猫ふんづけたら

碧井永

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 ニャンコが、ひょっこりと窓から入ってきたのはそのあとのことである。
 おんぼろアパートだから契約内容はゆるく、猫だろうが鼠だろうが幽霊だろうが、人間との同居は可なのだ。その段で僕はやっと、この指輪もどきがどういう経緯で薬指にはまったのかを思い出した。
「あーおまえ、もうちょっと早く帰ってきてくれたらな」
 同情するように、ニャンコは「なうなう」鳴いた。その声に、僕の心も落ち着いた。
 さてと、問題がまたひとつ増えたわけだ。
 恋人は、僕が浮気していると誤解して帰ってしまった。浮気するだけの器量があれば若くしてツバメになっていたし、あわよくばヒモにもなっていた。あえて言うならば、器量負けしたからこそ、迷走する現在がある。はてさて恋人との行き違いをどう決着したものか?
「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道」
 意味もなく僕が口ずさむと、ニャンコはまた「なうなう」と鳴いた。
「これは鬼の副長・土方歳三がつくったんだ。ああ、そうだ。おまえに名をやろうか」
 そしてニャンコは、ヒジカタと命名された。
 問題の大前提である指輪だが、一向にはずれる気配がない。四苦八苦に格闘中、結婚している同僚が飲み会に行く前に、「石鹸で結婚指輪をはずすと指の痕まできれいにとれる」と自慢げに言っていたのを思い出した。
 石鹸を泡立てて試してみたが、失敗。調理用の油がなくゴマ油を垂らしてみたが、これも失敗した。
 ふたつしか試していない段階ですでに万策がつきた僕は、ふて寝した。扇風機の風が僕にあたるよう設定してあるためか、ヒジカタが胸の上にのってくる。最初はほかほかと温かかった胸だが、しまいには暑さとアレルギーで止まらぬ鼻水に耐えられなくなって涼みに出かけた。

 そして夕方。
 帰ってくると、ドアの前に紙袋が置いてあった。このプチスラムで物を放置しておけば、あっという間に盗られてなくなるが、これはまた珍事である。もしかしたら僕と入れ違いに置かれただけかもしれないが、それにしても奇蹟であった。
 なんだろうと僕は袋の中を覗きこみ、途端、ぎょっとして身体からだが固まった。みはった目玉がごろりんと落ちそうにもなった。
 どうにかこうにか己を奮い立たせドアを開けると、ヒジカタがちょんと座っていた。その姿に心がへろへろ和んだが、和んだからといって袋の中身が気前よく消えてくれるわけもない。
 中身は茶と深緑が混ざったような色をしていて、重さは1キロくらいだろうか。横の長さは20センチ程度あり、「COLT M1991A1」と彫られている。
 紙袋に入っていたのは360度ぐるりと回って眺めてみても、拳銃だった。
 これは本物なのか検索しようとしてケータイを探したが、どこにも見当たらない。
 悪いことは続くものである。
 どうやら僕は、ケータイを失くしたようなのだ。

 人生、良いことは続かないが、悪いことは続くよどこまでも。
 まるで13日の金曜日と仏滅が徒党を組んで、毎日に居座っているような気分である。ついでに言えば、星座占いで栄誉ある12位を毎日獲得しているようなものだ。是非とも急場をしのぐラッキーアイテムを授けてもらいたい。どうしてこうも鴨が葱をしょって来るように都合よく、次から次へと問題が浮上するのか謎である。ひょっとして厄年なのか?
 まるっきりの余談だが、西洋で不運な日として厭われる13日の金曜日は最低でも年に一回はあり、年に三回ある確立が最も高いという。数学的計算でも13日が金曜日にあたる確立は高いそうなので気に病む必要はないのだが、これに東洋では万事不吉とされる仏滅が重なったら、世界のどこに逃げたらよいのだろうか?
 とっ散らかった僕の脳内はすでに収拾不能であり、限界に達しつつあった。
「どうしたらいいだろうかヒジカタ?」
 ヒジカタは銃にまとわりつきながら「なうう」と鳴いただけだが、脳内回線が数本イッちゃってる僕には人語のように聞こえたのだ。
「まずはケータイを探したらいいんじゃない? ケータイがなければ恋人と連絡もとれないよ」
「そうだけど。これを機会に安いパソコンを買ってもいいかなと思うんだ」
「IP電話にするの?」
「するかどうかはわからんけど、まあ、ひとつの選択肢ではあるよな」
 小さな顎を銃にのせて、ヒジカタは目をとろんとさせている。
「ああ、でも俺、無収入状態なんだよな。贅沢品には手を出さないほうがいいかな?」
「働けば、そのくらいのお金、すぐに貯まるでしょ」
「う、まあ、そうか」
 ヒジカタに促され、恋人が振りかぶって投げ捨てていった求人雑誌を手にとった。内容はまったく頭に入ってこなかったがそれでもページをめくっていると、遠くで雷鳴が轟いた。この辺りにまだ雨の気配はないが、どこかで降りだしたのだろう。近頃の夕立は降ればゲリラ雨になるので、恋人が心配になった。
 恋人は濡れそぼつことなく家に帰ることができたろうか。

