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第一章 劈頭編
8話目 機微に疎い男は許しを請う
しおりを挟む事務所内に二人だけの雰囲気が流れてから、しばらくして。
見藤は自分らしくない行動を取ったことが突然、気恥ずかしくなり――。おもむろに首の後ろを掻くと、ゆっくりと霧子から離れた。ただ、少し名残惜しいと思ったことは秘密だ。
見藤の心の内を知ってか知らずか。霧子は顔を赤くし俯いている。見藤にしてみれば、その様子がまた可愛らしい。ふっと目尻を下げる。
すると、霧子がわっと声を上げる。
「と、というか、それ!」
「ん?」
霧子が言う「それ」とは、首の絞痕のことだろうか。見藤は首をさすった。
「違うわよ、その打った痕の方よ」
「あぁ、……大丈夫だ」
「どこがよ!」
見藤からすれば、霧子の機嫌を損ねる霊障などよりもずっと意識の向かない怪我だ。放っておけば治る、程度に考えていた。
少し離れた距離を今度は霧子が詰め寄り、べりっと、容赦なくTシャツを捲る。霧子の方が見藤よりも背が高いため、余分に捲りあがるTシャツ。
その下には見藤の脇腹や背中に鬱血した痕が痛々しく残っている。霧子はそれを見て、むむむ、と眉を寄せた。
霧子は立ち上がると、事務所内の戸棚の引き出しを漁った。何か、探し物があるようだ。
そうして、彼女は目当ての物を見つけたのか、得意気に戻ってきた。手に持っていたのは市販の貼付剤。霧子はその場で呆然としている見藤に、じとっりとした視線を送る。
「座りなさいよ」
「え、いや、自分でできる……」
「いいから!」
先程の仕返しだろうか――。有無を言わさない霧子の気迫に、見藤は大人しくソファーに座るのだった。
* * *
「ただいま戻りましたー」
「又八、猫缶買ってきたよ」
丁度事務所の扉が開いたところに、見藤の言葉にならない叫びが木霊した。
「~~~~~っ……!!」
「ちょっと、動かないの!!! これで最後なんだから!」
久保と東雲の目に飛び込んできたのは、湿布を片手に見藤へ襲い掛かる霧子の鬼の形相だった。
流石の見藤も、手当と言う名目の報復に涙目だ。既に何か所かは湿布が貼られているが、その度に容赦ない力で湿布を体に押し付けられていたのだろう。
ソファーと並行して座り前かがみの姿勢で痛みに耐える見藤を見れば、久保と東雲の中に多少の哀れみが浮かんでくる。
よく見ると、見藤の首元には湿布を貼るために中途半端に脱いだTシャツが引っかかっている。その下はもちろん上裸だ。見藤の雄偉な体を目にしたことがない二人は目を点にする。
更に、見藤の風貌の変化も、二人の視線を釘付けにしていた。普段は分けられている前髪は下され、蓄えられた髭も綺麗さっぱりなくなっている。それ故に、いつもより若々しく見える――、というより幼く見える、と表現した方が合っている。
実のところ、見藤は童顔だ。仕事柄だろうか、相手に与える印象の為に強面に見えるよう、見藤なりに繕っていたのだろう。これは新たに目にした見藤の一面。
見藤を見つめていた東雲は、途端にぷいっと視線を逸らしてしまった。流石に見藤と霧子の仲睦まじい様子を見ていられなくなったのか、久保は心配そうに東雲へ視線を向けるが――。
「あかん、顔と体が良すぎて直視できひんわ」
「ほんと、流石だよね」
「褒めてる?」
「多少」
呆れ半分、関心半分。久保は東雲の扱いにも慣れてきた頃だ。
二人の存在に気付いたのか、見藤は慌ててTシャツを着る。しかし、二人はあの湿布の下には鬱血痕があることを知ってしまった。自分たちの軽率な行動が見藤の体に怪我を負わせてしまったと、今更ながら大いに後悔している。
そして、Tシャツを着たことにより隠されていた首元が露になる。しっかりと残された、絞痕。
久保は息を呑み、慌てて見藤の元へ駆け寄ろうとする。
「その痕……! 見藤さん、病院へは!?」
「いや、こんな痕を見られたら事件性ありと見なされて大騒ぎになる。時間が経てば消えるさ、気にするな」
こともなげに言ってのけた見藤。久保は眉を下げる事しかできなかった。
一方、久保と東雲の落ち込んでいる様子を目にした見藤。帰ったら説教してやると息巻いていたが、あまり強く言えなくなっていた。
「座りなさい。まぁ……、俺の忠告を無視したことは反省しろ」
「「はい……」」
厳しい一言だが、それだけで効果はあるだろう。
見藤に促され、向かいのソファーに腰を下ろした久保と東雲。二人は意気消沈と言わんばかりに、肩を落としていた。見藤の隣で様子を窺っていた霧子は心配そうに見つめている。
二人の様子に、見藤は深い溜め息をつく。
「で、君らは大丈夫そうか?」
「はい。あの後、煙谷さんが色々してくれたので、何事もなく」
煙谷の名前を聞いた途端、見藤の眉間に深い皺が刻まれる。
