払暁の風

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茶碗騒動(3)茜屋での受け渡し

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 とにかく一旦家に戻ってから御隠居の葬儀に来ようと、慶仁と哲之助は御隠居の家を出た。
 証書、傷跡を印のようについた紙、つなぎ合わせた茶碗も持って来ている。
「あれ、近江屋じゃないか?」
 ふと、前を歩く男に気付いた。風呂敷で包んだ何かを大事そうに抱えている。
「……尾けるか」
 哲之助に頷き、尾行を始める。人通りの多い日本橋の事だ。見つかる心配はあまりなさそうだが、見失う心配はした方がいいかも知れない。
 それでもどうにか、近江屋の後を離れながらついて行き、近江屋が『茜屋』という立派な料理屋へ入って行くのを見た。
「茜屋か。ここは……高すぎてちょっと入れないな」
 哲之助が残念そうに言う。
「何とかならないかな。誰と会うのか、見たいのに」
 二人で店の前で唸っていると、店から出て来た女性にぶつかって、袴が濡れた。
「あらあ、申し訳ありません」
 垢ぬけた感じのきれいな人だ。
「いえ、お気になさらず」
「いえいえ、それでは申し訳が。
 あの、私、この茜屋の主人なんですよ。ほんのお詫びの印に、おやつ程度でも召し上がって行って下さいな」
「いえ、そんな大した──茜屋の主人!?」
「はい。咲と申します。さ、どうぞ、どうぞ」
 迷っている暇はない。
「麦湯で結構ですから、ちょっとだけお邪魔します」
「どこだ、どこ行った」
 これ幸いと、慶仁と哲之助は茜屋ののれんをくぐった。
 広い玄関の向こうにテーブルの並んだ部屋があり、そこは町民などが使っていた。一膳めしよりは高そうだが、八百善ほどではあるまい。
 二階に続く階段があり、一階に姿が見えなかった近江屋は、二階に行ったものと思われた。
「御二階はいかがですか。いい風が入りますよ」
 またお咲が都合よく二階を勧めて来るので、すぐにそれに乗る。
「それなら、是非」
「うん、そうしよう」
 静かに、急いで、どこに近江屋が入ったのか確認できるようにと早足に階段を上った。
「いたぞ」
「しいーっ」
 階段の上で、近江屋が奥の部屋に入って行くのを見かける。
「さあ、どうぞ」
 お咲に案内されたのは、その隣の部屋だった。
 二人は願っても無い事と、その部屋に入った。
 隣との間には襖があり、勿論中を見る事はできない。しかし、襖にくっついて耳を澄ましていると、何とか声は聞こえるらしい。近江屋の、
「やれやれ」
という独り言が聞こえて来た。
 すぐにお咲が心太を持って来てくれたのに、澄ました顔で礼を言い、お咲が出て行くとすぐに襖にくっつきつつ、心太をいただく。
 やがて隣の襖が開く音がして、近江屋の、
「これは、堺様」
という声、続いて、
「近江屋、上手く行ったか」
という、急くような若い男の声がした。
「はい」
 近江屋が答え、そこへ店の女中の食事を運ぶ声と音がし、女中がいなくなったら、堺というらしい男の声が、再び聞こえた。
「それで、近江屋。天目茶碗は」
「はい。この通り」
「おお。これで姫を、あの方の側室に……」
「はい」
 含み笑いの後、しばらく食器の音と共に「長崎の」とか言っていたが、雑談という程度で、早々に堺という男が
「また、よろしく頼む」
と席を立つのがわかった。
 そこで、そーっと廊下の襖を開けて、覗く。
 若い、武士だった。
 慶仁と哲之助は頷き合い、そっと、その堺という武士の後をついて行った。
 階段の下で、お咲と会う。
「どうもごちそうさまでした」
「いえいえ、とんでもございません」
 礼を言い、お咲の笑顔に見送られて堺の後を尾け始めた慶仁と哲之助は、その背中をお咲にジッと見られている事に気付かなかった。
 堺はズンズンと歩いて、やがて、ある旗本屋敷に入って行った。

 慶仁と哲之助が家に戻ると、祐磨と、祐磨の友人である浜崎徳之進が座敷で話していた。
「ただいま戻りました。浜崎様、こんにちは」
「お帰り」
 にこにこと祐磨と共に迎えてくれた浜崎は、小さい頃から家に出入りしている兄の友人であり、また、慶仁が元服した時の烏帽子親でもある。
「哲之助も、いらっしゃい」
「ああ。よく聞く幼馴染の彼」
 祐磨が言うのに、浜崎がああ、と頷いた。
「鳥羽哲之助と申します」
 哲之助が頭を下げるのに、浜崎は、
「浜崎徳之進だ。よろしく」
と返す。
「浜崎様は兄上のご友人で、烏帽子親になって下さったんだよ!」
「へえ。そうなのか」
「ん?天目茶碗?」
 箱の上書きに、浜崎が目を留め、祐磨共々ギョッとしたような顔をする。
「ああ、これは……」
 そこで慶仁は、昨日からの一部始終を語って聞かせた。
「というわけで、その堺っていう人は、旗本屋敷へ入って行ったんです。真砂家です」
「真砂……側室、堺。ああ、わかったよ」
 浜崎は言って、溜め息をついた。祐磨は、気づかわし気な顔を向けている。
「本物の茶碗を取り戻すか、近江屋がすり替えたという事だけでも証明しないと、加代さんが吉原に売られてしまいます」
 慶仁と哲之助が困り果てていると、祐磨がううむと唸った。
「その堺の手に渡った茶碗が本物の御隠居の茶碗だと証明できればいいんだが……」
「あ、茶碗の傷を面白がって、御隠居が墨を付けて……」
 がさごそと、三日月形の傷の付いた茶碗の底の印を広げる。
「うん。これならうまく行きそうだ。ちょっと、その茶碗の使い道に思い当たるフシがあってな。たぶん、明日、確認できるだろう」
 浜崎が自信満々に請け負い、慶仁と哲之助はホッとした。
「じゃあ、よろしくお願いいたします」
「ん、任せておけ」
「ああ、慶仁、哲之助。御隠居の通夜だろう」
「あ、はい。それじゃあ、失礼します」
 祐磨は体よく慶仁と哲之助を座敷から遠ざけると、真面目な顔で、声を潜めて言った。
「慶喜様。もしや、御息女を是非側室にと言っておられる、あの」
 浜崎も真面目な顔で頷き、
「間違いない。明日、茶会に呼ばれている。その茶碗を、手土産にでもするつもりだったのだろうな」
と言うと、溜め息をついた。



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