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第一章 四つ葉のクローバーを君に
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もう一度点滴が外れた時、光は再び中庭に降りてみた。知らぬ間に降っていた雨で土はすっかりぬかるんでいた。沢山自生するクローバーの葉にも水滴がまだ残っている。
しゃがみ込み、いくつかの葉を確認しているうち、病院のレンタル寝巻が汚れることに気づいた。
(今日は諦めるか……)
もう少し土が乾いてから、また来ようと決意する。
「光くんは外が好きなのかな。この間も外にいて、大騒ぎだったんだって?」
ふいに声をかけられて振り返ると、心療内科の担当医師・若槻が立っていた。
「調子はどうだい」
「発作が起きてなかったら別に……普通だし。早く家に帰りたいんだけど」
「病室にずっといるのは、気が滅入る?」
そんな当たり前のことをわざわざ聞いてくるこの男が、光は苦手だった。心の奥に詰め込んだ不快な感情を、探るように話しかけては声に出してリピートしてくる。心臓外科で世話になっているおじさん主治医・星野は何でもすぐ「ダメだよ」と制限をかけてくる心配性タイプだが、彼はどこか人を馬鹿にするような感情がにじみ出ていてちっとも気を許せなかった。
「少し先生と話さないか?」
「いやだ」
間髪入れずに即答すると、光は若槻の脇をすり抜けて病棟に戻ろうとした。「待ちなさいよ」すれ違いざま、その腕を捕まれる。くんと鼻についた煙草の匂いが光の全身をざわつかせた。この匂いは、嫌なことばかり思い出させる。
「……っ」
「逃げたい気持ちはわかるけど、三時から君の診察時間だ。さあ、おいで」
「……くそったれ」
めいっぱい不機嫌な低音ボイスで暴言を吐くと、若槻は肩を揺らしてくつくつと笑った。
「これはこれは。なかなか手ごわそうな患者さんがきたもんだ」
学校に行くわけでもないのに、よくわからないテストを受けさせられたり、お茶を飲みながら普段のことを聞かれるだけの診察に、光は何度もため息をついた。
「こんなんのどこが治療なの」
「君の体調不良の原因を調べるために、必要なことさ」
部屋に閉じ込められて質問攻めに合うことが一番のストレスだとはっきり愚痴ったつもりなのだが、この医師には何一つ伝わらなかったのか、聞き入れてもらえない。
逮捕された父親のことを何度も聞いてくる警察官。
事件当日のことを何でもいいから話せと、面倒な難題を押し付けてくる検察官。
この先どうしたいかとしつこく答えを求めてくる弁護士。
今度は医師にまで。一体何を話せというのだろうか。
(もう質問攻め、疲れた……)
全部無視してもいいんだよと勝行に言われ、答えたくないものにはとことんスルーを決め込んできた。それでも父親が違法の麻薬を売買していた犯罪者という事実は何一つ変わらないし、自分が父親の部下に拐かされて集団暴行を受けた事実も覆せない。それを法で裁くために君の言葉が必要なのだ、黙っていても事件は解決に至らないと脅され、さんざん隠したい記憶の隅を突かれて、光の心はズタボロだった。
(俺が何か言ったら、父さんの罪はもっと重くなるんだろ……。それぐらいわかる。俺は……それが悪いことだって怒られたとしても――もういい。家族のことは、他人に干渉されたくない。ほっといてほしい)
話せば話すほど、思い出せば思い出すほど惨めな気持ちになるだけだ。息子をさんざん性欲の捌け口にしやがってと恨んだところで、自分には何のメリットもない。それにもう、あの男にそういった感情は存在しない。
ただただ、今は。
(……会いたい)
父親の弁護人だと名乗る男に出会った時、窓越しに会うことは可能だと言われて心が激しく揺れた。でもきっと顔を合わせたら、さんざん抱かれてきた身体が先にいやらしく反応するに違いない。それにあの威圧的で俺様な父親のことだ。自分の落ちぶれた姿を見られるのは嫌だろうし、光も見たくなかった。
結局誰にも、父親と自分との肉体関係については話さなかった。事実を知っているのは勝行だけだ。
公判手続きに入り、ようやく終わったとほっとしていた矢先にこれだ。
「君は人と話すことが苦手?」
「……」
一度も目を合わさず「決まってんだろ」と捨て台詞のように呟くと、光は机に突っ伏した。
目の前にあるミルクたっぷりのホットカフェオレが、唯一心を安らげてくれるアイテムだ。これだけは美味いと思いながらマグカップを両手で抱え、若槻が頭上で何を言おうとも無視し続けた。
(勝行……まだかな……)
もう一度点滴が外れた時、光は再び中庭に降りてみた。知らぬ間に降っていた雨で土はすっかりぬかるんでいた。沢山自生するクローバーの葉にも水滴がまだ残っている。
しゃがみ込み、いくつかの葉を確認しているうち、病院のレンタル寝巻が汚れることに気づいた。
(今日は諦めるか……)
もう少し土が乾いてから、また来ようと決意する。
「光くんは外が好きなのかな。この間も外にいて、大騒ぎだったんだって?」
ふいに声をかけられて振り返ると、心療内科の担当医師・若槻が立っていた。
「調子はどうだい」
「発作が起きてなかったら別に……普通だし。早く家に帰りたいんだけど」
「病室にずっといるのは、気が滅入る?」
そんな当たり前のことをわざわざ聞いてくるこの男が、光は苦手だった。心の奥に詰め込んだ不快な感情を、探るように話しかけては声に出してリピートしてくる。心臓外科で世話になっているおじさん主治医・星野は何でもすぐ「ダメだよ」と制限をかけてくる心配性タイプだが、彼はどこか人を馬鹿にするような感情がにじみ出ていてちっとも気を許せなかった。
「少し先生と話さないか?」
「いやだ」
間髪入れずに即答すると、光は若槻の脇をすり抜けて病棟に戻ろうとした。「待ちなさいよ」すれ違いざま、その腕を捕まれる。くんと鼻についた煙草の匂いが光の全身をざわつかせた。この匂いは、嫌なことばかり思い出させる。
「……っ」
「逃げたい気持ちはわかるけど、三時から君の診察時間だ。さあ、おいで」
「……くそったれ」
めいっぱい不機嫌な低音ボイスで暴言を吐くと、若槻は肩を揺らしてくつくつと笑った。
「これはこれは。なかなか手ごわそうな患者さんがきたもんだ」
学校に行くわけでもないのに、よくわからないテストを受けさせられたり、お茶を飲みながら普段のことを聞かれるだけの診察に、光は何度もため息をついた。
「こんなんのどこが治療なの」
「君の体調不良の原因を調べるために、必要なことさ」
部屋に閉じ込められて質問攻めに合うことが一番のストレスだとはっきり愚痴ったつもりなのだが、この医師には何一つ伝わらなかったのか、聞き入れてもらえない。
逮捕された父親のことを何度も聞いてくる警察官。
事件当日のことを何でもいいから話せと、面倒な難題を押し付けてくる検察官。
この先どうしたいかとしつこく答えを求めてくる弁護士。
今度は医師にまで。一体何を話せというのだろうか。
(もう質問攻め、疲れた……)
全部無視してもいいんだよと勝行に言われ、答えたくないものにはとことんスルーを決め込んできた。それでも父親が違法の麻薬を売買していた犯罪者という事実は何一つ変わらないし、自分が父親の部下に拐かされて集団暴行を受けた事実も覆せない。それを法で裁くために君の言葉が必要なのだ、黙っていても事件は解決に至らないと脅され、さんざん隠したい記憶の隅を突かれて、光の心はズタボロだった。
(俺が何か言ったら、父さんの罪はもっと重くなるんだろ……。それぐらいわかる。俺は……それが悪いことだって怒られたとしても――もういい。家族のことは、他人に干渉されたくない。ほっといてほしい)
話せば話すほど、思い出せば思い出すほど惨めな気持ちになるだけだ。息子をさんざん性欲の捌け口にしやがってと恨んだところで、自分には何のメリットもない。それにもう、あの男にそういった感情は存在しない。
ただただ、今は。
(……会いたい)
父親の弁護人だと名乗る男に出会った時、窓越しに会うことは可能だと言われて心が激しく揺れた。でもきっと顔を合わせたら、さんざん抱かれてきた身体が先にいやらしく反応するに違いない。それにあの威圧的で俺様な父親のことだ。自分の落ちぶれた姿を見られるのは嫌だろうし、光も見たくなかった。
結局誰にも、父親と自分との肉体関係については話さなかった。事実を知っているのは勝行だけだ。
公判手続きに入り、ようやく終わったとほっとしていた矢先にこれだ。
「君は人と話すことが苦手?」
「……」
一度も目を合わさず「決まってんだろ」と捨て台詞のように呟くと、光は机に突っ伏した。
目の前にあるミルクたっぷりのホットカフェオレが、唯一心を安らげてくれるアイテムだ。これだけは美味いと思いながらマグカップを両手で抱え、若槻が頭上で何を言おうとも無視し続けた。
(勝行……まだかな……)
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