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第三章 夢の深淵編
28話目 二人、綻びを綴る(四)
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怪異らしく、異形になりかけていた霧子の姿。しかし、見藤が今、目にしているのは見慣れた霧子の姿だ。深く口付けを交わし、互いの願いが集団認知に勝ったのだろう。
霧子の姿に驚きを隠せず、目を見開いた見藤。だが、すぐに愛おしそうに目元を下げた。添えていた手をそっと離し、指の背で頬を撫でる。
その仕草にうっとりと目を細めた霧子。口付けが名残惜しいのか――。離れた唇を追いかけようと、見藤の鼻先にすり寄った。
しかし、見藤はそれを咄嗟に止めた。――目的は果たされたのだ、必要以上に霧子に触れるべきではない。
見藤が受けた過去の傷は、長年、恋慕の情を抱き続けた霧子には少なからず無関係だ。しかし、それは反対に。この先へと関係を深めるには臆病にならざるを得ない見藤の足枷でもある。
見藤は霧子の肩に触れて、そっと体を押し返す。
「霧子さん、これ以上は――」
「むぅ!」
「いでっ!」
――噛まれた。霧子に唇を噛まれてしまった。
噛まれた痛みと何故、噛まれたのか分からず、ただ茫然とする見藤を余所に。霧子はぷいっと顔を逸らす。彼女の耳は真っ赤に染まっていた。
「なんで止めるのよ、ばか」
「……はぁ?」
あまりにも可愛らしい霧子の言動に見藤は思わず、言葉を聞き返してしまった。――聞き間違いか。いや、もう下手に追及するべきではない。これ以上は墓穴を掘る。
見藤は霧子へ抱いた情炎をかき消すように首を振った。
そうして、見藤は鈍痛を残す自身の唇を触る。すると、少し血が出ていたのか指先が赤くなった。ふと視線を落とすと、霧子の手の平にも血が滲んでいることに気付く。
見藤は思わず取り乱し、霧子の手を取って傷を見た。社の中で、どう手当をすればいいのか分からず戸惑い、悲痛に歪ませる。
見藤の様子を目にした霧子は、ぽつりと言葉を溢した。
「なんで、あんたの方が痛そうな顔。してるのよ、もう」
「駄目だ、こんな事したら……」
「大丈夫よ。放っておけば治るもの」
「そんな訳ないだろう!!」
声を荒げてしまった見藤は、はっとして口を噤んだ。怖がらせてしまっただろうか、と霧子を見やる。
しかし、彼女は驚くどころか――。見藤が見たこともないような、満ち足りた表情をしていた。そして、ぽつりと呟く。
「もう、大人になったのよね……」
「……随分前からそうデスけど」
「ふふ、そうね」
嬉しそうに笑う霧子に、見藤は年甲斐もなく気恥ずかしさを覚えた。
そんな二人、再び視線がかち合う。
見藤は小さく息を吐く。霧子の傷に触らないよう注意を払いながら、彼女の手を握った。
「悪かった」
口にしたそれは、謝罪の言葉だった。
一瞬、何に対する謝罪なのか霧子は分からず、綺麗な目をぱちくりとさせている。そんな彼女を余所に、見藤は不器用ながらも、その先の言葉を紡ぐ。
「俺にとって、その、一等大切なのは霧子さんだ……。だが、俺は人の矜持を捨てきれない。でも霧子さんの怪異としての性分も、理解したい。あぁ、くそ……、上手く言えないが――」
「いいわ、許すわ」
「…………」
「私も、言わないと後悔すること、あったから」
それは沙織が見藤にかけた言葉ではなかったか――。見藤のことなど、霧子には筒抜けなのだろう。
見藤は敵わないとでも言うように、今度は大きな溜め息をつく。安堵の表情を浮かべ、霧子の肩に自身の額をとん、と乗せた。そして、少し擦り寄る。
彼の短い前髪が、霧子の肩を撫でた。その感触が少しくすぐったいのか、霧子は少しだけ身をたじろがせる。
霧子は満更でもなさそうに、腕を伸ばして見藤の後頭部を優しく撫でていた。短く切られた髪の触り心地が癖になりそうだ。
しばらくの沈黙の末、見藤がそっと口を開く。
「よかった、本当に」
紡がれた見藤の言葉は、どこまでも霧子を案じるものだった。
霧子から見れば、見藤の表情は見えない。だが、恐らくその表情は安堵に満ちていることだろう。そして、その逆も然り。霧子の表情は見藤から見えない。
