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5. 欲求
船旅
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ついにブレンペーニュへの出発日となった。
朝、日が昇る前に起きた僕たちは馬車を乗り継ぎ、昼過ぎに出港する船に乗り込んだ。千人も乗れるという魔法大型船はとても大きく、船に乗るのも初めてな僕は圧倒されて言葉を失った。
こんな大きな船が動くなんて! 技術の進歩と魔法機の発展を感じさせる威容は乗る前から僕を興奮させてくれた。出港した時なんかは、思わず歓声を上げたほどだ。
そして今、船は大海原を走っている。青い空の下、どこまでも広がる水面が陽光を浴びて輝いていた。まるで僕たちの旅路を祝福しているかのようだ。
僕はこれから向かう先で起きる出来事に心を躍らせながら、潮風を胸いっぱいに吸い込み――
「うぇええええ」
「ひあっ!」
「どれだけ吐くのよ……」
船べりから上半身を出した僕は、今日何度目になるかも分からない苦しみを海に吐き出す。ポジティブなことを考えて誤魔化そうとしたけど、やっぱりダメだった。フルルは耳を塞ぎ、シルファは呆れたようにため息をつく。
「シイキ、無理するな」
醜態を晒す僕の背中をさすってくれるのはユート君だ。その優しさが今はただただありがたい。僕はユート君から受け取った水筒の中を口に含み、
「ゲホッ! ゴホッ!」
盛大にむせてしまった。口の中の水が私服のユート君に吹きかかる。
「落ち着け。深呼吸するんだ」
それでもユート君は僕のみを案じてくれた。申し訳なさで消えたくなる。
「夜更かしするからそうなるのよ。今日は早起きだって分かっていたでしょうに」
シルファが冷たく言い放つ。その手はフルルの背中を撫でていた。どうもフルルも僕の様子にあてられたのか、気分が悪くなってしまったらしい。言葉もろくに喋れない僕は、心の中で土下座する。
うう……折角の楽しい船旅が、僕のせいで台無しだ。正直に、楽しみで眠れなかったって言っておけば良かったかな……いや、あんまり変わんないか。
「どうだ? まだ腹に何か重い物が残ってる感じはするか?」
心配そうに僕の顔を覗き込むユート君に、首を振って答える。もうお腹の中は空っぽだ。
「なら船室で休もう。横になれば少しは楽になるはずだ」
「うん……」
辛くも返事ができた僕は、ユート君に肩を貸してもらいながら歩き始める。途中何度か船が揺れ、その度に気持ち悪さがお腹の奥から込み上げてくるような感じがしたけど、どうにか醜態を晒さずに船室の前へと辿り着く。
「あら? 怪我人ですの?」
そんな時だった。足下しか見えない視界の上に、黒く輝く革靴が映る。
視線を上げると、同じような靴が四組、黒の靴下、僅かに覗く肌の色、長い黒のスカートの裾、そして校章の入ったバッジを留めたセーラー風ワンピースが見えた。この制服は……。
「メイガスト、女学院……?」
「ええ、その通りですわ。私たちが所属する学院を知っているとは、良い心掛けですわね」
先頭に立つ、顔の左右にある金色の縦巻きロールヘアが特徴的な女子生徒が、手で僅かに口元を隠して微笑んだ。様になってるなぁ、なんてぼんやり考える。
「教養を持つ民に対しては、ノーブレスオブリージュを果たさなくてはね。メリッサ」
「はい」
「彼を治療してあげて」
「かしこまりました」
「船酔いを治せるのか?」
最後尾にいた、メリッサと呼ばれた女の子が、ユート君の言葉に足を止める。茶色の髪を後ろで束ねた、そばかすのあるメリッサさんは、困ったように先頭の生徒を見た。
「あら、怪我ではなかったのね。メリッサ、下がりなさい」
「はい」
「ひひっ。ピアサ先生でもなきゃ、船酔いは治せない、よね」
「我々にできることはないようです。ファリサ様、行きましょう」
「そうですわね。それではごきげんようーー」
その時、一際大きく船が揺れた。頭が揺さぶられ、やばいと思った時にはもう遅かった。
「うぇええええ」
「まあっ!」
「ひぃいっ!」
「危ない!」
「だ、大丈夫ですか?」
