チョコレートと不思議なおとなりさん

和はる

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秋の鍋

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パクパクと赤い金魚が、泡を吐く。
翔太朗の口もぱかりと開いた。
すいすい、ひらひらと傘の中を泳ぐ。
パタンパタンと傘に落ちる雨音を追いかけて、あっちへひらひら、こっちへひらひら。
まるで大きな金魚鉢を見上げているよう。
駅で買ったばかりの傘だ。
もちろん、新品で、見たタグにはサイズと値段しか書いてなかったはずだ。
間違っても「金魚付き」などという記載はなかった。
なかったはずだが、傘の布に触れている、翔太朗の髪をちょんちょんと、引っ張られる感覚は本物である。
お酒も飲んでいないし、手足はいまだ冷たい。
夢でもない。

「あー…」

翔太朗はきゅっと目をつぶって、両手の荷物を下ろした。
ようやく伸ばせた指先にきゅうっと、血が通いはじめる。
道路は濡れているけれど、まあ、あとで乾かせばいい話だ。
どうせもう、ずいぶんと雨と霧にやられている。
そっと傘を手に取り、傾けていた首を戻す。
コキンと背骨が鳴った。
ここ最近、デスクワークや長距離の乗りもの移動が続いたのだ。
久方ぶりにゆっくりできると思ったのに。
大尊の近くに来た途端これだ。
傘の柄を、剣道の竹刀(しない)のように持ち、ゆっくりと正面に構える。
金魚は紺色の布地から、落ちもせず、こぼれもせず、ゆったりと泳いでいる。
ときおり水面、と思われる、内側に近づき、パクパクと口を開いている。
さかさまにして、道路においても、変わらなかった。
180度変わったというのに、傘の中に重力はないらしい。

周りは霧。
10歩ほど先も見えない。
頭の上からは、ぼんやりとした、青白い街灯の明かり。
夕方に近い時間だろうが、天気のせいか、ずいぶんと暗い。
この辺りで霧だなんてめったに出ない。
朝もやが、たまにかかるかどうかなのに。
ぱしゃんと金魚が泳ぐ。
サラサラとした雨が、まつ毛の上で水滴になった。
傘から手を離して、後ろへ一歩下がる。
「きんぎょ、だなあ」
雨で、霧で、迷子で、道路の真ん中に荷物を置いて、ひっくり返した傘を見つめる、二十代半ばの男がひとり。
不審者だなあ、と翔太朗は、遠い目をする。
その姿を見る者はいないけれど。

自由になった手で、コートのポケットからスマホを取り出す。
パネルの光はいつも通りなのに、電波がない。
今や飛行機やトンネルを走る新幹線の中でも、Wi-Hiで通信ができるというのに。
街中で電波が立たないとは。
一拍置いて、ここが本当に街中だったら、と翔太朗は胸の内で付けくわえた。
電波が通じず、連絡が取れない。
周りを見ても霧ばかりで、路も分からない。
荷物は両手分。
傘は使えるけれど、オプション付き。
雨が柔らかな霧雨に変わったことだけが、いいことだろうか。

ちらっと、足元の金魚を見る。
「…金魚、ねぇ?」
ぐっと首を回して道路に置いた、買い物バッグを探る。
鍋の具財に、明日の朝ご飯のつもりの食パン、缶ビールとチューハイ缶に、手土産の用のカラフルなキャンディポッド。
加熱式タバコ用の煙草。
胸ポケットをさぐって、ホルダーを取り出し、差しこんでじんわりと吸う。
じわっと胸が落ち着く。
それからホルダーを持ったまま、食パンの袋を開けて、真ん中の柔らかいところをちぎる。
金魚はパンくずを食べるものだろう。
というか、雑食だったはずだ。
スパゲティを食べる大物もいると聞いたことがある。
「こんなことしてる場合じゃないんだけどなあ」
ぽそっと呟いて、翔太朗は傘にパンくずを落とした。
不思議なもので、パンくずは傘の上で跳ねかえりもせず、ぷくっと布地に沈み、ふわりと尾ひれをなびかせた金魚に食べられた。

「ほんとに食べた」

自分でやったことなのに、何だか腑に落ちなくて、翔太朗の頬は引きつる。
少しずつちぎり落として、いくつかの欠片を食べたところで、満足したのか金魚はまた、ゆるゆると傘の中を泳ぎ出した。
「電話が出来ればな」
メンソールのすっきりとした香りを、胸にためて、ふうっと吐きだす。
あらためて周りを見回す。
すると、さきほどは気が付かなかったことに気が付いた。
視界がきかなくなる境目。
そっと近づくと鮮やかに色づいたイチョウの葉。
黄色の扇を拾いあげれば、濡れた形跡はない。
目を凝らしても、黄色い木は見えず、風が強く吹いているわけでもない。
「いやいやいや、イチョウがないっていうか、今は秋っていうか」
眉間に皺が寄る。
確かに疲れていたが、翔太朗は目はいいほうだ。
パソコンも使うし、目を酷使するように、多くの論文資料を読んだりもするが、メガネに厄介になったことはない。
まったく、今日は何ていう日だろう。

揺れる霧の向こう、生い茂る青々とした葉に、色とりどりの花。

薄紫に、青にピンクにほんのりとした白。
紫陽花。
もしかしたら秋に咲く紫陽花もあるのかもしれないが、黄色は黄色でもイチョウではなく、大輪のヒマワリまで首を傾げている。
もう少し視線を下げれば、タンポポの綿毛と、チューリップと苺が赤い実を付けていた。
おかしい。
コートを着ていても、暑くも寒くもない。
煙草は美味しく感じるが、口元はどんどん、への字に変わっていく。

「ぜったい、おかしい」

ぴちょん、とどこからか水の跳ねる音がする。
まったく、久々の故郷で、しばらくぶりの休みで、ついでに言うなら日本もちょっとぶりだった。
中国、大連から帰国した足でレポートをやっつけて、帰郷したというのに、このありさま。
鍋のおつかいもしたのに。
「あー、もー、訳が分からん」
そろそろお腹も空いてきたし、温かい風呂にも入りたい。
具だくさんの鍋をこたつで突きながら、冷えたビールを飲みたい。
何が悲しくて、植物園でもないのに春夏秋冬の花を、一同に愛でねばならぬ。
いや、花に罪はない。
たぶん、ない。

煙草をもう一度吸って、荷物の元まで戻る。
道に迷ったときは、その場を動かず、助けを待つか、来た道を戻るか。
スマホは通じず、道は霧で視界が効かない。
ふっと煙を吐く。
それにつられてほんの少し、霧がゆらめいた。
もう雨は止んだようだ。
よし、と翔太朗はタバコを携帯灰皿に押しこみ、荷物を抱え直す。
少々持ち手が短くて、厳しいが、買い物バッグを肩にかけて、空いた手に広げたままの傘を持った。
ゆらゆらと水を入れたバケツのように、傘の布地が揺れたが、金魚がこぼれることはない。
とりあえず。
「歩く。待ってても大尊が迎えに来る可能性は低い」
きっと今頃、こたつでゲームでもしている。
天気の悪い日に外へなんぞ、いや、天気が悪くなくても家が大好きな男だ。
それに迷路では、右手の法則というのがあるではないか。
コンビニか、交番に当たれば上等。
でなければ、恥を忍んで民家のチャイムを鳴らそう。
そうと決めて、奇妙な霧の道を翔太朗は前を向く。
早くしないと日が暮れるし、お腹も空いた。

ふわりと、霧にまぎれて桜の花びらが散っていった。




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