美しい薔薇には棘がある

イシュタル

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美しい薔薇には棘がある

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 夕暮れの光が、屋敷の庭を金色に染めていた。  
 白い石畳の小道が薔薇のアーチをくぐり、噴水のある中庭へと続いている。  
 手入れの行き届いた花壇には、赤や白、ピンクの薔薇が咲き誇り、空気には甘く濃密な香りが漂っていた。

 私はその中に咲く、たった1輪の黒い薔薇に指を伸ばす。

「綺麗……」

 指先でそっと花弁をなぞる。  
 この庭のどの薔薇よりも静かで、どこか哀しげで、私の中に沈んでいるものを映しているようだった。

 風はない。空気は張り詰めている。

「あなたほど美しくはありませんよ」

 背後から声がした。  
 振り返ると、そこに立っていたのは庭師の男。帽子を深くかぶっていて、顔は見えない。

 けれど、その声に胸がざわついた。  
 男はゆっくりと帽子を取る。

 黒く澄んだ瞳が、私を捉える。  
 整った顔立ちに長い脚。  
 野崎 崇一(ノザキソウイチ)──3年前、私が調査のために近づいた少年。今はもう、少年ではなかった。

「3年経ったら戻ってくるって、言ったじゃないですか」

 私は息を飲む。  
 どうして……どうして、ここがわかったの。  
 私はもう、過去を閉じたはずだったのに。

「どうして、ここが……」

 そのとき、チャイムが鳴った。  
 私ははっとして、縁側を駆けて玄関へ向かう。

 玄関には、宅配業者の制服を着た2人組が立っていた。  
 帽子を深くかぶり、顔は見えない。制服も本物に見える。
 でも、何かがおかしい。

 次の瞬間、腕を掴まれた。  
 抵抗する間もなく、口にガムテープが貼られる。  
 身体がもつれ、玄関の床に倒れ込む。私は必死に足をばたつかせた。

「先生──杏樹!」

 その声が空気を裂いた。  
 駆け付けた野崎が、私の"あの名前"を呼んだ。

 2人組のうち、1人が動きを止める。  
 帽子の下から現れたのは、整った顔立ちの青年。  
 肌は少し焼け、目元はどこか冷たい。金の短髪が、玄関に差す夕陽に照らされて光っていた。

「……野崎?」

 その声は低く、静かだった。  
 嘉山 壕(カヤマゴウ)
 そして、もう1人──まだ顔を見せていない華奢な男が、私の前に立ちはだかっていたのだった。


 私は深くソファに腰を下ろした。  
 目の前には3人の男たち。  
 野崎は黒髪を整え、子犬のような目で私を見つめている。  
 賀山は金髪をかき上げ、太く逞しい腕を組んだまま無言。  
 玄関で立ちはだかった華奢な男──山田 杯音(ヤマダハイネ)は紅茶のカップを手に、どこか他人事のように口元を緩めていた。
 パッチリした目元に、通った鼻筋。
 整いすぎた顔立ちは、まるで人形のように静かで現実離れしていた。

「……6年前のことだった」

 声に出すと、胸の奥がざわついた。  

 初めての出産。  
 予定日を過ぎても陣痛は来ず、ようやく始まったと思ったら、すぐに意識が遠のいた。

 目が覚めた時には、すべてが終わっていた。  
「死産でした」
と、だけ告げられ、子供の顔すら見せてもらえなかった。  
 遺体の処理は、病院側で済ませたという。  
 陣痛で朦朧とする中、死産後の措置を任せる同意書にサインさせられていた。

 納得なんて、できるはずがなかった。

 私は調べようとした。  
 でも、個人でできることには、限界があった。  
 病院は非協力的で、記録も曖昧。  
 心が折れかけていた、そんな時──杏樹に出会った。

 事件関係者の息子たちが通う男子高校に、保健医として就職が決まっていた。  
 上京したばかりで、何も知らないはずだったのに、私の話を聞くとすぐに理解してくれた。

 そして、彼女は言った。

「入れ替わりましょう。あなたが高校に潜入するの」

 一瞬、迷った。  
 でも、真相に近づけるなら──そう思って、私は頷いた。

 杏樹の名前を借りて、保健医として高校に潜入した。  
 関係者の息子たちに近づけば、何かがわかるかもしれない。  
 そう信じていた。

 けれど、何も見つからなかった。  
 医療ミスの隠蔽を疑っていたが、証拠はどこにもなかった。  
 私は彼女に報告し、元に戻ろうとした。

 でも──杏樹は戻らなかった。

 彼女は里田 楓(サトダカエデ)という私の本名を名乗ったまま、入籍してしまっていた。  
 幸い、結婚式は延期していたから、身内しか知らない。  
 タイミングを見て、入籍し直す予定だった。

 その矢先、杏樹から連絡が来た。

「海外旅行先で、現地の人との間に子供ができた。このまま、こちらで暮らす」

 杏樹の初婚相手である坂谷は、失意の中で私にすがった。  
 慰めるうちに、彼は私にプロポーズした。  
 子供の父親と既に離婚していた私は頷き、本当の夫婦になった。  
 もう、入籍し直す必要はなかった。

