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第二章 戴冠式の夜
閑話2 過保護な人々 ①
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「ディルクさん、エルマ、お手伝いありがとうございます」
今日のセラフィナの装いは、簡素なドレスにエプロンを纏い、青いリボンで髪を高い位置で結い上げるというものだった。下働きのような服装でも、この奥方の美しさは一切損なわれることはない。
ディルクはごくわずかな時間エルマに視線を送った。優秀な使用人はそれだけで意図を理解してくれたようで、解っていますとばかりに目で頷いている。
——我々二人で奥様のお料理をサポートし、かつお怪我の無いよう目を配るのだ。
厨房にて早速ドライフルーツを取り出し始めたセラフィナの背後で、結託した二人は決意を固めていた。
*
時は朝に遡る。
今日は平日で、料理長がたまたま休みを取っていた。それをどこで聞きつけてきたのか、セラフィナがケーキを焼きたいと言い出したのである。
女主人のやる気に満ちた表情に、ディルクはどう反応したものか迷って硬直した。可愛らしく優しく、そして勤勉で質素な彼女はこの屋敷に勤めるもの全員に愛されており、望みは何でも叶えてあげたいというのが共通認識である。
しかし元一国の姫君にして現在は侯爵夫人であるこの方に、お菓子作りなどさせていいものか。
大体のことには動じないディルクでさえも言葉に詰まり、どうしようかと考えあぐねてしまった。
するとそこに出勤前のランドルフが登場したのである。
敬愛する当主はディルクを連れて一歩下がると、小声で耳打ちしてきた。
「彼女の好きなように」
「よろしいのですか?」
「故郷の味が恋しくなったのだそうだ。我が家の厨房には不慣れだろうから付いてやってくれ」
なるほど、そういう話だったのか。たったお一人でヴェーグラントにやってきた奥方様、きっと郷愁の念に駆られることもあるに違いない。
「セラフィナ、怪我の無いようにな。楽しみにしているぞ」
「はい、ランドルフ様。頑張りますね」
二人は微笑み合うと、玄関に向かって歩き出した。ディルクはその後に続きながら、仲睦まじい様子を微笑ましく見守る。
この新婚夫婦がどうやら本当に愛し合っていることは、使用人一同にこれ以上ないほどの喜びをもたらしていた。
婚約中までは思い悩んでいた様子のランドルフも、結婚してからは隠しきれない想いが漏れ出ているようだったし、それはセラフィナの方も同じだった。
今まで仕事にばかり身をやつしていた当主がようやくの幸せを得たとあっては、長年支えてきたディルクも安堵せずにはいられない。
したがって、まさかこの当主夫妻が期せずして仮面夫婦状態に陥っていたとは、露ほども考えてはいなかったのである。
ランドルフを見送った後、セラフィナは仕事を片付けてから作ると言って自室に戻っていった。
そして午後、ついに奥方様のケーキ作りが始まったのだ。
「忙しいのに申し訳ありません。私一人でも大丈夫なんですよ?」
「いえ奥様、石窯の使い方などは不慣れでございましょう。この爺もぜひお手伝いさせていただきたいのです」
「私は腕力要因と思っていただければ」
エルマの目は鋭い。重いものや熱いものを運ばせてなるものかという気迫が感じられて、ディルクはその頼もしさに背を押される思いだった。
「では、早速石釜を温めておきましょうかな」
「よろしくお願いします。ではエルマは、粉を振るいにかけて頂けますか?」
「畏まりました」
セラフィナは恐縮しきりの様子だったが、二人が引く気が無いのを知って頼ることにしたらしい。ディルクはひとまずほっと息を吐くと、自らの仕事を果たすべく行動を開始した。
さて、まずは火を移さなければ。薪はどこにあったかと視線を巡らそうとして——恐ろしいものを見た。