吐き出された胃液は、ユート君が取り出したハンカチに落ちていった。涙目で見上げると、汚物を見るような目でこちらを見る三人と、心配そうにこちらを見る一人の顔があった。
「申し訳ありません、ファリサ様。手荒い真似をしました」
「いいえ、コミサ。貴女のお陰で靴が汚れずに済んだわ。ありがとう」
「行こう、ファリサ様。ここ、臭い」
「そうですわね」
言うが早いか、刺繍の入ったハンカチを鼻に当てた三人が僕たちを避けるようにして足早に去っていく。メリッサさんだけは足を止め、三人が向かった先とこちらとで、何度か視線を往復させる。
「俺が船室まで連れていくから、気にしないでくれ」
「で、ですが……」
「メリッサ、早く来なさい」
「う……」
「メリッサ? その子どうしたの?」
メリッサさんが目を伏せた時だった。一際高い声がメリッサさんの背後から響き、重い頭が僅かに軽くなる。
「ピアサ先生、この人船酔いみたいで、お願いします!」
メリッサさんは振り返って頭を下げると、走って三人の後を追った。
「あらあら、あの子ったら。酔ってしまったのは貴女?」
「は……い?」
一瞬、遠くにいるのかと思った。しかしピアサ先生と呼ばれた女性は、そのままの大きさで僕の頭に手を触れる。ふわふわの桃色の髪が揺れ、僕の鼻をくすぐった。
えっと、酔ってるからなのかな? ピアサ先生っていう人、学生どころか子供に見えるんだけど……。
「大丈夫よ。目を閉じて、体を楽にして」
フルルよりも小さい女の子が、甲高くも優しい声で語りかけてくる。僕は言われるがままに目を閉じる。
あれ? 何だか急に体が軽くなったぞ? 気持ち悪さも消えて、何だか眠気が……。
「操作魔法ですか」
「そういう呼び方もあるわね。私は浮遊魔法と呼んでいるけれど」
そんな会話が遠くに聞こえたのを最後に、僕の意識は無くなった。
◇ ◇ ◇
よしよし、良い子ね。このまま休ませてあげましょう。
私は男の子っぽい格好をした女の子を空中で仰向けにさせると、彼女を支えていた男の子に声をかける。
「船室はどちらかしら?」
「こっちです」
黒髪黒目、更にシャツもズボンも靴も黒で統一している男の子は、特に驚いた様子もなく先導する。あまりの自然さに、私の方が少しびっくりしてしまう。
「貴方は驚かないのね」
「驚くって、魔法にですか?」
「それもあるけれど、私の容姿に関して」
初対面の相手はまず、私のことを子供だと判断する。メイガスト魔法学院の教師だと説明してもすぐには信じないし、本当だと分かった時には魔物でも見るかのような目を向けてくるのが大半だ。それなのにこの男の子は珍しがるでもなく、当たり前のように接してくれた。こんな反応をされたのは、数えるほどしかない。
「ああ、じいさ、身内に、年の割に若く見える人がいるんです。だからですかね」
「そうなのね。とても良いことだと思うわ」
この子のおじいさんが若い見た目をしているのね。私のように特殊な精霊と契約しているのかしら? それとも……。
「ここです」
「着いたのね」
男の子が開けた扉の先に、女の子を連れて入る。一般的な二人用の船室だった。私は男の子が手で示したほうのベッドに女の子を横たえる。女の子はすやすやと寝息を立てていた。
「もう大分落ち着いたみたいね。念のため、芳香魔法も使っておきましょう」
新たに魔術式を形成し、芳香魔法を発現させる。心を穏やかにしてくれる、仄かに甘い香りが部屋に広がった。
「ありがとうございます。いい匂いですね」
「ふふっ、ありがとう。私の中では一番安心できる香りなの。苦手な匂いでなくて良かったわ」
男の子が表情を綻ばせる。この子とは香りの好みも合いそうだ。思いがけない出会いに何だか嬉しくなってしまう。
「そうだわ。私ったら、まだ名前を言ってなかったわね。私はピアサ。ピアサ・プリンギスよ。メイガスト女学院で教師をしているわ」
「俺はユートです。姓はありません。今はグリマール魔法学院に在籍しています」
「まあっ! あのグリマールの?」
女の子の方はなんとなく、とてつもない魔力を秘めている感じはしていたけれど、まさかこの男の子が?
