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『再検査のご案内』と書かれた紙を持って僕、水城 葵(みずしろ あおい)は病院の待合室で名前が呼ばれるのを待っていた。
  最近体調の悪さは感じていたが、まさか会社の健康診断に引っ掛かってしまうとは。今は検査が終わって結果を待っているのだが、この時間というのは緊張するし、どうにも憂鬱なものだ。そもそも、葵は病院自体いい思い出がなく苦手だった。独特の臭いも、なにもかもが葵の気分を落ち込ませ、元からだるさを感じていた体がさらに重くなった気がした。
「水城さーん、こちらへどうぞ~。」
  ずぶずぶと憂鬱な気分に浸っていると、自分の名前が呼ばれた。
  若い看護師についていくと、人の良さそうな老医のもとへ案内された。
「水城葵さんだね。」
「はい。よろしくお願いします。…それで、検査の結果の方は…」
「うーん、それがねえ、ホルモンバランスが乱れててねえ…」
「ホルモンバランス…」
「ダイナミクス関連のことじゃよ。」
  ダイナミクスとは今からずいぶん前に論文で発表され、今では当たり前となりつつある男女の性に付け加えられた第2性のことだ。相手を支配したい、虐めたい、甘やかしたい…という欲求を潜在的にかかえているDomと、反対に、支配されたい、虐められたい、甘やかされたい…というのがSub。DomもSubも長い間欲求が満たされないとホルモンのバランスを崩して体調不良になったりもするらしい。DomとSub以外にはSwitch、Normalがいる。SwitchはDomにもSubにもなれるが、潜在的な欲求はそれぞれよりは薄い。Normalはそれら3つのどれにもあてはまらない性別だ。人口比としては半分くらいの人々がNormal、次に多いのがSwitch、ついでDom、最後に1番人数が少ないのがSubだ。葵はこのSub性だった。
「なにか心当たりあるかい?」
「そうですね…。特にありませんね。」
「うーん…パートナーは?」
「今はいません。」
「そうかい…とりあえず抑制剤出しとくけど、薬を飲めばいいって訳じゃないから、はやめにいいパートナーを探すんじゃよ。」
「ありがとうございます…」
  お礼を言って窓口で薬を受け取り、葵は病院をあとにした。












(予想はしていたけれど、ダイナミクス関連で体調にまで不調が出るとは…。)
  葵は医師には心当たりはないと言ったが、実のところは心当たりがありまくりだった。先日、パートナーと別れたのだ。いや、パートナーと言っていいのかも怪しいような人だった。その人は葵の取引先の一回り上の役員の男で、複数人での接待と葵を騙して、2人きりにして無理やり酔わせ、葵のはじめてを何もかも奪った相手だ。それからも会社の取引を匂わせて葵を脅して、あげく、「妻に浮気を疑われている。もう会えない。」と、いつも通りの自分勝手なプレイの後に一方的に別れを告げられた。みじめだった。あの日はいつも以上に体も、心も、痛かったのをやけに覚えている―――これが、3週間前の記憶。健康診断は先々週で、それに今日の再検査。そろそろ薬を飲むなりしないとSub性が暴走する頃だった。

  葵は帰りの電車の中、1人ため息を吐いた。その物憂げな仕草に反応して向かいに座っていた高校生らしい男子生徒がごくりと喉をならす。が、葵は気づかない。葵は仕事や周りのことにはよく気がつくが、自分のことにはとことん鈍感なのだ。最近の体調不良も、再検査に引っ掛かるまでは我慢してやり過ごそうとしていた。しかし、さすがに健康診断でひっかかり、誰もが知る有名な大病院に呼ばれて検査を受けてと来たところで今回ばかりはどうにかしなければならない、と葵は多少なりの危機感を抱いた。
(始めて使うけど…あれ、使ってみようか…。)
  あれ、とはマッチングアプリのことだ。もちろん恋人を探すのが目的の人もいるが、DomまたはSubがパートナーを探すために利用する人もたくさんいる。葵は書き込みを始めた。まずは年齢と性別をチェックする。
『27歳、男性、Sub』
  次に、メッセージを打ち込む。
『男女どちらでもかまいません、Domの方とプレイ希望です。』
  簡潔に、一文だけ。他にも何かかいた方がいいのだろうか、と一瞬迷ったがどうせ一時の関係で、他に書くことも思い付かなくそのまま書き込んでスマホを切った。