そんな彼女の表情は、口付けという見藤からの思わずして寄せられた愛情と、それに不釣り合いなこの幼い仕草のギャップに困惑し、顔を真っ赤に染めていたのだが――――。これ幸いとして、見藤にその表情を見られることはなかった。
◇
しばらくの間、二人は触れ合っていた。
だが、ふとした瞬間、我に返った見藤は慌てて霧子から離れた。こうして、穏やかな時間は終わりを迎える――。
その頃には、辺りを覆っていた濃霧はすっかり晴れ、社らしい木造の造りを二人に曝していた。しかし、そこは見藤が駆けるような広さはなく、せいぜい八畳ほどの大きさだった。
「……? どういうことだ?」
見藤は訳が分からず首を傾げ、一帯を見回す。すると、二人から少し離れた所に見藤のスマートフォンが無造作に転がっているのが目に入った。
これほどまでに狭い空間を、息が切れる程に走り回っていたなど、到底理解できない。
(恐らく、大衆の集団認知の力が霧子さんの社にまで影響したのか……。あの空間を生み出したのかもしれない)
そして、見藤の行く手を阻んだのも、その力だ。
彼女は魅入った男を憑り殺す――、その認知を現実とするために、力が働いたのだ。それは最早、そうなるよう願った大衆の望みとでもいうようだ。
結果として、大衆の望みは阻まれた。彼女は「霧子」として姿と人格を保ち、見藤も命を奪われることはなかった。――まさに万事休す。見藤と霧子の繋がりは保たれたのだ。
疲労にまみれた頭では、思考に浸る余裕もない。見藤は消え入りそうな声で呟く。
「まぁ、もう……いい。……少し疲れた」
床に胡坐をかいて座り込む。ぐったりとした様子で頭を垂れた。張り詰めていた緊張が、霧子と触れ合ったことで一気に解けたのだ。
そこに掛けられる、凛とした声。
「ねぇ、もう帰らないと……。あの子達、きっと心配しているわ」
「ん……」
霧子の言葉はもっともだ、と見藤は力なく相槌を打つ。床に転がったスマートフォンを手に取り、立ち上がった。
彼女もそれに続く。人の姿を模り、見慣れた背丈へと姿を変えた。
見藤は立ち去り際にもう一度、社の中を見渡す。
木で貼られただけの床、簡単な造りの格子窓、あまりに殺風景だ。うら寂しい場所に一人で過ごしていたのか、と見藤は唇を噛んだ。霧子に噛まれた傷から血が滲み血の味が広がるが、彼女の孤独を思うと、それは些細なことだった。
霧子の姿に驚きを隠せず、目を見開いた見藤。だが、すぐに愛おしそうに目元を下げた。添えていた手をそっと離し、指の背で頬を撫でる。
その仕草にうっとりと目を細めた霧子。口付けが名残惜しいのか――。離れた唇を追いかけようと、見藤の鼻先にすり寄った。
しかし、見藤はそれを咄嗟に止めた。――目的は果たされたのだ、必要以上に霧子に触れるべきではない。
見藤が受けた過去の傷は、長年、恋慕の情を抱き続けた霧子には少なからず無関係だ。しかし、それは反対に。この先へと関係を深めるには臆病にならざるを得ない見藤の足枷でもある。
見藤は霧子の肩に触れて、そっと体を押し返す。
「霧子さん、これ以上は――」
「むぅ!」
「いでっ!」
――噛まれた。霧子に唇を噛まれてしまった。
噛まれた痛みと何故、噛まれたのか分からず、ただ茫然とする見藤を余所に。霧子はぷいっと顔を逸らす。彼女の耳は真っ赤に染まっていた。
「なんで止めるのよ、ばか」
「……はぁ?」
あまりにも可愛らしい霧子の言動に見藤は思わず、言葉を聞き返してしまった。――聞き間違いか。いや、もう下手に追及するべきではない。これ以上は墓穴を掘る。
見藤は霧子へ抱いた情炎をかき消すように首を振った。
そうして、見藤は鈍痛を残す自身の唇を触る。すると、少し血が出ていたのか指先が赤くなった。ふと視線を落とすと、霧子の手の平にも血が滲んでいることに気付く。
見藤は思わず取り乱し、霧子の手を取って傷を見た。社の中で、どう手当をすればいいのか分からず戸惑い、悲痛に歪ませる。
見藤の様子を目にした霧子は、ぽつりと言葉を溢した。
「なんで、あんたの方が痛そうな顔。してるのよ、もう」
「駄目だ、こんな事したら……」
「大丈夫よ。放っておけば治るもの」
「そんな訳ないだろう!!」
声を荒げてしまった見藤は、はっとして口を噤んだ。怖がらせてしまっただろうか、と霧子を見やる。