骨つき肉でも断とうとしたのだろうか。可憐な女主人が、ものすごい勢いで包丁を振り下ろしたのである。
だん、と響き渡ったまな板と包丁がぶつかる音に、ディルクは気絶寸前になってしまった。その音に驚いたエルマも振るいを叩く手を止めると、凍りついた家令の代わりに彼女の元に走り寄る。
「お待ちください奥様。いったい何を切っておられるのですか?」
「ドライフルーツですよ」
見ればプラムが真っ二つにされたところだった。確かに種はあるがもうちょっとやりようがある気がする。ディルクは頭を抱えそうになったが、やはりお怪我をしてはいけないとやんわり指摘することにした。
「その、もう少しばかり優しく切っても良いような気がいたしますが」
「そうですか? 母の動きを真似てみたのですが……」
セラフィナはまるで予想外のことを言われたとばかりにきょとんとしている。ディルクは内心冷汗まみれになった。
一体どういう教えだったのだ、それは。まったく想像がつかないのだが。
ディルクは知らない。セラフィナがハイルング人の末裔であることを。そしてハイルング人たちはすぐに怪我を治してしまうために危機感が薄く、普通の人間からすると危なっかしい刃物捌きをしがちだということを。
セラフィナもまたその事実を知らなかった。彼女にとっての料理とは、母親が作る姿が全てだったのだ。
ディルクは悩んだ。まさか「包丁捌きが怖すぎます」と直球に伝えるわけにもいかない。しかし万が一にもお怪我をされては一大事だ。一体どうすれば…。
そこでエルマが機転を見せた。
「申し訳ございません、奥様。なんだか手が痛くなってきてしまいました。何か他の作業はございませんか?」
「では交代しましょうか。大きいドライフルーツを、レーズンくらいの大きさにしていただけますか?」
「畏まりました」
早々に根を上げた専属使用人に対しても、セラフィナは嫌な顔一つせずに仕事を交代する。もちろん手が痛くなってきたというのは嘘も方便というやつで、肉体派のエルマがこの程度で疲労を感じるはずもない。
ディルクはエルマを視線だけで労った。彼女もまた視線だけで頷いている。
最早阿吽の呼吸であった。
今日のセラフィナの装いは、簡素なドレスにエプロンを纏い、青いリボンで髪を高い位置で結い上げるというものだった。下働きのような服装でも、この奥方の美しさは一切損なわれることはない。
ディルクはごくわずかな時間エルマに視線を送った。優秀な使用人はそれだけで意図を理解してくれたようで、解っていますとばかりに目で頷いている。
——我々二人で奥様のお料理をサポートし、かつお怪我の無いよう目を配るのだ。
厨房にて早速ドライフルーツを取り出し始めたセラフィナの背後で、結託した二人は決意を固めていた。
*
時は朝に遡る。
今日は平日で、料理長がたまたま休みを取っていた。それをどこで聞きつけてきたのか、セラフィナがケーキを焼きたいと言い出したのである。
女主人のやる気に満ちた表情に、ディルクはどう反応したものか迷って硬直した。可愛らしく優しく、そして勤勉で質素な彼女はこの屋敷に勤めるもの全員に愛されており、望みは何でも叶えてあげたいというのが共通認識である。
しかし元一国の姫君にして現在は侯爵夫人であるこの方に、お菓子作りなどさせていいものか。
大体のことには動じないディルクでさえも言葉に詰まり、どうしようかと考えあぐねてしまった。
するとそこに出勤前のランドルフが登場したのである。
敬愛する当主はディルクを連れて一歩下がると、小声で耳打ちしてきた。
「彼女の好きなように」
「よろしいのですか?」
「故郷の味が恋しくなったのだそうだ。我が家の厨房には不慣れだろうから付いてやってくれ」
なるほど、そういう話だったのか。たったお一人でヴェーグラントにやってきた奥方様、きっと郷愁の念に駆られることもあるに違いない。
「セラフィナ、怪我の無いようにな。楽しみにしているぞ」
「はい、ランドルフ様。頑張りますね」