 「ここか…」
  その晩、葵が訪れたのは所謂ラブホテルなどではなく、葵も仕事で呼ばれたパーティーでしか行ったことのない高級ホテルだった。
『28歳、男性、Dom
よろしければ△△時に〇〇ホテル×××号室で会いませんか?』
  葵が打ったのと同じような、短く端的な文章に何となく惹かれて、どうせ本当のことが書いてあるとも限らないプロフィールや写真はろくに見ず、そのホテルに向かった。
「×××号室って、最上階じゃないか…」
   何度も確認したが、やはり待ち合わせの部屋は最上階の一室だった。
  緊張でドキドキしながら葵はそっと部屋のベルを鳴らした。
「はい。」
「あ、『あお』です…。」
「今開けますね。」

  ドアが開き、そこから出てきたのは長身の、ものすごい色香をまとったイケメンだった。長めの黒髪はゆるくパーマがかかっていて後ろでひとつにまとめられている。長いまつげにふちどられた瞳の色は焦げ茶で、目は少し垂れぎみで優しげなのに、どこかすべてを見透かされそうな不思議な雰囲気を持っている。
(綺麗な人…)
「はじめまして、『あやと』です。どうぞ、入ってください。」
  にこりと微笑まれて中に手招きされる。中に入り、綾人がベッドに腰掛け、隣をとんとん、と叩く。応じてとなりに座ると、ふわっと甘いシトラスのような香りがした。綾人は先程までシャワーを浴びていたのか、髪の先が少し濡れていた。

「ごめんね、急な仕事が入って職場から直接来ることになってしまって…。ホテルで待ち合わせなんて、嫌だった?」
「…っそんなことないです!」
  しゅん、とした顔を向けられてしまって、とっさに否定の言葉が口をついた。すると、綾人がふわっと笑った。
「そっか。ありがとう、あおくん。来てくれて嬉しい。」
  落ち着いた柔らかい声で話しながらぽん、ぽん、と頭を撫でられた。それだけで、自分の体がぶわっと熱くなる。
「あ、あおくん、敬語気にしなくていいよ?楽にして。」
「それは……癖なので…。」
「ふ~ん、そっか。」

  ずっと頭を撫でてくれている。その手があったかくて、気持ちよくて、思わず無意識にすり寄ってしまう。
「ん?どうしたの?きもちい?」
「ぁ…すみません…」
  恥ずかしくなって綾人からぱっと離れる。綾人はくすくすと笑った。
「謝らないで。あおくん、シャワーはどうする?俺は先に浴びさせてもらったけど。」
「じゃあ、僕も使わせていただきます。」
「分かった。じゃあ俺はこっちの部屋で待ってるね。」
  葵はシャワーを浴び、家で最低限の準備はしてあった後ろをもう一度簡単にほぐしてから、バスローブを羽織って風呂を出た。

「あ、おかえりあおくん。」
「あ、はい…えっと…」
「そんなに緊張しないで。まずはいろんな確認から始めよっか。」
「確認…?」
「うん。まずは、今日はあおくん、何したい?」
「なにしたい…それ、僕が決めていいんですか…?」
「え…うん、プレイって普通、2人のやりたいことを擦り合わせるところから始めない?」
  葵のいままでのパートナー――といっても件の不倫の取引先の男しかいないのだが――はプレイ時にこちらの意思を伺うようなことは一度もなかった。自分勝手に欲求を処理され、一方的で、暴力的なプレイしかされたことはない。

「…僕が今までやってきたのはそういう感じではなくて…よく、分からないです…。」
「分からないって、何をしたいのかがわからないの?」
「すみません…。」
「ああ、謝らないで。…そっか、分からないかあ。じゃあ、好きなことは?」
「好きなこと…?」
「もっとされたい、って思ったりしたことは?なにかない?」
「…………あ、頭…」
「ん?」
「…頭、撫でられるの、好きです…たぶん。」
「そっか。じゃあ今日はいっぱい撫でてあげる。」
  綾人がずっと嬉しそうに葵の頭を撫でている。すごく気持ちよくて、ふわふわする。けれどそれと同時に恥ずかしさもあって。
「あ、の…あやとさんは…なにがしたいですか?」
「俺?俺はあおくんの好きなことができたら満足だよ。」
「でも…」
「うーん、じゃあ、あおくんをいっぱい甘やかさせて?」
「…」
「嫌?」
「そんな、でも…いいんですか?」
「もちろん。」
  綾人がにっこり微笑む。
「じゃあ、次、されたら嫌なこととか、ある?」
「嫌なこと…。」
「…分からない?」
「はい……あ、」
「どうかした?」
「あ、いや、なんでも…」
「言ってごらん。」
「………できれば体、あんまり、見ないでほしい…です…特に、背中…。すみません…。」
「そっか。じゃあ今日は上は脱がさないようにするね。それでいい?」
「はい。すみません…。」
「ううん。教えてくれてありがとう。ちゃんと言えて偉いね。」
  また頭を撫でられて、どんどん意識がふわふわしてくる。

