変える理由なんてなく

あさき のぞみ

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アイドルの名前と、朝の光

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悠人は、床の上で膝を抱え、ひたすら天井を見つめ続けた。時計の針は、すでに午前4時を指しているだろう。豪雨は止み、代わりに静かで湿った空気が部屋を満たしている。

(ケンジ……ケンジ……)

その知らない男の名前が、彼の脳内で無限に反響し、彼の思考を完全に占拠していた。またしても、自分の衝動的な結論付けによって、勝手に失恋しようとしている。しかし、この親密な寝息の後のささやきは、あまりにもリアルで、論理的な防御の余地を与えてくれなかった。

「だめだ、このままじゃ夜明けを待たずに、俺は自分から逃げ出す」
悠人は、自分の特性が作り出すパニックから逃れるため、最後の手段に出ることを決意した。情報による上書きだ。

彼は、静香を起こさないよう細心の注意を払い、ゆっくりと立ち上がった。ランプの光を絞り、ポケットからスマートフォンの残りのバッテリーを起動させる。残量はわずか5%。

(頼む。誰なんだ、ケンジって……!)


彼は震える指で検索窓に「ケンジ」と入力し、最も可能性の高いパターンをいくつか検索した。専門学校の同級生? バイト先の同僚?
そして、トップに表示されたのは、彼の予想を遥かに超える、巨大な情報だった。

【検索結果】

・KENJI(アイドルグループ『サンライズ・エクスプレス』リーダー)

・国民的スター

・最新主演ドラマ「恋する乙女座」が視聴率30%超え

悠人の全身から、一気に力が抜けた。
(アイドル……グループのリーダー? まさか、あのケンジか?)

そのアイドル・KENJIは、現在、全盛期にある、世間が放っておかないほどの人気スターだ。静香のような清楚で知的な女性が、熱狂的なファンである可能性は十分にある。

悠人の感情のジェットコースターは、最高地点から一気に地面へと叩きつけられた。彼の失恋は、彼女の過去の恋人やライバルではなく、彼女の夢の中の、手の届かない偶像だったのだ。
彼は、あまりのバカらしさに、笑い出すことも、怒ることもできなかった。

「俺は……国民的スターに、嫉妬してたのか」

この滑稽な事実は、彼の心に、皮肉な救いをもたらした。自分の衝動性が導く結論は、いつも現実から遥かに乖離している。彼の最大の敵は、ADHDという特性そのものではなく、その特性がもたらす**「勝手な断定と諦め」**であるという、先週学んだ教訓を、彼は夜通し、再び突きつけられたのだ。

悠人は、スマホの電源が切れるのを最後まで見届け、床に戻った。

もはや、彼の脳は疲弊しきっていた。興奮、恐怖、焦り、嫉妬、そして滑稽さ。これら全てのノイズが、彼の体からエネルギーを奪い去り、彼は眠ることを許されないまま、ただ横たわっていた。

やがて、窓の外が、水彩画のように、ゆっくりと白んでいく。夜が明けたのだ。

チッ、チッ、チッ……

突然、部屋の隅に置かれたデジタル時計が、正確な時を刻み始めた。そして、

ブゥン……ガタッ、シューー……

乾燥機が唸り、冷蔵庫が重い稼働音を立てた。電気が復旧した。

夜の非日常は終わり、東京の日常が戻ってきた。

悠人は、朝日が差し込む窓を呆然と見つめていた。彼の顔には、一睡もしていない疲労の色が濃く出ていた。

その時、ベッドの方から、微かな寝返りの音がした。


「……んん」


静香が、ゆっくりと目を開けた。彼女の顔には、十分な睡眠を取ったことによる安らぎと、ランプの光とは違う、朝の光が差し込んでいた。

静香は、すぐに状況を理解し、起き上がって悠人を見た。

「悠人君……電気、戻ったんですね。よかった」

そして、床に横たわる、徹夜でやつれた悠人の姿を見て、彼女は目を丸くした。

「えっ……悠人君? まさか、一晩中、起きてたの?」

悠人は、静香の新鮮な、朝一番の澄んだ声を聞きながら、力なく微笑んだ。


「まあ……ちょっと、ノイズが多すぎて」


彼の中のノイズは、今も鳴り続けている。しかし、そのノイズの理由が「アイドル」であることは、静香には永遠に知られることはないだろう。彼の瞳には、この夜を経て得た、新たな決意の光が宿っていた。
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