 私は過去を忘れようとしていた。  
 静かに暮らしていた。  
 それでよかった。そう思っていた。

 ──そんな時だった。  
 この3人が、私の前に現れた。

「……あの時、私は保健医じゃなかった。ただの、子供を失った母親だったの」

 私は静かに言った。   
 もう隠す理由はなかった。

「あなたが僕を選んだと思ってた」

 野崎の声は、深刻だった。  
 可愛げのある顔が歪む。
 その目に、かつての少年の面影が残っていた。

 私は首を振る。

「あなたの母親が、私の出産時に看護師として現場にいたからよ」

 野崎の目が揺れた。  
 その隣で、賀山が低く息を吐いた。

「俺もか。親父の廃棄物処理会社……子供の遺体、そこに流れた可能性があるってことか?」

 私は黙って頷いた。  
 言葉にすれば、すべてが現実になる気がして、声が出なかった。

 重い沈黙が、部屋を満たす。  
 時計の針の音すら聞こえないほど、空気が張り詰めていた。

「僕の父が担当医だった……ね」

 山田が、男性にしては細い指で紅茶のカップを置いた。

「協力するしかないんじゃない?」

「するよ、探そう」

 野崎が即答した。  
 その声に、迷いはなかった。

「ああ」

 賀山も短く頷いた。

 けれど、私は目を伏せた。

「……もういいの。協力なんて、意味がない。子供は戻らない」

 3人は言葉を失った。  
 それから少しして立ち上がり、帰っていった。


 静寂が戻る。  
 薔薇の庭も、廊下も、まるで時間が止まったように静かだった。

 そのとき──再び、玄関のチャイムが鳴った。

 私はゆっくりと扉を開ける。  
 そこに立っていたのは、野崎だった。

 黒髪が風に揺れ、彼の瞳がまっすぐに私を見つめていた。

「もし、子供を見つけられたら──俺を、愛してくれますか?」

 その言葉に、私は息を呑んだ。  
 胸の奥が、ざわりと波打つ。



 リビングには、薔薇の香りが満ちていた。  
 窓の外には手入れの行き届いた庭が広がり、風に揺れる花々が陽光を受けてきらめいている。  
 私はソファに腰を下ろし、目の前に立つ2人を見上げた。

 野崎は黒のシャツに身を包み、相変わらず無駄のない所作で立っていた。  
 その隣には、女装した山田。  
 緑のウィッグが肩にかかり、レースのついたメイド服が中性的な容姿に似合っている。  
 柔らかな笑顔を浮かべているけれど、その目の奥は読めない。

「……本当に、夫婦ってことにするの?」

 私の問いに、野崎は即答した。

「表向きだけ。裏では調査班ですから」

 その言い方が、妙に芝居がかっていて、私は思わず目を細めた。

「じゃあ、私はお茶を淹れてきますね~♪」

 山田が軽やかに踵を返し、スカートの裾を揺らしてキッチンへ向かおうとする。  
 その瞬間だった。

 野崎が私の手を取った。  
 その手は、思ったよりも熱かった。

「杏樹──いや、楓。俺、本当に本気なんだ。絶対に子供を見つけて、それで俺と家族3人で仲良く幸せに──」

 言葉の途中で、足音が戻ってくる。  
 山田がキッチンから引き返してきて、私と野崎の重なった手を睨みつけた。

「ハイハイ、抜け駆け禁止、抜け駆け禁止」

 その声は明るいのに、どこか鋭い。  
 山田の細めの指が、私たちの手を引き離す。  
 その動きは、まるで何かを守るようで──あるいは、奪うようだった。


 夕食を終えた私は、夫──坂谷 和嘉(サカタニカズシ)をリビングに呼んだ。  
 彼はいつものように、淡いブルーのシャツに身を包み、整えられた前髪の奥から穏やかな瞳をのぞかせていた。
  身長は高いが顔はアッサリしていて、洗練された雰囲気を纏っている。

 リビングは、天井のシャンデリアが柔らかな光を落とし、深紅のカーテンが夜の気配を遮っていた。
  アンティークの家具が並び、壁には金縁の絵画。
 薔薇の香りがまだ微かに残る部屋に、2人の“新しい住人”が並んで立っている。

「こちら、うちに住み込みで働いてもらうことになった野崎夫妻」

 私がそう紹介すると、坂谷は少しだけ眉をひそめた。

「……夫婦?」

 野崎は無表情のまま軽く頭を下げた。  
 その隣で山田が、にこやかに微笑んでいる。  
 緑のウィッグが揺れ、レースのエプロンが柔らかく光を反射していた。

 坂谷は山田をじっと見つめた。  
 その視線は、どこか探るようで、少しだけ好色にも見えた。

「……君、名前は?」

「杯音(ハイネ)です。家事担当です~」

「いい名前だね。紅茶、好きなんだ?」

 山田は常に紅茶を嗜むせいで、近付くと茶葉の香りがする。

「毎日、飲んでます。ご主人様も、どうですか?」

 その言い方が、どこか芝居がかっていて、私は胸の奥がざわつくのを感じた。

 坂谷は微笑んだ。

「ぜひ、今度一緒に」

 その笑顔は穏やかで、何も疑っていないように見えた。  



 深夜の屋敷は、まるで時間が止まったみたいに静かだった。  
 俺は自室のデスクに座り、ノートPCを開く。  
 画面の奥にあるのは、6年前の真実。  
 それを引きずり出すために、何度も病院のネットワークに潜った。