「はい。シイキ、介抱してもらった友人も同じです」
「そうなのね……。だから魔法にも驚かなかったのかしら」
「治療のためとは言え、こういう場所で魔法を使ったことには少し驚きましたけど」
ああ。公共の場所で魔法を使用することは厳禁ですものね。
「私は今回、どちらかというとお客様じゃないの。特別乗務員といって、ある程度の魔法を使う許可を貰っているわ」
言いながら、首から提げている特別乗務員の証を掲げる。ユートちゃんは可愛く首を傾げた。
「普通の乗務員とは違うんですか?」
「ええ。この船は魔法大型船でしょう? 魔法大型船っていうのはその名の通り、魔法で動いているの。その魔法は魔法石によって発現するわ。それで、片道分の魔力は出発前に補充されているのだけれど、何かが起きた時のために、私のように魔法の扱いに長けた人が必要なの。といっても、そんな事態が起こることなんて滅多にないし、折角魔法が使える人をただ乗せてるだけだなんて、もったいないでしょう? だから私たちは、たまに魔法を使ってお客様に喜んでもらったりしているの。時にはこうして、気分の悪くなった子を介抱したりもね」
寝ているシイキちゃんの髪を優しく撫でる。さらさらとした綺麗な黒髪だった。
「ということは、さっき会ったメイガスト女学院の生徒たちも?」
「いいえ、あの子たちは違うわ。ただの乗客よ。でももし魔法を使っても、大目に見てくれると嬉しいわ。必要があれば魔法の使用を躊躇わないよう教えているの」
「いい教えですね。俺も同意見です」
「ふふっ。ありがとう」
さてと、少し名残惜しいけれど、そろそろ行かないとかしら。
「それじゃあ、私はこれで失礼するわ。良い船旅を」
「はい。本当にありがとうございました」
「うふふ、どういたしまして」
微笑みを交わしてから部屋を出た。少し歩いたところで、小さく呟く。
「うちの子たちとは大違いねぇ」
グリマール魔法学院は、メイガスト女学院に並ぶ魔法の名門だ。誰でもなれるわけではない魔法使いの中でも、一際優秀な子だけが通える学院。そんな場所に在籍している子供なら、うちの子たちと同じかそれ以上に増長しているかとも思ったのだけれど。
「とってもいい子だったわね。うちの子たちも見習ってほしいわ」
まあ、帰路につく頃には多少変わっているでしょう。そのためにわざわざ連れてきたのだから。
傲岸不遜なあの子たちの態度が軟化することを想像して、意地悪な笑みを浮かべてしまう。はしたないけれど、誰も見ていないのだし、少しだけ妄想を楽しませてもらおう。
「うう……気持ち悪いです……」
「フルル、もう少しよ。しっかりして」
あらあら、また酔ってしまった子がいるのかしら?
私は特別乗務員の顔に戻ると、具合の悪そうな子に声をかけるのだった。
朝、日が昇る前に起きた僕たちは馬車を乗り継ぎ、昼過ぎに出港する船に乗り込んだ。千人も乗れるという魔法大型船はとても大きく、船に乗るのも初めてな僕は圧倒されて言葉を失った。
こんな大きな船が動くなんて! 技術の進歩と魔法機の発展を感じさせる威容は乗る前から僕を興奮させてくれた。出港した時なんかは、思わず歓声を上げたほどだ。
そして今、船は大海原を走っている。青い空の下、どこまでも広がる水面が陽光を浴びて輝いていた。まるで僕たちの旅路を祝福しているかのようだ。
僕はこれから向かう先で起きる出来事に心を躍らせながら、潮風を胸いっぱいに吸い込み――
「うぇええええ」
「ひあっ!」
「どれだけ吐くのよ……」
船べりから上半身を出した僕は、今日何度目になるかも分からない苦しみを海に吐き出す。ポジティブなことを考えて誤魔化そうとしたけど、やっぱりダメだった。フルルは耳を塞ぎ、シルファは呆れたようにため息をつく。
「シイキ、無理するな」
醜態を晒す僕の背中をさすってくれるのはユート君だ。その優しさが今はただただありがたい。僕はユート君から受け取った水筒の中を口に含み、
「ゲホッ! ゴホッ!」
盛大にむせてしまった。口の中の水が私服のユート君に吹きかかる。
「落ち着け。深呼吸するんだ」
それでもユート君は僕のみを案じてくれた。申し訳なさで消えたくなる。
「夜更かしするからそうなるのよ。今日は早起きだって分かっていたでしょうに」
シルファが冷たく言い放つ。その手はフルルの背中を撫でていた。どうもフルルも僕の様子にあてられたのか、気分が悪くなってしまったらしい。言葉もろくに喋れない僕は、心の中で土下座する。
