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夫が「未亡人を我が家で保護する」と言ってきました
しおりを挟む玄関の扉が開き、外気と一緒にクロードが入ってきた。
濃紺の外套に金糸の刺繍、整えられた黒髪に灰色の瞳。
「カタリナ、ただいま」
私は出迎えながら、彼の後ろに立つ見知らぬ女に目を留めた。
淡い金髪をゆるく巻き、喪服のような黒いドレスを着ている。
肌は雪のように白く、瞳は薄紫。
弱々しい雰囲気をまとっていた。
「おかえりなさい。そちらの方は?」
「フローレ・ミルサンジュ前侯爵夫人だ」
見たことのない顔だ。
どういうことなのかしら?
「夫に先立たれ婚家から追い出されたが、実家は没落していて行くところがないという。
だから、うちで保護することにした」
「は? 保護?」
思わず声が鋭くなる。
女──フローレは、小さく頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
その声音はか細く、同情を誘うような響きがあった。
「では、応接室に──ご案内して」
私がメイドに言うと、クロードが眉をひそめた。
「何で応接室なんだよ。
客室でいいだろう」
「私は初対面なんだから、どういう経緯で何故うちに来たのか? 聞かなければいけないでしょう」
「そんなの俺が後で説明するから、今は彼女を休ませるんだ」
「ふうん? まあ、いいけど」
私は、フローレを客室へ案内させた。
彼女は小さく礼をして、静かに廊下へ消えていく。
「では、夕飯前に聞くから着替えてきて」
「わかった」
クロードは軽く頷き、自室へ向かった。
夕飯前のテラスは、春先の冷たい風が吹き抜けていた。
私は椅子に腰を下ろし、向かいに座るクロードを見据える。
「それで?」
私が促すとクロードは、話し始めた。
「彼女は先日、亡くなったミルサンジュ前侯爵の後妻だ。
未亡人になった途端『出てけ』と言われたが、実家のデビス男爵家は没落していて帰るところがないんだ」
私は眉をひそめる。
「まず、何の知り合いなの?
社交場で会ったことないんだけど」
「見てわからないか。
俺の学園時代の同窓生だ」
わかるわけないだろう。
彼は私より5つ上で、貴族学園は3年制。
同じ時期に在籍していない。
「恋愛という意味で交際していたの?」
クロードが学生の頃には、すでに私との婚約が決まっていた。
「そんなわけあるか。
俺は、そんな不誠実じゃない。
ただ、一方的に片思いしてただけだ」
……うん、微妙なラインね。
「で、実家が没落って何?
貧乏ってこと? それとも取り潰しになったってこと?」
「貧乏だった」
「じゃあ、爵位を売って平民になったのね?」
後で貴族名鑑を調べればわかることだ。
「そこまでじゃない。爵位はある。
ただ、平民同様の貧しい生活をしてるって事だ」
「何で爵位を売らないの?」
「君は、彼女に平民になれって言うのか」
夫は、少し怒ったように言う。
確かに婚家から籍を抜かれたら、そうなる。
「今日会ったばかりの他人が平民になるかならないかなんて、どうでもいい」
私は肩を竦めて、お茶を飲む。
夕暮れの光がテラスに差し込み、彼の表情を半分だけ照らしている。
「……冷たい人間だな」
「わかった。じゃあ、私の同級生にも借金まみれの伯爵令息がいるから、その人をうちで保護するね」
「なんで俺が、赤の他人を養わないとならないんだよ」
「冷たい人間ね」
彼は言葉を失い、唇を閉じたまま固まった。
「……」
「えっと次、追い出されるって何?
別に出されても、良くない?
何で婚家にいなきゃいけないの?
私だったら秒で実家に帰るけど」
「行くところがないのに、追い出されたら可哀想だろ」
クロードは眉を寄せ、まるで自分が守るべき弱者を抱えている英雄気取りだ。
「遺産で家を買うか、建てて住めばいいだけでしょ」
「その遺産も貰えないんだ」
私は肩をすくめた。
「弁護士、紹介すればいいじゃない」
「……可哀想だろ」
「何で?」
クロードは少し声を荒げた。
「心細くて、誰かに頼りたいだろう」
「だから弁護士に頼ればいいじゃん。未成年じゃあるまいし。
逆にその程度の手続きもできないような無能な人間なら、追い出されて当たり前じゃない。貴族失格だもの。
そんな人の親なら、実家が没落するのも自業自得」
クロードは口を開きかけ、しかし私の反撃を察したのか、喉の奥で言葉を飲み込んだ。
どうせ「冷たい人間だな」とでも言うつもりだろう。
「……君は……」
やっぱり言いかけて黙った。
「で? 何で社交界に出てないのに、彼女の事情を知ってるの?
