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第二章 戴冠式の夜
閑話1 エルマの憂い
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エルマ・ベッケラートは男が嫌いである。
いや、男だからと無条件で嫌うわけではない。軟派な男が一等嫌いなのである。だからこの状況にはもはや表情すら取り繕うことができず、エルマはただ目の前の男を睨み続けるのだった。
「だからさエルマ、今から街にでも出ない? 美味しい店に連れて行ってあげるから」
「無理です。仕事中ですので」
「じゃあいつなら休み? 俺はあと一週間はこっちにいるんだけど」
「一週間以内に休みは存在しません」
目の前でヘラヘラと笑うこの男は、ルーカス・ヨハン・アイゼンフートという。
名門アイゼンフート侯爵家当主の弟で、軍部内でもそれなりの地位にあるという彼は、何が楽しいのかこの屋敷の使用人であるエルマにやたらと絡んでくるのだ。
最初は結婚式でセラフィナの側に控えていた時のこと、何だかしつこく絡まれたと思ったら、次の次の日くらいに屋敷に顔を出しに来た。その時は何とか躱したが、今日の二回目の訪問にしてこの調子である。
「つれないなあ。どうしてそんなに忙しいの」
「旦那様も奥様も休み無く働いておられるのですから、私が休めるはずもありませんでしょう」
「そんなこと気にしなくてもいいんじゃない?」
「気にするしないの問題ではなく、私は働いているのが好きなので問題ありません。ルーカス様はそうではないようですが」
淡々と切り返すと、「あ、名前、覚えてくれてたんだ?」などと微笑まれてしまい、エルマはもはや隠しもせずに堂々と溜息をついた。
前の職場で軟派男に多大な迷惑をかけられて以来、エルマはこのルーカスのようなタイプがとにかく嫌いなのだ。まったく本当に、この男はどうしてこんななのか。これであのご立派な旦那様の実の弟君だというのだから、神とはどこまでも気まぐれなものらしい。
「君の奥様は一週間に一度の休みもくれないのかい? そんな方には思えないけどなあ」
「く……それは」
だめだ、それを言われると弱い。
おそらくセラフィナはエルマが休みを願い出れば二つ返事で許可をくれることだろう。あの控えめで美しい女主人は身の回りのことは大抵自分で整えてしまうし、そもそも心優しいのでエルマの手が必要な時ですら休みを与えてしまうかもしれない。
意外と鋭いルーカスにどう断ろうかと考えあぐねていると、背後から可憐な声が聞こえてきた。
「エルマ、どうしたのですか? ……まあ、ルーカス様」
振り返るとそこにはセラフィナが佇んでいた。
ああ、今日も奥様はお美しい。初めて会った時はあまりの美しさに見惚れてしまい、自分がいつのまに名乗ったのかすらよく覚えていないほどだ。
だが今この瞬間に限っては、彼女の登場は考え得る中で最もまずい展開だ。エルマは背中を伝う冷や汗を感じつつ、想像される未来に絶望した。
「昼食の準備が整いましたので、お呼びしようとしていたところなんですよ」
「それはそれは、お気遣い感謝いたします」
昼食まで食べていく気かこの男。帰れ今すぐ帰れ。というか奥様、優しすぎやしませんか。あなたの義弟は戴冠式まで暇だからという理由で来ているだけですよ。ついでに綺麗な義姉の姿を拝めてラッキーくらいに考えているはずですよ!
エルマの念は届かなかった。次にルーカスが口にしたのは、最も恐れた一言だったのである。
「ところで義姉上、エルマに休みをもらえないでしょうか?」
「なっ……!」
「お休みですか? もちろん構いませんけれど」
やっぱり二つ返事だった! トントン拍子すぎる展開にエルマは脳内で絶叫した。
「流石は義姉上、寛大でいらっしゃる。ありがとうございます」
こうなってはもうどうしようもない。仕方がないから適当に付き合って、なるべく早く切り上げよう。
エルマは諦めて覚悟を固めつつあった。しかしここで、状況が飲み込めないとばかりに首を傾げていたセラフィナが、ああとばかりに両手を打ったのである。
「エルマ、あなたはお休みが欲しかったのですか?」
敬愛する女主人は、微笑んでまっすぐにエルマを見つめている。その澄んだ湖のような瞳は、わかっていますよ、とばかりに柔らかい光を湛えているように見えた。もしかして、これは。
「い、いいえ! 私は、お休みなんて結構でございます」
「だそうですよ、ルーカス様」
クスクスと笑うセラフィナは楽しげだったが、同時に申し訳なさそうにルーカスを見つめていた。どうやら彼女は庇ってくれたのだと知って、じわじわと安堵が込み上げてくる。
「残念。上手くいったと思ったんですが」
残念という割に、ルーカスは楽しそうだった。まったく懲りていないその様子にエルマは頬を引きつらせる。
「いけませんよ、強引な事をなさっては。さあ、そろそろお食事が冷めてしまいます」
「ええ、有難く頂くとしましょうか」
ルーカスは一礼して食堂へと歩き出したのだが、ふと足を止めてこちらを振り返った。その目は明らかにエルマを射抜いており、その視線の底知れなさに思わず怯んでしまう。やられっぱなしという訳にもいかないのですぐに睨み返してやったのだが、彼はまったく気にしていない様子で爽やかな笑顔を浮かべて見せた。
