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しおりを挟む愛する者が自分の身体にもたれてくる重みを「幸せの重み」と書いた小説があって、それを読んだときには「幸福の幻想だ」と半笑いになってしまったが、今ならわかる。ヒゲをそよそよそよがせたヒジカタが寝ている僕の胸にのっかってくると、ほんわりと「幸せの重み」を感じてしまうのだ。恋人だと、こうはいかない。もたれられたら最後、どこを殴られるのか蹴られるのかと身体がギシギシに硬直してしまって、あれはまったく「マジな恐怖の重み」であった。
ヒジカタを胸にのせたままで、今日はいつだろうと思う。
恋人に殴られてからすでに日曜を三回は越した気がするが、時間に囚われずのんべんだらりと生活しているせいか、今日が何月何日何曜日かを忘れてしまうのだ。
ここ数日は謎の贈り物が届く回数もめっきり減って、一昨日に2リットルのミネラルウォーターが三本置かれていただけだ。熱中症に注意しろとの警告かもしれないが、僕としては是非ともビールを置いてもらいたい。買いに行けばいいのだが、買ったらなんとなく負けた気がして、未だにビールはお預け状態なのだ。
ケータイを失くしたこともあって、ネットの海で最新の新聞記事などをサルベージできず、世間に取り残されたような気分だ。外界から遮断されたせいで友人知人からの連絡がないのではなく、僕は元々、友人知人がいないのである。少ないのではなく、本当にいないのだ。そんな孤独死秒読み状態の人間に「よく恋人ができたな」などと、世のモテない男どもから容赦なくツッコミが入るのは必至だが、そのあたりは僕が美男子だからと解釈していただければよいと願う。
「なあヒジカタ。のっかってくれるのは嬉しいんだが、どうにも暑いんだよな」
服の中で、汗がとめどなく流れて落ちる。
「ほら、これ見てみろよ。アレルギーで肌にブツブツができてんだ。誓って言うが、これは汗疹じゃない。アレルギーブツブツだ」
返事がないのは百も承知二百も合点でこりずに話しかけていると、ふいと小さな頭を上げたヒジカタの前肢が伸びてきて、顎をド突かれた。恋人ほどの抜群の破壊力はなく、その柔い肉球の気持ちよさに胸がキュンとしてしまった。
いつだったか、殴ってきた恋人に、
「手を整形してみたらどうだろう」
と提案してみた。
「それ、私に言ってるの? 手の美白しろとかほくろとれとか、美容整形ってコト?」
「いや、そうじゃなくて。掌を全面肉球にしてしまえば、俺の寿命も延びるだろ?」
「は?」
「張り倒されても骨折の心配はなくなるからな」
僕が言い終わるのを待たず、恋人にもう一発喰らわされた。
「骨を折ったことなんかないくせにっ」
至極真面目な提案を、恋人は「きぃ」と呻いて却下した。アホ抜かせ。これ以上はたかれたら、健康優良児にして頑丈な僕にも耐久の限界はやってくる。
もし恋人の両手が肉球でできていたら、もっとニャンニャン仲よくできたかなと想像し、いよいよ変態じみてきたかなと悲しくなって、寝返りを打った。
その拍子に、のっかっていたヒジカタが落ちて、むにっと踏んづけてしまったのだ。
「ななな、なう」
まるでポップな洋楽のようにリズミカルに鳴いたヒジカタは、よほどびっくりしたのか、そのまま窓まで突っ走り、飛び越えて出ていってしまった。うわわ、と慌てて僕も裸足のままで窓から飛び出した。ここが一階でよかった、二階だったならこの時点で僕は猫の恨みを買ったまま地獄の一丁目へ送られていただろう。
「おーい、ヒジカタ」
車にひかれることも考えず、ヒジカタはどんどん走っていってしまう。僕も懸命に走ったが、素足で足裏が痛いのに加えて猫のスピードについていけず、途中でぜぇぜぇとへたりこんでしまった。気づけばそこは公園で、所々に街灯はあるもののかなり暗い。
この公園は二つ三つの遊具とデカい木が何本か植わっているだけの狭いものだが、幼い子が足まで浸かれる小さなプールが併設されている。ちょっとしたボール遊びならできそうな運動場もあり、災害時には避難場所に指定されている。ニャンコを捜すには狭いようでいて広い場所だ。懐中電灯を持ってくればよかったなと思いながら、僕はうろうろと歩き回った。
「ヒジカタ」
蚊に刺されたところをぼりぼり掻きながら、ヒジカタの名を何度も呼んだ。
もしかしたら、とっくにこの公園を出ていってしまったのかもしれない――そう考えたとき、デカい木の一本が不自然にユサッと揺れた。
怪談話には耳を塞ぎホラー映画には目を瞑る、恐怖にめっぽう強い僕だが、実際に目の当たりにした場合は別の話だ。耳を澄まして目を凝らし、音のしたほうをじっと見つめた。萎縮する身体にムチを打ち、化け物か人間かをド根性で確認しなければ。この世のものでない化け物なら逃げるし、スラムをこの時刻に歩いている人間ならまともではないだろうから逃げる。どっちみち逃げるのだ。
息をつめながら、僕は木を見上げた。
「な」
「な?」
聞き覚えのある声に、思わず訊き返してしまった。
僕の背丈の倍ほどの位置にある枝に、もっさりとした物体が張りついている。うずくまるヒジカタだった。
「おい、なんだ?」
