索する男は心が狭すぎるかもしれないと自重したこともあって、未だに紫翠が庭園でなにをしているのか知らずにいる。だが、今日ばかりは庭園へ行ってくれてよかった、と思う緋逸だった。寒さの厳しい中、泰山へ連れていって風邪でもひかれたら一大事。同じ外でも、手入れの行き届いた紫霄宮内の庭園であれば花々や木々が風除けになって、紫翠を寒さから護ってくれることだろう。紫翠のすげない断りにもめげずに、緋逸が胸を撫で下ろしている理由はそこに尽きた。
禁苑内とはいえ、泰山までは距離がある。冬は日が短いこともあり、戻りの時刻を考慮すると馬で出かけねばならない。馬上から緋逸が振り返れば、後ろには羲奎と修撰がいて、そのまた後ろには左右の将軍二人が数人の禁衛を連れていた。閑散とした禁苑には一行の馬の蹄が奏でるぱかぱかという音が、悠々と響いている。
「泰山は裏庭だというのに。まるで我が儘放題に紫霄宮を抜け出して気儘に遠乗りに出かけるバカ殿の行列みたいだな」
苦笑するしかない緋逸は、同じく馬上にいる羲奎に声をかけた。羲奎は馬を寄せる。
「そのようなことは」
「左右の将軍まで揃って付いてくるなんて、些か大袈裟じゃないのか?」
「あまり気にされずとも。二人の将軍とその麾下には距離をとらせて護衛させますので」
「そう言われてもな」
「お一人になりたいと?」
羲奎の尖った声に、緋逸はここでも苦笑する。
「そうじゃない。俺とお前の二人でも、なんら問題はないだろう?」
「問題ない、ですか」
「だって、そうだろう。お前は名ばかりの大将軍ではない。名実ともに神策軍の頂点に立つ武人。腕は確かだ、護衛官としてこれほど相応しい者が他にいようか」
王を見返す羲奎は、我知らず目を見開いた。自分が大将軍の座に就いたことと、范という家名は関係ない――王は遠回しではあるが、そう言い切ったのだ。羲奎は驚かずにはいられない。これまで王が心の内らしきものを一言でも語ったことはなかったからだ。
「……は」
なんと応じればよいかわからず、ガラにもなくうろたえる羲奎は短く返答する。すると王は磊落に笑った。青年らしいこだわりのないこの笑みも、随分と久しぶりに見た気がする羲奎だった。
「なあ、羲奎。俺はお前を束縛しすぎただろうか?」
互いの心の深奥を突いた問いかけに、羲奎は二度(ふたたび)目を瞠る。それはあまりにも突然で、年長者らしく身構える余裕すら奪われる。
「左将軍となったお前が護衛官として付いてくれて、あの頃からもう八年。本来であれば大将軍になった時点で、お前の護衛官としての任は解かれていたはずなのに。無理をとおしてしまって、……これまで本当に世話になった」
王の言うとおり、護衛官のままでいる必要はなかった。だが誰も、宰相の俚韵でさえもそのことには禁忌のように触れなかったため、自然と護衛官のままでいることとなった。
「俺は、あのまま時を止めてしまいたかったのだと思う。お前といるときだけは、俺は俺が王であることを忘れていられた。歳相応の、瀛緋逸のままでいられた。だから楽だった。楽で、楽しかった。あの頃のまま、あの場所にとどまっていたかった」
羲奎はなにも答えられない、けれど王からは視線を逸らせずにいた。胸に微かな痛みを覚えながら。なんの痛みなのか、羲奎にはわからない。でも、心の片隅ではわかっているような気もしていた。
「……お前は?」
三度(みたび)、羲奎は目を瞠ることになった。
「お前は、羲奎? あの頃は楽しかった?」
「…………お、……いえ、私は」
左将軍を拝命したばかりの頃は普段の癖が抜けなくて、王の御前であっても自分を「俺」と言っていた。口うるさい右僕射が顔をしかめるのはしょっちゅうで、その度に俚韵は「あ~あ」と片手で目を覆い、どこまでも自由人である彪之は隠れるようにしながらも腹を抱えて笑っているのがまるわかりだったのを鮮明に憶えている。それを横目に歳若い少年王は磊落に笑って「構わない」と許しをくれたものだった。あの穏やかだった日々の癖がまた出そうになって、羲奎は言葉に詰まってしまう。
年号が赤華にかわり、たった八年。記憶をたどるのも容易いそれだけの年月しか流れていないのに、随分と遠くまで来たような気がした。眩暈がするほど遥か遠くまで歩いて……。
「いいんだ。無理に答える必要はない」
手綱を握り直した王は、そこで前を向いてしまう。羲奎は、なんだか失敗したような気持ちになった。
「お前は既に、お前の道を進んでいる。今だから言えるが、俺はお前の歩みを止めてでも、俺の道に引きずり込んで道連れにさせることばかり考えていた」
「……え?」
「お前がなにを想っていても構わないから、俺と共にあってほしいと、それだけを望んでいた。だが、その方法がわからなくて。却って中途半端にお前と接したせいで、お前には随分と苦労をかけてしまった」
「……王」
「ハハ、笑っていい。俺はみみっちい男だったろう?」
「笑うなど、そんな……」
応じながら、『だった』という過去形が酷くひっかかった。
決して嫌味ではなく心の底から愉しむように軽く笑う王を、羲奎は知らない。今日の王は表現し難いなにかが違って、戸惑いが止まらなくなる。
「約束しよう、羲奎」
「なにを、ですか?」
「ここらでお前を自由にしてやる。お前を、俺という軛から解放するよ」
「……なにを言っているのですか」
「うん? わからないか」
斜め前を行く王の顔は見えない。羲奎にはそれがひどくもどかしかった。そしてその背には、ただならぬ意志が滾っているようで、羲奎は焦る。
「王、なにを考えているのですか」
それはまるで、死を前提にした後ろ姿。ここまでしゃべる王を、大将軍になってからの四年で羲奎は目にしたことがなかった。羲奎の胸に押し寄せるのは、不吉な影。
不意に重くなった空気を敏感に悟ったらしい王が、ちらと振り返った。
「気楽に周囲と接せよ――と、注意されてな。お前とも、以前のように気楽に接してみたくなっただけだよ。深い意味はない」
「……ですが」
