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後編
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(あの怪物め……)
と、サルヴィアは舌打ちを漏らした。
自室――。
図書館のなかにある自室だが、魔術師に与えられる部屋よりも大きいものだった。
食堂と居間。個人の書斎もあったし、風呂もあった。
大司書にあたえられる特別な個室だった。
本でも読もうと羊皮紙をめくってみたものの、内容がマッタク頭に入って来なかった。諦めて本を閉ざした。
「はぁーッ」
と、部屋には誰もいないのにサルヴィアはわざとオオゲサにため息を吐いてみた。
(全部、あいつのせいだ)
忌々しい白銀の髪が脳裏にチラついた。
ヘイルータン。
図書館試験からしばらく経った。
大魔導師の寵愛を、ヘイルータンはまたたく間に、自分のものとしてしまった。サルヴィアは、面白くなかった。
どこからか送り込まれてきた間諜であることはわかりきっている。言い逃れ出来ぬ証拠を見つけて、いっこくも早く叩きだしてやろうと監視していたのだが、マッタク隙を見せなかった。
隙を見せないというのは、間諜である証拠を出さないという点にとどまらない。
背筋の正しさから、足運びに、呼吸のリズムまで……どこをとっても付け入る隙がないのだ。
たとえば足を引っかけようとしても、ヘイルータンは必ずそれを察知して避けてくる。そしてあの不気味な無表情を向けてくるのだ。
サルヴィアが信用を置いている3人の司書に、ヘイルータンが間諜である証拠をでっち上げろと命じた。
しかし1週間もすればその司書たちは、ヘイルータンと親しげに会話をしているのだ。サルヴィアのもとに、「ヘイルータンなら大丈夫ですよ。あれは図書館にとって必要な人間です」と笑顔で報告しに来る始末である。
おそらく。
人をたらしこむのが上手い。
なおさら怪しい。
もしもホントウに間諜ならば、怖ろしく優秀なヤツである。
ボロを出さぬのならば、強引にでもボロを作ってやれば良い――と考えたサルヴィアは、ヘイルータンにあらゆる雑用を押し付けた。
料理、洗濯、本の手入れに、書架の掃除。異国の書簡の翻訳なんかもやらせた。
何をやらせても、マッタク落ち度がない。
すべて完璧にこなすのである。
ヘイルータンの料理の腕前は、ジブの作る料理そのものだと評判になった。「まるでジブのようじゃ」と大魔導師が唖然としていたほどだ。
ジブというのは、今までこの図書館厨房に入った料理人のなかでは一番の凄腕を持つ天才料理人のことだ。
ジブの作る料理を口にした者は、ほかの料理を食べられなくなると巷でウワサになるほどの男だった。
大魔導師もジブの料理を気に入っていたし、ジブ本人のことも寵愛していた。
その寵愛の度が、男と女のものに見えた。
だからジブが他国から来た間諜だという証拠を、サルヴィアはでっち上げた。料理に異物を入れてやったりもした。
策略は見事にハマって、ジブはサソリに変えられて、この図書館を放逐されることになったのだ。
大魔導師が寵愛する者たちを罠にかけたのは1度や2度ではない。
大魔導師を誑かそうとした吟遊詩人。大魔導師から気に入られていた言語学者。大魔導師が重宝していた通訳者。
大魔導師に近づこうとする者を片っ端から罠にかけてきたし、もちろん盗人や暗殺者と言った、大魔導師に危害を加えんとする者も排除してきた。
そうしていれば――。
(いずれこのオレをマツリさまは、愛してくれるはずだ)
と、サルヴィアは考えていたのだ。
サルヴィアはマツリに惚れていた。純血のヒトマル族の血で、己のカラダを清めてもらいたかった。
サルヴィアは混血だ。
母親はヒトマル族だったが、父親はジハーダ人だった。
父はだらしない人間だった。酒に酔って、母を殴り、ほかの女のところに行ってしまうような男だった。
(汚らわしい)
そしてその男の血が、自分のなかにも流れているというのが我慢ならなかった。
母を楽させるために、サルヴィアはこの図書館に入館したのだが、入館したときにはすでに母は死んでいた。
穢れた混血のカラダを清めるためには、ヒトマル族の純潔の血を引いている大魔導師と交わるしかない。
しかし――。
「おのれヘイルータンめッ」