「よし、じゃあ最後に、よく聞いてね。セーフワードはなに?言える?あおくん。」
「せーふわーど…」
「うん、いつも使ってるのでいいよ。教えてくれる?」
「いつも………ぃです…」
「え?」
「いつも、セーフワード、使ってないです…。」
「え…」
  綾人が驚いた顔をしたあと、眉間を寄せて厳しい顔をした。それだけで肩がビクッ、となってしまう。
「…ごめんね、あおくん、怖がらせるつもりはなかったんだけど…セーフワード、これからはちゃんと使おう。分かった?」
「はい…。」
「…じゃあどうしよっか、セーフワード。……『Stop』とかは?」
「『Stop』…。」
「そう。言いやすいけど自然には言わないように、コマンドっぽくしてみたんだけど…どうかな?」
「はい、大丈夫です。」
「ん。気軽に言っていいからね。セーフワード言ったからって怒ったりしないから。分かった?」
「はい。」
「よしよし。いい子。」
  やっぱり、綾人に撫でられるとふわふわする。このまま溶けてしまうのではないか、という錯覚に陥りながら暖かく、優しい手を受け入れた。

「それじゃあ、プレイ、始めるね。」
  嫌だったら言ってね、と前置きをしてから、プレイが始まった。
「"Kneel"。」
  綾人が足を開いてたので、僕はその間にぺたんと座った。
「よくできたね。」
  また、頭をぽん、ぽん、と撫でられる。それが気持ちよくて、ずっとされるがままにしていると、次のコマンドが聞こえてきた。
「あおくん、"Come"。」
  綾人が自分の膝の上を叩く。膝に乗れ、ということらしい。葵は恥ずかしくてかあっと赤くなったが、もっと褒めてもらいたくて、コマンドを実行する。
「かわいい。いい子だね。"Goodboy"あおくん。」
  膝に乗ると、ぎゅっと抱き締められて、また褒められて、撫でられる。かわいい、いい子、と耳元でささやかれる度、葵の体はぴくぴく震え、脳が甘くしびれて霞がかったようになにも考えられなくなって行く。と、そのとき、綾人が葵の耳を甘噛した。
「ひゃっ!」
「ふふ、あおくんかわい。」
  綾人が葵の片耳を舐めたり噛んだり、反対を手で触って責めてくる。
「んんんっ…やっ、だめっ、んぅ…」
「んー?だめ?気持ちよくない?やめる?」
「あっ、気持ちいいからっ、んんっ、うぅ、」
「気持ちいいならよかった。けど、あおくん、声我慢しないで?そんなに唇噛んじゃだめ。俺にもっとかわいい声聞かせて?」
  綾人の親指が葵の唇をなぞり、口を緩く開かせる。
「ぁう、あやとさんっ…あっあぁ、んん…」
  綾人が耳の外輪を噛んでいた方の耳にふうっと息を吹き掛けた。
「ひぁああぁ」
「ふふふ、ほんとかわいい。お耳だけで気持ちよくなれるの、いい子だね。"Goodboy"。」
  耳元で囁きながら葵の頭をそうっと撫でたそのとき、
「あっ、待ってっんっんああああああ」
  ビクビク、と葵が震えた。綾人が顔を除きこむと、葵はとろけきった幸せそうな顔をしていた。
「…あおくん、俺に囁かれて、頭撫でられて、イっちゃった?」
「ぁ…」
  綾人が葵に笑いかけ、葵と目があったとき、葵はとろんとした顔を一変させ、みるみるうちに血の気が引いていった。
「?!あおくん??どうしたの?大丈夫?」
「ぁ…おれ…ごめんなさ…勝手にイって、すみません…!ゆ、ゆるしてください…!お願いします!鞭はやめて…!痛くしないで…」
「あおくん!こっち見て、あおくん!!」
  Subdropに落ちかけてる、綾人は直感した。今の葵には綾人の声は届いていない。しかし過呼吸の症状も出ているし体は震えて、体温もどんどん下がっている。まずい!そう思い綾人は仕方なくコマンドを使った。

「あお!!"Look"!」
「ひゅ…はっ…はぁ…ぁ、あ…やと、さん…?」
「そう、そうだよ。大丈夫。痛いことも怖いこともしないよ。ほら、息、俺に合わせられる?吸って…吐いて……」
「ひゅっはっ…はぁっ…」
  ガタガタ震える葵の細い体を抱きしめながらあやすように背中をさする。
「ゆっくりでいいよ、吸ってー、吐いてー…」
「はっ…ふぅっ…はぁっ…ふうぅっ…」
  綾人は意識がかえってきてもなお過呼吸を起こしたままだった葵を、ぎゅっと片手を握って、落ち着くまで丁寧にcareした。










