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衝動と失敗と、一目惚れ
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その日の夕方。悠人は、自宅近くの大型商業施設内にあるカフェでアルバイトをしていた。
悠人の脳は、マルチタスクを極端に苦手とする。しかし、カフェの仕事は**「レジ打ち」「ドリンク作成」「客席の清掃」**という、明確に区切られたルーティン作業だ。この構造化された環境は、彼にとって比較的働きやすかった。
唯一の難関は、衝動性だった。
「はい、お客様、キャラメルマキアートですね。ありがとうございます!」
彼は完璧な笑顔でレジを打ち、レシートを渡した。だが、レジ横に置かれた新商品の**『季節限定・桜風味のラテ』**のポスターが目に入る。ポスターのピンク色と、キャッチコピーの「春の訪れ」というフレーズが、彼の脳に新たな刺激として焼き付いた。
(桜風味か。どんな味なんだろう? 試飲したいな。いや、今は仕事中だ。でも、次の休憩まで待てない。一口だけならバレないか?)
衝動が彼の思考を支配し、次の瞬間、彼はドリンク作成カウンターに立っていた。
本来はマニュアル通りにマキアートを作るべきだったが、彼は冷蔵庫から桜ラテ用のシロップと、いつものエスプレッソを取り出し、自分のマグカップに混ぜてしまった。
「うわ、甘すぎた。桜の香りが強すぎるな」
悠人が一人で反省していると、背後から冷たい声がした。
「悠人君、何してるの?」
店長の松岡だ。松岡は真面目一本の人物で、悠人の「ちょっとした抜け」や「ルール無視」を最も許さない人間だった。
「すみません、店長。新商品の味見を……」
「味見? 業務中に、勝手に商品を使って? しかも、君が今作るべきは、先ほどオーダーが入ったキャラメルマキアートのはずだが?」
松岡は、注文から10分が経過してもマキアートが提供されていないことに気づき、怒りをあらわにした。
「すいません!すぐに作ります!」
パニックになった悠人は、急いでマキアートを作り始めたが、焦りのあまり、エスプレッソをカップから溢れさせ、さらにキャラメルソースのボトルを倒してしまった。床に、茶色と白の液体が広がる。
「……もういい。君は今日、もう上がりなさい。こんな調子で接客されては、店の信用に関わる」
最悪の失敗。悠人は全身から血の気が引くのを感じた。自分の特性が、またしても目の前の現実を壊してしまった。
打ちひしがれ、汚れたエプロンを脱いだ悠人は、裏口から外に出た。東京の夕暮れの風が、彼の顔に冷たく当たった。
「またやっちゃった。俺、なんで普通にできないんだろう……」
自己嫌悪で頭がいっぱいになり、前も見ずに歩いていた、その時だった。
ドン!
悠人は誰かとぶつかり、持っていた財布と、相手が持っていた本を床に落としてしまった。
「あっ、す、すみません!」悠人は慌てて謝り、相手の女性の顔を見上げた。
そこに立っていたのは、夕焼けの光を背負った、美しい女性だった。年齢は悠人と同じくらいだろうか。色素の薄い茶色の髪で、少し困ったように眉を下げている。
「いえ、こちらこそ、ぼーっとしていて」
女性は微笑みながら、床に散らばった本を拾い始めた。
悠人は、彼女の顔を見た瞬間、思考の高速道路が一時的に封鎖されるのを感じた。いつもなら騒がしい脳が、シンと静まり返り、彼女の顔だけが世界の中心になった。
(なんだ、この感覚……。何も考えられない。この人、まるで静かな湖みたいだ)
彼女が拾い上げた本は、装丁が古びた詩集だった。彼女はそれを丁寧に抱え直し、悠人の財布を拾って渡してくれた。
「これ、お財布。大丈夫ですか?」
彼女の透き通るような声に、悠人は心臓が異常な速さで脈打つのを感じた。これが、彼が初めて経験する一目惚れだった。
「あ、ありがとうございます……あの、」
悠人は、衝動的に何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。こんな時こそ、彼の衝動性が役立つはずなのに、湖のような静寂を前に、彼はただ立ち尽くすことしかできなかった。
女性は、悠人が何かを言いたそうにしているのを見て、微笑んだ。
「じゃあ、また」
彼女はそう言って、人混みの中に消えていった。
悠人は、その場から動けなかった。手に残ったのは、財布の革の感触と、わずかに彼女の香水の残り香だけ。
(また、って言った……また、会えるのか?)