 誰が言ったか、いや、言わなかったかもしれないが、「魔が差す」とは逢魔が道をついうっかり踏んづけてしまったときに起こるらしい。
 逢魔が道なるものは気流のように誰の隣にも流れていて、これを踏んでしまうと失敗したり事故を招いたりすると聞いたような記憶がある。ふと悪い気に陥ったりするのもこれで、その拍子に悪事に手を出したりしてしまうそうだ。
 僕は多分きっと、いや絶対決定的に、これを踏んだのだと思う。
 無職で徐々に金はなくなるし、恋人にはフラれかかるし、ケータイは紛失するし、そんな危機的絶望状態で思いがけず銃が手に入れば誰だって一攫千金を狙うのではなかろうか。
 少なくとも、僕は狙うだろう。
 うん、狙う。
 狙ってみることにする。
 それで僕は、近所にある小さな郵便局にあたりをつけた。近くには小さな銀行もあったが、たとえ小さくともひっきりなしに人が詰めかけ、窓口にもそれなりの行員が控えているようではかなり厳しいと思われる。人もまばらで数人規模の窓口しかない郵便局なら、僕の繊細な神経でもビビることなく押し入れそうな気がした。
 要するに、現金強奪を目論んだのだ。
 何事も、まずは練習である。
 深夜の夜道。人通りの少ない場所でふんふんと鼻を鳴らし、銃を片手にか弱そうな女性を脅してみた。
 そうして僕は生まれて初めて、一本背負いに投げ飛ばされるという経験をしたのである。

 熟慮に五日、実行二分という僕のアウトサイダー化計画は、儚くも投げ飛ばされて終わりを告げた。終わりに相応しく、道路に叩きつけられた僕の目の前では綺麗な星がチカチカと飛び散っていた。
 それにしても最近の女性はなんともたくましいものである。
 僕より圧倒的に小柄な女性だったのに、いきなり身体を切り返されて腕をとられたときには、みっともなくも「うわあ」と叫んでしまったものだ。しかもその女性は、
「きゃああああ、変態ッ、怖い助けて」
 と悲鳴をあげて逃げてしまったのだ。
 僕のほうが「怖い助けて」と悲鳴をあげたかった。
 部屋に帰ってきた僕は、げんなりとして握っていた銃をとりあえず置いた。
 万年床の布団にゴロリと横になり、あれやこれやと思いめぐらせてみる。
 思うに僕の不幸は、恋人とケンカしたことから始まった気がする。殴られて、飲んだくれて帰ってきたところから連続して災難に見舞われている。そこで、
 あれ? と思った。
 そもそも恋人と必要以上にこじれたのは、指輪が原因ではなかろうか。指輪さえしていなければ、珍しく先に謝ってきた恋人とどうにかこうにかヨリを戻せたはずだ。
 僕はちらりとヒジカタを見た。
 くしゃみをしながら、思わず「うーん」と唸ってしまう。
 もしやうちのニャンコは、厄介事を招くのではなかろうか。
 言い訳がましく聞こえるかもしれないが、僕はニャンコに対して悪態をついているのではない。僕はニャンコが好きであり、アレルギーにのたうちまわっているのはあくまで僕個人の体質の問題で、ニャンコに罪は微塵もないのである。
 よってヒジカタを責めているのではない。
 ただ、すべての原点がヒジカタにあるように感じるのだ。
 これはつい先日のことになるが、小さな物音が聞こえて玄関のドアを開けると、キャベツやらきゅうりやらにんじんやら、生のままで食べられる野菜がごろごろと転がっていた。この出来事もヒジカタを拾ったあとのことだ。
 銃が置いてあったのもそう。
 もし仮に、僕がどこかでニャンコの命を助け、鶴の恩返しよろしくニャンコがご恩返ししてくれているのなら納得ものだが、ニャンコの命を助けた憶えはまったくないし、野菜はともかく銃が届くとはどういう仕組みだ? ニャンコに予知能力でもあって、近い将来にスラムが戦場となるから用心しろと警告してくれているのだろうか?
「なあヒジカタ、どういうからくりかな?」
 ヒジカタはきゅうりと戯れていて無視された。
「そういや腹が減ったな。金が残り少ないからな、一日一食に節約してるけど。こう暑いと、ビールが飲みたいな」
 独り呟いた僕は、その辺に散らばっている小銭を集めてコンビニへ行くことにした。歩いて数歩の玄関にたどり着きドアを開けると、なにかにゴンとぶつかった。野菜のときも、この音に心臓がすくみあがったものだ。またかっ、と開いたドアの隙間からそろりと覗き込めば、トイレットペーパーが置いてあった。
 12ロールセットの袋のはじが破れているのをみとめ、数をかぞえてみれば中身は10ロールに減っていた。ご近所の誰かが盗っていったに違いない。全部ではなく2ロールを盗ったところに微かな善意が感じられて、思わず笑ってしまった。
 本日の届け物はトイレットペーパー。
 なにゆえだ?
 そこで僕の動きは、はたと止まった。
 昨夜、「トイレットペーパーがなくなるな、買いに行かなくちゃな、金ばかり出ていくな」とヒジカタに愚痴をこぼしたのだ。
 僕は「むむ」と黙考する。
 よくよく考えなくても、野菜が届く前の日にはヒジカタに「腹が減ったよな」と呟いた――ような気もするし、しなかったりもする。人間、腹が減るのは日に三回毎日のことなのでそのあたりは曖昧だが、なんにせよ贈り物は届いているのである。
 僕はトイレットペーパーにじゃれついているヒジカタを抱き上げた。
「でかした、ヒジカタ」
 猫好きの僕は、猫を目にゴリゴリ入れても痛くないが、嬉しさのあまり頬にゴリゴリしながら抱き締めていたら、くしゃみ鼻水が止まらなくなってしまった。そして眩暈に襲われて、寝た。




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