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第四章 野分

第十九話 野分

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 嵐はいっそう激しさを増し、戸板を叩く雨粒が石のような音をたてていた。

 傘も差さずに戻った千尋を出迎えた花村が、珍しく声を荒げて千尋を諌める。

「無茶ですよ、こんな雨の中。何かあったらどうするんです」
「すみません。ちょっと急いでいたものですから」

 千尋は渡された手拭きを受け取りながら、いつものように笑んでいた。
 だが、花村は、ふいに胸の心音が不穏に拍動するのを感じていた。
 何かが違うと花村は思った。
 指先から水滴をしたたらせたまま、廊下を急ぐ千尋を追った。
 
「何だ。帰ってきちまったのか」
 慌ただしい足音に気づいたように、堤が座敷から廊下に顔を出す。

「来てたんですか」
「帰る途中で雨に降られちまって、寄ったんだ。この雨じゃあ、帰るに帰れねえしなあ」
「帰ってください。佑輔がひとりでいます」
「無茶言うなよ」
「帰れますよ、今ならまだ」

「千尋さん」
 花村は奥座敷の敷居の前で膝をつき、千尋を見上げて思案気に言う。

「すぐに風呂を沸かしますから、先に着替えだけでもなさらないと」
「いえ。私はこれからすぐに発ちます。どうせまた濡れるんで、このままで」
 
 しかし、千尋は濡れ鼠のまま座敷にあがり、部屋の箪笥の鍵を開け、冊子を数冊取り出した。

「発つ?」
 堤は訝しげに眉をひそめる。
「……って、どこへ」
「薩摩にです。堺から船が出ますので、それに合わせて今夜経ちます」
「……さつま?」

 薩摩と聞いても解せないように、堤は首を傾げていた。
 しかし千尋は構わず堤の前に冊子を並べ、一気呵成に話し始める。
 華奢な顎から雨の雫が畳に滴り落ちていた。


「私はイギリスへの賠償金を肩代わりした見返りに、薩摩藩が保有する鉱山権をもらい受けました。アメリカで最新の鉱山開発を学んだ及川という技術者とともに、今までにない大規模な再開発を行います。当然、既存の山師や金名子からは反発を買うでしょう。生きて帰れるという保障はありません」
「急にお前……。急に何を言い出すんだ」
 堤はおろおろと声を上擦らせたが、千尋は目も合わせずに冊子を開いて堤に見せる。

「それから、これはこの店と土地の権利書です。私が一年経っても戻らなければ、名義を花村さんに書き換えるよう管財人を立ててあります」

 千尋は言葉を失っている堤と花村を交互に見やり、険しい顔できっぱりと言う。

「同様に、私の財産の分配は全てこちらに記してあります。店子への保障と、残りはあなたと花村さんと佑輔に」
「ちょっと待て」
 堤は頭痛を堪えるかのように、額に手をあて首を振った。

「お前、本当にさっきから何を言ってるんだ。大体、どうしてお前が鉱山なんぞの開発に……」
「花村さん。あなたに頼ってばかりで申し訳なく思っています。失脚したとはいえ、攘夷勢にも予断はなりません。もし、何かあったら新撰組の沖田か土方を頼ってください」
「千尋」
「きっと沖田が力になってくれます」
「お前……」

 堤は千尋の袖を引いた。

「まさか、そのために沖田を佑輔に近づけたのか……」
「最強の敵ほど心強い味方はいませんからね」
 
 千尋は乾いた笑みを唇にのぼらせ、自分に言って聞かせるように静かに続けた。
 最強の敵ほど心強い味方はいない。
 だからこそ、討幕派でありながら新撰組を擁護し、援助し、助けたのだと、千尋は事もなげに微笑んだ。

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