と、サルヴィアは机にコブシを振り下ろした。
大魔導師の興味はいま、完全にヘイルータンに向いているのだった。
そのとき。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「入れ」
と、サルヴィアはあわてて怒気を引っ込めて応えた。
入ってきたのはサルヴィアの手の者だった。図書館のなかにはサルヴィアが目にかけている者も何人かいるのだ。
「仕度が整いました。ヘイルータンはラセンの終着にて、ハープを演奏するそうです」
「弦は?」
「もちろん細工してあります」
「良し」
仕掛けはこうだ。
大魔導師には「ヘイルータンは歌をうたい、楽器を弾くことが出来るそうです」と伝えてある。
一方でヘイルータンには「下手くそでも良いから、何か演奏しろと、大魔導師さまからの命令だ」と伝えた。
ヘイルータンは図書館に訪れている各国の使者の前で、ハープを演奏することになる。万が一にもヘイルータンが演奏を成功しないように、弦も切れるように仕掛けを施しているのだった。
これでヘイルータンは、大魔導師の前で大恥をかくことになる――という算段だった。わかっている。この程度で、大魔導師さまの逆鱗に触れることはない。ただの子どもっぽい嫌がらせだ。
間諜に仕立て上げようというサルヴィアの罠に引っかからないから、せめてもの嫌がらせだった。
(とにかく……)
どんな手段でも良いから、ヘイルータンの株を下げなければならない。
そうでなくては大魔導師の目は、ますますサルヴィアから離れ、ヘイルータンに向かうことになる。
こんな幼稚な嫌がらせを決行したのは、裏にサルヴィアの焦りがある。
(認めたくはないが、オレは焦っている)
年齢の問題である。
サルヴィアは今年で30になる。髪の艶も、肌の滑らかさも、ヘイルータンのそれと比べると見劣りする。
もちろん、男が輝くのは若年の時分とは限らない。40になって色気をまとう者もいる。50になって才覚を発揮する者もいるだろう。
が――。
大魔導師の気を惹くには、年若いほうが有利なのだ。
サルヴィアには、ずっと大魔導師を支えてきたというプライドがある。あんな若造に寵愛を奪われてはたまらない。
「あの……。サルヴィア大司書さま」
と、サルヴィアの可愛がっている司書補が、機嫌でもうかがうかのように声をかけてきた。
「どうした?」
「これで私の昇進も……」
「わかっているとも、司書になれるよう大魔導師さまに口をきいておいてやる」
「ありがとうございます」
とその司書補は頭を下げた。
「行くぞ」
と、サルヴィアは大司書の部屋を出た。
ヘイルータンがそのブザマな演奏で、大魔導師を幻滅させる現場にはぜひ立ち合いたい。
あの無表情が羞恥に歪むところを想像すると、それだけでサディスティックな快感がサルヴィアの背筋を痺れさせた。
「おや?」
ラセンの終着の扉からは、艶やかな音色が聞こえてくる。
何事かと思って、サルヴィアは部屋に突入した。
「これ。もうチッと静かに入って来れんのか」
と、大魔導師が眉根にシワを寄せてそう言った。
「大魔導師さま。これはいったい?」
「オヌシが教えてくれたんじゃろうが。ヘイルータンが歌を披露してくれると言うから、みんなの前で披露してもらっていたんじゃ」
「げ、弦は?」
「切れそうだからと、ヘイルータンが演奏前に直しておったぞ」
うちの者が申し訳ない――と、ラセンの終着にいる諸州諸侯の外交官たちに、大魔導師は謝っていた。
そしてふたたびヘイルータンは、何事もなかったかのような涼しい顔をして、ハープを弾きはじめた。
「こ、こいつ……」
ヘイルータンの口から流れ出る歌声のなかで、サルヴィアは歯ぎしりをした。
ハープを弾けるのみならず、歌までうたえたのだ。しかもその歌声は、あのパルチュイにそっくりだった。
この世の女性を思うがままにすると言われた吟遊詩人。
それもまたサルヴィアが、大魔導師の逆鱗に触れるように罠にはめたひとりだった。
「うわ――ッ」
サルヴィアは発狂した。
天才料理人のジブ。奇跡の吟遊詩人パルチュイ。7枚の舌を持つと言われた通訳者。人の心が読めると言われた聴罪師。香の魔術師と呼ばれた調香師に、色彩の芸術家と呼ばれた染者師。
……。
今まで、間諜の疑いありと濡れ衣を着せてきた者たちの亡霊が、ヘイルータンに乗り移っているかのように思われたのだ。