しかし、彼女は驚くどころか――。見藤が見たこともないような、満ち足りた表情をしていた。そして、ぽつりと呟く。
「もう、大人になったのよね……」
「……随分前からそうデスけど」
「ふふ、そうね」
嬉しそうに笑う霧子に、見藤は年甲斐もなく気恥ずかしさを覚えた。
そんな二人、再び視線がかち合う。
見藤は小さく息を吐く。霧子の傷に触らないよう注意を払いながら、彼女の手を握った。
「悪かった」
口にしたそれは、謝罪の言葉だった。
一瞬、何に対する謝罪なのか霧子は分からず、綺麗な目をぱちくりとさせている。そんな彼女を余所に、見藤は不器用ながらも、その先の言葉を紡ぐ。
「俺にとって、その、一等大切なのは霧子さんだ……。だが、俺は人の矜持を捨てきれない。でも霧子さんの怪異としての性分も、理解したい。あぁ、くそ……、上手く言えないが――」
「いいわ、許すわ」
「…………」
「私も、言わないと後悔すること、あったから」
それは沙織が見藤にかけた言葉ではなかったか――。見藤のことなど、霧子には筒抜けなのだろう。
見藤は敵わないとでも言うように、今度は大きな溜め息をつく。安堵の表情を浮かべ、霧子の肩に自身の額をとん、と乗せた。そして、少し擦り寄る。
彼の短い前髪が、霧子の肩を撫でた。その感触が少しくすぐったいのか、霧子は少しだけ身をたじろがせる。
霧子は満更でもなさそうに、腕を伸ばして見藤の後頭部を優しく撫でていた。短く切られた髪の触り心地が癖になりそうだ。
しばらくの沈黙の末、見藤がそっと口を開く。
「よかった、本当に」
紡がれた見藤の言葉は、どこまでも霧子を案じるものだった。
霧子から見れば、見藤の表情は見えない。だが、恐らくその表情は安堵に満ちていることだろう。そして、その逆も然り。霧子の表情は見藤から見えない。
そんな彼女の表情は、口付けという見藤からの思わずして寄せられた愛情と、それに不釣り合いなこの幼い仕草のギャップに困惑し、顔を真っ赤に染めていたのだが――――。これ幸いとして、見藤にその表情を見られることはなかった。
◇
しばらくの間、二人は触れ合っていた。
だが、ふとした瞬間、我に返った見藤は慌てて霧子から離れた。こうして、穏やかな時間は終わりを迎える――。
その頃には、辺りを覆っていた濃霧はすっかり晴れ、社らしい木造の造りを二人に曝していた。しかし、そこは見藤が駆けるような広さはなく、せいぜい八畳ほどの大きさだった。
「……? どういうことだ?」
見藤は訳が分からず首を傾げ、一帯を見回す。すると、二人から少し離れた所に見藤のスマートフォンが無造作に転がっているのが目に入った。
これほどまでに狭い空間を、息が切れる程に走り回っていたなど、到底理解できない。
(恐らく、大衆の集団認知の力が霧子さんの社にまで影響したのか……。あの空間を生み出したのかもしれない)
そして、見藤の行く手を阻んだのも、その力だ。
彼女は魅入った男を憑り殺す――、その認知を現実とするために、力が働いたのだ。それは最早、そうなるよう願った大衆の望みとでもいうようだ。
結果として、大衆の望みは阻まれた。彼女は「霧子」として姿と人格を保ち、見藤も命を奪われることはなかった。――まさに万事休す。見藤と霧子の繋がりは保たれたのだ。
疲労にまみれた頭では、思考に浸る余裕もない。見藤は消え入りそうな声で呟く。
「まぁ、もう……いい。……少し疲れた」
床に胡坐をかいて座り込む。ぐったりとした様子で頭を垂れた。張り詰めていた緊張が、霧子と触れ合ったことで一気に解けたのだ。
そこに掛けられる、凛とした声。
「ねぇ、もう帰らないと……。あの子達、きっと心配しているわ」
「ん……」
霧子の言葉はもっともだ、と見藤は力なく相槌を打つ。床に転がったスマートフォンを手に取り、立ち上がった。
彼女もそれに続く。人の姿を模り、見慣れた背丈へと姿を変えた。
見藤は立ち去り際にもう一度、社の中を見渡す。
木で貼られただけの床、簡単な造りの格子窓、あまりに殺風景だ。うら寂しい場所に一人で過ごしていたのか、と見藤は唇を噛んだ。霧子に噛まれた傷から血が滲み血の味が広がるが、彼女の孤独を思うと、それは些細なことだった。
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