「お前もな、羲奎。肩の力を抜いて気楽に周りと接してみたらどうだ? なんなら休暇をやるから、邸に戻って父上や兄上と酒でも酌み交わしてこい」
「それは――」
瀛湫仁を推すと決めた、范本家当主の意に従えということか? ――范家の次男であることに雁字搦めにされている羲奎には訊けるはずもない。惑う羲奎の前で、馬に揺られる王はただ、のんびりと笑っていた。
馬から降りた緋逸は、禁苑の北側ぎりぎりまで歩いてきていた。
徐々に森が鬱蒼としはじめて、ただでさえ暗い曇天のもと、木々の枝がわずかな光をも遮って辺りはどんよりとしている。湿気がこもっているせいか、土と木の放つ自然の濃い匂いが冷気と混ざり、身体を包んでは微風に流されていく。
「王、これ以上はもう」
この先は禁苑から出てしまうので、羲奎の制止する声がかかった。左右の将軍は少し離れたところにいて、禁衛は四方八方に散らばっている。二人の将軍の傍にいる修撰は疲れたのか、近くの木に寄りかかって筆を動かしていた。
「陽も落ちかかっていますから、そろそろ」
「うん? そうなんだけどな」
庭園にいる紫翠を迎えにいかなければならない緋逸は言いながら、しきりに足許を気にしていた。冬なのに丈の長い草が生えていて、それを長靴の爪先でかき分けるようにしている。
「なにか探し物ですか?」
「ああ、山の花でも持って帰ろうかと思ってな」
「花、ですか」
わずかに目を眇める羲奎をほっぽって、緋逸は花を探す。以前、紫翠に金木犀を持っていったら喜んでくれた。ここでも珍しい花を土産にすれば、紫翠はまた喜んでくれるかもしれない。今夜の風呂に添えてやろう――緋逸の頭には、それしかなかった。
「花を持ち帰るなど。後宮で待つ姫の結い髪に挿してやるおつもりか?」
「……ああ」
緋逸の返事を受けて、羲奎はぎょっとなる。しかし緋逸は花探しに夢中で、羲奎になにを訊かれたのか理解していない。
「早咲きの福寿草でも見つけられれば、と思っていたんだが。あれも橙色の綺麗な花だから。でも、甘かったかな」
ぼそぼそと答える緋逸の言葉の大半を、今度は羲奎が聞いていなかった。会話はどんどん噛み合わなくなっていく。
「橙が似合うと思ったんだ」
「あの娘に橙の生花が似合うとは思えませんが」
「手ぶらで帰ったら怒られるかもしれないし」
「宰相が推挙した娘のどこがいいと?」
憮然とする羲奎が直截な訊き方をした直後。草むらの中で、ガサッ、と音がした。
反射的に羲奎は、王の前に身体を滑り込ませる。
「退がってください、王」
「……や、でも」
武人としての勘が働いた緋逸は、羲奎の肩越しにひょいと顔を覗かせる。羲奎にしても、あまり危険ではないことは気配から察知していたが、剣の柄に手をかけながら、
「念のためです、退がって」
緊迫した遣り取りを見た左右の将軍と禁衛も駆け寄ってくるが、緋逸は手で制した。
「いいから、どけ」
羲奎に命じながら、緋逸は草むらに入ってしゃがみ込む。そこにいたのは、黒い毛並みの美しい仔犬だった。背を丸めて縮こまる仔犬はふるふると震えている。ぱっちりとした丸い目にはわずかに怯えが漂っているものの、それもまたなかなかに愛嬌のある姿である。
仔犬を片手でぶらんとぶら提げながら、緋逸は立ち上がった。
「ほら、大丈夫だったろう。お前は過保護なんだよ」
「……は」
「野良犬にしては艶々とした綺麗な毛色だな」
「……確かに。人の手に提げられているのに、吠えませんし」
「飼い犬だったのが、捨てられたのだろうか」
「かもしれません」
「オスだな」
「は? オスだとして、それがなにか?」
「どうするか?」
「どうするもなにも、ここに置いていくしかないでしょう」
「いや、オスでも子どもを冬の山中に置き去りにするのは」
意見がわかれる、緋逸と羲奎。そんな主従二人に割り込んだのは、いつの間にか傍に来ていた修撰だった。興味津々といった様子で、緋逸の手にある仔犬を熱心に見つめている。
「誠に綺麗な黒の毛並みで。まるで陛下のお髪のように艶やかでございますね」
野良犬の毛と王の髪を比べるなど、あまり褒められたことではない。緋逸は気にしなかったが、羲奎はキッと修撰を睨んだ。修撰は「しまった!」という顔をして、一歩退く。
「ハハ、確かにな。俺の髪みたいだ。よし、気に入った」
「まさか、王」
「うん? こいつを連れて帰ることに決めた」
そこでまた修撰は、「余計なことを言いやがって」とばかりに羲奎に睨まれる。そろっと視線をずらした修撰は素知らぬフリで筆を動かしはじめた。
「別に問題ないだろう。俺が面倒をみるから」
そう言う緋逸の脳裏には、ひとつの計画が巡っていた。うまく飼育すれば、紫翠の乗騎になるかもしれないと考えたのだ。紫霄宮内の広い庭園でも、乗り物があれば移動に便利だろう。なにより犬は利口なので、育てようによっては優秀な護衛になるかもしれない。動物好きの紫翠であれば、喜んで賛成してくれるはず。
とはいえ緋逸には、あまり時間はない。それでも現時点でできうる限りのことを紫翠にしておいてやりたかった。
「これが土産だ。さて、帰るか」
緋逸はここでも意外な己の一面を発見していた。自分の中に一人の女人をこんなにも甘く想う部分があるなどと、知らなかったのだ。ご機嫌の緋逸は仔犬を胸に抱く。そんなものが金に不自由のない女への土産になるのかと、眉間に皺を刻むのは羲奎。二人の話は最後まで噛み合っていなかった。
後宮からの遣いが来たのは、緋逸が泰山の散策から戻った直後のことだった。
緋逸のもとにまろび寄ってきた殿中監は血相をかえて拱手し、後宮の遣いである女官も顔面蒼白である。
「急ぎ陛下に申し上げます。先程、瀛来羅様がお倒れになりました――」
第一景
紫翠が「ふがふが」と怒っている。
それを眺めて、緋逸は笑み崩れた。怒っている姿も普段となんらかわらず可愛い。
なにを怒っているのかとしばらく考え、ああ、と緋逸は納得する。昨晩、酒を飲みすぎた自覚はあった。それを紫翠に叱られているのだ。しっかり者の妻が、ダメな夫の朝帰りを叱っているようで……うん、悪くない。
