猫ふんづけたら

碧井永

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 とにかく鼻血を止めなければ貧血で倒れてしまうといったん家に帰った僕だが、一人暮らしのアパートで気持ちがどうにも落ち着かず、ティッシュを鼻に突っ込んで一杯飲みに出かけたのだった。
 その夜。
 ヘベレケに飲んだくれて帰ってくると、部屋のドアの前に猫がいたのだ。
 最初、僕はその猫に気づかなかった。鍵を鎖し込んでいるときに、足許になにかがどすんとぶつかり、酔いもさめるほどびっくりして見下ろせば猫にじゃれつかれていたのだ。
 それは大きくなりかけの三毛猫で、ふっくらとして可愛かった。僕はくしゃみをしながら猫を抱き上げた。
「あれ? おまえ、オスじゃないか」
 人間というものは奇妙なもので、相手が返事をしないとわかっていても、ついつい声にだして話しかけてしまうときがある。このときの僕がそう。愛らしいものにデレデレしながら、そしてくしゃみをしながら話しかけてしまった。
 ご存知だろうか? 三毛猫はほとんどがメスである。遺伝的な要素によるものであるらしいが、詳しくは知らない。それゆえにオスは幸運のシンボルとされている。それもあって僕は、彼が幸運の鍵のように思ってしまったのだ。
 僕は恭しく、猫を部屋へと招き入れた。アレルギーもちの僕が悲惨なことになるのは目に見えているが、目先の苦悩とさらに先の幸運を天秤で量れば幸運のほうに気持ちは傾くに決まっているし、命運を賭けもする。
「どこから来たのかニャ」
 などと、頭のトチ狂った男のごとく猫語でへらへらと話しかけたとき、彼の首になにかがぶら下がっているのに気づいた。首輪にしてはちゃちな紐をぷちんと切り、ぶら下がっているものを取ってみる。
 それは小さな金属の輪っかで、指輪に見えなくもない。
 僕は試しに指にはめてみた。菓子でもそうだが、輪っかを見るとついつい指にはめてみたくなるのはなぜだろう。こういった人間の心理が指輪を生みだした起源かもしれない。右手で指輪もどきを持っているので当然左の指で試してみたのだが、一本ずつ指にはめていくとピタリとはまったのが薬指であった。
「なんだおまえ、俺に結婚を申し込みに来たのか?」
 ニャンコは気ままに毛づくろいをしている。
「でも男同士じゃな、結婚はできないな」
 できないもなにも、そもそも人間と動物だ。キモチ悪いというか、パラフィリアとなれば変態の所業である。半分酔っているとはいえ情けなくなった僕は指輪をはずそうとしたのだが、ほどよく酔っているせいか指がむくんで抜けなくなってしまった。その瞬間。
 すべてが面倒になって、寝た。

