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第三章 夢の深淵編
28話目 二人、綻びを綴る(三)
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◇
社の中に渦巻く濃霧の中、身を屈める霧子の姿があった。両膝を地につき、両手で体を支えている。
髪は長く伸びており、床に無造作に広がっている。その姿はまるで昔、少年であった見藤が彼女と出会った頃のように長身だ。
苦しさに身悶え、さらに身を縮めて小さく呻く。肩を上下にしながら、粗く呼吸を繰り返す。床に着いた手は小刻みに震え、爪は鋭く長く伸びている。
錯乱していく意識の中で、彼女は「霧子」としての自我を必死に保つ。
(駄目よ、……)
魅入った男を憑り殺してしまう。その認知に負けてしまうと、見藤がどうなってしまうのか想像もしたくないと、首を激しく横に振った。
――契りを交わしたあの時、誓ったのだ。彼が誰にも邪魔されず、その天寿を全うできるように守ると。それを反故にするのが「霧子自身」であってはならない。
(それだけ、は……させない)
見藤との繋がりを留めたい霧子は、集団認知に抵抗する。長く伸びた爪が手掌に食い込み、血が滲んでも止めることはしない。痛みで少しでも意識が保たれればいいと、より力を籠める。
集団認知に抵抗し、苦痛を感じているからなのか、血が滲むほどの強い力でその傷を握り続けているからなのか。それとも、見藤と仲違いをしたままこの状況に見舞われた後悔からなのか、霧子の視界が朧気に滲んでいく。
(もっと、あの子を見ていれば――)
そこではたと気付く、見藤を「あの子」と呼称した。それは大人が子どもにするような、呼び掛けだ。
少年だった見藤はいつの間にか、大人になってしまった。
怪異である霧子はふとした瞬間に、人と時間の流れが違うことを忘れてしまう。老いて行く過程で培った人としての経験、魅力。それについこの間、どぎまぎさせられていた、と思い返す。
覚に心を読まれる見藤を守ろうと、沙織の前に姿を現した時だ。彼の主張を、どうしても認めることができなかった。
それは怪異としての性分もある。だが、それ以上に複雑な女心を抱いていたのだ。
( ――――馬鹿なのは、私ね)
そう思うのを最後に、薄れゆく意識の中。彼女が抱いた見藤への想いは伝えられることはなく、霧の中に溶けようとしていた。
「っ、霧子さん!!!!」
突如として呼ばれた、名前。その名は、霧に覆われたような意識を晴らすには十分だった。意識が巡り、己の体の支配を取り戻す感覚が彼女を覚醒させる。
彼女は蹲っていた体をたじろがせた。低い視線の先に捉えた、見慣れた姿に安堵した。
◇
視界の先に影を捉えた見藤は、躊躇いなく彼女の名を呼んだ。すると、それに応えるかのように少し体を動かしている。
見藤は足をさらに速める。今更、上がる息を気にしていられなかった。
距離が近付くと、やはりというべきか。彼女の姿は見藤が知る「霧子」の姿と、随分異なっていることに気付く。
「霧子さん……!!」
彼女は集団認知に抵抗し、苦しんでいるのか――。呻き声を漏らす様子に、見藤は慌てて傍に駆け寄り、名を呼びながら肩に触れた。
それにより、多少「霧子」としての意識を保てたのか。はっ、として見藤を見上げる彼女の表情は苦痛に歪んでいて、瞳は蛇のように切れた瞳孔をしている。
彼女の顔にかかる髪を見藤が優しくよけてやると、くすぐったいのか、少し身をたじろがせた。
そこで見藤が目にした、彼女の顔。「霧子」の面影を残しているが、そのままの顔ではなくなっていた。更に、怪異という名に相応しい姿で、あの美しさは失われていた。
集団認知によって書き換えられていく姿と人格に堪え、苦しんでいたのか。彼女の目には、溢れんばかりの涙が溜められていた。
しかし、変貌してしまった姿を見られたくないのか。彼女は顔を俯かせてしまい、再びその顔は長く伸びた髪に覆い隠されてしまった。
霧子の人格が保たれていることを感じ取った見藤は安堵の表情を浮かべる。その次には彼女に微笑みかけていた。
「どんな姿でも、霧子さんだ」
――見藤の笑みは霧子が好きな、あの幼さを残した微笑みだった。