これは夢か幻か、それとも男の願望がつくりだす情けない妄想か、むっつりと膨れる紫翠は小人ではなく、人並みの大きさになっている。白く、なめらかな肌。こちらを見下ろす、その桃のような頬に触れてみたいと伸ばしかけていた緋逸の手が、つと止まる。紫翠を、どこかで見たことがあるのだ。否、紫翠に似た、誰かを……。
「其方、俺とどこかで逢っていないか……?」
聞きようによっては陳腐な口説き文句が声になったかどうか――。
「痛ッ」
痛みに呻いた緋逸は、ぱかんと目を開けた。枕に顔を埋めたままの両眼に映ったのは、今まさに顔面に蹴りをいれようとする紫翠の姿。「うわ、待て」と頼む前に、紫翠の蹴りが鼻に決まった。
「いッ――つぅ、……これは何度目の蹴りだ? かなり顔が痛いんだが」
「王様が悪いのです!」
「俺が? もしかして、寝相が悪くて其方を潰しかけたのか?」
緋逸と紫翠は相も変わらず、同じ寝台で仲よく並んで寝ている。紫翠の年齢を知った時点で遠慮した緋逸は長椅子で寝ようとしたのだが。紫翠に「なぜですか?」と真顔で訊かれたことで、歳上の男として却ってひっこみがつかなくなったのだった。
「違います。何度呼んでも王様が起きないからです!」
「……うん? ああ、もう朝か。だからって紫翠、蹴って起こすことはないだろう。歳頃の娘が、夜着の裾が捲れるのも構わずに足を振り上げるなんてよくないだろうに」
「足の問題など今はどーでもいいのです! 時刻が問題なのです!!」
「時刻? ……ああ、朝餉か。腹が空いたのか」
「おお、空きましたけども」
「そうか、すまなかった」
空いたお腹を宥めるように下腹を撫でていた紫翠は、ハタと我に返る。
「いいえ、違うのです王様。王様は、なんたらいうお堂のお掃除当番なのでしょう? 毎朝の重要な日課だと言っていたではありませんか。でももう巳刻なのです、たいへんな朝寝坊をしてしまったのです!」
「言われてみれば室内は随分と明るいな」
「なにを呑気な!」
「なあ、紫翠。それで、そんなに怒っているのか?」
「当たり前です。これは遅刻です。仕事の遅刻はひとつの罪ですよ」
厳しいな、と苦笑しながら、緋逸はここでやっと寝台に身を起こした。行儀悪く片あぐらをかいて座る。
「あのな紫翠、カッカと立腹のところ悪いんだが。今日は休みなんだよ」
「あぐらをかいてないで早く支度をするのです――? 今、休みと言いましたか?」
「そう、朝廷の官は臘(ろう)日(じつ)の三日間、特別休暇を与えられるんだ。だから今日は朝議も行われない。というわけで、堂の掃除は少しくらい遅くなっても平気なんだよ」
「おっ、そうなのですか。知りませんでした」
「俺も悪かった。言うのを忘れていたんだ。冬至にも七日の休みがあったんだが、俺は行事なんかでバタバタしていて休めなくて。それもあってちょっと浮かれていてな、昨夜、ついつい酒を飲みすぎたから」
「浮かれる? なにか良いことでも?」
初の連休を紫翠とどうやって過ごそうか――と考えて浮かれていたとは、緋逸に言えるわけはない。それでも緋逸の顔は次第に笑み崩れていく。
「王様? まだ酔っているのですか?」
「酔っていない。まずは其方の空腹を満たさなくてはな。それから堂の掃除をして」
緋逸が本日のあれこれを楽しく想像していると、紫翠が小首を傾げた。
「お休みということは、外朝内は空っぽなのですか?」
「や、当番制で出仕している者もいるはずだ」
「では、お着物の片袖を脱いで派手に着崩している大将軍様もお休みですか?」
「派手なナリといえば、羲奎か? そういえば、浮かれていて羲奎が休みをとるのか訊いていなかったな。でもたぶん、休むだろう」
「ではでは、王様の護衛官はいないのでしょうか?」
「なんだ、俺が独りだと頼りないか? ちょっと腹が立つが……羲奎が休みのときは左右の将軍が当番制で俺にひっついてくるよ」
心底安心したように息を大きく吐き出す、紫翠。緋逸は、羲奎がいないことで紫翠との休日を満喫できると、ここでもウキウキに浮かれている。
「そうですか、大将軍様はお休みなのですね」
ところがどっこい、そうはならないのが世の常である。
「王様王様、大将軍様はいるではありませんか。よかったですね」
「よくなかったですね」
腰に提げた巾着袋の覗き窓からひょっこり顔を出して紫翠が言った。簡素な袍に着替えて鍬を担いだ緋逸は、やさぐれて返事をする。
「なにか言いましたか、王」
「なにも」
振り向きもせずに応じる緋逸にくっついてくるのは、羲奎。その後ろには、自他共に弓の名手であることを認める右将軍が、弓矢を背負って付いてきている。更にその後ろには、王の日々の言動を記録する修撰が、紙と筆を片手に歩いている。
「どうして修撰まで?」
「監修国史の命とのこと。以後年末まで休みなく傍に控えると回覧がありました」
「年末まで? 今日は休みのはずなのに、皆、妙に物々しいな」
「そうですか」
羲奎は素っ気なかった。それも仕方のないこと。今し方、緋逸と羲奎は「街に行く」「行かせない」で一悶着やらかしたばかりなのだ。堅苦しい紫霄宮を出て、紫翠と街でのんびり楽しもうと目算していた緋逸にしても、大幅に予定を狂わされて不満たらたらの状態だった。
そんなこんながあって、紫翠になにがしたいか尋ねてみると、
『紫霄宮の裏庭にある野菜園に行ってみたいのです』
とせがまれた。そこで緋逸は一計を案じ、庭でとった野菜で手づくりの夕餉を振る舞ってやろうと、鍬を担いで出かけてきたのだ。ここでも羲奎は「王がそのような」といい顔をしなかったが、緋逸は完全に無視をした。
「さ、着いた」
護衛たちと距離をとった緋逸は、土から伸びる野菜の陰になるように巾着袋ごと紫翠を降ろした。陶器製の箱に湯を入れて暖をとる湯(ゆ)湯(たん)婆(ぽ)の上に、紫翠を載せてやる。ここ数日は曇天が続き、辺りは冷気で満たされている。今日はわずかに風もあって、午を過ぎて間もない時刻であるにもかかわらず、上から伸しかかるような寒さを覚えた。
