138 / 193
第四章 百物語編
34話目 見送った後の細波(二)
しおりを挟む
* * *
それから、見藤が目を覚ましたのは、もうすぐ昼時だった。
寝過ごしてしまったと、見藤が慌てて起き出すと既にベッドに霧子と猫宮の姿はなく、事務所への扉を開ける。すると、ちゃっかり自身は身支度を終えた霧子に出迎えられたのだった。
「よく寝てたわよ?」
「……誰のせいデスか」
「ん?」
「ナンデモ、ナイデス」
見藤は思わず恨めしそうに彼女を見やるも、きょとんとした無垢な表情で見られれば、それは溜め息に昇華する他ない。見藤は乱暴にがしがしと頭を掻くと、寝間着にしているスウェットから仕事着に着替えるために、再び居住スペースへと姿を消したのだった。
そんな彼の背を見送ると、霧子は猫宮に向かってぽつりと言葉を溢す。
「少しは休めたかしら……」
「まァ、あの様子だとひとまずは十分だろうな」
「久保君と東雲ちゃんに心配かけないようにしないと」
自身を省みない見藤に躊躇ない物言いができるあの助手二人が戻るまで、彼に休息を取らせようとした霧子と猫宮の策略は成功したようだ。
そうとは言っても策略半分、見藤で暖を取る目的半分といった具合なのだが、それを見藤本人は知る由もない。
それからしばらくして、がちゃりとドアノブが回る音がした。そこから出て来たのは、いつもの使い古したスーツに身を包んだ見藤だ。彼は欠伸を噛みころしながら、首を掻いている。
見藤は真っすぐに給湯スペースへと向かうと、湯を沸かし始めた。戸棚から袋を取り出し、どうやらインスタントコーヒーを淹れるようだ。
「霧子さんは?」
「不要よ、ありがとう」
「そうか」
何気ない会話だったが、心なしか霧子の機嫌がいいように思えた見藤は、ソファーで寛ぐ彼女へちらりと視線を向けた。
ここからでは彼女の後姿しか見えないが、どうやら雑誌を読んでいる様子だ。猫宮とああだこうだ、と何やら言い合っている。その光景がとても微笑ましく思えて、見藤は自然と目元を綻ばせる。
カチリと音が鳴り、電気ポットの湯が沸いたことを知らせる。見藤は一旦、視線を手元に戻しコーヒーカップへ湯を注いでいく。そうして、再びその視線は自然と霧子へと向けられた。
社を分霊してからというもの。順調に御霊分けはされているようで、こうして霧子は事務所で過ごす時間が増えた。必然的にこうして日常会話も増え、彼女と過ごす時間も増えるというもの。
見藤は多忙を極めながらも、こうしたふとした瞬間に幸福感を抱くようになっていた。
すると、見藤の視線に気付いたのだろうか。霧子が不意にこちらを振り向き、にこりと笑って見せたのだ。彼女の形のいい唇が弧を描く様子は、見藤の視線を釘付けにするには十分で、思わず心臓が跳ねてしまった。
「あっつ……!」
不注意によって突如として湯が跳ね、カップの傍に置いていた見藤の手を濡らした。その熱さに思わず声を漏らすと、冷やそうと慌てて手を振る。その一連の出来事を見ていた霧子と猫宮は少し呆れたようにこちらに視線を送っている。
見藤は思わず、誤魔化すように首の後ろを掻いた。
「あー……」
――らしくない。
その言葉に尽きるだろう。ここ最近の男女の触れ合いに積極的な彼女にあてられたのか、どこで心境の変化があったのか定かではない。だが、霧子の一挙手一投足が愛しく思えて仕方ないのだ。
(いかん、今はうつつを抜かしてる場合じゃない……)
見藤は心の中で自身をそう叱責すると、湯気が立ち上るコーヒーをその場で飲み始めた。そして、事務所にある壁掛け時計を見やる。寝過ごしたと言っても、今日の予定には十分に時間があることを確認する。
そうして、見藤は早々にコーヒーを飲み終えると、事務机に置いておいた茶封筒を手に取った。その茶封筒の表には朱で描かれた模様と、綺麗な文字。
すると突然、それを宙に投げた。投げられた封筒はみるみる端からその姿を消して行き、終いには跡形もなく消えてしまったのだ。
「これで件の件は終いだ。今日も少し出てくる」
「そう、行ってらっしゃい」
見藤得意の|呪まじな》いによって、あの報告書はキヨの元へと辿り着くだろう。そして、彼は霧子に出掛けることを簡単に伝えると、そのまま事務所を出てしまった。
霧子は事務所の扉が完全に閉まるのを見届けると、再び手元の雑誌に視線を戻したのだが――。
「しまった、忘れ物……」
そう言いながら、見藤はすぐさま戻って来たのだった。なんとも、せわしない。
彼は事務机の近くに置かれたコートハンガーにかかる杢グレーのダウンパーカーを手に取り、机に置かれていた荷物を肩に掛ける。
手荷物をほぼ全て持たずに出かけようとしていたのか、と霧子は呆れた表情でその様子を眺めていた。
そうして、霧子の視線が気まずいのか。見藤は目を合わせないように、そそくさと出てしまった。
事務所に残った霧子と猫宮はというと――。
「なによ、あれ。どうしたのかしら」
「内心、動揺してるんだろ」
「何に?」
「くっくっく、さあなァ」
そんな会話をしていたのであった。