うう……折角の楽しい船旅が、僕のせいで台無しだ。正直に、楽しみで眠れなかったって言っておけば良かったかな……いや、あんまり変わんないか。
「どうだ? まだ腹に何か重い物が残ってる感じはするか?」
心配そうに僕の顔を覗き込むユート君に、首を振って答える。もうお腹の中は空っぽだ。
「なら船室で休もう。横になれば少しは楽になるはずだ」
「うん……」
辛くも返事ができた僕は、ユート君に肩を貸してもらいながら歩き始める。途中何度か船が揺れ、その度に気持ち悪さがお腹の奥から込み上げてくるような感じがしたけど、どうにか醜態を晒さずに船室の前へと辿り着く。
「あら? 怪我人ですの?」
そんな時だった。足下しか見えない視界の上に、黒く輝く革靴が映る。
視線を上げると、同じような靴が四組、黒の靴下、僅かに覗く肌の色、長い黒のスカートの裾、そして校章の入ったバッジを留めたセーラー風ワンピースが見えた。この制服は……。
「メイガスト、女学院……?」
「ええ、その通りですわ。私たちが所属する学院を知っているとは、良い心掛けですわね」
先頭に立つ、顔の左右にある金色の縦巻きロールヘアが特徴的な女子生徒が、手で僅かに口元を隠して微笑んだ。様になってるなぁ、なんてぼんやり考える。
「教養を持つ民に対しては、ノーブレスオブリージュを果たさなくてはね。メリッサ」
「はい」
「彼を治療してあげて」
「かしこまりました」
「船酔いを治せるのか?」
最後尾にいた、メリッサと呼ばれた女の子が、ユート君の言葉に足を止める。茶色の髪を後ろで束ねた、そばかすのあるメリッサさんは、困ったように先頭の生徒を見た。
「あら、怪我ではなかったのね。メリッサ、下がりなさい」
「はい」
「ひひっ。ピアサ先生でもなきゃ、船酔いは治せない、よね」
「我々にできることはないようです。ファリサ様、行きましょう」
「そうですわね。それではごきげんようーー」
その時、一際大きく船が揺れた。頭が揺さぶられ、やばいと思った時にはもう遅かった。
「うぇええええ」
「まあっ!」
「ひぃいっ!」
「危ない!」
「だ、大丈夫ですか?」
吐き出された胃液は、ユート君が取り出したハンカチに落ちていった。涙目で見上げると、汚物を見るような目でこちらを見る三人と、心配そうにこちらを見る一人の顔があった。
「申し訳ありません、ファリサ様。手荒い真似をしました」
「いいえ、コミサ。貴女のお陰で靴が汚れずに済んだわ。ありがとう」
「行こう、ファリサ様。ここ、臭い」
「そうですわね」
言うが早いか、刺繍の入ったハンカチを鼻に当てた三人が僕たちを避けるようにして足早に去っていく。メリッサさんだけは足を止め、三人が向かった先とこちらとで、何度か視線を往復させる。
「俺が船室まで連れていくから、気にしないでくれ」
「で、ですが……」
「メリッサ、早く来なさい」
「う……」
「メリッサ? その子どうしたの?」
メリッサさんが目を伏せた時だった。一際高い声がメリッサさんの背後から響き、重い頭が僅かに軽くなる。
「ピアサ先生、この人船酔いみたいで、お願いします!」
メリッサさんは振り返って頭を下げると、走って三人の後を追った。
「あらあら、あの子ったら。酔ってしまったのは貴女?」
「は……い?」
一瞬、遠くにいるのかと思った。しかしピアサ先生と呼ばれた女性は、そのままの大きさで僕の頭に手を触れる。ふわふわの桃色の髪が揺れ、僕の鼻をくすぐった。
えっと、酔ってるからなのかな? ピアサ先生っていう人、学生どころか子供に見えるんだけど……。
「大丈夫よ。目を閉じて、体を楽にして」
フルルよりも小さい女の子が、甲高くも優しい声で語りかけてくる。僕は言われるがままに目を閉じる。
あれ? 何だか急に体が軽くなったぞ? 気持ち悪さも消えて、何だか眠気が……。
「操作魔法ですか」
「そういう呼び方もあるわね。私は浮遊魔法と呼んでいるけれど」
そんな会話が遠くに聞こえたのを最後に、僕の意識は無くなった。
◇ ◇ ◇
よしよし、良い子ね。このまま休ませてあげましょう。
私は男の子っぽい格好をした女の子を空中で仰向けにさせると、彼女を支えていた男の子に声をかける。
「船室はどちらかしら?」
「こっちです」
黒髪黒目、更にシャツもズボンも靴も黒で統一している男の子は、特に驚いた様子もなく先導する。あまりの自然さに、私の方が少しびっくりしてしまう。
「貴方は驚かないのね」
「驚くって、魔法にですか?」
「それもあるけれど、私の容姿に関して」