「寒くないか?」
「ないです。王様がもこもこと着せてくれたのですが故に。熱いくらいです」
「ハハ、まあ、あれだ、リスみたいに着膨れしているが。風邪をひいたらたいへんだからな、湯湯婆の上でのんびりしていろ」
「いえ。のんびりなどしていられないのです!」
「なんで?」
「食べるお野菜は私が選ぶのです。それを王様がせっせと掘り返すのがよろしい」
「はいはい」
ここは紫霄宮裏の禁苑であり、北側には泰山が聳えている。紅葉の季節を遠く過ぎた泰山には色がなく、ここでも視覚的に寒さを感じた。緋逸と紫翠がいるのは、王のための野菜園の一角で、足許には蕪、大根、白菜、葱などがすくすくと育っていた。
「さても問題は、今夜はなにをつくるか、だが」
紫翠にビシバシ指示を飛ばされ、緋逸は言われたとおりにせっせと野菜を掘り返す。もとより緋逸は武人としての心得があるので、王であっても泥にまみれることを厭う気持ちはない。野良仕事という庶民的なことに大きな幸せを感じる緋逸は夕餉の献立を組み立てながら、意外にも休暇を楽しんでいた。
「ふう。少し休憩させてくれるか」
立てた鍬の柄に手を置いて、緋逸は畑の真ん中で一休みする。かなりな労働に手巾で汗を拭いつつ、護衛のほうを見た。ちょうど羲奎は右将軍と離れて、風上のほうへ歩いていくところだった。
「王様はかわっていますね」
「そうか?」
「小娘の私があれこれ指示をしてお野菜を掘らされても、ムカッとしないのですか?」
「や、別になんとも」
「寒さ対策のために上着も縫ってくれました。ご飯も忘れずにちゃんと用意してくれます」
「どれも大したことじゃないだろう」
本来なら、もっと贅沢をさせてやれるのだ。これは緋逸の偽りなき本心だった。
湯湯婆の縁に座って足をぶらぶらさせている紫翠は、その返事を受けて少し首を伸ばした。二人の距離を近づけようとしたのかもしれない。紫翠はにっこりと笑った。
「王様、私は――」
紫翠がなにか言いかけた、その刹那。遠くから、ザッ、と音がした。地を震わすほどの激しい音は風上から。緋逸が素早くそちらを向けば、周辺の物が一斉に揺れている。突風が吹いたのだ。しかしその強さは尋常ではない。常緑樹の木々の葉が枝ごと折られて舞い上がり、小石や地上に置いてあった桶などと一緒に吹き飛ばされてくる。緋逸は咄嗟に紫翠の楯となったが、風のほうが速かった。両腕で顔を庇いつつ、紫翠を目で追う緋逸は異変に気づいた。
自分の周囲だけ、無風なのだ。周りはもの凄い勢いで風に巻かれているというのに。緋逸の周りには見えない障壁でもあるかのように、蒼白い雷光を散らして風が避けていく。
「なッ――これはいったい」
不思議に思い、腕を下ろしたとき。
「王様ッ」
紫翠の小さな叫びが耳をかすめた。見れば紫翠は突風に巻き上げられ、空へと攫われていく。このままでは、風がやんだとき紫翠は天から地へと真っ逆さまに落下することになる。地に叩きつけられたら最後、小人の紫翠などひとたまりもない! 紫翠を追う緋逸は戦慄して目を見開いた。その視界に、体力のない修撰が手にしていた紙をばら撒きながらよろよろと飛ばされていく姿を捉える。更にその前方にしかと捉えたのは、右将軍の姿。
「右将軍、俺のもとへ来いッ!」
叫んでも、異常な風の轟音に声がかき消されたのか。屈強な右将軍も風に吹き飛ばされないよう踏ん張るだけで精一杯らしい。「ちッ」と舌打ちした緋逸は右将軍のもとまで走り、その背から弓と矢を奪い取った。数拍も迷っている余裕はない。緋逸は飛ばされていく紫翠を狙って弓に矢をつがえる。強烈な風が却って紫翠の動きを封じ、身体を安定させていた。
「俺を信じろッ!」
一声叫んで弓弦を弾く。風下へ向かい的確に放たれた矢は風に乗り、はためく紫翠の上着の裾を貫いて近くの木の先端に突き刺さった。これで安堵している暇はなかった。邪魔とばかり弓を捨てた緋逸は木に駆け寄り、木の幹に矢ごとぶら下がったままの紫翠のもとへと登っていく。必死の想いで手を伸ばした。
「紫翠ッ、無事かッ」
「大丈夫です。ありがとうなのです、王……様」
「おいッ、紫翠ッ、目を開けろッ、どうした紫翠ッ」
緋逸の手の中で、それきり、小人の紫翠が目蓋を上げることはなかった。
遅れて乾清殿に着いた羲奎は、右将軍から事の次第を聞いていた。
「尋常ならざる風が吹きました。陛下は私の弓をとり、風下へ矢を放った様子。情けないことに私はその場に踏みとどまるのが精一杯で、状況を確認できず。申し訳ありません」
「いや、いい。それで王は?」
「矢を放った後、陛下は木に登られて。降りてすぐ、乾清殿へと駆けていかれました。風がやんですぐに私もあとを追いましたが、陛下の俊足にはかなわずに」
「それは仕方なかろうよ」
羲奎は溜め息を吐いた。王は優れた運動能力をもっている。天賦の才に加えて、六十年目を見越した幼き頃よりの鍛錬の賜物であろうが、武人としては一流の腕を誇るのだ。技は多少荒削りであっても、天性の勘はズバ抜けていた。
「私が乾清殿に着きましたときには、陛下は……その」
「なんだ?」
「……たいへん申し上げ難いことに……半狂乱の状態で。『医官を呼べ』『薬の手配を』と大声で怒鳴り散らすばかりで、全く要領を得ず。……日頃口数の少ない陛下があのように声を荒げる姿を初めて見ましたので、私も驚いてしまって」
「医官は来たのか?」
「先程出ていきました。捕まえて話を訊きましたが、『陛下はご無事です』と青ざめながら繰り返すばかりで。その他一切には震える口唇を閉ざしたままでした」
「ふむ」
そのまま王は私室にこもり、顔すら見せないという。廊下で話し込む羲奎たちの少し奥では、修撰がせっせと筆を紙に走らせている。自分も災難に遭ったばかりだというのに、なんとも逞しく勤勉な姿だった。それほど監修国史に脅されでもしているのだろうか?
