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不穏な足音

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『今度さ、フランスへの転勤が決まったんだ』

「そうなの? 栄転ってことでいいのかな?」

『おうよ』

 おどけた口調にくすりと笑いをこぼした。

 学生の頃からそうだったが、翔君と話しているといい意味で気が抜ける。
 ふざけてからかわれもしたけれど、それはあくまで冗談にすぎない。彼が相手だと変に構える必要がなくて、リラックスしていられる。

「おめでとう! さすが翔君だね。それで、フランスの話ね。どんなことが知りたいの?」

 友人のおめでたい話に、憂鬱だった気分も今だけは晴れていく。

 人当たりもよく、要領のいい翔君のことだ。会社の同僚や上司にも、存分にかわいがられているのだろう。

 彼の新たな勤務地を聞きながら、その近郊で住みやすい地域や家賃相場などを伝える。
 話しているうちに向こうでの生活が鮮明によみがえり、話がつい横道にそれてしまったのは愛嬌だ。翔君も遮らずに聞いていたのだから、きっと興味を持ってくれたのだろう。

 私が演奏で訪れたバルの雰囲気はきっと翔君の好みとも合うし、食事も最高だったと熱弁をふるえば、『それならその近くで部屋を探そうかな』と冗談なのか本気なのかよくわからない口調で返ってくる。

「ただね、地域によって夜間は治安が悪いところもあるから、十分に気をつけて」

『ああ、なんか先輩もそんなふうに言ってたな』

 フランスは観光地が多く、華やかなイメージばかりを抱きがちになる。
 けれど時間や場所によっては警戒する必要があると、私も繰り返し教えられた。

『それにしても、音羽はすごいよなあ』

「なにが?」

 不意の褒め言葉に、首をかしげた。

『成人していたとはいえ、一度も行ったことのない国に、なんの保証もないまま単身で渡ったろ。それで、自力で稼いで生活していたんだよな。それを見越して、在学中から語学も身につけてさ。俺の場合は会社のフォローが入るし、状況がまったく違うよ』

「私だって、お世話になった先生の伝手があったからできたんだよ。言葉も、最初はほとんどジェスチャー頼みだったし。それにね、翔君。あのとき翔君が後押ししてくれたから、私はフランスへ行く決心ができたんだよ。決して自分だけの力じゃ無理だった」

 姉と碧斗さんの姿を見るのが辛かった私に、距離をおくべきだと渡仏を応援してくれたのは翔君だ。彼のひと押しがなければ、あれほどすぐに決断できていなかっただろう。

「フランスへ行ってよかったって、満足してる。きちんとした仕事に就けていたわけじゃないけど、あの数年の経験は間違いなく価値があったよ。演奏家としてだけでなく、人として成長させてくれたと思ってる」

 実家にいた頃は、母や姉に遠慮していつも一歩引いていた。
 大きな不満があったわけではないが、家族に認めてもらえない寂しさは常に感じていた。

 フランスで必死に頑張ってきた日々が、私の支えになっている。
 母や姉と対峙するほどの強さを持てたとまでは言えないけれど、仕事に関してはプロとしてきっちりとこなしていると自負している。

 私の努力を見ていてくれた人は、ほかにもいる。
 それは翔君をはじめとした友人らであり、向こうで一緒に頑張っていた仲間であり、そして夫である碧斗さんだ。彼らの肯定が、私を強くしてくれた。
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