「…もう大丈夫かな。」
「はぁっ…はい…すみません…。いつもは、もう少し、うまくプレイ、できるんですけど…。」
  ずっと涙の膜を張ってうるんでいた葵の瞳から大粒の涙がぽろりと落ちた。
「そっか…。苦しかったけどよく頑張ったね、"Goodboy"。」
  葵の涙を唇で掬いとり、綾人が葵の頭を撫でる。それだけで葵はさっきまでの恐怖が嘘のように心が落ち着いていった。
  しばらく葵を撫でていた綾人がおもむろにベッドから降りた。
「あっ……」
「ふふ、水を取ってくるからちょっとだけ待っててね。」
  葵が無意識に寂しがるような声を出すと、綾人がふわりと笑ってそう言ってまた葵の頭をぽん、と撫でた。
「はい、あおくん。しっかり水分とってね。」
  備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取ってきた綾人がそれを葵に差し出した。葵はお礼を言って、ふと気づいたことを口に出した。

「…あ。名前…」
「名前?」
「さっき、あおって言ってくれましたよね。…あれ、好きです。」
   ふにゃりと葵が笑う。つられて綾人も葵に微笑みかける。
「ふふ、そっか。じゃあ、あお。今日はもう疲れただろ。一緒に寝よう。」
「ん…はい…。」
「おやすみ、あお。」
「おやすみなさい、あやとさん。」
  こうして葵は綾人の体温に包まれ、一定のリズムを刻む落ち着く心音を聞きながら眠りについた。










「ん…」
  葵が目を覚ますと、綾人はすでに起きてコーヒーを飲んでいた。
「あお、起きたの?おはよう。」
「おはようございます…。」
  挨拶を交わし、頭が覚醒すると同時に、昨日の失態がありありとよみがえってきた。
「あ、あやとさん…」
「ん?なに?」
「昨日は本当にすみませんでした…」
「気にしないでって言ったのに。体は大丈夫?どこか異常ない?」
「はい…なんともないです。ありがとうございました…。」
「そっか。なら、良かった。」
「……」
「どうした?そんな顔して。」
「…申し訳ない、です。僕、あやとさんに何もできませんでしたし…。あの、なにか僕にできることありませんか?プレイ以外でも家事とか雑用とか、なにかあったら…」
  昨夜のプレイとケアで、異常ないどころかずっと悩まされていた体調不良が一気に解決した葵は申し訳なさにうなだれた。
「本当に気にしなくていいんだけど…。うーん…じゃあさ、俺とパートナーになってみない?」
「え…?」
「ああ、いや、正式にはまだあれだろうけどまずはお試し、みたいな感じでさ。」
「お試し…。」
「そう。まあ、俺パートナーと恋人は別に考えるタイプだから、好きな人が出来たら言ってくれたらいいよ。それに、俺は自分のSubを甘やかしたいタイプだから痛いことも基本しないし、相性良さそうだと思うんだけど。どう?やってみない?」
  葵にとっては嘘のような好条件だった。でも、綾人の真剣な瞳に嘘はないと分かるし、なによりdropしてしまったときにあんなに真摯な対応をしてくれたのだ、こちらを騙すような人ではないだろう。
(でも…)
「お気持ちは嬉しいですし、本当にありがたいんですけど、僕なんかにははもったいないですよ…」
  いくらパートナーと恋人は別だと言っても、綾人のような優秀なDomに自分なんかを相手させてはいけない。葵はそう思い綾人の申し出を申し訳なく思いながらも、やんわりと断った。
「僕なんか、って…あおはなんでそんなに自分を卑下するの?」
「だって…僕、できそこないのSubなんです。前の相手にもよく命令を上手くこなせずにdropして怒られましたし…。」
「出来損ないって…そんなことないよ。実際俺は昨日のプレイでかなり落ち着いたよ?まあ、お試しだからもっと気楽に考えてよ。俺もあおが本当に嫌だったら諦めるけど。あおはどう思ってるの?」
「…正直、お引き受けしたいです。あやとさんのお陰で体も楽ですし………それに、すごく気持ちよかったですし。でも、本当にいいんですか?僕、昨日もうまくできなかったのに…。」
「もちろん。これからいろいろ試して得意なプレイを探していけばいいよ。じゃあ、あお、俺のパートナーになってくれる?」
「…僕で良ければ、よろしくお願いします。」
  こうして葵と綾人、2人のパートナー生活は、『お試し』という形でスタートした。
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