羲奎は、王のいる私室の扉を無言で見つめている。
花開不同賞 花開くも同(とも)に賞(め)でず
花落不同悲 花落つるも同に悲しまず
欲問相思處 問わんと欲す 相思の処
花開花落時 花開き花落つるの時
「……『春になり花が咲きましたが、愛するあなたと一緒に賞でることもできず』……それは昔の名妓・薛濤(せつとう)の詠んだ詩ですね。私も大好きな詩なのです」
震える目蓋を上げながら紫翠が言った。寝台脇の椅子に座っていた緋逸は、ぐっと身を乗り出す。
「紫翠、目が覚めたのか!」
「愛する者に相(あい)逢(あ)うことのできぬもどかしさ、片時も胸裡(きょうり)を去らぬ恋心を表した秀逸な詩なのです。でも、なぜでしょう。王様が詠むと、私は死ぬような気がしてくるのです」
「あ、おい紫翠、起きるな。カラ笑いしている場合じゃない。其方は身体に強い衝撃を受けて意識を失っていたんだ。絶対安静だと医官が言っていた」
起き上がりかけていた紫翠に手を貸してやりながら、緋逸は小さな身体を横たえてやる。
小人の存在を他者に知られたくなかったが、ためらっている余裕はなかった。医官にはきつく口止めしておいたがうまくいったかどうか。それでも緋逸は、なにより紫翠の身を優先させた。
「助けてくれて、ありがとうなのです王様」
「もう礼は言ってもらった。それに俺も……女人の其方に向けて矢を放つなど、少々考えなしだったかもしれない。咄嗟にはそれしか思いつかなくて……すまない」
「いいのです。おかげでこうして私はここにいるのですが故に。それにしても、すごい風でした。怪風(かいふう)かと思ったのです」
「怪風? 鬼の類いか?」
「そうです。青みを帯びた紫色の旋風は、人の肌に小さな切り傷をつくりながら通り過ぎていく――と聞いたことがあるのです」
「先程のに色みはなかったが、怪風だろうか?」
わかりません、と力なく首を振る紫翠の顔はまだ、血の気が失われたまま。
「もういい紫翠、なにも考えずに休め」
紫翠の姿があまりに儚くて、思わず緋逸は手を差し延べていた。触れるだけで壊れてしまいそうで、そっと差し出した人差し指の先に、紫翠のか細い両手が添えられる。
「そんなに悲しそうな顔をしないでください。王様にはお世話になってばかりなのです。私もなにか、女らしく、ここらでドンッと恩返しをしなければなりません」
「女らしくって……あ、ならひとつ、頼みがある」
「私は身体が小さいので、それに見合った労働しか提供できませんけども」
「ハハ、労働はしなくていいよ。……俺の名を……呼んでくれないか?」
紫翠は惑うように細い顎を傾けた。
「王様の名は、愛する王后様であっても呼ばないもの、と聞いていました」
「らしいな。俺も別に、名を呼ぶ呼ばないはどうでもいいと思っていたんだが。其方には呼んでもらいたくなった。其方の声で、俺の名を。身分に関係なく其方の意思で」
しばらく紫翠は考える素振りをしていたが、笑って頷く。
「わかったのです。王様の名を教えてください」
「緋逸だ」
「なるほど、です」
「なるほど?」
「赤華という年号のことです。赤は緋、華は精華を意味するのではありませんか? きっと〝緋の真価〟という意味がこめられているのですよ。浪漫(ロマン)をかき立てる命名なのです」
そういえば、と緋逸も思い出す。年号については朝廷で揉めて定まらず、結局、俚韵と彪之と羲奎の三人が額を寄せ合い、意見を出し合って「赤華」に落ち着いたのだ。三人の共通の想いが年号にこめられているのだとしたら――緋逸は微笑した。
「そうかもしれないな」
「そうですよ。冬を越した朝廷には――春になれば、大輪の赤い花が咲くのです。だからなにも心配しなくてよいのです。貴方は我を貫けばよろしい。きっと貴方色の真価にたどり着くことができるでしょう。私は貴方こそが鼎国の君主に相応しいと信じます――」
――緋逸。
宝物のようにそっと、けれどしっかりと名を呼ばれて、緋逸の目の奥がじわと熱くなる。どんな賞讃にも増して、それは嬉しく。紫翠は微笑んだまま目を閉じて、そのまま眠ってしまった。
第二景
薄曇りの暗い空の下、まるで花束のように華やかな一団が歩いてくる。
後宮の外回廊の先にそれを見とめた嬋玉は、脇に寄って頭を垂れた。歩いてくる者たちの先頭にいるのは、次代の王后と目される瀛来羅。場合によっては、百花の王たる後宮の支配者ともなる女人である。嬋玉の家は下級貴族より余程財の貯えがあったが、王族の娘と一介の街娘では、身分に天と地ほどの差があった。ここは庶人の嬋玉が道を譲るのが道理。しかし嬋玉は、すれ違いざまに思い切って顔を上げた。
「お初に御目文字いたします。わたくし、名を嬋玉と申します」
何度か遠目に見かけたことはあったが、互いに対顔するのは初めてのこと。
突然に話しかけられた来羅は、数歩通り過ぎてから歩みを止めた。孔雀の羽根でつくられた羽扇で顔の半分を覆い、結い髪に挿された多くの簪と耳墜(みみかざり)を揺らして嬋玉を振り返る。その犬のようにぱっちりとした丸い目許には不快さが滲んでいた。
「ごきげんよう。貴女は確か、玄家の娘でしたわね」
明らかに妓楼の娘であることを馬鹿にしていた。実際のところ、女を売る商売は胸を張れたものではない。こうして二人並んでみても、その身分の違いはくっきりと現れている。
嬋玉は後宮に来て与えられた侍女を一人連れているだけだが、来羅は実家から連れてきた侍女も含めて六人を引き連れていた。羽織っている上着も狐白裘(こはくきゅう)と呼ばれている狐の白い毛皮であり、滅多に手に入らぬ当代の一級品だった。
「貴女ご自慢の白磁のような肌には、わたくしの真白き毛皮も霞んでしまいますわ。本当に美しい肌だこと。殿方なら皆、財を積んででも触れたがるというもの」
羽扇をひらひらさせて来羅が言った。もちろん、身体を開いて金を得る商売を営む家の娘を卑しめる発言である。
「僭越ながら、来羅様。わたくしは白肌を自慢したことなど、一度もありません。触れられたことも。来羅様のお美しさは日増しに光り輝くばかり。わたくしなど、とてもとても。王陛下もその魅力に惹かれて、来羅様のお足許に跪くのではございませんか」
「…………」
「わたくしの気のせいでなければ、来羅様の美貌は〝冬〟になりまして随分と増したように存じます。もしかして夜毎、陛下のご寵愛を賜っていらっしゃるのでは?」
来羅の双眸は動かない。殊更「冬」を強調した嬋玉も、黙って来羅を見返している。
このとき本来であれば、来羅の侍女が嬋玉の無礼を止めるところである。が、あまりに二人が周囲を凍らすほどの気を発したために、震え上がって動けなかったのだった。
「だとしたら?」