 指が迷いなくキーボードを叩く。  
 セキュリティは強化されていたけど、俺にとってはただの時間の問題だった。

 ──アクセス成功。  
 カルテのファイルが開く。

「死産届、火葬証明……全部揃ってる。でも、肝心な“何が起きたか”は書かれてない」

 記録は曖昧で、まるで最初から真実なんて存在しなかったみたいだった。  
 俺は天井を見上げる。  
 息が詰まる。  
 あの時のことが、ふいに蘇る。

 高校の廊下。昼休み。  
 17歳の俺は、参考書を読みながら歩いていた。  
 がり勉だった。
 誰とも目を合わせたくなくて、ただページに集中していた。

 そのとき、すれ違いざまに、白いハンカチが落ちた。

「……あ、ハンカチ落としましたよ」

 顔を上げると、彼女が振り返った。  
 落ち着いた赤の巻き髪。大きな目に相対して、控えめな口。  
 保健医──杏樹先生。いや、今思えば、あれは楓だった。

「えっ、ありがとう。気づかなかった」

「……いえ。あの、参考書、同じの読んでるんですね」

 彼女の視線が、俺の手元に向く。

「うん。でも難しくて……よかったら、勉強のコツ教えてくれない?」

 心臓が跳ねた。  
 俺はしばらく黙って、それから小さく頷いた。


 放課後の保健室。  
 夕陽がカーテン越しに差し込んで、部屋の空気がやわらかく染まっていた。

「このページ、どうしてこうなるの?」

 彼女がノートを開いて、俺の隣に座る。  
 距離が近すぎて、息が詰まりそうだった。
 甘い薔薇の香りが俺を誘惑する。

「えっと……ここは、前の章の応用で……」

 彼女が覗き込む。  
 豊かなバストの谷間が、少しだけ見える。
 その瞬間、耳が熱くなった。

「先生みたいだね」

「……僕は、まだ生徒です」

「かわいい……」

 その言葉が、胸に刺さった。  
 あれが演技だったとしても、俺は──


 思考を断ち切るように、PCを閉じた。  
 今の俺は立ち上がり、天井のハッチを開ける。  

 屋根裏の梁に腹ばいになりながら、俺は下の寝室を覗き込んでいた。  
 古い木材の隙間から、ちょうどベッドの端が見える。  
 薄いネグリジェ姿の楓と──シルクのパジャマに腕を通した坂谷。

 その男が、楓の肩に手を回す。  
 彼女は少しだけ戸惑ったように目を伏せたけど、拒んではいなかった。

 ……やめろよ。

 俺は急いで「チューチュー」と鼠の鳴き真似をした。

「ネズミ?」

 坂谷の声が聞こえる。  
 俺は息を殺して、木材の影に身を潜めた。

「気のせい?」

 楓の声。  
 その響きに、胸がきゅっと締めつけられる。  
 俺のことなんて、もう思い出しもしないんだろうか。

 ふたりの距離が、また近づく。  
 坂谷が、楓さんの手を取った。

 ──ピピピピピ!!!

「火?!」

 楓の声が跳ねる。  
 俺は報知器のリモートを握りしめながら、無言で笑った。

「僕の心が燃えてるだけかも……」
 寒いセリフを残して、坂谷が部屋を出ていく。  
 警報器の確認に行ったらしい。 
 
 俺は再び、寝室を覗き込む。
 楓さんはベッドの端に座って、静かに息を整えていた。  

 その横に、坂谷が戻ってくる。

「誤作動だったみたいだ。さ、続きを」

 ……やめろ。

 ふたりの顔が近づく。  
 もう、ほんの数センチ。  
 俺は最後の手段に出た。
 パンツを下げて、小さな穴に向かって放尿する。

 ──ポタッ……ポタッ……。

「え……雨漏り?」

 楓が天井を見上げる。  
 坂谷も、つられて視線を上げた。

「屋根、修理しないと」

 その言葉を聞いて、俺は静かに目を閉じた。  
 そして、誰にも聞こえないように、ひとことだけつぶやいた。

「──完了」


 翌昼、俺はキッチンで淹れたコーヒーを持って、リビングに向かった。  
 楓さんはソファに座っていて、目の下にうっすらと影があった。  
 眠れていないのは、わかってる。  
 ……まあ、原因は俺なんだけど。

