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第四章 百物語編
36話目 果たされなかった約束(二)
しおりを挟む犬神とは、人の手によって造られた怪異。その生まれ故か、気性は極めて粗く犬神憑きの人間を食い殺すとも言われるほど。
犬神を生み出す手法は蟲毒を踏襲したものとされ、平安の世の頃には既にその手法は既に禁止されたと伝え残されている。
生きた犬を用い、飢えに苦しんだ末に人の手によってその命を奪われる。そうして残る怨念を呪物として人に憑かせるものや、獰猛な数匹の犬を戦わせた挙句、勝ち残った一匹に魚を与えてその命を奪い、犬が食べ残した魚を人が食べる、などその呪法は様々に伝承として残っている。
そして、その姿は犬神という名らしからぬ、土竜やハツカネズミとも言われている。しかし、いずれも人にとって、ただ都合のよい恩恵を与えるものではない。
斑鳩は項垂れるように、力なく言葉を溢す。
「お前にだけは視られたくなかったよ」
すると片腕が痛むのか顔を歪め、痛む場所を確認しようと袖を捲った。そこには真新しい、犬に噛まれた様な歯形がくっきりと痕を残していた。それはまるで、犬神の力を借りた代償とでも言うようだ。その様子に見藤はさらに顔を曇らせる。
見藤の怒りの感情を読み取ったのか沙織は彼に平静さを取り戻させようと、ダウンパーカーの裾を強めにくい、と引っ張った。はっと、見藤は背に庇っていた沙織を振り返る。彼女の表情は見藤の心中を慮《おもんぱか》っているようにも見られるが、唇は硬く閉じられその瞳と同じように冷静であった。
そんな沙織の様子に見藤は平静さを取り戻したのか、溜め息をつくと斑鳩へと向き直る。そうして、彼に近付いて行く。
「今晩、うちへ寄れ。話はそれからだ」
「………おう」
斑鳩は短くそう返すと、拾い上げた見藤の鞄を持ち主に返す。
ひとまず目の前の危機は過ぎ去った。しかし、姿を消す直前のユビキリマワリは斑鳩を凝視していた。それはユビキリマワリの怪異としての存在意義、その目的を果していないとでも言うのだろう。見藤は推測を斑鳩に伝える。
「あれは恐らく、またお前を狙う」
「ははっ、怪異退治には好都合だな。……痛っ、!!」
「笑い事じゃない」
鞄を受け取るとき、見藤は空いた片方の手で咬傷を負った斑鳩の腕をぐっと掴んでみせた。その容赦ない力加減は見藤の怒りを表しているかのようだ。
斑鳩は思わず、その痛みで声を上げてしまう。彼は恨めしそうに見藤を睨み付けるが、その表情は真剣な眼差しをしており居心地の悪さから視線を逸らすのは斑鳩の方であった。
人との繋がりを極力持とうとしない見藤であっても、悪友とまで言わしめる斑鳩の存在は彼にとって、呪物をその身に取り憑かせた代償を自業自得だと見放すにはあまりに大きいものなのだろう。
その頃になると辺りはすっかり夜の帳が降り、街灯がその存在を目立たせていた。
そうして、見藤は沙織と共に斑鳩と別れた。何とも言えないような表情を浮かべながら、隣を歩く見藤を見上げる沙織。
沙織は怪異であるため、人の果たされなかった約束の対価を回収する怪異であるユビキリマワリの餌食になることはない。しかし、見藤が咄嗟に庇ったのは彼女だ。そのことが幼心にも嬉しいと感じてしまうのは少なからず、親の愛情に飢えた子どもであるということを自覚してしまったのだろう。
沙織はその思いを払拭するかのように首を振ったのであった。
特に会話のないまま二人の歩みは進む。これでは楽しい夕食どころではなくなってしまった。
沙織はぽつり、と言葉を溢した。それは決して、他の大人に言わないような言葉だろう。しかし、少しでも見藤の胸の内を軽くしようと、彼女なりに気を遣ったのだ。
「お腹空いた」
「あ、あぁ……そうだな」
「ピザがいい」
「…………空きっ腹のおっさんに、それはキツイ」