見藤は身を屈めている彼女の両手を手に取り、ゆっくりと体を起こしてやる。見藤は膝立ちの姿勢で、彼女は腰を下ろしたまま座った姿勢で互いに向かい合った。態勢の違う二人だが人と怪異の体格差から、これで丁度、視線が合う。
見藤は彼女の両手を握ったまま、少し俯いて目を伏せた。
「よかった。ちゃんと……、ちゃんと、いる」
それは、心からの呟きだった。存在を確かめるようにぎゅっと、彼女の両手を握る見藤の手に力が籠る。
見藤の言葉を聞いて、彼女に塞き止められていた涙と感情は限界を迎えたようだ。
「う、ぁ」
嗚咽を漏らしながら、ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。
見藤はそっと手を離すと、彼女の涙を拭ってやる。――もう、彼女が流す涙にどう接してやればいいのか、狼狽える少年であった見藤ではない。
しかし、問題は解決していない。現状、書き換えられようとした「霧子」の認知に歯止めをかけたに過ぎない。方法がない訳ではない。契りを交わした時のように、集団認知と彼女を切り離してしまえばいい。
だが、既に対価となる物は霧子に捧げてしまっている。残るは見藤と霧子の、現状の繋がりを強固にすることだ。
見藤は彼女の髪を梳く。そして、その手を彼女の頬に添えた。
―――いつだったか。霧子が見藤に与えた許しに、今ここで応えるのだ。
額と額を合わせると、彼女は急かすように見藤の空いている手を握った。それに答えるように、見藤が指を絡める。
「……口付けを交わす、許しが欲しい」
見藤は眉を寄せ、切なげに呟く。彼女はもう返答する力も残っていないのか、小さく頷くだけだった。
そして、触れるだけの口付けを交わす。ものの数秒。そっと離れると、彼女と視線が交わる。だが、未だ彼女の瞳は蛇のように切れた瞳孔をしていてる。それは怪異としての性質を色濃く残しており、彼女は眉を寄せて苦しそうに呻く。
見藤は薄っすら見た、霧子の様子に眉を寄せる。
(まだ足りないか……)
もう一度。今度は深く、口付けを交わす。
――次第に熱を帯びる、その行為に二人は夢中になっていく。どちらの吐息か、分からないほどに。
そして、口付けを繰り返していくと次第に彼女の姿は、皆が知る「霧子」の姿に戻っていた。
霧子の存在を求める見藤と、見藤と共に在りたいという霧子の願いが、繋がった結果だった。
社の中に渦巻く濃霧の中、身を屈める霧子の姿があった。両膝を地につき、両手で体を支えている。
髪は長く伸びており、床に無造作に広がっている。その姿はまるで昔、少年であった見藤が彼女と出会った頃のように長身だ。
苦しさに身悶え、さらに身を縮めて小さく呻く。肩を上下にしながら、粗く呼吸を繰り返す。床に着いた手は小刻みに震え、爪は鋭く長く伸びている。
錯乱していく意識の中で、彼女は「霧子」としての自我を必死に保つ。
(駄目よ、……)
魅入った男を憑り殺してしまう。その認知に負けてしまうと、見藤がどうなってしまうのか想像もしたくないと、首を激しく横に振った。
――契りを交わしたあの時、誓ったのだ。彼が誰にも邪魔されず、その天寿を全うできるように守ると。それを反故にするのが「霧子自身」であってはならない。
(それだけ、は……させない)
見藤との繋がりを留めたい霧子は、集団認知に抵抗する。長く伸びた爪が手掌に食い込み、血が滲んでも止めることはしない。痛みで少しでも意識が保たれればいいと、より力を籠める。
集団認知に抵抗し、苦痛を感じているからなのか、血が滲むほどの強い力でその傷を握り続けているからなのか。それとも、見藤と仲違いをしたままこの状況に見舞われた後悔からなのか、霧子の視界が朧気に滲んでいく。
(もっと、あの子を見ていれば――)
そこではたと気付く、見藤を「あの子」と呼称した。それは大人が子どもにするような、呼び掛けだ。
少年だった見藤はいつの間にか、大人になってしまった。
怪異である霧子はふとした瞬間に、人と時間の流れが違うことを忘れてしまう。老いて行く過程で培った人としての経験、魅力。それについこの間、どぎまぎさせられていた、と思い返す。
覚に心を読まれる見藤を守ろうと、沙織の前に姿を現した時だ。彼の主張を、どうしても認めることができなかった。
それは怪異としての性分もある。だが、それ以上に複雑な女心を抱いていたのだ。
( ――――馬鹿なのは、私ね)
そう思うのを最後に、薄れゆく意識の中。彼女が抱いた見藤への想いは伝えられることはなく、霧の中に溶けようとしていた。