「眠れなかったんですか」

 そう言って、カップを差し出す。  
 彼女は少し驚いたように顔を上げて、すぐに微笑んだ。

「ありがとう。……ちょっと、ね」

 その笑顔が、まだ俺に向けられることが嬉しかった。  
 罪悪感なんて、とうに捨てた。    
 全部、あの日から続いてる。


 夜。  
 俺は、また屋根裏にいた。  
 天井の隙間から、寝室を覗き込む。  
 ふたりの距離は、昨夜よりも近い。  
 坂谷の手が、楓の肩に触れる。

 ──また、始まる。

 俺は小さなリモコンを操作した。  
 次の作戦は、ポルターガイスト。

 まずは、照明。

 ──パチッ、パチッ、パチパチパチ……。

「なんか、部屋が呼吸してる?」

 坂谷の声。  
 俺は鼻で笑った。

「やめて、怖い……」

 楓の声が震えていた。  
 ごめん。でも、やめられない。

 次は、クローゼット。

 ──ガタンッ……ギィィィィ……。

「誰かいる?!」

 楓が、ベッドの上で身をすくめる。  
 坂谷がクローゼットを覗き込みながら、ふざけた声を出す。

「いや、服が自立してるだけかも?」

 ……寒いんだよ、そのノリ。

 次は、ベッドの下。  
 俺は小型ファンのスイッチを入れる。

「……冷たい……」

「愛の冷却期間?」

 ……殺意が湧く。

 最後の仕上げ。  
 俺は屋根裏からそっと降りて、洗面所の鏡に近づいた。  
 曇ったガラスに、指でゆっくりと書く。

 ──やめろ、と。

 そして、すぐに戻る。  
 数分後、楓さんの声が響いた。

「……これ、誰が?」

「僕じゃない。愛の霊かも」

 ……ふざけるな。

 俺は天井裏、埃まみれの中で目を閉じた。  
 記憶が、勝手に流れ込んでくる。


 高校時代。  
 あの人と、何度も勉強会をした。  
 保健室で、図書室で、時には公園のベンチで。  
 差し入れの手作り弁当。  
 俺の好きな卵焼き。  
 あれは、全部演技だったのか?

 その日、母が夜勤でいなかった。  
 彼女は俺の家に来て、童貞を奪った。  
 そして俺が眠った隙に、母の部屋を漁っていたことに気づいたのは、ずっと後だった。


 童貞を捧げた翌日。  
 俺はサプライズのつもりで、保健室のロッカーに隠れていた。  
 彼女に会いたくて。  
 でも──

 扉の隙間から見えたのは、彼女と山田。  
 ベッドに倒れ込むふたり。  
 笑い声。  
 シャツのボタンが外れる音。

 俺は、そこで壊れた。  
 引きこもりになった。  
 世界が全部、嘘に見えた。



 親父の廃物処理会社に作業員として潜り込んだのは、昼下がりのことだった。
 金髪を隠さずとも、ヤンチャそうな奴らばかりだから目立たなかった。
 油と鉄の匂いが充満する倉庫の奥で、俺は手袋をしたまま帳簿をめくった。
 伝票は丁寧に整理されているように見えたが、火葬場の領収書だけが抜け落ちている。
 何度もページを往復して確かめたが、やはり見つからない。

 夜、酔わせるために親父を居酒屋に連れ出した。
 安い提灯の光の下で、親父は箸を動かしながらぽつりと言った。

「あの子は、処理できなかった。中国人が、金を出した。……それで、終わりだ」

 その言葉が、湯気の立つ鍋の向こうで揺れた。
 手が震える。
 箸を置く代わりに、スマホを取り出す。
 連絡先を探し、野崎の名前をタップした。
 そして、俺は居酒屋の外へ出た。


 遠隔で仕掛けた小さなポルターガイストは、楓の寝室をかき乱すには十分だったが、満たされない何かが残る。
 もっと近くで見たいという欲が、俺を屋根裏へと駆り立てるところだった。

 嘉山からの着信が鳴った。
 画面に浮かぶ名前を見て、胸の奥がざわつく。
 通話を取ると、俺は即座に提案した。

「役所と病院をハッキングしたが、何も見つからなかった。
 直接、母に事情を聞く。協力してくれ」

 母に当たれば、病院側の裏取りができるかもしれない。
 だが嘉山の返事は、短かった

「いや、もうわかった。楓の子供は、中国人ブローカーに売られてた。
 ……ガールズバーに調査に行く。山田を派遣してくれ」

 スマホを持つ手が震えた。

「了解」

 通話を切ると、俺は立ち上がり、屋根裏の梯子を片付ける決意を固めた。
 デジタルの世界で掘り返せなかった真実を、今度は足で探す番だと思ったからだ。



 繁華街の裏路地は、夜になると別の顔を見せる。
 ネオンは赤く滲み、アスファルトには酒と煙草と、誰かの吐息が染みついている。
 僕はヒールの音を響かせながら、嘉山と並んで歩いた。
 元々同じ身長なのでヒールの分、今は僕の方が大きい。
 でも肩幅や腕の太さは、全く敵わない。
 嘉山は黒のジャケットで、僕はレザーのミニスカート。
 勿論、脛毛は処理した。

 ガールズバーの扉を開けると、空気が変わった。  
 照明は淡く、音楽は低く、空気は重い。  
 客の視線が一斉に、こちらに向く。  
 僕は視線を受け止めながら、ゆっくりと歩いた。  
 この夜のために選んだ香水が、甘く煙る。