挑発的に来羅が言った。
「だとしたら、とても喜ばしいことにございます」
返事をする嬋玉を流し目に見るだけで、来羅は再び歩き出した。簪と耳墜の揺れるさやかな音を残して回廊の奥へと消えていく後ろ姿に向かい、嬋玉は笑みを浮かべる。
「ふふ、私ったら大胆が過ぎたかしらね。でも、内側から溢れ出る活力は隠しおおせるものではないわ」
政務の合間に、剣を片手にする緋逸は乾清殿への道を急いでいた。突風騒動の翌日には紫翠はすっかり元気になっていて、紫翠本人も「完全復活です」と背を仰け反らせて笑っていたが、緋逸は心配で堪らなかった。なにしろ相手は小人であり、人の医術が通じるのか懸念されるのだ。治療法などもなく、滑って転んだだけで死んでしまうのではなかろうか? それもあって紫翠には、王の「私室で休んでいるように」と言いおいている。
大股で歩く緋逸の後ろには、羲奎がいる。休憩の度に乾清殿へ戻るようになった王を訝しんでいた羲奎も、最近は慣れたのか、はたまた諦めたのか、表情もかえずに従うようになっている。近頃でかわったことといえば、左右の将軍のどちらかも交代で付いてくることと、傍付きの修撰が創作意欲をかき立てられた物書きのようにひたすら筆を動かしていること。
緋逸にしても、意外な心境変化があった。以前であれば、何事があっても仕事の合間に私室に戻るなどという面倒なことはしなかった。しかし今となっては、紫翠の顔を見ずにはいられない。気づけば、紫翠ととりとめのない会話をして、安らぎを得たいと常に願っている自分がいる。なにより紫翠の存在自体が、緋逸の唯一の安らぎとなっていた。
それだけ紫翠が、緋逸の心の大半を占めているのだ。
千里の道を歩いたように感じながら私室の扉を開けると、窓際に置かれた円卓の上に積んである本のてっぺんに登った紫翠が、窓の硝子に張りついて外をじっと見つめていた。
「ただいま紫翠。そんなところに登って危ないじゃないか、俺のいない間に落ちたらどうするんだ。……なにを見ている?」
緋逸が問うても、紫翠は窓の外から視線を逸らさない。緋逸も硝子越しに前庭のほうへ視線をやれば、数羽の雀が「チュンチュン」と鳴きながら、地面を飛び跳ねていた。
「……雀を見ていたのか?」
「そうです。こちらを見上げている雀さんがいるでしょう。あの子は、ここで死んでしまった雀さんのお友達だったそうです」
そう言われても緋逸にはなんのことやらさっぱりだった。数回首を捻ってから、
「……ああ、毒入り饅頭を食べて死んでしまった雀か?」
「はい。とてもお気の毒なことをしてしまいました。だからお詫びしていたのです」
「……そうか」
確かに気の毒だな、と雀に同情しながら、緋逸は茶の用意をするために踵を返す。そこで、ふと足を止めた。
「うん? 紫翠は鳥の言葉がわかるのか?」
「わかります。私は解(かい)鳥語(ちょうご)を扱えますから」
「えっ!?」
緋逸は目を瞠った。解鳥語とは読んで字の如し、鳥の言葉を理解する術である。十二(ぜったい)呂(おん)律(かい)を基本として、その他の知識を同時に駆使することにより、鳥の鳴き声を聞き分けるのだ。この術を扱える者は少なく、古来より重宝される存在であった。
人相術、解鳥語を駆使できるのに加えて、紫翠は霊符を書くこともできる。本を読む速度も人より速く、何気なく口にした詩を即座に言い当てもする。それは紫翠に相当な学のある証拠。緋逸はまじまじと紫翠を見下ろした。目と目が合えば、小人の紫翠はにっこり笑う。
「鳥さんの言葉がわかると、なかなかに便利です。鳥さんは常に空を飛ぶことで大地を鳥瞰していますから、世の出来事に対し情報通だったりするのですよ」
「へ……え」
「人に関する噂もテンコ盛りに知っています。噂好きなのですね」
「……そうなのか。なら俺が、どんなふうに噂されているのか訊いてくれないか」
すると紫翠は本の山からひょいひょいと下りて円卓に立ち、腰に両手をあてながらもの凄い勢いで緋逸を見上げた。その間も緋逸は、紫翠が落っこちるんじゃないかと、両手を出したり引っ込めたりしていた。
「情けない、です王様! 貴方は鼎主たるに相応しいと私が言いましたのに、まだそんな他人の陰口にビクビクしているのですか!!」
「あ……や、その」
陰口にビクビクしていなかった緋逸も、紫翠に怒られてビクッと身体が固まった。茶器を用意する手を止め、答えに窮しながら苦笑する。
以前は、頭を下げる者たちがどんな顔をしているのか気になっていたものだが、紫翠と共に暮らすようになってからは不思議と気にならなくなっていた。それは少なからず紫翠の励ましもあったからだろう。そうではなくて、緋逸が今訊きたかったのは、小人である紫翠の存在が医官の口から洩れていないか、ということだった。だが、まあいいか、と緋逸は浮かべていた笑みの種類をかえる。紫翠がなんと助言してくれるか、興味が湧いたのだ。
「そうだな、少しばかりビクついているのかもな」
「いいですか、王様」
そこに座れとばかりに椅子を指差されて、緋逸は従順に腰かけた。
「万人に好かれるなんて無理なのです」
「うん?」
「どんなに心清き人でも、その善行が鼻につくと嫌う者もいるのです。それが一国の支配者ともなれば尚更でしょう。たとえ王様が民(たみ)百姓(ひゃくせい)を救うために良き法を施(し)いたとしても、すべての民を救えるわけはありません。救われなかった一部の民は当然、王様を恨みます。でもそれは、仕方のないことなのです。この世のどこにも、完璧などというものは存在しないからです」
「ああ」
「故に、です王様。王たる者が心を砕かねばならないのは、朝廷に蔓延するつまらない噂話などではなく、一国の在り方というもの。自分が臣下を、民を、どのように導いていきたいのか、その一点に限るのです!」
「なんとまあ、身も蓋も無い高説だな」
「ぬ。ここは謹聴するところ、笑っている場合ではありません!」
「うん? ああ、悪かった」
「つまりです王様。王様は、私と接するように気楽に周囲と接すればよいのです」
「…………え」
「何事も力みすぎると却って本領を発揮できずに失敗するものですから」
盲点を衝かれたようで、緋逸はしばし絶句した。茫然とする緋逸から視線を切り離した紫翠は、再び窓のほうへと顔を上向ける。
「今回、犠牲になった雀さんの死を無駄にしてはいけません」
「……紫翠は動物が好きなのか? 出逢いのときもリスと一緒にいただろう?」
「泰山にいたのは身ひとつで放り出されたからで、食べる物もなく――」
「?」
「――そうですね、わりと好きです。あのときはリスさんのご飯を横取りしてしまって、今でも申し訳なく思っています」