「っ、霧子さん!!!!」
突如として呼ばれた、名前。その名は、霧に覆われたような意識を晴らすには十分だった。意識が巡り、己の体の支配を取り戻す感覚が彼女を覚醒させる。
彼女は蹲っていた体をたじろがせた。低い視線の先に捉えた、見慣れた姿に安堵した。
◇
視界の先に影を捉えた見藤は、躊躇いなく彼女の名を呼んだ。すると、それに応えるかのように少し体を動かしている。
見藤は足をさらに速める。今更、上がる息を気にしていられなかった。
距離が近付くと、やはりというべきか。彼女の姿は見藤が知る「霧子」の姿と、随分異なっていることに気付く。
「霧子さん……!!」
彼女は集団認知に抵抗し、苦しんでいるのか――。呻き声を漏らす様子に、見藤は慌てて傍に駆け寄り、名を呼びながら肩に触れた。
それにより、多少「霧子」としての意識を保てたのか。はっ、として見藤を見上げる彼女の表情は苦痛に歪んでいて、瞳は蛇のように切れた瞳孔をしている。
彼女の顔にかかる髪を見藤が優しくよけてやると、くすぐったいのか、少し身をたじろがせた。
そこで見藤が目にした、彼女の顔。「霧子」の面影を残しているが、そのままの顔ではなくなっていた。更に、怪異という名に相応しい姿で、あの美しさは失われていた。
集団認知によって書き換えられていく姿と人格に堪え、苦しんでいたのか。彼女の目には、溢れんばかりの涙が溜められていた。
しかし、変貌してしまった姿を見られたくないのか。彼女は顔を俯かせてしまい、再びその顔は長く伸びた髪に覆い隠されてしまった。
霧子の人格が保たれていることを感じ取った見藤は安堵の表情を浮かべる。その次には彼女に微笑みかけていた。
「どんな姿でも、霧子さんだ」
――見藤の笑みは霧子が好きな、あの幼さを残した微笑みだった。
見藤は身を屈めている彼女の両手を手に取り、ゆっくりと体を起こしてやる。見藤は膝立ちの姿勢で、彼女は腰を下ろしたまま座った姿勢で互いに向かい合った。態勢の違う二人だが人と怪異の体格差から、これで丁度、視線が合う。
見藤は彼女の両手を握ったまま、少し俯いて目を伏せた。
「よかった。ちゃんと……、ちゃんと、いる」
それは、心からの呟きだった。存在を確かめるようにぎゅっと、彼女の両手を握る見藤の手に力が籠る。
見藤の言葉を聞いて、彼女に塞き止められていた涙と感情は限界を迎えたようだ。
「う、ぁ」
嗚咽を漏らしながら、ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。
見藤はそっと手を離すと、彼女の涙を拭ってやる。――もう、彼女が流す涙にどう接してやればいいのか、狼狽える少年であった見藤ではない。
しかし、問題は解決していない。現状、書き換えられようとした「霧子」の認知に歯止めをかけたに過ぎない。方法がない訳ではない。契りを交わした時のように、集団認知と彼女を切り離してしまえばいい。
だが、既に対価となる物は霧子に捧げてしまっている。残るは見藤と霧子の、現状の繋がりを強固にすることだ。
見藤は彼女の髪を梳く。そして、その手を彼女の頬に添えた。
―――いつだったか。霧子が見藤に与えた許しに、今ここで応えるのだ。
額と額を合わせると、彼女は急かすように見藤の空いている手を握った。それに答えるように、見藤が指を絡める。
「……口付けを交わす、許しが欲しい」
見藤は眉を寄せ、切なげに呟く。彼女はもう返答する力も残っていないのか、小さく頷くだけだった。
そして、触れるだけの口付けを交わす。ものの数秒。そっと離れると、彼女と視線が交わる。だが、未だ彼女の瞳は蛇のように切れた瞳孔をしていてる。それは怪異としての性質を色濃く残しており、彼女は眉を寄せて苦しそうに呻く。
見藤は薄っすら見た、霧子の様子に眉を寄せる。
(まだ足りないか……)
もう一度。今度は深く、口付けを交わす。
――次第に熱を帯びる、その行為に二人は夢中になっていく。どちらの吐息か、分からないほどに。
そして、口付けを繰り返していくと次第に彼女の姿は、皆が知る「霧子」の姿に戻っていた。
霧子の存在を求める見藤と、見藤と共に在りたいという霧子の願いが、繋がった結果だった。
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