変える理由なんてなく

あさき のぞみ

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詩集のヒントと、指輪の幻想

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バイトをクビ同然で早退させられた挫折感は、一目惚れの強烈な刺激によって、彼の脳の隅に追いやられていた。悠人の頭の中は、もはや「桜風味のラテ」でも「時間厳守」でもない。ただひたすらに、あの静かな湖のような女性の顔で満たされていた。

(また、って言った。また、会えるってことだよな?)

手がかりは、彼女が落とした詩集だけだ。名前も、職業も知らない。しかし、彼の過集中と衝動性は、この探求において最強の武器となる。

「あれは、確か……『夜明けの祈り』ってタイトルだった気がする」

悠人はその記憶を頼りに、スマートフォンで検索を始めた。彼の脳は、興味の対象となると、驚異的な情報処理能力を発揮する。数分間の検索の結果、それは二十世紀初頭の詩人、R・M・リルケのマイナーな詩集の一部を和訳したものだと判明した。さらに——
「これだ!来週末、彼女とぶつかった場所の近くの古いミニシアターで、この詩集の朗読会がある……」

開催日時をチェックすると、来週の土曜日。待てない。彼の衝動性は「今すぐ行動しろ」と叫んでいたが、悠人はぐっとこらえた。この探求は、綿密な計画が必要だ。

彼は初めて、スマホのTODOリストアプリを開き、こう書き込んだ。

  目標:詩集の人と再会する

1. 土曜日の朗読会チケットを手配する。(完了)

2. 着ていく服を選ぶ。(未定)

3.⭐︎ 絶対に衝動的な言動で失敗しない。(最重要!)

土曜日。悠人は普段のよれよれのパーカーではなく、清潔な白シャツを着て、ミニシアターの二階にある、小さなギャラリーカフェに向かった。会場には、文学好きらしき落ち着いた雰囲気の客が数組いる。悠人にとっては、少し場違いな空間だった。

(静かだ……この静寂、バイト先の客席よりずっとマシだ)

入場を済ませ、会場の隅に立っていると、彼の視線が固定された。

いた!!

あの時の、色素の薄い髪の女性。彼女は会場の奥、窓際に置かれた小さなテーブルに座り、穏やかに微笑んでいた。今日の彼女は、前回よりも少し落ち着いた、柔らかなベージュのワンピースを着ていた。

声をかけようと、一歩踏み出した、その時。

「静香、遅くなってごめん」

一人の男性が、彼女のテーブルに近づいた。年齢は30代半ば。ネイビーのジャケットを羽織った、知的な雰囲気の男性だ。

女性——静香——は顔を上げ、彼の頬に手を添えて、嬉しそうに言った。

「もう、大丈夫よ。あなたが来てくれれば、それでいいの」

その「あなた」という言葉の親密さ、そして彼女の表情。悠人の心臓がドクンと嫌な音を立てた。

彼は動くことができなかった。そして、決定的な光景を目撃する。

男性は静香の隣の椅子に座り、二人は並んでテーブルの上にあった小さな資料を覗き込んだ。その時、男性がコーヒーカップを持った左手を静香の肩に回し、薬指に光るシンプルなリングが、ギャラリーの窓から差し込む光を受けて、キラリと輝いた。

(指輪……結婚指輪だ)

悠人の脳内で、情報が衝動的に処理される。

1. 親密な「あなた」という呼び方。

2. 知的な雰囲気で、落ち着いた30代の男性。

3. 左手の薬指に輝く、シンプルなプラチナのリング。

結論(悠人による高速処理):彼女は、この男性の人妻だ。

静香は、隣の男性に向かって、楽しそうに笑いながら話している。

「来週の家族旅行、本当に楽しみね。子どもたちも、きっと喜ぶわ」

「家族」。



その一言が、悠人の思考の高速道路を完全に封鎖した。騒がしかった脳内は、再び静まり返ったが、今度は絶望的な静寂だった。

(そうか。また、俺の衝動は空回りしたのか)

一目惚れという激しい熱情は、一瞬にして冷水に突き落とされた。

彼は、彼女の「また」という言葉を、再会の約束ではなく、「また会うこともあるでしょう」という社交辞令だったと、勝手に解釈し直した。

悠人は、誰にも気づかれぬよう、静かにギャラリーを後にした。

新鮮な空気を吸うために外に出たが、東京の街は、先週よりもずっとノイズが増えたように感じられた。車のクラクション、他人の笑い声、すべてが彼の神経を逆撫でする。

「……何やってんだ、俺は」


彼はベンチに座り込み、顔を覆った。
衝動性で始まった恋の探求は、衝動性で勝手に終わりを告げた。「人妻に一目惚れした」という事実は、彼にとって、バイトの失敗よりも遥かに重く、手の届かない場所への完全な敗北を意味した。

【負の過集中】


一度落ち込み始めると、彼の特性は、そのネガティブな感情に異常な集中力を発揮する。

• (どうせ俺は、衝動的に行動して、いつも失敗する)

• (計画を立てても、肝心なところで臆病になって逃げ出す)

• (あの時、バイトで怒られたのは、俺の不真面目さのせいだ)

• (彼女が人妻じゃなかったとしても、俺のこんな不安定な日常じゃ、迷惑をかけるだけだ)

彼の脳は、自分を責めるための情報の枝を、次々と生やしていく。

「変える理由なんてない……? そんなこと、もう言えない」

悠人は、自分自身のアイデンティティであり、唯一の救いだった「特性」を、初めて否定したいと思った。このADHDの特性こそが、彼を「普通」の人間から遠ざけ、恋さえも始めることを許さない、檻なのではないかと感じたのだ。

彼は、家に帰ってベッドに倒れ込んだ。土曜日の午後。太陽はまだ高い。しかし、彼の部屋は、彼の心と同じように、深い影に包まれていた。

ゲーム制作の課題は放置されたまま。
明日からの生活のスケジュールも、ノイズに満ちた頭の中では組み立てられない。

悠人は、ただひたすらに、自分が衝動的に恋に落ち、衝動的に失恋したことを悔やみ続けた。

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