二人は微笑み合うと、玄関に向かって歩き出した。ディルクはその後に続きながら、仲睦まじい様子を微笑ましく見守る。
この新婚夫婦がどうやら本当に愛し合っていることは、使用人一同にこれ以上ないほどの喜びをもたらしていた。
婚約中までは思い悩んでいた様子のランドルフも、結婚してからは隠しきれない想いが漏れ出ているようだったし、それはセラフィナの方も同じだった。
今まで仕事にばかり身をやつしていた当主がようやくの幸せを得たとあっては、長年支えてきたディルクも安堵せずにはいられない。
したがって、まさかこの当主夫妻が期せずして仮面夫婦状態に陥っていたとは、露ほども考えてはいなかったのである。
ランドルフを見送った後、セラフィナは仕事を片付けてから作ると言って自室に戻っていった。
そして午後、ついに奥方様のケーキ作りが始まったのだ。
「忙しいのに申し訳ありません。私一人でも大丈夫なんですよ?」
「いえ奥様、石窯の使い方などは不慣れでございましょう。この爺もぜひお手伝いさせていただきたいのです」
「私は腕力要因と思っていただければ」
エルマの目は鋭い。重いものや熱いものを運ばせてなるものかという気迫が感じられて、ディルクはその頼もしさに背を押される思いだった。
「では、早速石釜を温めておきましょうかな」
「よろしくお願いします。ではエルマは、粉を振るいにかけて頂けますか?」
「畏まりました」
セラフィナは恐縮しきりの様子だったが、二人が引く気が無いのを知って頼ることにしたらしい。ディルクはひとまずほっと息を吐くと、自らの仕事を果たすべく行動を開始した。
さて、まずは火を移さなければ。薪はどこにあったかと視線を巡らそうとして——恐ろしいものを見た。
骨つき肉でも断とうとしたのだろうか。可憐な女主人が、ものすごい勢いで包丁を振り下ろしたのである。
だん、と響き渡ったまな板と包丁がぶつかる音に、ディルクは気絶寸前になってしまった。その音に驚いたエルマも振るいを叩く手を止めると、凍りついた家令の代わりに彼女の元に走り寄る。
「お待ちください奥様。いったい何を切っておられるのですか?」
「ドライフルーツですよ」
見ればプラムが真っ二つにされたところだった。確かに種はあるがもうちょっとやりようがある気がする。ディルクは頭を抱えそうになったが、やはりお怪我をしてはいけないとやんわり指摘することにした。
「その、もう少しばかり優しく切っても良いような気がいたしますが」
「そうですか? 母の動きを真似てみたのですが……」
セラフィナはまるで予想外のことを言われたとばかりにきょとんとしている。ディルクは内心冷汗まみれになった。
一体どういう教えだったのだ、それは。まったく想像がつかないのだが。
ディルクは知らない。セラフィナがハイルング人の末裔であることを。そしてハイルング人たちはすぐに怪我を治してしまうために危機感が薄く、普通の人間からすると危なっかしい刃物捌きをしがちだということを。
セラフィナもまたその事実を知らなかった。彼女にとっての料理とは、母親が作る姿が全てだったのだ。
ディルクは悩んだ。まさか「包丁捌きが怖すぎます」と直球に伝えるわけにもいかない。しかし万が一にもお怪我をされては一大事だ。一体どうすれば…。
そこでエルマが機転を見せた。
「申し訳ございません、奥様。なんだか手が痛くなってきてしまいました。何か他の作業はございませんか?」
「では交代しましょうか。大きいドライフルーツを、レーズンくらいの大きさにしていただけますか?」
「畏まりました」
早々に根を上げた専属使用人に対しても、セラフィナは嫌な顔一つせずに仕事を交代する。もちろん手が痛くなってきたというのは嘘も方便というやつで、肉体派のエルマがこの程度で疲労を感じるはずもない。
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