「エルマ、また誘うよ。楽しみにしておいて」
「しません行きません!」
ルーカスはエルマの剣幕にもどこ吹く風で、軽快な笑い声を上げると再び歩き出して、もう二度と振り返らなかった。その背中が突き当たりの扉に消えるのを待って、エルマは勢いをつけて腰を折った。
「ありがとうございました、奥様。助けていただいて、本当に……!」
「良いのですよ、あなたが困っているのを見過ごしたりはできません。お顔を上げて下さい、エルマ」
そろそろと顔を上げると、セラフィナは慈愛に満ちた眼差しで微笑んでいる。
本当にこの方はなんて優しいのだろう。義弟と一悶着を起こしても、彼女に利など何もないというのに。
あらためてこの素晴らしい女主人に仕える幸福を噛み締めたエルマは、これからもより一層励もうと一人誓うのだった。
「とはいえ、ルーカス様には悪い事をしてしまったかも知れませんね」
「はい、申し訳ございません。私などのために、こんな」
「いいえ、そうではなく……あの方が女性をお誘いするのを初めて目にしたものですから」
「え」
そうだっただろうか。披露宴会場でも辺り構わず女性を口説いていた気がしたけれど。
「ルーカス様は確かに息をするように女性を褒めますが、お誘いしてはいませんよ。あれはおそらくあの方なりの挨拶なのだと思います。ですから、共に出かけたいとおっしゃるのなら、それはもしかすると本気なのかもしれないな、と」
「……い、いや、それはないですよ。あり得ないと思います。ぜったい」
「そこまで否定しなくても」
セラフィナは困ったように笑って、しかしそれ以上は何も言わなかった。彼女はきっと、エルマが前の職場で男に困らされたことを知った上で心中を慮ってくれたのだろう。
それにしても、ルーカスが本気とは突拍子もない話である。いくらセラフィナの言うことでもこればかりは同意できそうもない。身分が違うのだから、そんなことは絶対にあり得ないのだ。
エルマはセラフィナの後について歩きながら、最後に交わしたあの強い視線を脳内から追い出したのだった。
いや、男だからと無条件で嫌うわけではない。軟派な男が一等嫌いなのである。だからこの状況にはもはや表情すら取り繕うことができず、エルマはただ目の前の男を睨み続けるのだった。
「だからさエルマ、今から街にでも出ない? 美味しい店に連れて行ってあげるから」
「無理です。仕事中ですので」
「じゃあいつなら休み? 俺はあと一週間はこっちにいるんだけど」
「一週間以内に休みは存在しません」
目の前でヘラヘラと笑うこの男は、ルーカス・ヨハン・アイゼンフートという。
名門アイゼンフート侯爵家当主の弟で、軍部内でもそれなりの地位にあるという彼は、何が楽しいのかこの屋敷の使用人であるエルマにやたらと絡んでくるのだ。
最初は結婚式でセラフィナの側に控えていた時のこと、何だかしつこく絡まれたと思ったら、次の次の日くらいに屋敷に顔を出しに来た。その時は何とか躱したが、今日の二回目の訪問にしてこの調子である。
「つれないなあ。どうしてそんなに忙しいの」
「旦那様も奥様も休み無く働いておられるのですから、私が休めるはずもありませんでしょう」
「そんなこと気にしなくてもいいんじゃない?」
「気にするしないの問題ではなく、私は働いているのが好きなので問題ありません。ルーカス様はそうではないようですが」
淡々と切り返すと、「あ、名前、覚えてくれてたんだ?」などと微笑まれてしまい、エルマはもはや隠しもせずに堂々と溜息をついた。
前の職場で軟派男に多大な迷惑をかけられて以来、エルマはこのルーカスのようなタイプがとにかく嫌いなのだ。まったく本当に、この男はどうしてこんななのか。これであのご立派な旦那様の実の弟君だというのだから、神とはどこまでも気まぐれなものらしい。
「君の奥様は一週間に一度の休みもくれないのかい? そんな方には思えないけどなあ」
「く……それは」
だめだ、それを言われると弱い。
おそらくセラフィナはエルマが休みを願い出れば二つ返事で許可をくれることだろう。あの控えめで美しい女主人は身の回りのことは大抵自分で整えてしまうし、そもそも心優しいのでエルマの手が必要な時ですら休みを与えてしまうかもしれない。
意外と鋭いルーカスにどう断ろうかと考えあぐねていると、背後から可憐な声が聞こえてきた。
「エルマ、どうしたのですか? ……まあ、ルーカス様」
振り返るとそこにはセラフィナが佇んでいた。
ああ、今日も奥様はお美しい。初めて会った時はあまりの美しさに見惚れてしまい、自分がいつのまに名乗ったのかすらよく覚えていないほどだ。
だが今この瞬間に限っては、彼女の登場は考え得る中で最もまずい展開だ。エルマは背中を伝う冷や汗を感じつつ、想像される未来に絶望した。
「昼食の準備が整いましたので、お呼びしようとしていたところなんですよ」
「それはそれは、お気遣い感謝いたします」
昼食まで食べていく気かこの男。帰れ今すぐ帰れ。というか奥様、優しすぎやしませんか。あなたの義弟は戴冠式まで暇だからという理由で来ているだけですよ。ついでに綺麗な義姉の姿を拝めてラッキーくらいに考えているはずですよ!
