変える理由なんてなく

あさき のぞみ

文字の大きさ
14 / 17

寝息のノイズと、知らない男の名前

しおりを挟む
悠人は、床に横たわったまま、瞬きをすることもできずにいた。彼の頭の中の高速道路は、もはやジャンクションではなく、深夜の工事現場と化していた。

数メートル先のベッドから聞こえる静香の寝息は、規則正しく、静かで、安らぎに満ちている。この音だけが、彼の騒がしい脳を外界に繋ぎ止める唯一の錨だった。

彼は、その音に過集中した。

(規則正しい……完全に僕を信頼して、安心して眠っている。この安らぎを、僕が提供できているんだ)
その自己肯定感も束の間、静香の呼吸がわずかに変化した。

スーッ、ハーッ……という規則的なリズムから、**フゥ……**という、より深く、長い、力の抜けた音に変わった。

悠人の全身が硬直した。彼の経験不足(童貞)と、過度な集中力(ADHD)が、この音を極端に解釈し始めた。
これは、ただの寝息ではない。これは、深いリラックス、あるいは満たされた後の安堵感を示す吐息のように聞こえた。ランプの光は微かだが、その空間の親密さが、彼の感覚を鋭敏にさせる。

(やばい。この音……)

彼の脳は、この吐息が、経験豊富な女が示す、性的、あるいは感情的な充足の証拠である可能性を、衝動的に弾き出した。この音を聞いていると、自分の経験のなさ、そして彼女の経験の豊かさとの差が、暗闇の中で無限に広がっていくように感じられた。
彼の理性は、「ただ寝ているだけだ」と叫ぶ。しかし、彼の衝動は、「これは、俺を危険な男に変えてしまう音だ」と囁いた。

彼の身体は熱くなり、目を閉じることもできなくなった。自分の意志とは裏腹に、心臓が大きく脈打つ音が、豪雨の後の静寂の中、床に横たわる自分の耳に響く。


その時だった。


静香が、微かに身じろぎ、枕に顔を埋めたまま、か細い声を漏らした。


「……ケンジ」



それは、兄の名(松岡)でも、前回言及された甥や姪の名でもない。はっきりと、しかし夢の中に沈んでいるような、甘く、切ない響きを伴った知らない男の名前だった。

悠人の頭の中で、ノイズの工事現場が一瞬で崩壊した。

彼は、一瞬にして、自分が何を信じていたのか分からなくなった。
• **「既婚者ではない」**という事実は、彼を救った。

• **「恋愛経験がない」**という告白は、彼を立ち直らせた。

だが、この寝言は、そのすべてを一瞬で覆す、新たなノイズの源だった。

(ケンジ……誰だ?過去の恋人?それとも、今、彼女が密かに思いを寄せている相手?そして、その名前を、こんなに安らかな吐息の中で呼ぶのか?)
嫉妬、不安、そして何よりも自己否定が、暗闇の中で膨れ上がった。

彼は、つい数時間前に学んだ教訓を、瞬時に忘れてしまった。

「衝動的な結論付けが、失敗の原因だ」
しかし、この状況、この暗闇、この親密な距離、そして彼の童貞ゆえのコンプレックスが、論理的な思考を完全に麻痺させた。

(ああ、結局そうなのか。俺は、ただの一夜の避難場所だったんだ。この嵐が過ぎれば、彼女は『ケンジ』の元へ帰っていくんだ)

彼は、あの時、勝手に失恋したと決めつけた時よりも、遥かに深い絶望感に襲われた。あの時は勘違いだった。だが、今は、彼の耳が、その失恋の現実を直接聞いている。

悠人は、身体を動かさずに、ただ天井を見つめた。

彼の脳は、再び負の過集中に陥っていた。ケンジという名前の響き、静香の安らかな寝息と吐息の境界線、そして、自分の無力さ。それらすべてが、彼の内部で巨大な渦となり、彼を眠りから遠ざけた。

眠れない夜は、続いている。しかし、この夜の闇は、もはや静香の恐怖のためではない。

彼の自分自身への不信、そして**「変えられない」**と悟った衝動的な心が生み出した、新たな孤独な戦いのための闇だった。

ランプの微かな光だけが、壁際の小さな影を、まるで彼自身の孤独の象徴のように、長く伸ばしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

痩せたがりの姫言(ひめごと)

エフ=宝泉薫
青春
ヒロインは痩せ姫。 姫自身、あるいは周囲の人たちが密かな本音をつぶやきます。 だから「姫言」と書いてひめごと。 別サイト(カクヨム)で書いている「隠し部屋のシルフィーたち」もテイストが似ているので、混ぜることにしました。 語り手も、語られる対象も、作品ごとに異なります。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

処理中です...