と、サルヴィアは舌打ちを漏らした。
自室――。
図書館のなかにある自室だが、魔術師に与えられる部屋よりも大きいものだった。
食堂と居間。個人の書斎もあったし、風呂もあった。
大司書にあたえられる特別な個室だった。
本でも読もうと羊皮紙をめくってみたものの、内容がマッタク頭に入って来なかった。諦めて本を閉ざした。
「はぁーッ」
と、部屋には誰もいないのにサルヴィアはわざとオオゲサにため息を吐いてみた。
(全部、あいつのせいだ)
忌々しい白銀の髪が脳裏にチラついた。
ヘイルータン。
図書館試験からしばらく経った。
大魔導師の寵愛を、ヘイルータンはまたたく間に、自分のものとしてしまった。サルヴィアは、面白くなかった。
どこからか送り込まれてきた間諜であることはわかりきっている。言い逃れ出来ぬ証拠を見つけて、いっこくも早く叩きだしてやろうと監視していたのだが、マッタク隙を見せなかった。
隙を見せないというのは、間諜である証拠を出さないという点にとどまらない。
背筋の正しさから、足運びに、呼吸のリズムまで……どこをとっても付け入る隙がないのだ。
たとえば足を引っかけようとしても、ヘイルータンは必ずそれを察知して避けてくる。そしてあの不気味な無表情を向けてくるのだ。
サルヴィアが信用を置いている3人の司書に、ヘイルータンが間諜である証拠をでっち上げろと命じた。
しかし1週間もすればその司書たちは、ヘイルータンと親しげに会話をしているのだ。サルヴィアのもとに、「ヘイルータンなら大丈夫ですよ。あれは図書館にとって必要な人間です」と笑顔で報告しに来る始末である。
おそらく。
人をたらしこむのが上手い。
なおさら怪しい。
もしもホントウに間諜ならば、怖ろしく優秀なヤツである。
ボロを出さぬのならば、強引にでもボロを作ってやれば良い――と考えたサルヴィアは、ヘイルータンにあらゆる雑用を押し付けた。
料理、洗濯、本の手入れに、書架の掃除。異国の書簡の翻訳なんかもやらせた。
何をやらせても、マッタク落ち度がない。
すべて完璧にこなすのである。
ヘイルータンの料理の腕前は、ジブの作る料理そのものだと評判になった。「まるでジブのようじゃ」と大魔導師が唖然としていたほどだ。
ジブというのは、今までこの図書館厨房に入った料理人のなかでは一番の凄腕を持つ天才料理人のことだ。
ジブの作る料理を口にした者は、ほかの料理を食べられなくなると巷でウワサになるほどの男だった。
大魔導師もジブの料理を気に入っていたし、ジブ本人のことも寵愛していた。
その寵愛の度が、男と女のものに見えた。
だからジブが他国から来た間諜だという証拠を、サルヴィアはでっち上げた。料理に異物を入れてやったりもした。
策略は見事にハマって、ジブはサソリに変えられて、この図書館を放逐されることになったのだ。
大魔導師が寵愛する者たちを罠にかけたのは1度や2度ではない。
大魔導師を誑かそうとした吟遊詩人。大魔導師から気に入られていた言語学者。大魔導師が重宝していた通訳者。
大魔導師に近づこうとする者を片っ端から罠にかけてきたし、もちろん盗人や暗殺者と言った、大魔導師に危害を加えんとする者も排除してきた。
そうしていれば――。
(いずれこのオレをマツリさまは、愛してくれるはずだ)
と、サルヴィアは考えていたのだ。
サルヴィアはマツリに惚れていた。純血のヒトマル族の血で、己のカラダを清めてもらいたかった。
サルヴィアは混血だ。
母親はヒトマル族だったが、父親はジハーダ人だった。
父はだらしない人間だった。酒に酔って、母を殴り、ほかの女のところに行ってしまうような男だった。
(汚らわしい)
そしてその男の血が、自分のなかにも流れているというのが我慢ならなかった。
母を楽させるために、サルヴィアはこの図書館に入館したのだが、入館したときにはすでに母は死んでいた。
穢れた混血のカラダを清めるためには、ヒトマル族の純潔の血を引いている大魔導師と交わるしかない。
しかし――。
「おのれヘイルータンめッ」
と、サルヴィアは机にコブシを振り下ろした。
大魔導師の興味はいま、完全にヘイルータンに向いているのだった。
そのとき。
コンコン。
扉をノックする音がした。
「入れ」