未だ幼さの揺らめく横顔に、昏い影がさっと滲んだ。紫翠は女人にしては度胸があり、物言いのはっきりしたところの目立つ、神経の図太い娘だと緋逸は認識していた。緋逸にしてみれば、そこが大いに気に入っていたのだが。一羽の雀の死を悼み、自分の行いを悔いて詫びの言葉を口にする、情の深い一面も隠しもっている。
繊細な娘なのだな、と緋逸はいっそうの興味をそそられた。こういう極端から極端へ感情が走る娘が傍にいて支えてくれれば、乾坤一擲を賭して甲戌神将に相対し敗れようとも、「退屈知らずの人生だった」と大笑いしながら死んでいけるだろうから。
第三景
赤華八年、小寒の終わりのこと。
一年で最も寒さの厳しい時季を迎えるこの頃、毎年緋逸は泰山へ散策に出かけることにしている。あと幾日もすれば国都・凛寧にも鉛色の雲が南下して雪が降り始め、紫霄宮裏の泰山も雪に閉ざされてしまうからだ。これは緋逸のちょっとした息抜き行事でもあった。
その日。昼餉の席で、「紫翠も一緒に行くか?」と誘ってみると、
「私は残ります」
と、躊躇なく断られた。いつからか忘れたが、紫翠は午の休憩の終わりから、茶飲み休憩の前までを、庭園で過ごすようになっていた。今日もその「庭園に行きたい」と言ったのだ。それもあって緋逸は、宣政殿への道程の途中にある庭園に、日に何度も寄っている。
緋逸にしてみれば、独りでなにをしているのか気にせずにはいられなかったものの、女人の行動を詮索する男は心が狭すぎるかもしれないと自重したこともあって、未だに紫翠が庭園でなにをしているのか知らずにいる。だが、今日ばかりは庭園へ行ってくれてよかった、と思う緋逸だった。寒さの厳しい中、泰山へ連れていって風邪でもひかれたら一大事。同じ外でも、手入れの行き届いた紫霄宮内の庭園であれば花々や木々が風除けになって、紫翠を寒さから護ってくれることだろう。紫翠のすげない断りにもめげずに、緋逸が胸を撫で下ろしている理由はそこに尽きた。
禁苑内とはいえ、泰山までは距離がある。冬は日が短いこともあり、戻りの時刻を考慮すると馬で出かけねばならない。馬上から緋逸が振り返れば、後ろには羲奎と修撰がいて、そのまた後ろには左右の将軍二人が数人の禁衛を連れていた。閑散とした禁苑には一行の馬の蹄が奏でるぱかぱかという音が、悠々と響いている。
「泰山は裏庭だというのに。まるで我が儘放題に紫霄宮を抜け出して気儘に遠乗りに出かけるバカ殿の行列みたいだな」
苦笑するしかない緋逸は、同じく馬上にいる羲奎に声をかけた。羲奎は馬を寄せる。
「そのようなことは」
「左右の将軍まで揃って付いてくるなんて、些か大袈裟じゃないのか?」
「あまり気にされずとも。二人の将軍とその麾下には距離をとらせて護衛させますので」
「そう言われてもな」
「お一人になりたいと?」
羲奎の尖った声に、緋逸はここでも苦笑する。
「そうじゃない。俺とお前の二人でも、なんら問題はないだろう?」
「問題ない、ですか」
「だって、そうだろう。お前は名ばかりの大将軍ではない。名実ともに神策軍の頂点に立つ武人。腕は確かだ、護衛官としてこれほど相応しい者が他にいようか」
王を見返す羲奎は、我知らず目を見開いた。自分が大将軍の座に就いたことと、范という家名は関係ない――王は遠回しではあるが、そう言い切ったのだ。羲奎は驚かずにはいられない。これまで王が心の内らしきものを一言でも語ったことはなかったからだ。
「……は」
なんと応じればよいかわからず、ガラにもなくうろたえる羲奎は短く返答する。すると王は磊落に笑った。青年らしいこだわりのないこの笑みも、随分と久しぶりに見た気がする羲奎だった。
「なあ、羲奎。俺はお前を束縛しすぎただろうか?」
互いの心の深奥を突いた問いかけに、羲奎は二度(ふたたび)目を瞠る。それはあまりにも突然で、年長者らしく身構える余裕すら奪われる。
「左将軍となったお前が護衛官として付いてくれて、あの頃からもう八年。本来であれば大将軍になった時点で、お前の護衛官としての任は解かれていたはずなのに。無理をとおしてしまって、……これまで本当に世話になった」
王の言うとおり、護衛官のままでいる必要はなかった。だが誰も、宰相の俚韵でさえもそのことには禁忌のように触れなかったため、自然と護衛官のままでいることとなった。
「俺は、あのまま時を止めてしまいたかったのだと思う。お前といるときだけは、俺は俺が王であることを忘れていられた。歳相応の、瀛緋逸のままでいられた。だから楽だった。楽で、楽しかった。あの頃のまま、あの場所にとどまっていたかった」
羲奎はなにも答えられない、けれど王からは視線を逸らせずにいた。胸に微かな痛みを覚えながら。なんの痛みなのか、羲奎にはわからない。でも、心の片隅ではわかっているような気もしていた。
「……お前は?」
三度(みたび)、羲奎は目を瞠ることになった。
「お前は、羲奎? あの頃は楽しかった?」
「…………お、……いえ、私は」
左将軍を拝命したばかりの頃は普段の癖が抜けなくて、王の御前であっても自分を「俺」と言っていた。口うるさい右僕射が顔をしかめるのはしょっちゅうで、その度に俚韵は「あ~あ」と片手で目を覆い、どこまでも自由人である彪之は隠れるようにしながらも腹を抱えて笑っているのがまるわかりだったのを鮮明に憶えている。それを横目に歳若い少年王は磊落に笑って「構わない」と許しをくれたものだった。あの穏やかだった日々の癖がまた出そうになって、羲奎は言葉に詰まってしまう。
年号が赤華にかわり、たった八年。記憶をたどるのも容易いそれだけの年月しか流れていないのに、随分と遠くまで来たような気がした。眩暈がするほど遥か遠くまで歩いて……。
「いいんだ。無理に答える必要はない」
手綱を握り直した王は、そこで前を向いてしまう。羲奎は、なんだか失敗したような気持ちになった。
「お前は既に、お前の道を進んでいる。今だから言えるが、俺はお前の歩みを止めてでも、俺の道に引きずり込んで道連れにさせることばかり考えていた」
「……え?」
「お前がなにを想っていても構わないから、俺と共にあってほしいと、それだけを望んでいた。だが、その方法がわからなくて。却って中途半端にお前と接したせいで、お前には随分と苦労をかけてしまった」
「……王」
「ハハ、笑っていい。俺はみみっちい男だったろう?」
「笑うなど、そんな……」
応じながら、『だった』という過去形が酷くひっかかった。
決して嫌味ではなく心の底から愉しむように軽く笑う王を、羲奎は知らない。今日の王は表現し難いなにかが違って、戸惑いが止まらなくなる。
「約束しよう、羲奎」