手紙でも来たの?」
「通勤途中に倒れてたんだ」
「は?」
「朝、道に倒れてて王宮の救護室に運んだんだ。
それで意識がしっかりしてから、事情を聞いた」
「普段から手紙のやり取りをしてたんじゃなくて?」
「ああ、学校を卒業してからは会ってない」
その割に、ずいぶん肩入れするのね。
「ふうん? それで今後どうするの? いつまで保護するの?」
「そんなの、必要なくなるまでに決まってるじゃないか」
「必要なくなるっていうのは具体的に、どういう条件? 再婚するってこと?」
「再婚? 再婚する必要なんかないだろ。ずっと居ればいい」
……は?
「はあ? 客対応で死ぬまで面倒みるってこと?」
「客って……そんな、家族になればいいだろう」
家族。
その言葉に、私の中で何かが冷たく固まった。
「それは第2夫人ってこと?」
「彼女が望むなら、それでいいだろう」
その瞬間、私は立ち上がった。
怒鳴りもしない。泣きもしない。
ただ、淡々と事務的に告げる。
「それなら、あなたが彼女と家から出てって。
息子を次の伯爵にして、私が中継ぎとして仕事するわ。
──さよなら」
クロードの顔から血の気が引いた。
当然よ。
私はこの家の正妻であり、ヴァルシュタイン辺境伯の娘。
そして、レーヴェンス伯爵家の実務を支えてきた。
彼がいなくても家は回る。
むしろ──彼がいない方が、ずっと。
クロードは口を開き、しかし言い返す言葉を探しているように喉が震えた。
「そんなこと言ってないだろう」
言ったも同然よ。
でも、いちいち答える必要ない。
話を進める。
「それで、あなたは彼女の話どこまで調べたの?」
「調べたって?」
「ミルサンジュ侯爵家とデビス男爵家に確認したの?」
クロードは眉をひそめ、まるで私が理不尽なことを言っているかのように返す。
「彼女が嘘つくわけないだろう」
私は、ため息をついた。
「もういいわ」
椅子を押しのけて立ち上がる。
クロードが慌てて私を見る。
「言っておくけど両家の親には、すでに早馬で知らせたから」
「は? どういう……? なんで?」
「直に当主、降ろされるんじゃない?
まだ、わかんないけど。
今のうちに出てけば?」
クロードの顔が真っ青になった。
そのまま私はテラスのドアを開けた。
──そこには待機していた4人が立っていた。
黒い外套を着た弁護士。
白手袋の執事。
帳簿を抱えた監査人。
そして、腰に剣を下げた憲兵。
全員が、私に軽く会釈する。
クロードが慌てて追いかけてきて、4人を見た瞬間、目を見開いた。
「ま、待って。大袈裟だろ、こんなの。
ただ保護するだけなのに、何でこんな……?」
私は振り返り、イライラを隠しもせず言い放つ。
「詐欺かもしれないんだから、外敵に備えるのは当たり前でしょう」
「彼女は、そんな人じゃない!」
「だったら初対面の人が、その言葉を納得するだけの証拠を出して」
「それは……だから、同級生とかに聞いてもらえれば」
「だったら今から使いを出して、その人たちに来てもらって」
「今すぐ呼ぶなんて迷惑だろう。
なんで、そんなに大げさなんだ?」
私はもう1度、深く息を吐いた。
「うるさくって殴りそう」
クロードが、ビクリと肩を震わせ後退る。
──当然よ。
私は辺境伯の娘。
剣も馬も弓も叩き込まれて育った。
対してクロードは、ただの文官。
腕力も胆力も、私の方が上。
私は4人を連れて、フローレのいる客室へ向かった。
客室前の廊下には、テラスにいたのとは別の弁護士と憲兵、そして監査人が配置されていた。
全員が無言で直立し、私が来るのを待っている。
ついてきたクロードは、その光景を見た瞬間に顔色を失った。
灰色の瞳が大きく揺れ、喉がひくつく。