 VIP席の奥に、ブローカーがいた。  
 脂ぎった顔に、金のネックレス。  
 グラスを傾けながら、女の子の腰に手を回している。  
 僕は笑顔を貼りつけたまま、彼に近づいた。

「こんばんは。紹介されて来ました」

 ブローカーは私を一瞥し、にやりと笑った。

「金持ちに繋いでやるよ。お前みたいな顔、好きな奴いる。
 しっかし、美人だな。芸能人になりゃ良かったのに」

 僕は隣に腰を下ろし、紅茶を一口すする。  
 この店で紅茶を頼むのは、僕くらいだろう。  
 でも、酔わないためには必要な選択。

「あなた自身は、どうですか?」

 ブローカーは鼻で笑った。

「俺はニューハーフしか抱かねえ」

 僕は目を細めて、唇の端を上げた。

「ワオ」

 それだけ言って、グラスを傾けた。  
 この夜の主導権は、僕が握る。

 ──数時間後。  
 ホテルの一室。  
 ブローカーはベッドに沈み、グラスを片手に笑っていた。  
 彼の隣に座り、もう一杯を注ぐ。  
 中には、さっき仕込んだ薬が溶けている。  
 無味無臭。けれど、確実に効く。

 数分後、彼の目がとろんと濁った。  
 言葉が滑り出す。舌が緩む。

「……あの子は、中国人の夫婦が買った。金は良かった。……名前は、確か……」

 僕はスマホを膝の上に置き、録音を開始していた。  
 頷きながら、笑顔を崩さず、彼の言葉を待つ。  
 この夜のために、僕は何度も鏡の前で笑顔を練習した。  
 そのすべてが、今、報われる。

 さあ、続きをどうぞ。  
 あなたの罪を、全部吐き出して。



 深夜の屋敷は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。  
 俺は自室のデスクに座り、仮の妻である山田から送られてきた音声データを再生する。  
 ブローカーのくぐもった声が、スピーカーから漏れ出す。

「……あの子は、中国人の夫婦が買った。金は良かった。……名前は、確か……」

 その一言で、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。  
 俺はすぐに別のウィンドウを開き、海外の戸籍データベースにアクセスする。  
 中国の行政ネットワークは厄介だが、今の俺には時間も手段もある。

 名前、取引日、地域。  
 断片的な情報を組み合わせ、検索をかける。  
 何度も弾かれながら、ようやく一つのファイルに辿り着いた。

「……あった。上海。養子登録。年齢一致」

 画面に映し出されたのは、小さな女の子の写真だった。  
 楓に似ている。  
 俺は息を呑んだ。

「……生きてる」


 翌朝。
 屋敷のリビングに集まった皆の前で、子供の安否を伝えると、楓は膝から崩れ落ちた。  
 ソファの前で床に手をつき、震える指先を見つめている。  
 声が出ない。
 彼女の落ち着いた赤の巻き髪が、小刻みに揺れていた。

 メイド姿の山田が、そっと紅茶を差し出す。  
 けれど、楓はそれを見つめるだけで、手を伸ばさなかった。

「……ほんとに……?」

 か細い声が、空気を切り裂くように響いた。

「画像もある。年齢も一致してる」

 太い腕を組んだ賀山が、静かに頷いた。  
 短い金髪が一緒に動く。

 俺は、タブレットを差し出す。  
 画面の中の少女が、無邪気に笑っている。

 楓はその画像を見つめ、ぽろぽろと涙をこぼした。  
 そして、泣き笑いのような顔で、ぽつりと呟いた。

「……腰、抜けちゃった……」


 夜、帰宅した坂谷に楓は、すべてを話した。  
 過去のこと、杏樹のこと、そして子供のこと。

 坂谷は黙って話を聞き、最後に静かに頷いた。

「大切なことだからね。後悔ないようにするといい」

 その言葉に、楓は深く頭を下げた。

 すぐに楓は、坂谷の元妻・杏樹と元夫・柏原に連絡を取った。  
 海外にいる杏樹は、ビデオ通話越しに真剣な顔で頷いた。
 オレンジ色の髪の快活そうな女性だ。

「中国語は任せて。あの子、絶対取り戻す」

 画面越しの彼女の目は、強く澄んでいた。  

 ──俺の義娘! 待ってろ!



