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第四章 野分
第二十一話 人の心なんて
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激しかった雨風が突然治まり、堤は闇の空をひとりで見上げた。
路地にあふれた濁流に足を取られながら、相国寺の連塀伝いに塾へ戻ると、佑輔に手燭で出迎えられる。
「風呂は沸かしてありますから」
玄関のたたきに湯を張った足盥を差し出された。
堤はしとどに濡れた羽織も袴も玄関先で脱ぎ捨てて、やけくそのように下帯になる。
そうして開け放った戸口の外へと着物の水を絞り出し、
「佑輔。明日の仏語の講義は休講だ」
背を向けたまま口早に言った。
だが、向けた背中に佑輔の返事は届かない。
虚を斬るような風が再びさかまき、引き戸をカタカタ揺らしていた。
堤は舌打ち混じりに戸を閉じて、鍵をかけつつぽつりと訊ねる。
「聞こえたか、佑輔」
「はい」
「すぐに代わりの講師を探してくれ」
「代わりって、誰のですか?」
佑輔は語尾を擦れさせていた。もう既に、事態を悟っていることが、慄く気配で伝わってくる。
堤は上がり框にどっかと腰かけ、ため息を吐く。
「千尋はもう京にはいない」
堤は頭を項垂れさせたまま、絞り出すように小さく言った。
背後の佑輔を見る事ができず、腿の上で拳を堅く握りしめる。
「……じゃあ、いつ帰るんです?」
「知らん。聞いていない」
佑輔が用意した盥を引き寄せ、投げやりに答えながら、汚れた足を湯に浸す。
江戸にいれば、尾張徳川筆頭家老の嫡子としてかしずかれていられたはずの男が、女中や下男がするような雑務も厭わずこなしている。
それもすべて千尋を助け、千尋の側で生きるため。
それだけのために、身分も家も捨ててきた弟子を思うと、涙がにじみそうになる。
堤は両手で何度も顔を拭い、死の淵にいるような長い息を吐き出した。
「半年か一年か、十年か。千尋にもわからんそうだ」
それきり身動ぐ事もできずにいると、背後から佑輔が離れる気配がした。
思わず肩越しに振り返り、廊下に佇む佑輔を見上げた。
「どうせ、また私には何も知らされないんでしょうね」
手燭のほのかな明かりが佑輔のぬるいような微笑を映し出している。
自身の羽織を脱いだ佑輔は、堤の肩に着せかけた。
「風呂が冷めてしまいます。早く上がってください。先生」
薄闇の廊下に佑輔の微かな足音がする。堤は一見普段通りに見える義弟の背中を目で追いながら、
「江戸へ帰るか?」
思わず言ってしまっていた。
「誰がです?」
佑輔は肩越しに振り向きざまに、訝しそうに眉をひそめる。
「誰が、……って。お前」
「私は待ちます」
口ごもる堤の言葉尻を捉えるように朗らかに答えた佑輔が、天井を仰ぎ見る。
「千尋さんは、きっと人の心なんて当てにならないと思っていますよ。だから私は待ってみせます。十年でも二十年
でも」
佑輔は廊下の曲がりに手燭を置いた。
遠ざかる静かな足音が、堤の胸に切に響いた。
【 第一部 完結 】
路地にあふれた濁流に足を取られながら、相国寺の連塀伝いに塾へ戻ると、佑輔に手燭で出迎えられる。
「風呂は沸かしてありますから」
玄関のたたきに湯を張った足盥を差し出された。
堤はしとどに濡れた羽織も袴も玄関先で脱ぎ捨てて、やけくそのように下帯になる。
そうして開け放った戸口の外へと着物の水を絞り出し、
「佑輔。明日の仏語の講義は休講だ」
背を向けたまま口早に言った。
だが、向けた背中に佑輔の返事は届かない。
虚を斬るような風が再びさかまき、引き戸をカタカタ揺らしていた。
堤は舌打ち混じりに戸を閉じて、鍵をかけつつぽつりと訊ねる。
「聞こえたか、佑輔」
「はい」
「すぐに代わりの講師を探してくれ」
「代わりって、誰のですか?」
佑輔は語尾を擦れさせていた。もう既に、事態を悟っていることが、慄く気配で伝わってくる。
堤は上がり框にどっかと腰かけ、ため息を吐く。
「千尋はもう京にはいない」
堤は頭を項垂れさせたまま、絞り出すように小さく言った。
背後の佑輔を見る事ができず、腿の上で拳を堅く握りしめる。
「……じゃあ、いつ帰るんです?」
「知らん。聞いていない」
佑輔が用意した盥を引き寄せ、投げやりに答えながら、汚れた足を湯に浸す。
江戸にいれば、尾張徳川筆頭家老の嫡子としてかしずかれていられたはずの男が、女中や下男がするような雑務も厭わずこなしている。
それもすべて千尋を助け、千尋の側で生きるため。
それだけのために、身分も家も捨ててきた弟子を思うと、涙がにじみそうになる。
堤は両手で何度も顔を拭い、死の淵にいるような長い息を吐き出した。
「半年か一年か、十年か。千尋にもわからんそうだ」
それきり身動ぐ事もできずにいると、背後から佑輔が離れる気配がした。
思わず肩越しに振り返り、廊下に佇む佑輔を見上げた。
「どうせ、また私には何も知らされないんでしょうね」
手燭のほのかな明かりが佑輔のぬるいような微笑を映し出している。
自身の羽織を脱いだ佑輔は、堤の肩に着せかけた。
「風呂が冷めてしまいます。早く上がってください。先生」
薄闇の廊下に佑輔の微かな足音がする。堤は一見普段通りに見える義弟の背中を目で追いながら、
「江戸へ帰るか?」
思わず言ってしまっていた。
「誰がです?」
佑輔は肩越しに振り向きざまに、訝しそうに眉をひそめる。
「誰が、……って。お前」
「私は待ちます」
口ごもる堤の言葉尻を捉えるように朗らかに答えた佑輔が、天井を仰ぎ見る。
「千尋さんは、きっと人の心なんて当てにならないと思っていますよ。だから私は待ってみせます。十年でも二十年
でも」
佑輔は廊下の曲がりに手燭を置いた。
遠ざかる静かな足音が、堤の胸に切に響いた。
【 第一部 完結 】
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みんなの感想(2件)
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一部完結ですか。先はまだ長そうですね。続きを楽しみにしています☺️
いつもお目を通してくださり、ありがとうございます。
プロットは、土方歳三が函館戦争で戦死するまで
立てています。
あとは本当に時間だけ。
時間を作って完結させます。
私なりの新選組の最期の瞬間。
それを一緒に見届けて頂けましたら幸いです。
こちらでも、この作品が読めて嬉しいです。
あの続きが読めるのでしょうか? 楽しみです。
最後までついていきます!
いつも、ご感想を聞かせて頂き、ありがとうございます。
カクヨムは、いろいろ縛りがありますが、
こちらでは、のびのびと書けそうだなと思いました。
R18シーンも、のびのび書けます。
今後とも、エンタメ色濃い目の本作を、
楽しんで頂けましたら嬉しいです。