 あまりの暑さに蒸されてうなされ、僕は目を覚ました。しかしそれは暑さだけでなく、玄関のドアをどんどんと叩かれて起こされたのだと気づいた。こんな夜中に失礼なと時計を見ればすでに針は一周していて、部屋の中もさんさんと明るかった。
 歳のせいか、昨夜の酒で頭がボーッとしていた。もう少し若い頃には酒が残るなんてなかったのだが、気力体力共に年々確実に衰えていた。衰えるのが早すぎだろうと是非とも突っ込んでほしいところであるが、なにしろ僕は一人暮らしである。
「どちらさまですか」
 なにも考えることなくひょいとドアを開ければ、立っていたのは恋人だった。
「世捨て人のオッサンみたいに、なにヌボッとしてるのよ。老けるのが早いのよっ」
 おお、突っ込んでくれる人間が現れた。
 いや、違った。
 なんで恋人が、ここに現れるのだろうか。
 僕は子どもの頃に見たアニメの「一休さん」のように、こめかみにあてた指をぐるぐると回した。ついでに二日酔いで目も回った。
 就活をすることがなかったためか、心の切りかえをする必要のなかった僕は大学時代に借りていたアパートにそのまま住み続けていた。それは築30年の二階建ておんぼろ木造アパートで、どこもかしこも歩けばきぃきぃと音が鳴り、あたかも敵の侵入を知らせる鴬張廊下のような造りであるが、安普請だから薄い壁を破れば簡単に侵入できてしまうので鶯張は無意味である。
 風が吹けば窓がはずれ雨が降ればささやかな洪水を引き起こす、そのような住まいに恋人を招いたことはない。しかも僕の住んでいる区画は、平穏でプチブルの溢れる時代の流れに逆行するプチスラム状態で、警察さえ諦めて見回りに来ないような場所である。ちなみに、過去三回ほど僕は自転車を盗まれている。過去一回、車に当て逃げされたが誰も助けてくれなかった。外の洗濯機に洗剤を置いたら最後、中身がカラになるまで返ってこない。干したタオルが消えているなんてことはしょっちゅうだ。ちっちゃな犯罪は親切よりも人をつないでいる、そんな場所柄。それでも住み続けているのは一重に家賃が激安だからである。
 こんなリスキーな場所に、恋人を案内できるわけがない。
「え、え、え? どうやって」
 このアパートを知ったのか訊く前に、殊勝顔で恋人が切り出した。
「昨日はごめんなさい。ひっぱたいちゃって」
 毎度のことである。
「ちょっと言い過ぎちゃったかな、って」
 どうやら恋人は、ぼろアパートにはこだわらない様子だった。周辺が物騒なことにも気づいていないようだ。とはいえ、部屋に入れるのはためらわれた。なにせキッチンがあるのかないのかよくわからない造りのここは、六畳一間なのである。今の僕の生活状態で恋人とこの部屋に二人きりになるのは精神の健康と居心地が悪いし、なにより狭っ苦しい。
 僕が「あーうー」と曖昧に口ごもっていると、恋人の目がキッとつり上がった。
「なんなのよ、それ?」
「それって、どれ?」
 なんだかずいぶんと最近に似たような会話をしたが、寝起き直後もあって思い出せない。
「それ、その指輪よ。左の薬指にはめてるじゃない」
「あ? ええっと、これは」
 なんだっけ? と僕は首を傾げてみる。やたらとつるつるした銀色のものが、確かに左薬指にはまっている。身に覚えがない。
 なんだコレ?
「まさか貴方、二股? 仕事を偽ってただけじゃなく、女関係も騙してたの?」
「は?」
「だって薬指よ薬指。しかも左の特別な指じゃない、ほかに恋人がいるってことでしょ? 指輪するってことは私より大事な女ってことでしょ? なによペアで指輪なんかしちゃって。心配して来てやったのに、貴方はほかの女といちゃこらしてたってことじゃないッ」
 決定的に寝起きの悪い僕は、なんのこっちゃサッパリわからなかった。しかし恋人が憤慨していることだけは理解できたので、暑さもあってダラダラと冷や汗が滴り落ちた。
「いや、ちょっと待ってくれ」
「待ってくれと言われて素直に待ってたらバカをみるのは私でしょ? バカをみればいいって、私のことバカにしてるんでしょ? バカにしないでよバカっ」
 あまりにバカバカ連呼されて、僕の頭のネジもばかになってきた。一体全体、僕はなにを責められているのだろう。はっきり言ってもらったほうが有り難い。
「もしかして会社が倒産したって話は、私と別れる口実なんじゃなくて? その女に乗り換えるつもりでいい加減なことをしゃべったんでしょ?」
「は? 別れるなんて俺そんな無謀なこと考えた」
 こともない、と続けたかったのに。
「きぃ」と呻いた恋人に絶妙のタイミングで遮られた。
「やっぱり考えてたのねッ」
 いやだから、「考えたこともない」と言おうとしたのに。
「今夜から心臓の痛みに気をつけなさいな、毎晩藁人形に五寸釘を打ち込んでやるから」
 うわ、ひどすぎる。精神系魔法をかけるつもりかっ。
「貴方なんか三途の川を渡る前に腐ってしまえばいいのよ。もう死んじゃえばいいんだ、二度と地獄から帰ってこられないように呪ってやるッ」
 三途の川の深いところを渡らなければ地獄には行けないのだが、渡る前に腐ってしまう僕はどうなるのだろう。それにしても恋人は、あらん限りの捨てゼリフを吐いていったような気がする。しかも鞄からなにやら取り出し、一つずつ丁寧に僕に叩きつけていった。身体のいたるところにモロに直撃し、眉間にヒットしたときはさすがに涙が出た。
 僕がうずくまって痛みをこらえていると、満足したのか恋人の去っていく足音が聞こえた。

 プロレスラーのように豪傑な恋人だが、このスラムを無事に抜けられるかと不安になった僕は、電信柱の影に隠れながらあとをつけていった。駅に着き、改札を通るまで見送ったところで引き返す。途中、トアル過去を思い出し、ストーカーのような気分になってズドンと落ち込んだが、なにより恋人の身の安全が優先である。
 そして帰ってきた僕は、投げつけられたものが求人雑誌であることを知った。眉間がぱっくりと切れて血が垂れていることも知り、求人雑誌をぺらぺらとめくりながら絆創膏を貼りつけた。




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