店での大失敗のこと、ADHDのこと、すべてが頭から抜け落ちた。彼の脳は、再び一つの情報——彼女の顔——だけで満たされた。
彼女の名前も、連絡先も、どこへ行ったのかも知らない。それでも、悠人の胸には、一つの新しい衝動が湧き上がっていた。
「彼女を見つけたい」
それは、ゲーム制作への過集中にも似た、情熱的な、新しい探求の始まりだった。
悠人の脳は、マルチタスクを極端に苦手とする。しかし、カフェの仕事は**「レジ打ち」「ドリンク作成」「客席の清掃」**という、明確に区切られたルーティン作業だ。この構造化された環境は、彼にとって比較的働きやすかった。
唯一の難関は、衝動性だった。
「はい、お客様、キャラメルマキアートですね。ありがとうございます!」
彼は完璧な笑顔でレジを打ち、レシートを渡した。だが、レジ横に置かれた新商品の**『季節限定・桜風味のラテ』**のポスターが目に入る。ポスターのピンク色と、キャッチコピーの「春の訪れ」というフレーズが、彼の脳に新たな刺激として焼き付いた。
(桜風味か。どんな味なんだろう? 試飲したいな。いや、今は仕事中だ。でも、次の休憩まで待てない。一口だけならバレないか?)
衝動が彼の思考を支配し、次の瞬間、彼はドリンク作成カウンターに立っていた。
本来はマニュアル通りにマキアートを作るべきだったが、彼は冷蔵庫から桜ラテ用のシロップと、いつものエスプレッソを取り出し、自分のマグカップに混ぜてしまった。
「うわ、甘すぎた。桜の香りが強すぎるな」
悠人が一人で反省していると、背後から冷たい声がした。
「悠人君、何してるの?」
店長の松岡だ。松岡は真面目一本の人物で、悠人の「ちょっとした抜け」や「ルール無視」を最も許さない人間だった。
「すみません、店長。新商品の味見を……」
「味見? 業務中に、勝手に商品を使って? しかも、君が今作るべきは、先ほどオーダーが入ったキャラメルマキアートのはずだが?」
松岡は、注文から10分が経過してもマキアートが提供されていないことに気づき、怒りをあらわにした。
「すいません!すぐに作ります!」
パニックになった悠人は、急いでマキアートを作り始めたが、焦りのあまり、エスプレッソをカップから溢れさせ、さらにキャラメルソースのボトルを倒してしまった。床に、茶色と白の液体が広がる。
「……もういい。君は今日、もう上がりなさい。こんな調子で接客されては、店の信用に関わる」
最悪の失敗。悠人は全身から血の気が引くのを感じた。自分の特性が、またしても目の前の現実を壊してしまった。
打ちひしがれ、汚れたエプロンを脱いだ悠人は、裏口から外に出た。東京の夕暮れの風が、彼の顔に冷たく当たった。
「またやっちゃった。俺、なんで普通にできないんだろう……」
自己嫌悪で頭がいっぱいになり、前も見ずに歩いていた、その時だった。
ドン!
悠人は誰かとぶつかり、持っていた財布と、相手が持っていた本を床に落としてしまった。
「あっ、す、すみません!」悠人は慌てて謝り、相手の女性の顔を見上げた。
そこに立っていたのは、夕焼けの光を背負った、美しい女性だった。年齢は悠人と同じくらいだろうか。色素の薄い茶色の髪で、少し困ったように眉を下げている。
「いえ、こちらこそ、ぼーっとしていて」
女性は微笑みながら、床に散らばった本を拾い始めた。
悠人は、彼女の顔を見た瞬間、思考の高速道路が一時的に封鎖されるのを感じた。いつもなら騒がしい脳が、シンと静まり返り、彼女の顔だけが世界の中心になった。
(なんだ、この感覚……。何も考えられない。この人、まるで静かな湖みたいだ)
彼女が拾い上げた本は、装丁が古びた詩集だった。彼女はそれを丁寧に抱え直し、悠人の財布を拾って渡してくれた。
「これ、お財布。大丈夫ですか?」
彼女の透き通るような声に、悠人は心臓が異常な速さで脈打つのを感じた。これが、彼が初めて経験する一目惚れだった。
「あ、ありがとうございます……あの、」
悠人は、衝動的に何かを言おうとしたが、言葉が出てこない。こんな時こそ、彼の衝動性が役立つはずなのに、湖のような静寂を前に、彼はただ立ち尽くすことしかできなかった。
女性は、悠人が何かを言いたそうにしているのを見て、微笑んだ。
「じゃあ、また」
彼女はそう言って、人混みの中に消えていった。
悠人は、その場から動けなかった。手に残ったのは、財布の革の感触と、わずかに彼女の香水の残り香だけ。
(また、って言った……また、会えるのか?)
店での大失敗のこと、ADHDのこと、すべてが頭から抜け落ちた。彼の脳は、再び一つの情報——彼女の顔——だけで満たされた。
彼女の名前も、連絡先も、どこへ行ったのかも知らない。それでも、悠人の胸には、一つの新しい衝動が湧き上がっていた。
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