 上海の夜は、湿気と香辛料の匂いが混ざり合っていた。  
 夜市の灯りは赤く滲み、人々の声が波のように押し寄せては引いていく。  
 チャイナ服に身を包んだ私は、その中を、ゆっくりと歩いていた。  
 手には、りんご飴。
 赤くて、甘くて、子供が好きそうなやつ。

 楓ちゃんの娘は屋台の前で、ひとりで立っていた。  
 養父母の姿は、少し離れた場所にあるベンチ。  
 私は笑顔を作って近づいた。

「かわいいね。これ、あげる」

 幼い彼女は、少し戸惑ったように私を見上げ、それから飴を受け取った。  
 その瞬間、私はそっと彼の髪に指を伸ばし、1本だけ抜き取る。

「ごめんね、ちょっとだけ」

 私は微笑んだまま、夜市の人波に紛れた。


 ホテルの部屋は、無機質な白と灰色で満ちていた。  
 窓の外には、上海のネオンが滲んでいる。  
 テーブルの上には、採取した髪の毛と検査キット。  
 結果が出るまでの時間が、やけに長く感じる。

 チャイナ服からバスローブに着替えた杏樹は、ソファでスマホをいじっている。  
 俺は壁にもたれて、黙っていた。  

「……どこかで見たと思ったら、お前、ストーカー野郎だろ」

 嘉山の声に顔を上げる。  
 ──バレた。
 俺は3年前のことを回想する。

 高校の校舎裏。  
 俺は、離婚したばかりの妻・楓に詰め寄っていた。
 彼女は学校で、他人の名を借り保健医のフリをしている。
 バレたら捕まる。何としても止めないと。

「もう、やめろ楓。君がやってることは危険すぎる」

 彼女は長い睫毛を伏せ、低く呟いた。

「……あなたに止められる筋合いはない」

「俺は……君を守りたいだけだ」

 その瞬間、足音が聞こえた。  
 校舎の前を通りかかった不良学生──嘉山が、こちらに目を向ける。  
 楓が突然、声を張った。

「助けてください! この人、ストーカーなんです!」

 俺は言葉を失った。  
 嘉山が足を止め、眉をひそめる。

「……事情は後で聞く。まずは、守る」

 楓が彼の腕を掴んだ。  
 俺は、何も言えずに校門の外へ押し出された。


 野崎が登校拒否になり、山田の書斎を調べ終えた楓は、嘉山と親密になっていった。  
 けれど、嘉山の家に潜入するには、専業主婦である夫人の目を逸らす必要があった。

 楓は俺に言った。

「お願い。嘉山くんのお母様を……その、口説いて。駆け落ちしてほしいの」

 最初は勿論、断った。
 すると──

「あなたは自分が、お腹を痛めてないから、そんなこと言えるのよ!
 出すもの出して、スッキリしただけじゃない。
 私は10ヶ月、身重で大変な思いして産んだのに……」

 恨みがましい目を向けられ、折れてしまった。

「気が済んだら、もう過去にこだわるのやめて、前に進むって約束する?」

 頷いた元妻に、それ以上の言葉は必要なかった。
 そして調査結果、何も見つからなかった。
 子供を探すのを諦めた彼女は、自分のところに帰ってくると思っていた。
 いつの間にか、坂谷という男と再婚していた。


 意識が過去から現在に戻る。
 検査結果が届いた。  
 画面に表示された数値を見て、俺は息を呑んだ。  
 手が震える。  
 声が、喉の奥で詰まる。

「……一致してる。間違いない」

 嘉山が拳を握りしめ、目を伏せた。  
 杏樹は小さくガッツポーズをして、涙を拭った。  

 部屋の空気が、少しずつ変わっていく。  
 重かったのが、ふっと軽くなる。  
 誰もが、言葉を失ったまま、ただその事実を噛みしめていた。

 ──娘が、生きている。  
 それだけで、世界が少しだけ、優しくなった気がした。


 盗難車のエンジン音は、妙に静かだった。  
 治安の悪い嘉山が、どこから調達してきたのかは聞かなかったし、聞く気もなかった。  
 俺はただハンドルを握り、夜の国境へ向かっていた。  
 助手席には杏樹。後部座席には嘉山。  
 車内は沈黙に包まれていたが、誰もその静けさを壊そうとはしなかった。

 検問所が近づく。  
 偽造された通行証と、杏樹の流暢な中国語が頼りだった。  
 彼女は窓を開け、笑顔で係員に話しかける。  
 俺はただ、アクセルを踏むタイミングを待っていた。

 無事に通過したあと、サングラスをかけ直した嘉山が、ぽつりと呟いた。

「……もう、戻れないかもな」

 杏樹は窓の外を見ながら、肩をすくめた。

「なるようになれだって」

 その言葉に、俺は少しだけ勇気を貰った。  
 このチームは、壊れた部品の寄せ集めみたいなものだ。  
 でも、今だけは、同じ方向を見ている。

 目的の家に着いたのは、太陽が真上にある時だった。  
 塀の向こう、庭で小さな女の子が遊んでいるのが見えた。  
 彼女は無邪気に、ぬいぐるみを抱えて走っていた。

 杏樹がりんご飴を取り出し、そっと門の隙間から差し出す。

「ほら、甘いのあるよ。こっちにおいで」

 少女がこちらに気づき、ゆっくりと近づいてくる。  
 その姿を見て、思った。  
 ──この子が、俺の娘なんだ。



 フェリーの船室は、薄暗くて湿っていた。  
 俺はベッドに腰を下ろし、ノートPCを開く。  
 航路は、すでに把握済み。  
 港湾局のサーバーには、昨日のうちに侵入していた。

 防犯カメラの映像が、画面に並ぶ。  
 港、道路、住宅街。  
 すべての動きが、手のひらの中にある。

「……家族の動き、全部見える」

 嘉山たちは、ちゃんとやるだろうか?
 俺に出来るのは、情報を渡すことと、情報を書き換えることだけ。
 俺と楓の再婚ライフのために、みんな頑張れ!