それから、見藤が目を覚ましたのは、もうすぐ昼時だった。
寝過ごしてしまったと、見藤が慌てて起き出すと既にベッドに霧子と猫宮の姿はなく、事務所への扉を開ける。すると、ちゃっかり自身は身支度を終えた霧子に出迎えられたのだった。
「よく寝てたわよ?」
「……誰のせいデスか」
「ん?」
「ナンデモ、ナイデス」
見藤は思わず恨めしそうに彼女を見やるも、きょとんとした無垢な表情で見られれば、それは溜め息に昇華する他ない。見藤は乱暴にがしがしと頭を掻くと、寝間着にしているスウェットから仕事着に着替えるために、再び居住スペースへと姿を消したのだった。
そんな彼の背を見送ると、霧子は猫宮に向かってぽつりと言葉を溢す。
「少しは休めたかしら……」
「まァ、あの様子だとひとまずは十分だろうな」
「久保君と東雲ちゃんに心配かけないようにしないと」
自身を省みない見藤に躊躇ない物言いができるあの助手二人が戻るまで、彼に休息を取らせようとした霧子と猫宮の策略は成功したようだ。
そうとは言っても策略半分、見藤で暖を取る目的半分といった具合なのだが、それを見藤本人は知る由もない。
それからしばらくして、がちゃりとドアノブが回る音がした。そこから出て来たのは、いつもの使い古したスーツに身を包んだ見藤だ。彼は欠伸を噛みころしながら、首を掻いている。
見藤は真っすぐに給湯スペースへと向かうと、湯を沸かし始めた。戸棚から袋を取り出し、どうやらインスタントコーヒーを淹れるようだ。
「霧子さんは?」
「不要よ、ありがとう」
「そうか」
何気ない会話だったが、心なしか霧子の機嫌がいいように思えた見藤は、ソファーで寛ぐ彼女へちらりと視線を向けた。
ここからでは彼女の後姿しか見えないが、どうやら雑誌を読んでいる様子だ。猫宮とああだこうだ、と何やら言い合っている。その光景がとても微笑ましく思えて、見藤は自然と目元を綻ばせる。
カチリと音が鳴り、電気ポットの湯が沸いたことを知らせる。見藤は一旦、視線を手元に戻しコーヒーカップへ湯を注いでいく。そうして、再びその視線は自然と霧子へと向けられた。
社を分霊してからというもの。順調に御霊分けはされているようで、こうして霧子は事務所で過ごす時間が増えた。必然的にこうして日常会話も増え、彼女と過ごす時間も増えるというもの。
見藤は多忙を極めながらも、こうしたふとした瞬間に幸福感を抱くようになっていた。
すると、見藤の視線に気付いたのだろうか。霧子が不意にこちらを振り向き、にこりと笑って見せたのだ。彼女の形のいい唇が弧を描く様子は、見藤の視線を釘付けにするには十分で、思わず心臓が跳ねてしまった。
「あっつ……!」
不注意によって突如として湯が跳ね、カップの傍に置いていた見藤の手を濡らした。その熱さに思わず声を漏らすと、冷やそうと慌てて手を振る。その一連の出来事を見ていた霧子と猫宮は少し呆れたようにこちらに視線を送っている。
見藤は思わず、誤魔化すように首の後ろを掻いた。
「あー……」
――らしくない。
その言葉に尽きるだろう。ここ最近の男女の触れ合いに積極的な彼女にあてられたのか、どこで心境の変化があったのか定かではない。だが、霧子の一挙手一投足が愛しく思えて仕方ないのだ。
(いかん、今はうつつを抜かしてる場合じゃない……)
見藤は心の中で自身をそう叱責すると、湯気が立ち上るコーヒーをその場で飲み始めた。そして、事務所にある壁掛け時計を見やる。寝過ごしたと言っても、今日の予定には十分に時間があることを確認する。
そうして、見藤は早々にコーヒーを飲み終えると、事務机に置いておいた茶封筒を手に取った。その茶封筒の表には朱で描かれた模様と、綺麗な文字。
すると突然、それを宙に投げた。投げられた封筒はみるみる端からその姿を消して行き、終いには跡形もなく消えてしまったのだ。
「これで件の件は終いだ。今日も少し出てくる」
「そう、行ってらっしゃい」
見藤得意の|呪まじな》いによって、あの報告書はキヨの元へと辿り着くだろう。そして、彼は霧子に出掛けることを簡単に伝えると、そのまま事務所を出てしまった。
霧子は事務所の扉が完全に閉まるのを見届けると、再び手元の雑誌に視線を戻したのだが――。
「しまった、忘れ物……」
そう言いながら、見藤はすぐさま戻って来たのだった。なんとも、せわしない。
彼は事務机の近くに置かれたコートハンガーにかかる杢グレーのダウンパーカーを手に取り、机に置かれていた荷物を肩に掛ける。
手荷物をほぼ全て持たずに出かけようとしていたのか、と霧子は呆れた表情でその様子を眺めていた。
そうして、霧子の視線が気まずいのか。見藤は目を合わせないように、そそくさと出てしまった。
事務所に残った霧子と猫宮はというと――。
「なによ、あれ。どうしたのかしら」
「内心、動揺してるんだろ」
「何に?」
「くっくっく、さあなァ」
そんな会話をしていたのであった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる