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三章 感情に蓋をして
19-2 アルファという種
しおりを挟む僕は思いっきり顔を顰めた。
おもむろに腰を上げ、男を一瞥した。
「すみません。ナンパなら余所でお願いします」
「待って待って! ナンパじゃないから!」
眉を下げ、情けない声で乞う男――雪路まひろ先生。
先生は立ち止まった僕にホッとしたようなそぶりを見せた。その様子を白けた目で見ていれば、苦笑いを浮かべられる。
「いやぁ、視線が冷たいなぁ」
「ええ、まあ」
「ちょっとは否定してくれないかな?」
否定も何も、本当の事だ。
僕はついそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
彼も何かを悟ったのか、「まあいいけどね」と呟き、手を組んだ。まるでどこかの銅像みたいな恰好だ。
「君、オメガでしょ? オメガの子が、アルファ棟に来ちゃダメなのはわかってるよね?」
「……勘違いじゃないですか? 僕はそんなことしてないですよ」
にこり。
僕は笑みを浮かべて誤魔化した。
もしここで肯定してしまったら、僕は決まりを破ったことを認めることになる。
アルファに弱味を握られるほど怖いものは無い。
彼はにこやかな顔のまま、ふうんと呟いた。
「いやぁ、いいねぇ。オメガの子は、そういう強かな所があるから凄い。ああ、もちろん、褒めてるよ」
「オメガなんて、性別の一種だしね」と彼は言う。
驚いた。そんなことを言う人は、初めてだったから。
「アルファのお医者さんがそんなこと言っていいんですか?」
「仕事と自分の意見は別でしょ? 俺は今、問診をしてるわけでも、相談に乗っているわけでもないからね」
「それは、まあ……確かに」
彼は満足そうに微笑んだ。
……なんか、ちょっと変な人だな。
僕はちょっと心配になった。
しかし、それに気づいているのか否か、彼はそれでねと本題の口火を切る。
「君に声をかけたのは他でもない。――君が俺に聞きたいことがあるんじゃないかと思って」
僕は一瞬動きを止めた。
図星だった。
彼はアルファ専門の医者だという。
ということは、僕の聞きたい事にも答えてくれる可能性は高い。
でもここで素直に聞くのは少し憚られる。僕は予防線を張ることにした。
「……どうしてそうだと?」
「勘、かな?」
彼は得意げに微笑む。
それに、僕は少し苦虫を嚙み潰した気持ちになった。僕は反撃とばかりに口を開く。
「良いんですか? 個人情報は言えないんでしょう?」
「それはもちろん。だから『質問によっては』答えられないかもね」
つまりは、『聞き方を考えろ』ということか。
僕は口角が上がるのを感じる。
さっき門前払いされたからだろうか。心の奥に希望の光が灯ったようだった。
まずは手始めに、とありきたりな質問をすることにした。
「先生は、アルファ専門の先生なんですよね?」
「うん、そうだよ」
「やっぱり、若い人とかも来るんですか?」
「もちろん。寧ろ若い子の方が多いかなぁ」
「近所じゃない人は?」
「うんうん、来るよー」
「旅行中の人とかも、たまにね」と彼は笑う。
今の返事で彼が嘘を吐く気がないことが伝わる。
「珍しい苗字の人とかいます?」
「うん、たまにいるよ」
「どんな苗字です? 例えばでいいですよ」
「例えば? うーん、そうだなぁ。この前聞いて驚いたのは、“鯛津”さんとか、“小鳥遊”さんとかかな。あとは――“暁月”さん、とか」
ビンゴだ。彼はにやりと笑う。
悔しいが、今のは僕もちょっと嬉しかった。
「へぇ、それは珍しいですね」と返しながら、上がる口角を必死に抑える。
……ちょっと楽しくなってるなんて、バレたら面倒なことになりそうだ。
(――けど、やっぱり暁月くんはここに来てたんだ)
そして恐らくだけど、診てくれたのは目の前にいる先生なのだろう。
確信はない。直感だけど、たぶん合ってる。
「アルファの人も抑制剤とか使いますよね? 不調とかあるんですか?」
「人によってはあるよ」
細い目が覗き、僕を見る。
どうやらこれ以上はダメらしい。
(それなら――)
「そうなんですね……実は僕、オメガなんですけど、番がいて。番がアルファなんです。でも最近ちょっと悩んでるみたいで心配で」
嘘ではない本当の話。本当の話だけど、嘘の話。
僕は彼を見つめる。
「抑制剤が合わないと、どういう症状が出るんですか?」
彼は「うーん、そうだねぇ」と言いながら、口元を隠した。
先生もこの状況を楽しんでいるのだろう。緩んだ口元がそう言っている。
「一般的には、吐き気がしたり、ひどい頭痛になったりが主かな。最悪、心にも影響が出て、家出とかしたくなる子もいるね」
「家出ですか」
「うん。それに、抑制剤を飲むってことは、大切な人がいる場合が多いから、欲を抑えている分強く影響が出やすいよ」
大切な人。
その言葉に僕は引っ掛かりを覚える。
(そういえば、暁月くんは抑制剤の使い過ぎで頭痛がずっとあったんだっけ)
いつだったか、僕が抑制剤を飲んでいるのを見て、そう話してくれた。
『自分には強い薬しかなくて、その分副作用が重いのだ』と。
(それじゃあ、暁月くんも単に抑制剤の話をしに来ただけ?)
なら、なんでいなくなったんだ?
「……抑制剤の事もあるけど、相談として一番多いのは、やっぱりオメガの人との関わり方だよ」
「え?」
「ほら、抑制剤を飲むにしても、緊急の時だけにするにしても、身体や生活習慣に合うかっていうのもあるからね。もちろん、薬だけじゃなくて『どうやって話合ったらいいか』、『怖がらせないようにするにはどうすればいいか』なんてことを聞いてくる人もいるよ」
「意外とアルファの中でも、オメガやベータの人と楽しく過ごしたいって人は多いんだ」と、雪路先生は穏やかな声で言う。
(なんか、先生っぽい事言ってる)
今まではチャラくて食えない人だと思っていたけど、この人ちゃんとお医者さんだったんだ。
僕はそんな失礼なことを考えながら、「そうなんですか」と呟く。
それにしても、知らなかった。
アルファの人が、自分達とのことをそんなふうに考えていたなんて。
てっきり僕達オメガやベータを見下している奴らばかりだと思っていたのに。
「……アルファの人でも、悩むことがあるんですね」
「ははは。アルファっていうだけで『傲慢だ』とか『自分勝手だ』とか言う人もいるけどね。根っこは君たちと変わらないよ」
「大切な人と幸せになりたいだけ」と彼は目を伏せる。
僕は一瞬、心の奥を見透かされたような気がした。
(“アルファだから”って決めつけてたんだ、僕)
全くそんなつもりはなかったのに。
僕はばつが悪くなって視線を逸らす。それを彼は咎めることはなかった。
「まあでも、やっぱり相性とかもあるからね。それを調べに来る人もいるよ」
「相性?」
「君も聞いたことがあるんじゃないかな。――“運命の番”ってやつ」
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