 女装のまま、僕はハンドルを握っていた。  
 緑のウィッグは完璧。メイクも崩れていない。  
 助手席には、楓の夫・坂谷。  
 彼は黙っていたが、視線だけはやたらとこちらに向いていた。

 フェリー乗り場が近づく。  
 野崎たちを迎えに行くのが、僕の役目。  
 彼のことは好きじゃないけど、今は同じチームだ。

 そのとき、坂谷の手がふわりと動いた。  
 僕の太ももに向かって、ゆっくりと伸びてくる。

 ──パシンッ!

 僕は迷わず、その手を叩いた。  
 彼は驚いた顔で僕を見た。

「触ったら、指、折るよ」

 坂谷は苦笑いを浮かべ、手を引っ込めた。  
 僕はアクセルを踏み込み、フェリー乗り場へと車を走らせた。  



 屋敷に戻ったとき、空気が変わっていた。  
 夜の風が薔薇の香りを運び、どこか懐かしい匂いが胸を締めつける。  
 リビングのドアを開けた瞬間、小さな足音が駆けてきた。

 その子は、私の胸に飛び込んできた。  
 細い腕でしがみついて、顔をうずめる。  
 私はその体を抱きしめた。  
 震えていたのは、彼女か、私か。

「……ノノコ。あなたの名前よ」

 その言葉が、ようやく口からこぼれたとき、涙が止まらなくなった。  
 何年も、何度も、夢で呼び続けた名前。  
 ようやく、現実に届いた。

 坂谷がそっと微笑んでいた。  
 柏原は何も言わず、ただ静かに見守っていた。  
 嘉山はノノコの頭を優しく撫で、山田はキッチンから配膳を運んでくる。  
 みんなが、そこにいた。  
 この奇妙な家族が、ひとつの場所に。

 そのとき、野崎が口を開いた。

「……ノノコの死産届を取り消すと、俺たちの親が逮捕される」

 私は首を振った。

「私は、それを望んでない。もう、十分よ」

 野崎は頷き、PCを開いた。

「感謝します。じゃあ、戸籍と住民票、書き換えよう」

 彼の指がキーボードを滑る。  
 画面には、新しい名前が打ち込まれていく。  
 過去を塗り替えるんじゃない。  
 未来を、ようやく書き始めるんだ。



 夜。
 ささやかな宴が開かれていた。  
 薔薇が夜風に揺れ、テーブルには山田の手料理が並ぶ。  
 笑い声と涙が交差し、ノノコは杏樹の膝の上で眠っていた。

 そのとき、杏樹がふと口を開いた。

「実は……私の子の父親は、坂谷だったの」

 私は思わず叫ぶように言った。  

「旅行先で現地人との間に、出来たんじゃなくて?!」

 坂谷は驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。

「出産が早いと思ってた。……僕の子か」

 その言葉に、何かが音を立てて崩れた。  
 でも、不思議と怒りは湧かなかった。  
 ただ、静かに受け止めるしかなかった。

 柏原が立ち上がる。

「俺は家に戻るよ。ノノコと暮らすから、2人で今後のことよく話し合うんだ」

 私は深く頭を下げた。

「ありがとう」

 嘉山も立ち上がる。

「俺も帰る。親父のこと、整理しないと」

 その背中に、私は心の中でそっと感謝を告げた。  
 この夜が、終わりの始まりでありますように。  
 そして、ノノコの未来が、もう奪われませんように。


 宴の余韻が、まだ残っていた。  
 ノノコは眠り、楓はその髪を撫でていた。  
 山田は紅茶を淹れ直し、嘉山と柏原は帰る準備をしていた。  
 俺は、ようやく一息つけると思っていた。

 そのとき、スマホが震えた。  
 通知を開く。  
 そこに表示された文字を、何度も見返す。

 「母、死亡」

 喉が詰まった。  
 呼吸が浅くなる。  
 何かの間違いだと思いたかった。  
 でも、画面は確かにそれを告げていた。

 嘉山が、俺の隣で立ち尽くしている。  
 彼のスマホにも、同じように表示されていた。

 「父、事故死」

 言葉が出なかった。  
 ただ、目の前の現実が、急に冷たくなった。

 楓さんが気づいて、声をかけてきた。

「どうしたの?」

 俺たちはスマホを見せた。  
 その瞬間、空気が変わった。  
 全員の顔から、色が引いていく。

 山田が、静かに言った。

「……うちの父は、僕が高校入学する前に消えた。誰も探さなかった」

 その言葉が、妙に重く響いた。  
 まるで、ずっと前から知っていたかのように。

 柏原が低く呟いた。

「……これは、偶然じゃないな」

 杏樹が立ち上がり、鋭い目で周囲を見渡す。

「誰かが、今回の事件の口封じを始めたのね」

 夜風が、薔薇の香りを運んでくる。  
 でもその香りは、もう甘くなかった。  
 何かが、また動き出している。  
 俺たちが触れてしまった“真実”の、その奥にあるものが──  
 牙を剥き始めていた。



 嘉山と俺は、親の死を調べ始めた。  
 警察の報告書はどれも簡素で、まるで最初から“調べるな”と言わんばかりだった。  
 だが、俺たちは諦めなかった。  
 監視カメラの映像、通話履歴、金融取引、裏社会の動き──  
 すべてを洗い出し、繋がる線を探した。

 やがて浮かび上がってきたのは、ブローカーの周辺にいた複数の関係者たち。  
 彼らの動きは不自然で、誰もが何かを隠していた。  
 そして、ある夜、嘉山がぽつりと呟いた。

「……やはり口封じだ。ノノコの存在が、誰かにとって“危険”なんだ」

 その言葉が、胸に重く沈んだ。  
 俺たちは、真実に近づきすぎたのかもしれない。

 だが、核心に触れる直前──  
 ブローカーが殺された。  
 逮捕の直前、何者かに消された。  
 現場には何も残されていなかった。  
 指紋も、血痕も、監視映像すら。

 俺は画面を睨みながら、低く呟いた。

「これは、個人じゃない。組織だ」


 数日後、屋敷に一通の手紙が届いた。  
 差出人は不明。封筒には何の印もない。  
 中には、たった一文。

 「ノノコを守りたければ、協力しろ」

 その言葉に、全員が集まった。  
 リビングの空気は張り詰めていた。  
 誰もが、もう後戻りできないことを理解していた。

「もう、逃げられない。なら、守るしかない」

 杏樹が言い、その言葉に全員が頷いた。

 俺は、すぐに屋敷の防犯システムを再構築した。  
 外部からの侵入を完全に遮断するため、センサーと監視網を張り巡らせる。  
 屋根裏、地下、庭、すべてをカバーした。  
 この屋敷は、もうただの家じゃない。  
 砦だ。ノノコのための、最後の砦。

 俺たちは、ここで生きる。  
 戦うために。  
 守るために。  
 そして、真実を暴くために。



 朝焼けの気配が、カーテンの隙間から差し込んでいた。  
 キングサイズのベッドには、楓、嘉山、野崎──3人とも裸で眠っていた。  
 絡み合うように、無防備に。  
 その端にいた僕は、そっとシーツをめくり、静かに立ち上がった。

 床に散らばった服を拾い、ひとつひとつ身につける。  
 ボタンを留める指先は、震えていなかった。  
 もう、何も揺れていなかった。

 キッチンに降りると、まだ誰も起きていない。  
 朝の静けさが、まるで儀式のように張り詰めていた。  
 僕はガス栓を捻り、タイマー式の着火剤をセットする。  
 カチリ、と小さな音が鳴った。

 それだけで十分だった。  
 僕は屋敷を出た。  
 振り返らずに、ただ歩いた。


 火の手が上がったのは、それから数十分後だった。  
 屋敷は炎に包まれ、薔薇の庭が赤く染まっていた。  
 煙の中から、野崎が這い出してくる。

「……他の皆は?」

 現場に戻った僕は訊いた。  
 野崎は、息を切らしながら首を振った。

「……助かったのは、俺だけだ」

 僕は目を伏せた。  
 そして、静かに言った。

「犯人は……例の組織に違いない。とにかく逃げよう。ハッキングも密航も、バレたらマズイ」

 直に消防と警察がくる。
 焼けた家屋から、僕たちにとって都合の悪い物が出てくるだろう。
 野崎は頷いた。  
 しかし彼の目は、まだ炎の中にいた。


 その夜、僕は海辺に立っていた。  
 手には、小さな骨壺。  
 中には、息子の遺骨。

 ──杯音(ハイネ)は、小学生のときに交通事故に遭い、意識を失った。  
 医者だった僕は、あらゆる手を尽くした。  
 でも、回復はしなかった。  
 14歳の誕生日を迎えた時に、息子は静かに旅立った。

 僕は壊れた。  
 復讐のために、死亡届を出さず、若返り整形を受けた。  
 そして、息子になりすまし、高校に入学した。  
 そして目的の人物に近付いた。  
 ──杏樹と偽っていた彼女。

 楓の両親は、12年前に亡くなっている。  
 交通事故で。  
 そう──僕の息子を轢いたのは、彼女の両親だった。

 事故だったことも、楓に責任がないことも、分かっていた。  
 でも、納得できなかった。  
 息子は死んだのに、加害者の娘が笑って生きている。  
 それが、許せなかった。

 だから、楓の娘をブローカーに売った。  
 最近になってブローカーの組織がこちらを狙っているように見せかけたのも、僕だ。  
 全部、僕が仕組んだ。

 そして、彼女は死んだ。
 ──終わったんだ。

 僕は遺骨を胸に抱き、海へと足を踏み入れた。  
 波が冷たく、優しく、すべてを洗い流していく。  
 杯音、今、会いに行くよ。

 水面が、僕の肩を越えた。  
 空は、もうすぐ朝だった。



□完結□


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