客室の扉を開けると、私の従者がすぐに立ち上がった。
栗色の髪を後ろで束ねた、冷静沈着な青年だ。
「どうだった?」
従者は丁寧に折り畳まれた紙を差し出した。
そこにはフローレから聞き取った内容が細かく記されている。
クロードが先ほど語った話と、ほぼ同じだった。
私は紙を一瞥し、フローレに告げた。
「申し訳ないのですが、事実を確認し事件性がないと判断するまで、牢屋に入って貰います」
クロードが叫ぶように声を上げた。
「バカな! いくらなんでも! 俺の連れてきた客だぞ!」
「それは牢屋に入れるなってこと?」
「当たり前だろう!」
私は小さく笑った。
その笑みが、クロードには恐ろしく見えたのだろう。
肩が震えた。
「な、んだよ?」
「私と子ども達の荷物を全部、馬車に乗せて。
親への伝達係を残して全員、移動します」
使用人が慌ただしく出ていく。
「はあ? なんだ、それ? 待てよ!」
クロードが焦って、私の肩を掴んだ。
指が食い込み、痛みが走る。
「痛い!」
その瞬間、憲兵が前に出た。
「暴行の現行犯です。
騎士団の詰め所まで来てください」
「は? このくらいで? そんな! 詰め所って!」
憲兵は淡々と手錠を取り出し、クロードの手首にかけた。
金属音が響く。
「暴行の現行犯です。
奥様から『抵抗した場合、殴っていい』と予め許可をいただいてますので、抵抗しないでください」
「な、なんだ、それ! 待て、待てって! 俺は──!」
クロードは叫びながら、憲兵に引きずられていった。
その声は廊下の奥へと消えていく。
私は客室の中央に立ち、フローレを真正面から見据えた。
彼女は怯えたように肩を震わせ、薄紫の瞳が揺れている。
「事実を確認して嘘があった場合、詐欺や家の乗っ取り未遂で被害届を出します」
フローレは唇を震わせ、必死に首を振った。
「いえ、そんな……私、そんなつもりじゃ……」
「決定事項です。お引き取りください。
犯行が確定すれば、裁判所で会うこともあるでしょう。
それ以外は関わらないでください」
憲兵が前に出る。
「出て行かないと、不退去罪の現行犯で逮捕することになります」
その言葉にフローレは悲鳴のような息を漏らし、慌てて荷物を掴んで逃げていった。
「害虫駆除1段階目、終了。
さあ、2段階目の準備をしましょう」
従者たちが無言で頷く。
──翌日。
義両親が駆けつけ、応接室で私は一連の経緯を説明した。
舅は白髪混じりの髪を撫でつけ、姑は青ざめた顔でハンカチを握りしめている。
「ミルサンジュ侯爵家とデビス男爵家に早馬で確認を取ったところ──デビス男爵家は不正により準男爵に降格しており、"フローレの現状は何も知らない"と謝罪するのみ。
ミルサンジュ侯爵家は“フローレが長年、使用人と不貞していたため、彼女の分の遺産とペナルティーを相殺すると伝えたところ居なくなった”とのことです」
義父母は同時に息を呑み、深く頭を下げた。
「……すまない……本当に、すまない……」
私は淡々と続けた。
「もう、クロード要らなくないですか?
子どもも2人いるから血が絶えるわけでもないし」
舅は顔をしかめた。
「バカだとは思ってたけど……しかし、あれでも血が繋がってるから……」
「え、なに言ってるんですか。
あの未亡人が“クロードの子だ”と偽って使用人の子を生み、家を乗っ取ってたかもしれないんですよ?」
義父母は完全に言葉を失った。
義母の手からハンカチが落ち、義父は蒼白になって椅子に沈み込む。
私はゆっくりと姿勢を正し、淡々と告げる。
「義父様は息子をバカだとわかってて、家格が上の私に押し付けたんですよね?
もし男爵が失敗した陶芸品を“買え”と押し付けてきたら、どうしますか?