と、サルヴィアはあわてて怒気を引っ込めて応えた。
入ってきたのはサルヴィアの手の者だった。図書館のなかにはサルヴィアが目にかけている者も何人かいるのだ。
「仕度が整いました。ヘイルータンはラセンの終着にて、ハープを演奏するそうです」
「弦は?」
「もちろん細工してあります」
「良し」
仕掛けはこうだ。
大魔導師には「ヘイルータンは歌をうたい、楽器を弾くことが出来るそうです」と伝えてある。
一方でヘイルータンには「下手くそでも良いから、何か演奏しろと、大魔導師さまからの命令だ」と伝えた。
ヘイルータンは図書館に訪れている各国の使者の前で、ハープを演奏することになる。万が一にもヘイルータンが演奏を成功しないように、弦も切れるように仕掛けを施しているのだった。
これでヘイルータンは、大魔導師の前で大恥をかくことになる――という算段だった。わかっている。この程度で、大魔導師さまの逆鱗に触れることはない。ただの子どもっぽい嫌がらせだ。
間諜に仕立て上げようというサルヴィアの罠に引っかからないから、せめてもの嫌がらせだった。
(とにかく……)
どんな手段でも良いから、ヘイルータンの株を下げなければならない。
そうでなくては大魔導師の目は、ますますサルヴィアから離れ、ヘイルータンに向かうことになる。
こんな幼稚な嫌がらせを決行したのは、裏にサルヴィアの焦りがある。
(認めたくはないが、オレは焦っている)
年齢の問題である。
サルヴィアは今年で30になる。髪の艶も、肌の滑らかさも、ヘイルータンのそれと比べると見劣りする。
もちろん、男が輝くのは若年の時分とは限らない。40になって色気をまとう者もいる。50になって才覚を発揮する者もいるだろう。
が――。
大魔導師の気を惹くには、年若いほうが有利なのだ。
サルヴィアには、ずっと大魔導師を支えてきたというプライドがある。あんな若造に寵愛を奪われてはたまらない。
「あの……。サルヴィア大司書さま」
と、サルヴィアの可愛がっている司書補が、機嫌でもうかがうかのように声をかけてきた。
「どうした?」
「これで私の昇進も……」
「わかっているとも、司書になれるよう大魔導師さまに口をきいておいてやる」
「ありがとうございます」
とその司書補は頭を下げた。
「行くぞ」
と、サルヴィアは大司書の部屋を出た。
ヘイルータンがそのブザマな演奏で、大魔導師を幻滅させる現場にはぜひ立ち合いたい。
あの無表情が羞恥に歪むところを想像すると、それだけでサディスティックな快感がサルヴィアの背筋を痺れさせた。
「おや?」
ラセンの終着の扉からは、艶やかな音色が聞こえてくる。
何事かと思って、サルヴィアは部屋に突入した。
「これ。もうチッと静かに入って来れんのか」
と、大魔導師が眉根にシワを寄せてそう言った。
「大魔導師さま。これはいったい?」
「オヌシが教えてくれたんじゃろうが。ヘイルータンが歌を披露してくれると言うから、みんなの前で披露してもらっていたんじゃ」
「げ、弦は?」
「切れそうだからと、ヘイルータンが演奏前に直しておったぞ」
うちの者が申し訳ない――と、ラセンの終着にいる諸州諸侯の外交官たちに、大魔導師は謝っていた。
そしてふたたびヘイルータンは、何事もなかったかのような涼しい顔をして、ハープを弾きはじめた。
「こ、こいつ……」
ヘイルータンの口から流れ出る歌声のなかで、サルヴィアは歯ぎしりをした。
ハープを弾けるのみならず、歌までうたえたのだ。しかもその歌声は、あのパルチュイにそっくりだった。
この世の女性を思うがままにすると言われた吟遊詩人。
それもまたサルヴィアが、大魔導師の逆鱗に触れるように罠にはめたひとりだった。
「うわ――ッ」
サルヴィアは発狂した。
天才料理人のジブ。奇跡の吟遊詩人パルチュイ。7枚の舌を持つと言われた通訳者。人の心が読めると言われた聴罪師。香の魔術師と呼ばれた調香師に、色彩の芸術家と呼ばれた染者師。
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今まで、間諜の疑いありと濡れ衣を着せてきた者たちの亡霊が、ヘイルータンに乗り移っているかのように思われたのだ。
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