初対面の相手はまず、私のことを子供だと判断する。メイガスト魔法学院の教師だと説明してもすぐには信じないし、本当だと分かった時には魔物でも見るかのような目を向けてくるのが大半だ。それなのにこの男の子は珍しがるでもなく、当たり前のように接してくれた。こんな反応をされたのは、数えるほどしかない。
「ああ、じいさ、身内に、年の割に若く見える人がいるんです。だからですかね」
「そうなのね。とても良いことだと思うわ」
この子のおじいさんが若い見た目をしているのね。私のように特殊な精霊と契約しているのかしら? それとも……。
「ここです」
「着いたのね」
男の子が開けた扉の先に、女の子を連れて入る。一般的な二人用の船室だった。私は男の子が手で示したほうのベッドに女の子を横たえる。女の子はすやすやと寝息を立てていた。
「もう大分落ち着いたみたいね。念のため、芳香魔法も使っておきましょう」
新たに魔術式を形成し、芳香魔法を発現させる。心を穏やかにしてくれる、仄かに甘い香りが部屋に広がった。
「ありがとうございます。いい匂いですね」
「ふふっ、ありがとう。私の中では一番安心できる香りなの。苦手な匂いでなくて良かったわ」
男の子が表情を綻ばせる。この子とは香りの好みも合いそうだ。思いがけない出会いに何だか嬉しくなってしまう。
「そうだわ。私ったら、まだ名前を言ってなかったわね。私はピアサ。ピアサ・プリンギスよ。メイガスト女学院で教師をしているわ」
「俺はユートです。姓はありません。今はグリマール魔法学院に在籍しています」
「まあっ! あのグリマールの?」
女の子の方はなんとなく、とてつもない魔力を秘めている感じはしていたけれど、まさかこの男の子が?
「はい。シイキ、介抱してもらった友人も同じです」
「そうなのね……。だから魔法にも驚かなかったのかしら」
「治療のためとは言え、こういう場所で魔法を使ったことには少し驚きましたけど」
ああ。公共の場所で魔法を使用することは厳禁ですものね。
「私は今回、どちらかというとお客様じゃないの。特別乗務員といって、ある程度の魔法を使う許可を貰っているわ」
言いながら、首から提げている特別乗務員の証を掲げる。ユートちゃんは可愛く首を傾げた。
「普通の乗務員とは違うんですか?」
「ええ。この船は魔法大型船でしょう? 魔法大型船っていうのはその名の通り、魔法で動いているの。その魔法は魔法石によって発現するわ。それで、片道分の魔力は出発前に補充されているのだけれど、何かが起きた時のために、私のように魔法の扱いに長けた人が必要なの。といっても、そんな事態が起こることなんて滅多にないし、折角魔法が使える人をただ乗せてるだけだなんて、もったいないでしょう? だから私たちは、たまに魔法を使ってお客様に喜んでもらったりしているの。時にはこうして、気分の悪くなった子を介抱したりもね」
寝ているシイキちゃんの髪を優しく撫でる。さらさらとした綺麗な黒髪だった。
「ということは、さっき会ったメイガスト女学院の生徒たちも?」
「いいえ、あの子たちは違うわ。ただの乗客よ。でももし魔法を使っても、大目に見てくれると嬉しいわ。必要があれば魔法の使用を躊躇わないよう教えているの」
「いい教えですね。俺も同意見です」
「ふふっ。ありがとう」
さてと、少し名残惜しいけれど、そろそろ行かないとかしら。
「それじゃあ、私はこれで失礼するわ。良い船旅を」
「はい。本当にありがとうございました」
「うふふ、どういたしまして」
微笑みを交わしてから部屋を出た。少し歩いたところで、小さく呟く。
「うちの子たちとは大違いねぇ」
グリマール魔法学院は、メイガスト女学院に並ぶ魔法の名門だ。誰でもなれるわけではない魔法使いの中でも、一際優秀な子だけが通える学院。そんな場所に在籍している子供なら、うちの子たちと同じかそれ以上に増長しているかとも思ったのだけれど。
「とってもいい子だったわね。うちの子たちも見習ってほしいわ」
まあ、帰路につく頃には多少変わっているでしょう。そのためにわざわざ連れてきたのだから。
傲岸不遜なあの子たちの態度が軟化することを想像して、意地悪な笑みを浮かべてしまう。はしたないけれど、誰も見ていないのだし、少しだけ妄想を楽しませてもらおう。
「うう……気持ち悪いです……」
「フルル、もう少しよ。しっかりして」
あらあら、また酔ってしまった子がいるのかしら?
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