「なにを、ですか?」
「ここらでお前を自由にしてやる。お前を、俺という軛から解放するよ」
「……なにを言っているのですか」
「うん? わからないか」
斜め前を行く王の顔は見えない。羲奎にはそれがひどくもどかしかった。そしてその背には、ただならぬ意志が滾っているようで、羲奎は焦る。
「王、なにを考えているのですか」
それはまるで、死を前提にした後ろ姿。ここまでしゃべる王を、大将軍になってからの四年で羲奎は目にしたことがなかった。羲奎の胸に押し寄せるのは、不吉な影。
不意に重くなった空気を敏感に悟ったらしい王が、ちらと振り返った。
「気楽に周囲と接せよ――と、注意されてな。お前とも、以前のように気楽に接してみたくなっただけだよ。深い意味はない」
「……ですが」
「お前もな、羲奎。肩の力を抜いて気楽に周りと接してみたらどうだ? なんなら休暇をやるから、邸に戻って父上や兄上と酒でも酌み交わしてこい」
「それは――」
瀛湫仁を推すと決めた、范本家当主の意に従えということか? ――范家の次男であることに雁字搦めにされている羲奎には訊けるはずもない。惑う羲奎の前で、馬に揺られる王はただ、のんびりと笑っていた。
馬から降りた緋逸は、禁苑の北側ぎりぎりまで歩いてきていた。
徐々に森が鬱蒼としはじめて、ただでさえ暗い曇天のもと、木々の枝がわずかな光をも遮って辺りはどんよりとしている。湿気がこもっているせいか、土と木の放つ自然の濃い匂いが冷気と混ざり、身体を包んでは微風に流されていく。
「王、これ以上はもう」
この先は禁苑から出てしまうので、羲奎の制止する声がかかった。左右の将軍は少し離れたところにいて、禁衛は四方八方に散らばっている。二人の将軍の傍にいる修撰は疲れたのか、近くの木に寄りかかって筆を動かしていた。
「陽も落ちかかっていますから、そろそろ」
「うん? そうなんだけどな」
庭園にいる紫翠を迎えにいかなければならない緋逸は言いながら、しきりに足許を気にしていた。冬なのに丈の長い草が生えていて、それを長靴の爪先でかき分けるようにしている。
「なにか探し物ですか?」
「ああ、山の花でも持って帰ろうかと思ってな」
「花、ですか」
わずかに目を眇める羲奎をほっぽって、緋逸は花を探す。以前、紫翠に金木犀を持っていったら喜んでくれた。ここでも珍しい花を土産にすれば、紫翠はまた喜んでくれるかもしれない。今夜の風呂に添えてやろう――緋逸の頭には、それしかなかった。
「花を持ち帰るなど。後宮で待つ姫の結い髪に挿してやるおつもりか?」
「……ああ」
緋逸の返事を受けて、羲奎はぎょっとなる。しかし緋逸は花探しに夢中で、羲奎になにを訊かれたのか理解していない。
「早咲きの福寿草でも見つけられれば、と思っていたんだが。あれも橙色の綺麗な花だから。でも、甘かったかな」
ぼそぼそと答える緋逸の言葉の大半を、今度は羲奎が聞いていなかった。会話はどんどん噛み合わなくなっていく。
「橙が似合うと思ったんだ」
「あの娘に橙の生花が似合うとは思えませんが」
「手ぶらで帰ったら怒られるかもしれないし」
「宰相が推挙した娘のどこがいいと?」
憮然とする羲奎が直截な訊き方をした直後。草むらの中で、ガサッ、と音がした。
反射的に羲奎は、王の前に身体を滑り込ませる。
「退がってください、王」
「……や、でも」
武人としての勘が働いた緋逸は、羲奎の肩越しにひょいと顔を覗かせる。羲奎にしても、あまり危険ではないことは気配から察知していたが、剣の柄に手をかけながら、
「念のためです、退がって」
緊迫した遣り取りを見た左右の将軍と禁衛も駆け寄ってくるが、緋逸は手で制した。
「いいから、どけ」
羲奎に命じながら、緋逸は草むらに入ってしゃがみ込む。そこにいたのは、黒い毛並みの美しい仔犬だった。背を丸めて縮こまる仔犬はふるふると震えている。ぱっちりとした丸い目にはわずかに怯えが漂っているものの、それもまたなかなかに愛嬌のある姿である。
仔犬を片手でぶらんとぶら提げながら、緋逸は立ち上がった。
「ほら、大丈夫だったろう。お前は過保護なんだよ」
「……は」
「野良犬にしては艶々とした綺麗な毛色だな」
「……確かに。人の手に提げられているのに、吠えませんし」
「飼い犬だったのが、捨てられたのだろうか」
「かもしれません」
「オスだな」
「は? オスだとして、それがなにか?」
「どうするか?」
「どうするもなにも、ここに置いていくしかないでしょう」
「いや、オスでも子どもを冬の山中に置き去りにするのは」
意見がわかれる、緋逸と羲奎。そんな主従二人に割り込んだのは、いつの間にか傍に来ていた修撰だった。興味津々といった様子で、緋逸の手にある仔犬を熱心に見つめている。
「誠に綺麗な黒の毛並みで。まるで陛下のお髪のように艶やかでございますね」
野良犬の毛と王の髪を比べるなど、あまり褒められたことではない。緋逸は気にしなかったが、羲奎はキッと修撰を睨んだ。修撰は「しまった!」という顔をして、一歩退く。
「ハハ、確かにな。俺の髪みたいだ。よし、気に入った」
「まさか、王」
「うん? こいつを連れて帰ることに決めた」
そこでまた修撰は、「余計なことを言いやがって」とばかりに羲奎に睨まれる。そろっと視線をずらした修撰は素知らぬフリで筆を動かしはじめた。
「別に問題ないだろう。俺が面倒をみるから」
そう言う緋逸の脳裏には、ひとつの計画が巡っていた。うまく飼育すれば、紫翠の乗騎になるかもしれないと考えたのだ。紫霄宮内の広い庭園でも、乗り物があれば移動に便利だろう。なにより犬は利口なので、育てようによっては優秀な護衛になるかもしれない。動物好きの紫翠であれば、喜んで賛成してくれるはず。
とはいえ緋逸には、あまり時間はない。それでも現時点でできうる限りのことを紫翠にしておいてやりたかった。
「これが土産だ。さて、帰るか」
緋逸はここでも意外な己の一面を発見していた。自分の中に一人の女人をこんなにも甘く想う部分があるなどと、知らなかったのだ。ご機嫌の緋逸は仔犬を胸に抱く。そんなものが金に不自由のない女への土産になるのかと、眉間に皺を刻むのは羲奎。二人の話は最後まで噛み合っていなかった。
後宮からの遣いが来たのは、緋逸が泰山の散策から戻った直後のことだった。
緋逸のもとにまろび寄ってきた殿中監は血相をかえて拱手し、後宮の遣いである女官も顔面蒼白である。
「急ぎ陛下に申し上げます。先程、瀛来羅様がお倒れになりました――」
0
あなたにおすすめの小説
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる