消失病 ~キミが消えたあの夏の日~

上村夏樹

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Side-B キミが消えたあの夏の日は

大好きです

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 海に足を踏み入れる。少し冷たい海水が、私の体を迎え入れた。歩けば歩くほど、体は海に浸かっていく。膝までの高さだったのに、今ではおへその辺りまである。
 ボードの上に腹這いになり、パドルを開始。ボードの下を漕ぐようにして腕を動かす。さっきまで車椅子を押していたせいかな。なんだか腕が重いや。

 前へ前へと進むたびに、キミのことを思い出す。

 昔から泣き虫で強がり。無愛想で、でもちょっぴり優しい。笑顔が意外と可愛くて、その表情に何度釘付けになっただろう。

 本気で、恋をしたんだ。
 お姉ちゃんに甘えてばかりの男の子に。
 口だけは達者な、弱虫で頼りない男の子に。

「蓮……」

 愛しいその名前を口にするだけで、自然と勇気が湧いてくる。なんでもできそうな気になる。波なんて怖くない。今日こそ乗ってやるんだ。たった一人の観客のために、最高のパフォーマンスをこの場所で披露しよう。

 ねぇ、蓮。
 キミが消失病だって知って、絶望したよ。何もできない自分を呪ったよ。無力な自分が大嫌いになって、悔し涙が止まらなかったよ。
 何度あきらめかけたのだろう。
 そのたびに親友が、そしてキミ自身が、私の背中を押してくれた。あきらめられるのかって。まだ頑張れるだろって。
 二人の言うとおりだ。私はキミのためなら何でもできる。どんな苦労だって厭わない。

 もし逆の立場だったら、キミは私のために何かしてくれるのかな。
 しなさいよって思うのは、ちょっと横暴だと思う?
 でも、綾なら笑って「美波らしい」って言ってくれるかも。
 だって、私はワガママで強がりで手のかかる面倒くさいお姫さまだから。もしも悲劇のヒロインになるのなら、大好きなキミに救い出してもらいたいよ。それくらいのワガママ、許してくれるよね?

 どうしてなんだろう。集中しなきゃいけないのに、たくさんの「好き」が溢れてくる。

 ……ごめん。本当はわかっているの。
 蓮に残された時間が、ほんのわずかしか残されていないことくらい。
 だからかな。キミのことばかり考えてしまうのは。

 間に合え――サーフィンが成功するまで、思い出をその目に焼きつけるまで、私の前から消えないで!

 ボードを海中に隠し、波をやり過ごす。
 お願い。乗れる波よ、早く来て。

 しばらくすると、高めの波がやってくる。
 この波なら、乗れる。私は素早くターンした。
 背後から迫りくる波にボードを乗せる。浮き上がるような不思議な感覚が、ボード越しに伝播してきた。

 そして、立ち上がった。

 波の上から見た砂浜は、いつもと違う表情をしていた。あんなに広い砂浜なのに、なんだかちっぽけに見える。
 焼けた空を背景にして水飛沫は上がった。きらきらとオレンジ色の輝きを反射させながら、踊るように宙を舞う。

 世界は優しくないけれど、でもこの夕焼けに染まった景色だけは優しくて、なんだか胸が熱くなる。蓮がいなくなる悲しみを紛らわせてくれるような絶景。私や蓮を拒絶していた世界が、ほんの少しだけ、私たちを受け入れてくれたような気がした。

 砂浜には蓮がいる。車椅子から立ち上がり、飛び跳ねたり、大声で何か叫んでいる。全然聞こえないけど、興奮しているのは見ればわかる。

 私も蓮と同じように、すごくドキドキしている。
 キミも、こんな素敵な景色を波の上から見たのかな。
 この景色を独り占めして、何を思ったのかな。
 私はね、キミのことを考えたよ。
 キミとはもう思い出が作れないのかなって思ったら、悲しくて心が千切れそう。これが最後だからなのかな。抑えてきた想いの奔流が止まらない。

 でもね……私、こらえたんだ。キミと同じように、心に鍵をかけて気持ちを隠した。
 最後の約束を交わす前……私はキミに嘘をついた。

『よくわかんないけど、伝わってない。ちゃんと言ってよ』

 ちゃんと知らんぷりできただろうか。恋愛に鈍感な女の子を演じることができただろうか。カモフラージュのために、あえて何を言おうとしていたか気になるって雰囲気を出したけど、蓮にはバレなかっただろうか。

 蓮の言いたいこと、本当はちゃんと伝わっていた。
 でも、言ってほしくなかったよ。蓮だって、言いかけて気づいたはず。だから言うのを止めたんだよね?
 お互いの気持ちを言葉にしたら、未練が残るもの。
 蓮の隣で笑う未来の私を、思い描いてしまうもの。

 人生で初めて知った。世の中には、伝えてはいけない気持ちがあるんだってこと。
 なんて残酷な世界。こんな世界のほうこそ、消失しちゃえばいいのに。
 厳しい現実は、否応なく私たちを傷つけるけど、こんな世界に生まれてよかったって思える。

 だって、大好きなキミと出会えたから。

 やがて波が崩れる。バランスを失い、ボードから振り落とされた。
 美しい景色は視界から消えて、代わりに茜空が網膜に焼きついた。
 夕陽の色が切なくて、少しだけ優しい。茜に染まったこの景色を、そして今日という日を、私は一生忘れないだろう。
 キミも同じように思ってくれたのなら、嬉しいな。

 私は波に飲まれた。
 海面に顔を出し、ボードを回収する。パドルをして、急いで陸へ向かった。
 浅瀬に来た。地面に足をつけて、ボードを脇に抱える。そのまま走った。蓮が待つ、あの場所へ――。

「はっ……」

 砂浜用車椅子の近くまでやってきて、小さな吐息が漏れた。

 目の前にあるのは、主を失った車椅子。
 蓮は、消失したんだ。

「間に合った……よね?」

 小さくつぶやき、濡れた手でシートに触れる。蓮の温もりが、そこにはまだちゃんと残っていた。
 無謀だと思えた挑戦だけど、終わってみれば大成功だ。前に半分冗談で言ったけど、本当に愛の力なのかもしれないって思える。

 蓮だって喜んでいてくれたに違いない。
 だって、あんなにはしゃいでいたもの。
 まるで自分のことのように、興奮してくれたんだもの。

 最後にささやかな思い出作りができた。消失したりしない、大切な思い出が。

 それなのに、どうしてかな。悲しくて、涙が止まらないよ。
 想いが溢れないようにフタをしていた心が、音を立てて決壊した。

「うぁっ……うわあぁぁぁぁぁぁっ!」

 叫んだ。喉が焦げるように熱を持つ。胸は痛いし、体は重い。でも関係ない。悲しい気持ちを吐き出すように、茜空に咆哮を響かせた。

 本気で人を好きになった。
 どんな苦労でも愛おしく思えるくらい、大好きだった。

 今まで楽しい時間をありがとう。私をドキドキさせてくれてありがとう。支えてくれてありがとう。人を好きになるってことを教えてくれてありがとう。

 キミを好きになって、本当によかった。

 ねぇ、蓮。
 私たちは、もう二度と会うことはないから。
 ずっと言えなかった気持ち……今はもう伝えてもいいよね?

「蓮が好き……大好きだぁぁぁぁぁ!」

 慟哭が茜空に吸い込まれていく。

「これで……本当にお別れだね」

 最後の涙の一粒が頬を滑り落ち、砂浜を濡らした。

 ――さよなら、蓮。

 夢中で駆け抜けた、夏が終わる。
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