見藤と煙谷。二人の仲を知らない久保と東雲からすれば、見藤の危機に駆けつけた煙谷はコンビを組むほどの仲だと思っていることだろう。
見藤は辟易としながら、口を開く。
「はぁ……、どうせあいつだろ。……煙谷だろ」
「???」
――俺を助けたのは、その言葉だけは言いたくない、と見藤は首を横に振った。
気を失っている間のことは久保が知っていると考えるのが当然だ。その時の状況を聞こうかと考えたが、煙谷への嫌悪感が邪魔をする。
しかし、何かを察知したのか――。久保は口を閉ざしながら、こくこくと頷いた。
煙谷が怪異である、という事実は久保だけが知る秘密だ。怪異は自らの正体を名乗らない。正体を知った者には無条件で制約が生まれる。だが、内緒だと言われれば、正直に従う久保にはあまり関係のない話だった。
見藤は少し考え――。久保と東雲の二人は既に面識がある。癪に障るが、簡単に煙谷について説明しておくことにした。
「煙谷は祓い屋だ。霊を祓うことを専門としている。折り合いがものすごく、悪い。以上だ」
すると、そこで事務所に新しい声が響いた。
「何か呼ばれた気がしたけど、合ってる?」
「呼んでねぇよ」
――煙谷だった。
ふらりと煙谷が現れたのだ。咥え煙草をして、こちらへ歩いて来る。辺りに煙草特有の臭いが立ち込めた。その臭いに見藤は更に眉を寄せ、激しく咳き込んでいる。
助けられたことが、よほど気に食わないのか。見藤は煙谷を一瞥もしない。
久保はちらりと隣を見やる。普段、聞くことがない見藤の乱暴な言葉遣いに目を輝かせる東雲は置いておこう、と目を伏せた。
咳き込んでいた見藤は、やっとの思いで口を開いた。
「おい、うちは禁煙だ!」
「まずは感謝の言葉の一つや二つ、僕に言うのが先じゃない?」
煙谷の要求は至極当然だ。しかし、見藤の様子は変わらない。すると、煙谷は咥えていた煙草をつまむように手に持ち、ふっと、悪戯に見藤の顔に軽く煙を吹きかけた。
突然のことで避けようがなかったため、少しの煙だったが、肺に深く吸い込んでしまい、見藤は再び激しく咳き込み始めた。ゲッホ、ゲホゲホッ、ひゅーっと気道が狭まる音がした。涙目になっている。
見藤はじろりと煙谷を睨み付ける。
「こいつ、暴行罪で突き出してやる」
涙目になった見藤が面白いのか相変わらず飄々としている煙谷の態度。まさに一触即発だ。すると、ダァアアン!とローテーブルを叩く音が二つ同時に事務所に響いた。
「流石に今のは、あかんことやと思いますけど」
「煙谷、あんたねぇ……」
ぎろっと煙谷を睨みつける東雲と霧子。
霧子に睨まれた煙谷は流石に一瞬たじろいだのだが、東雲の方を見ると何か面白いものを見つけたとでも言うのか、にやりと笑い、飄々とした態度に戻ってしまった。
「へぇ、君、面白いね。助手としてうちの事務所に来ない?」
「お断りします。助けてもろたんは感謝しますけど。さっきの、見藤さんにしたことは許せません」
「ふーーーん」
「そもそも、あんさん、うちのタイプと違います」
断固とした態度をとる東雲の強さに、久保と見藤は呆気にとられていた。
そして、霧子も同様に怒りを露にしている。このとき、霧子と東雲の怒りの根源は若干異なっていたのだが、それに気付く者はこの場にはいない。
見藤はそれと同時に理解した。冒頭、せっかくとった霧子の機嫌を煙谷がすべて無駄にしてくれたことに。
霧子は、見藤に怪異や霊の痕跡がつくことを極端に嫌がる。そして、それは恐らく煙谷にも当てはまっている。その先の答えは――、今は考える余裕はない。
見藤が恐る恐る霧子を振り返り見上げると――やはり、彼女の目は怒りに燃えていた。
(嫉妬深いのはいいんだが……)
見藤は心の奥底に疼く感情を自覚する。――見藤は霧子に懸想している。それは長年、抱いてきた感情。
そのため、霧子の怒りに少し嬉しさを抱いてしまった。器量の狭い人間なのかもしれない、と自嘲する。一方で、この現状。霧子の機嫌をとる身にもなってみろ、と煙谷を睨み付ける見藤。
しかし、煙谷は飄々とした態度を変えることはなく。面白おかしく言い放つ。
「まぁ、そこまで抗議されたのなら仕方ないね。からかうのは止めるよ」
「そう、なら早く消えることね。私、今とても機嫌が悪いのよ」
低い声で話す霧子はその場を凍り付かせるような雰囲気を纏っていた。そんな霧子に負けたのか、煙谷は肩をすくめながら一枚の紙をローテーブルへ投げた。
「これ、調査報告。あの婆さんに送っといて」
「はぁ!!??」
紙には一言「特記すべき事象なし。以上」とだけ書かれていた。流石に呆れた見藤にどやされる煙谷だったが、それに取り合う訳もなく、事務所を出て行ってしまった。
煙谷が事務所を出た後。残されたのは冷え切った雰囲気を纏う霧子とそれに頭を抱える見藤。何故そういう雰囲気になったのか理解できない久保と東雲だった。
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