エルマの念は届かなかった。次にルーカスが口にしたのは、最も恐れた一言だったのである。
「ところで義姉上、エルマに休みをもらえないでしょうか?」
「なっ……!」
「お休みですか? もちろん構いませんけれど」
やっぱり二つ返事だった! トントン拍子すぎる展開にエルマは脳内で絶叫した。
「流石は義姉上、寛大でいらっしゃる。ありがとうございます」
こうなってはもうどうしようもない。仕方がないから適当に付き合って、なるべく早く切り上げよう。
エルマは諦めて覚悟を固めつつあった。しかしここで、状況が飲み込めないとばかりに首を傾げていたセラフィナが、ああとばかりに両手を打ったのである。
「エルマ、あなたはお休みが欲しかったのですか?」
敬愛する女主人は、微笑んでまっすぐにエルマを見つめている。その澄んだ湖のような瞳は、わかっていますよ、とばかりに柔らかい光を湛えているように見えた。もしかして、これは。
「い、いいえ! 私は、お休みなんて結構でございます」
「だそうですよ、ルーカス様」
クスクスと笑うセラフィナは楽しげだったが、同時に申し訳なさそうにルーカスを見つめていた。どうやら彼女は庇ってくれたのだと知って、じわじわと安堵が込み上げてくる。
「残念。上手くいったと思ったんですが」
残念という割に、ルーカスは楽しそうだった。まったく懲りていないその様子にエルマは頬を引きつらせる。
「いけませんよ、強引な事をなさっては。さあ、そろそろお食事が冷めてしまいます」
「ええ、有難く頂くとしましょうか」
ルーカスは一礼して食堂へと歩き出したのだが、ふと足を止めてこちらを振り返った。その目は明らかにエルマを射抜いており、その視線の底知れなさに思わず怯んでしまう。やられっぱなしという訳にもいかないのですぐに睨み返してやったのだが、彼はまったく気にしていない様子で爽やかな笑顔を浮かべて見せた。
「エルマ、また誘うよ。楽しみにしておいて」
「しません行きません!」
ルーカスはエルマの剣幕にもどこ吹く風で、軽快な笑い声を上げると再び歩き出して、もう二度と振り返らなかった。その背中が突き当たりの扉に消えるのを待って、エルマは勢いをつけて腰を折った。
「ありがとうございました、奥様。助けていただいて、本当に……!」
「良いのですよ、あなたが困っているのを見過ごしたりはできません。お顔を上げて下さい、エルマ」
そろそろと顔を上げると、セラフィナは慈愛に満ちた眼差しで微笑んでいる。
本当にこの方はなんて優しいのだろう。義弟と一悶着を起こしても、彼女に利など何もないというのに。
あらためてこの素晴らしい女主人に仕える幸福を噛み締めたエルマは、これからもより一層励もうと一人誓うのだった。
「とはいえ、ルーカス様には悪い事をしてしまったかも知れませんね」
「はい、申し訳ございません。私などのために、こんな」
「いいえ、そうではなく……あの方が女性をお誘いするのを初めて目にしたものですから」
「え」
そうだっただろうか。披露宴会場でも辺り構わず女性を口説いていた気がしたけれど。
「ルーカス様は確かに息をするように女性を褒めますが、お誘いしてはいませんよ。あれはおそらくあの方なりの挨拶なのだと思います。ですから、共に出かけたいとおっしゃるのなら、それはもしかすると本気なのかもしれないな、と」
「……い、いや、それはないですよ。あり得ないと思います。ぜったい」
「そこまで否定しなくても」
セラフィナは困ったように笑って、しかしそれ以上は何も言わなかった。彼女はきっと、エルマが前の職場で男に困らされたことを知った上で心中を慮ってくれたのだろう。
それにしても、ルーカスが本気とは突拍子もない話である。いくらセラフィナの言うことでもこればかりは同意できそうもない。身分が違うのだから、そんなことは絶対にあり得ないのだ。
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