ヒジカタは「ななな」と繰り返し鳴くだけで、降りてくる気配はない。どうやら勢いで登るだけ登って、降りられなくなったらしい。動物によくある話だ。足の腱が切れるんじゃないかというくらい、僕は必死に背伸びをしてみたが、どうにも手はヒジカタに届きそうになかった。
男らしく即座に腹をくくった僕は、ヒジカタ目がけて木登りを開始した。こんな野生児並みの行動は中学生以来だが、身体は憶えているものだ。ひょいひょいと二回ほど足をかけなおしただけで、ヒジカタのいる枝にたどり着いてしまった。
「ようヒジカタ。怖かったか?」
恐怖のせいか、ヒジカタはうずくまったままで動かない。
「ほら、こっち来な」
あの小さな体のどこにそんな力があるのか、枝から引きはがそうとしてもヒジカタがはがれないので、仕方なく僕も一緒になって枝に張りついていた。
そのとき、男のひそひそ声が聞こえた。
スラムをこの時刻に出歩いている人間はまともではないだろうから逃げたいが、なにしろ今いるのは木の上である。どうするか考える間もなく、「ヒジカタごめん」と心の中で詫びながら、彼の口をむんずとつかんだ。ここで鳴き声をあげられたら、厄介事に巻き込まれるような予感がしたからだった。
「見つけたか?」
男は二人いるようで、一人がそう訊いた。
「いや、こっちにはいなかった。あんまり長居はしたくないんだが」
「だな。警察に来られたらマズいからな」
嫌な予感がいっそう強まって、心臓がドクドクと脈打った。その音が夜の静寂を破って下の二人に聞こえてしまいそうで、僕の歯が小刻みに震えた。
季節は夏だから木の葉も青々と繁り、闇も手伝ってうまいこと僕らを隠してくれている。だが反対に、僕からも地上がよく見えない。見えるように身体の角度をかえた瞬間、びっくりして悲鳴をあげそうになった。
二人が手にしていたのは大型の銃――というかライフルだった。しかも二人とも、自衛隊員のような迷彩服を着て、ひさしのついた帽子をかぶっている。
なんだその武装?
スラムが一夜にして戦場にでもなったのか?
このスラムでは充分にありえる話だが、これでは確かに「警察に来られたらマズい」だろう。
「よくない状況だな、これでは襲撃することなく負けだ」
男の一人が、苛々しながら呟いた。
「そろそろタイムリミットだ、焼いていぶり出すか?」
なんのタイムリミットか知らないし、なにを焼くのか滅茶苦茶気になるが、早くどこかに行ってほしい。
「主敵をもう一度確認するか」
「ああ、捕捉したらすぐに牽制攻撃だ」
赤穂浪士の討ち入りを間近で眺めている気分になってきた。
二人はいったいなにを、いや、誰を捜しているのだろう。
「接敵したら合図を寄越せ。ヤツは勘が鋭いからな」
「了解だ」
やっと行ってくれるかなと安心した途端、
「餌場に飛び込ませるのは三毛猫だ」
その言葉に、僕はヒジカタを見つめた。
まさかおまえかっ?
「排撃し、邪魔者は撃滅してよし」
邪魔者って、もしや俺ッ? ――と頭の中が急速にぐるぐるした。
そのまま、なにも考えられなくなって、僕とヒジカタは枝に張りついたままで空の色がかわっていくのを傍観していたのだった。
空が白み始めた頃、耳許で蝉が「うわわわわん」と鳴きだし、あまりの爆音に驚いてヒジカタを抱えたままで僕は木から転げ落ちた。さすがに死ぬか骨を折るかするなと、落下の最中にのんびり考えていたのだが、有り難いことに僕の頑丈さはここでも発揮された。心から牛乳に感謝した。
ただ、落ちるだけでは済まなかった。僕は不運だ。落ちた場所は幼児用のプールで、ずぶ濡れになったのだった。幸運にはおまけはつかないが、不運には洩れなくおまけがついてくる。それも余計についてくる。ご多分にもれず水が大嫌いなヒジカタは、プールの中で「ふなななな」と猫らしくわめいて暴れ、僕の顔と手を引っ掻きまくった。
それでもなんとかヒジカタを落ち着かせて肩にのせ、引っ掻き傷の痛みと格闘しながら家路を急いでいると、今度は大きな釘を踏んづけた。
なんでこんなところに釘が? と考えて、恋人の怒り狂った顔が脳裏にチラついた。
恋人は、
「毎晩藁人形に五寸釘を打ち込んでやる」
と宣言しなかっただろうか。
これは五寸釘の呪いでは? ――僕は釘の刺さった足裏を見下ろして、溜め息を吐いた。
溜め息しか出なかった。
「今夜から心臓の痛みに気をつけなさいな」
とも恋人は言っていた。
思わず心臓を押さえてしまった。
呪われたから心臓が痛いのか、昨夜の出来事が未だに整理できない焦りで心臓が痛いのか、はたまたその両方か、今朝までちらとも感じなかった痛みがじくじくと身体をむしばんだ。なんだかんだで僕は、人恋しくなったのかもしれない。せめて呪いを解いてくれと、心の中で恋人に何度もすがった。
「俺は殺されるのかな?」
ヒジカタに話しかける。
無視された。
「最期に恋人に逢いたいな」
肩でゴロゴロと唸るヒジカタはなにも答えてくれなかったが、「逢いに行ったらいいんじゃない」と言われたような気がして、少しだけ気分が晴れた。
気分は晴れても、ヒジカタにつけられた傷と素足で踏んづけた釘の傷が消えることはない。
血をだらだらと垂らしながら僕はアパートへ帰ったのだった。
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