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36話 水上大図書館
しおりを挟む「おお……!」
――村を出発して1週間。
視界の先に、巨大な建造物が見えてきた。
「あれが、アル・パストラ大図書館か」
小高い丘の上で感嘆の声を漏らす俺。両隣にはお嬢とイティスが立ち、同じように口を大きく開けてその建物を見つめている。
アル・パストラ大図書館。
かつて聖女たちの教育施設でもあった巨大な建物は、湖のほぼ真ん中に鎮座していた。
湖の周囲はいくつもの川が流れ込み、陸地はごくわずか。目に映る植物は、そのほとんどがセボトルやそれに類する『水上樹』だ。
まるで映像美を極めた大作ゲームの舞台である。ただただ美しい。
しかし、ポン刀聖女から事前に聞いていた姿とは少しイメージが違う。あいつの話では、アル・パストラは一種の学園都市。大図書館の周りに関連施設が建ち並び、街を作っているということだったが……。
「おいシーカ。ここが目的地で間違いないんだよな。――シーカ? どうした、返事をしろ」
『あ……はい。すみません。アル・パストラに間違いないと、思います』
「歯切れが悪いな。やはり本来の街の姿ではなかったのか? ここからじゃ、街らしい街は見当たらない。お前の態度は、それが関係してるんだろ」
俺は尋ねる。しばらく答えは返ってこなかった。
「シーカさん?」
「シーカちゃん? どしたの?」
お嬢とイティスも心配そうに声をかける。これまでの旅の中で、ポン刀聖女がここまで静かなのは珍しいとふたりは理解していた。
やがてシーカが喋り出す。言葉を絞り出すように。
『あの建築様式。尖塔の形や、ところどころに見られるモニュメント。そして何より、正面入口の紋章……あれがアル・パストラ大図書館であることに間違いありません。ですが、アタシの記憶とは大きく違うんです』
「どこが違う?」
『……大図書館以外の、すべて』
スケールの大きな話に、俺は面食らう。
シーカは言葉を繋げた。
『大図書館の周辺を囲む湖、流れ込む川、森……すべて、アタシの記憶にはありません。民家も、お店も、道も、城壁も、畑も、牧場も、全部なくなっています。陸地さえも』
「なんだと?」
『アタシの知るアル・パストラはれっきとした街でした。人の営みがここからでもはっきり見えるほど、活気のある街でした。街としての機能をすべて兼ね備えた街でした。……水没か、消滅か。完全になくなっているのです。もっとも中心部にあった、大図書館を除いて。この有様では、もう……』
擬人化していなくてもわかる。シーカは強く、深く気落ちしていた。
『……これは、浮遊樹海化です。水と森が、街を完全に飲み込んでしまった。ああ、それほどまでにアタシは眠っていたんですね……』
浮遊樹海。
それは、世界の有様を表す言葉だった。
ここへの道中、シーカがお嬢へした講義の中で俺も聞いたのだ。この世界――ASMR異世界そのもののことを。
それによると、この世界は大きく分けて『浮遊樹海』と『要塞国家』のふたつから成り立っているらしい。
浮遊樹海とは、言ってみればこの世界の自然そのもの。人間が居住している場所以外は、ほぼすべてが浮遊樹海と化しているという。
あまねく広がる海と、そこに浮かぶ樹。そのふたつが延々と続き、大地を塗りつぶしている。ASMR異世界では、土の地面よりも水の面積が圧倒的に大きいらしい。人の手が加わっていない、人が住むべきではない、美しい領域だ。
そして、その浮遊樹海を切り開き、大地を興し、人間が集住してできた場所が『要塞国家』――つまり国である。 要塞国家はひとつだけではない。この世界には、大きく3つの要塞国家が存在している――少なくとも、シーカの記憶の中では。
だが、今のアル・パストラの有様を見る限り、それらの国が存続しているかどうかはわからない。
俺たちが立っているのは、シルヴァ・マリス――『海の森』と呼ばれる浮遊樹海エリアなのだそうだ。
お嬢たちが暮らしていた村は、要塞国家に属さない辺境中の辺境だったというわけだ。
アル・パストラ大図書館は、人の世界とそれ以外の世界の境に建てられたものであった。
しかしいまや、完全に浮遊樹海に呑まれている。
それが意味するところ――現代日本で暮らしていた俺にさえ、途方もない年月が経っているものだとわかる。
ましてや、当時を生きていたシーカからすれば、その隔絶の感は相当であろう。ショックのあまり歯切れが悪くなるのも無理はない。
唯一の救いは、大図書館の建物自体は無事だったということだろうか。ただ、それも外観が綺麗というだけで、内部がどうなっているかわからない。
シーカも同じ懸念を持ったようだ。
『ここからでは、ちゃんと大図書館の機能が生きているかわかりませんね』
「直接、乗り込んで確かめるしかないか」
俺たちは丘を降り、残された陸地を頼りにできるだけ建物に近づいた。それでも、大図書館まで数百メートルは距離がある。目的の建物と俺たちとを隔てるのは、巨大な湖だ。
湖を覗き込む。水面は穏やかに凪いでいて、透明度も非常に高かった。その分、水中の様子もよくわかる。少し視線を先に向ければ、すぐに水底が落ち込んでヤバい水深になっていた。
辺りを見渡しても、大図書館までの足がかりになるようなものはなさそうだ。
「こりゃあ、いよいよ泳いで渡るしかなさそうだな。しかし……」
「泳ぐの? わかった」
言うが早いか、イティスの奴が上着を脱ぎ捨てる。ためらいなく下着姿になった舎弟を、俺は押しとどめた。
「こら待て。先走るなバカ」
「えー。だってこんなに気持ちよさそうなんだよ。久しぶりに思いっきり泳げそうだし。村にいたときは、ちょっと遠出しないと広い水場がなかったもんなー。……そだ、下着も邪魔かも。よいしょっと」
『ぶばっひゅぅっ!!?』
あられもない姿を見せつけられ、耐えられなくなったポン刀聖女が吹き出す。鼻血の代わりに魔力がダダ漏れていた。心なしかオーラの色が赤い気がする。
たぶん、擬人化してたら大惨事になっていただろう。間違いねえ。こいつ……。
俺はため息をついた。ガキの裸なんぞ興味はないが、とりあえずやめさせなければならん。この半人前は大事なことを忘れてやがる。
「だから待てって。お前、お嬢が泳げねえこと覚えてないのか?」
「あ……」
「お嬢だけじゃない。せっかく村で手に入れた荷物も運び込まなきゃいけないんだ」
「むう。でもさ、でもさ。もしかしたら図書館に運べる道具とかあるかもしれないじゃん」
「確かにそうだ。しかし、たとえ向こうで船なり何なりを見つけたところで、素っ裸のお前ひとり、何とかできるっつーのか?」
「うう……!」
口をもごもごさせるイティス。
まあ、こいつの言うことにも一理ある。もし大図書館が今も健在なら、建物から対岸へ渡る移動手段は何かしら持っているはずだ。その有無を調べるためにも、あそこまでたどり着かないといけない。
「まずは俺が行く。イティス、お前はここで待機しろ。お嬢を守れ。いいな?」
「う、うん。わかった」
「ヒスキさん、気をつけて下さいね」
お嬢の言葉に頷き、俺は湖へと足を踏み入れた。少々不格好だが、文字通り犬かきで建物まで向かうとしよう。
「よいせっと」
――どぽん。
「ごぼ?」
一瞬で視界が水中にシフトした。
え? どぼん? マジ?
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