私なら殴りますね『要らないゴミを寄越すな』って」
伯爵と辺境伯なら辺境伯が上だ。
夫という名のゴミを押し付けたこと、後悔させてあげる。
義父は顔を覆い、深く頭を垂れた。
「本当に面目ない……」
義母も涙ぐみながら頭を下げる。
「ごめんなさい……」
私は続けた。
「恐らく未亡人は詐欺未遂になりますから、判決が出たら──わかってますね?」
直接金品を奪っていなくても、居候すれば生活費が発生する。
それが詐称行為の上なら有罪である。
義父は震える声で言った。
「……親族に当主交代の連絡を入れる」
「できれば判決前の方が、傷が浅くて済みますけどね」
未亡人が詐欺未遂になれば、クロードは“被害者”だと本人は思うだろう。
だが──そんなバカが当主だったという事実そのものが、家の面子を深く傷つける。
ゆえに、家としては“処分”せざるを得ない。
義両親は重い溜息をついた。
その肩が、老いと疲労で沈んでいく。
「まあ、せっかく来ていただいたんで、子ども達に会って行っていいですよ。
ただし1時間ね」
義父母は、とぼとぼと子ども部屋へ向かった。
背中が小さく見える。
──これで“2段階目”も終わり。
後日。
クロードの処遇が決まった。
略式裁判で禁固1週間。
罰金を払えば即日釈放だったが、私が入金を拒否したため、そのまま刑務所行きになった。
──そして、彼が牢に入っている間に、もう1つの判決が下った。
フローレ・ミルサンジュ。
詐欺未遂、有罪。
憲兵と監査人が、ドアを挟んで聞いた話を証言。
フローレも、自供した方が罪が軽くなるため口を割った。
“嘘をついて家に入り込もうとした”ことは認めたが、“乗っ取り”は否定。
貴族としての生活を続けたかった、と供述したらしい。
結果、ミルサンジュ侯爵家からも、デビス準男爵家からも縁を切られた。
──そして私は、子ども達が成人するまでの中継ぎ当主となった。
2週間後。
クロードが、みすぼらしい姿のまま徒歩で帰ってきた。
黒髪は乱れ、服は皺だらけ。
それでも本人は“当然の帰宅”のつもりらしい。
「帰ったぞ。
おい、何で迎えを寄越さないんだ!
っていうか、何で俺が有罪なんだ?
あれぐらいのことで」
私は深くため息をついた。
「これ、牢屋に入れてちょうだい」
使用人達が即座に動き、クロードの両腕を掴む。
「は? ちょ、待て! なんでだよ!
俺は帰ってきただけだぞ! 離せ!」
わめき散らす声が屋敷に響く。
私はその騒音を背に、執事へ視線を向けた。
「息子を引き取る気があるのか、義両親に聞いてくれる?」
執事は恭しく頭を下げた。
「すぐ使いをやります」
クロードの叫び声が遠ざかる。
私は静かに目を閉じた。
──これで、レーヴェンス家の“清掃”は最終段階に入る。
牢屋の中は湿った空気がこもり、鉄の匂いが鼻についた。
薄暗い中でクロードは床に座り込み、乱れた黒髪と無精髭を放置していた。
「なんで、お前はバカなんだ?
自分の今の状況、わかってるのか。
どうして誠心誠意、カタリナに謝らないんだ?」
クロードは鉄格子越しに父を見上げ、まるで自分が被害者であるかのような顔をした。
「父さん、何言ってるの。
あれぐらいのことで当主で夫である俺を刑務所送りにするなんて、ありえないだろう。
しかも罰金も払ってくれない、迎えもよこしてくれない」
……本当に、何も理解していない。
舅が私に視線を向ける。
「まだ話してないのか?」
私は静かに頷いた。
すると舅が息子に告げた。
「お前は、もう当主じゃないよ。
親族会議で決定した」
クロードの顔から血の気が引いた。
灰色の瞳が揺れ、口がぱくぱくと開閉する。
「そこまで……たかが愛人候補連れてきたくらいで」
「家格が上の妻を娶って、愛人を家に置けるわけないだろう。
辺境伯に斬られたいのか、お前」
クロードは、子どものように視線を泳がせた。
「……でも、でも、だって……」
義母はついに泣き出し、震える手で顔を覆った。
私は淡々と告げる。
「ここに置いておいても仕方ないので、そちらで引き取って貰えませんか?」
「孫に悪影響だものね……」
姑は頷いたが、義父は低い声で言った。
「いや、いっそカタリナに未亡人になって貰った方がいいだろう。爵位保留で」
「……未亡人……冗談だろう?」
震える夫を無視して、私は提案した。
「では1年、拘留して改善の見込み"なし"となれば──事故で処理しましょう」
義父母は無言で頷いた。
クロードは鉄格子にしがみつき、声を裏返らせて叫ぶ。
「嘘だろ?! そんな……!」
「あんなわかりやすい嘘に騙されて、得体の知れない女を家に引き入れたんだぞ?