「えー」
そんな問答をしつつ、二人は街灯に照らされながらファミレスへ向かうのであった。
* * *
そうして、沙織と二人で食事を摂った後、見藤は彼女を自宅へと送り届けたのであった。
疲労を色濃くした見藤は、ようやく事務所へと帰り着く。扉を開くや否や、冷え切った空気が見藤の頬を掠める。その空気の揺らぎは、彼に霧子の存在を知らせる。
どん、と突然体に感じる衝撃にも少しは慣れたようだ。見藤は気付くと、霧子に抱きしめられていた。見藤に取り憑いている霧子は彼の身に起きたことを、少なからず知っているのだろう。そして誰と共にいたのか、気配の残滓によってある程度は把握できるという。
その事を思い出し、霧子が突然抱きついてきた理由を察した見藤は彼女を安心させるように空いた片手で背をとんとん、と叩いてやる。すると、更に強く抱きしめられてしまった。
「あぁ、……大丈夫だ」
「……、また危ない目に遭ってたんでしょ」
「ん、……問題ない」
「噓つき」
霧子は語気を強め、抱きしめていた力を弱めると少しだけ体を離し、見藤の顔を見つめる。その顔は疲労もさることながら、どこか思い詰めるような表情をしていたのだ。
見藤に残る僅かな沙織の気配。その残滓を感じ取った霧子は少し眉を寄せたが、彼女を子どもだと庇護する存在だと言い切った彼に抱く想いは、怒りや嫉妬心ではなかった。
「酷い顔してるわよ。沙織にもそんな顔、見せてた訳?その顔じゃ、あの子に心配かけるわよ」
「……いや、………」
見藤はそう言って視線を逸らす。沙織との食事中、どのような顔をしていたかなど覚えがない。寧ろ、彼女に気を遣われていたようにも思う。それが今になって思い出され、大人として情けなく思えてきた。そして思い返されるのは、やはり斑鳩のことだ。
見藤の答えに霧子は溜め息をつくと、抱き締めていた見藤を解放する。そして、きびすを返すように背を向けた。だが、それを止めたのは見藤だった。
「霧子さん、……すまん」
「何よ?ん」
そして、同時に謝罪の言葉をかけられる。何に対する謝罪なのか、彼女は一瞬理解できず首を傾げようとしたのだが、それすら阻まれた。
見藤はきびを返した霧子の細い手首を掴み、振り返りざまに露になった彼女の唇に自身のそれを重ねたのだった。
思わぬ見藤の行動に霧子は目を見開くが、そっと受け入れる。霧子が求めていた口付けは意図しない形で成される羽目になってしまった。
唇が離れるや否や、霧子の意に沿わない衝動的で卑劣な行動だったと我に返った見藤は顔面蒼白だ。そんな彼を目にした霧子は、いつもなら顔を真っ赤にして恥ずかしさから怒りを露にするのだが、今回はどうやら違ったようだ。少し拗ねたように口を尖らせながらも、見藤を心配そうに見つめている。
「ほんと、……狡い。ばか。……何があったのよ?」
「……すまないっ」
その返答では何があったのか、など分かるはずもなく。霧子はただ溜め息をつくばかりであった。
言いたくないことであれば無理に言わなくてもよい、とそう示すように霧子は手を振りながら社へ還ってしまった。どうやら、彼女の中で先ほどの口付けなど、心中に波風を起こすほどのものでもないと言うようだ。
霧子の背を見送ると、その場に残された見藤は天を仰ぎながら顔を覆った。そして、口から出るのは大きな溜め息と後悔の言葉。
「はぁあぁ……やっちまった……」
言葉に言い表せないほどの複雑な感情を免罪符にした衝動的な口付け、そうして押し寄せて来るのは怒涛の後悔の念だ。互いを愛しく想いあうような男女の雰囲気、なんてものは存在しなかった。
そのことが酷く申し訳なく、自身の感情を御することもできない未熟者であると自覚させ、見藤にさらに自責の念を抱かせる。――さりとて、見藤もできた人間ではなかった。
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