もし、あの女が乗っ取りを計画して孫を殺したら、どうするつもりだったんだ」
「いや、彼女はそんな悪人じゃないよ。
追い詰められて、ちょっと嘘ついてしまっただけだよ」
義父は、説明しても理解しない息子を見限った。
「……カタリナ、ダメだと思ったら殺してください。
もう何も言いません」
私は軽く頭を下げた。
「分かりました。
では、今後のことも含めて、上で食事しながら話しましょう」
義父母は牢屋を後にし、私は最後にクロードを一瞥した。
鉄格子の向こうで、彼はまだ現実を理解できずに震えていた。
両親も使用人も親族も、誰1人として助けてくれない。
どうしてだ?
どうして、俺だけが悪者みたいに扱われているんだ?
確かに、フローレを愛人にしたいという下心はあった。
だが、そもそも人助けだ。
だいたい貴族は政略結婚で、結婚後に恋愛するのは普通だ。
俺は伯爵で当主なんだから、愛人の1人ぐらいいたっていいはずだ。
カタリナのことが嫌いだったわけじゃない。
だが、特別すごく好きっていうわけでもなかった。
過去の恋愛が手に入るなら、それは幸せなことだろう。
妻なんだから、応援してくれたっていいのに。
どうして、あんなに怒るんだ?
どうして誰も理解してくれないんだ?
ああ、何がいけなかったのかな……。
俺はただ、少し優しくしただけだ。
困っている人を助けただけだ。
なのに、どうしてこんな大事になっているんだ?
でも……改心したように見せなければ。
このままでは、本当に“事故”に見せかけて殺されてしまう。
使用人や妻がここに来た時は、反省しているように振る舞わないと。
そうしないと、本当に終わる。
……情けないな。
やっぱり彼女のこと、拾わなければよかった。
こんなことになるなんて、思わなかったんだ。
春の陽射しが差し込む庭は、よく手入れされた芝生が広がり、花壇には母上が好きな白い百合が咲いていた。
僕は屋敷の影に身を潜め、そっと庭の端を覗き込む。
そこには粗末な作業服を着た1人の男が、黙々と庭の草を抜いていた。
黒髪はぼさぼさで背中は丸く、威厳なんてどこにもない。
「兄上、何してるの?」
弟のエリオが、無邪気な顔で僕の袖を引っ張った。
8歳になったばかりの弟は、母似の柔らかい茶髪で、瞳は明るい琥珀色だ。
「しっ。母上に、ここにいることバレたら叱られる」
「なんで? 何もしてないのに?」
「いいから黙って。あれ見ろ」
エリオは僕の指差す先を見て、首を傾げた。
「ただの庭当番じゃないか」
「あれは昔、確かに“父上”って呼んでたはずなんだ」
エリオは目を、ぱちぱちさせた。
「えー、そんな記憶ないけどな」
「お前は、まだ小さかったからだよ」
5年前の騒動の時──僕はまだ5歳だったけれど、それでも覚えている。
母上は泣きも怒りもせず、ただ静かに“処理”していった。
「うーん? 何で、あそこで働いてるの?」
「さあ? 母上に聞いたら、ただ“忘れなさい”って」
エリオは、あっさり頷いた。
「母上が、そう言うなら間違いないんじゃない?
母上の言う事って、いつも正しいから」
「そうだな。俺たちには、ちゃんとした父上がいるしな」
僕の胸に温かいものが広がる。
母の再婚相手──ベルナール・アーデルハイト元伯爵令息。
落ち着いた青色の瞳に、柔らかい栗色の髪。
いつも僕たちの目線に合わせて話してくれる、優しい人だ。
「そうだよ。
『学園生の頃から互いに好きだった』って、父上が言ってたよ」
エリオが嬉しそうに笑ったその時、屋敷の方から声が響いた。
「おーい、2人とも。
ご飯できるから早く、おいで」
ベルナールが手を振っている。
白いシャツに紺のベスト、穏やかな笑顔。
僕たちは顔を見合わせた。
「「はーい」」
2人で駆け出す。
背後で、庭当番の男──かつての“父”が、こちらを見た気がした。
でも、僕は振り返らなかった。
だって、僕たちには、もう“本当の家族”がいるのだから。
□完結□
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