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第2章 地球活動編

閑話 馬鹿娘の気持ち(1) イザナミ 二節 聖者襲撃編

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 2082年9月9日(水曜日) 午前6時00分。
 
 意識が覚醒するとそこは、馬鹿娘しぐれの妙に少女趣味な部屋だった。
 もう十数年にもなる付き合いだが、時雨のファンシーな趣味はイザナミの肌には合わない。
大体、時雨はもうじき花の二十台も終わりだ。そんないい年になってもまだ、ヌイグルミを抱いてないと眠れないなどお子ちゃまなのにも限度ってものがあるだろう。まあ、そこがこの上なく可愛いわけであるが。
 朝の弱い時雨が起きるまでに朝食を作っておくことにしよう。

(まったく手がかかる娘だ)

 背伸びをすると、ベッドから降り、クローゼットで今日着る着物を探し始める。

(今日はこれがよい)

 黒と白のシンプルな柄の着物を取り出し着付けし、扇子を帯に刺す。

(うむ、シンプル、イズ、ベストじゃ)

 流石は天族を優に超える美貌を持つ我が自慢の相棒むすめ。似合うではないか。
 ちなみに、着物は時雨ではなくイザナミの趣味だ。時雨はもっと、肌の露出の多い今どきの服を好む。だが、あんな足が見えるようなふしだらな服など我が相棒むすめに相応しくない。絶対に却下だ。断固として許しはせん。

 エプロンをつけて台所まで行き、冷蔵庫を開ける。

かぶと人参と厚揚げの煮しめ、アジの塩焼き、アサリの味噌汁。これにするか)

 両腕をまくって包丁を手にイザナミは調理を開始する。
 
                ◆
                ◆
                ◆


 料理をテーブルの上に置くと、時雨を起こす。

「おはよ」

 大きな欠伸をしながらも、馬鹿娘しぐれが起きたので身体を明け渡す。

(時雨、『早寝早起き病知らず』じゃぞ。何時までも幼い子供ではないのだ。もっと自己管理はびしっとせんと)

「うん……」

 イザナミの説教が聞こえているのかいないのか、寝ぼけ顔で口に料理を放り込んでいる。
 時雨は普段からこんな感じだ。ほんとにいつまでも子供気分が抜けなくて困る。


 時雨は準備をすると学校へと向かう。
 時雨が職員室に入ると、世間話をしていた教員達は時雨を目にした途端、顔を強張らせて仕事に戻りはじめる。
 相変わらず失礼な奴らだ。これほどの美貌の女など天界でも数えるほどしかおらん。男なら情欲の視線を、女なら羨望と嫉妬の混じった視線を向けてしかるべきではないか。確かに時雨に悪い虫が付くのは断固として許容できないが、評判はもっと高くてもよいはずだ。
 それもこれも倖月家が時雨に生まれながらに課している呪いにも似た家風が原因だ。
 時雨がさほどの力を有していなければ、この娘は今頃、倖月家の箱入り令嬢としてどこかのボンボンに嫁いでいたことだろう。
 しかしイザナミと同化し超越者の仲間入りをしたあの日、時雨は倖月家当主から『影月』の名を得ている。『影月』は組織名でもあるし、役職名でもある。倖月家当主の影であり、倖月家の決めた掟を、実力をもって守らせ、倖月家内の秩序を維持する。そんな役職だ。だからこそ、『影月』に求められるのは威厳であり、強さであり、圧倒的な恐怖。
 時雨はその『影月』としての使命を幼い頃から体現してきた。倖月家に反逆するもの、異を唱えるものは勿論、本来無関係なその家族達まで粛正してきた。その度にこの娘はその優しき心に大きな傷を負い、反面メキメキと強くなっていった。特に時雨とイザナミとの魂の同調率は年がたつごとに増幅していき、今や同化した状態なら世界序列の頂点たる最上位者達と肩を並べるほどになっている。
 その結果がこの学校内での風景であり、倖月家内での景色でもある。皆が時雨に恐怖し、畏怖し、時雨の姿を視界の隅に追いやってしまう。それがイザナミは我慢ならなかった。

 三条郡司さんじょうぐんじの側近たる伊達豊栄だてほうえいが校長室へ時雨を呼ぶ。この緊迫した雰囲気、理由は限られている。おそらくは――。

 倖月朱花が校門前で人を待っているから対処せよ。これが三条郡司さんじょうぐんじ達が時雨に指示してきたこと。その人物と朱花との接触の防止こそ、時雨のこの学校における最優先事項。
 弾かれたように時雨が校門へ向かうと今まさに朱花が楠恭弥くすのききょうやを抱きしめているところだった。その光景を視界に入れた際の時雨の感情は複雑すぎてイザナミには正確には把握できなかったし、本人もおそらく理解していまい。しかし、最も強い想いは『焦り』だったと断言できる。
 朱花は時雨を一瞥すらせずに校舎内へ姿を消す。時雨は、この朱花の敵意の原因を、時雨に恭弥との会話をことごとく邪魔されているからだと結論付けていた。まったくその程度のことしか思い描けないから、時雨はお子ちゃまだと言うのだ。
 イザナミの見立てでは朱花は時雨が恭弥との接触を邪魔する理由を『影月』の使命とは考えていまい。おそらく、恭弥に過去の一切を思い出させたくはない。その一心で時雨が朱花と恭弥の接触を邪魔してきている。そう考えている。そして多分それは『影月』とは無関係な時雨の個人的な想いから。

 
 時雨は恭弥が朱花から何も聞いていないと確認し、安堵のせいかまたいつもの悪い癖を出す。恭弥に纏わりついて、朱花への興味をそらそうとした。
 恭弥の前では大人の女性を振る舞ってはいるが、時雨は、男性経験はおろか恭弥以外の男性と手さえ握ったことがない徹底的に初心な女であり、恋人との接吻を夢見ている痛い娘だ。
 弟同然の恭弥だからこそできるそんな幼稚極まりない行為に対する彼の生まれて初めての反撃は、時雨に己の奥深くに眠っていた気持を気付かせる。それは時雨にとって立場上決して抱いてはいけない想いであり、彼女が想像すらしていなかった想いだった。

 去り際の決め台詞すら失敗し、恭弥から逃げ出した時雨は職員室へ直行すると、机につっぷしてしまう。この時の時雨の内心は楠恭弥の甘い唇の感触で一杯になっていた。


 時間が来て一時間目の恭弥のクラスに鉛のように重い足取りで向かう。
 授業を始めるも、遅れて教室内に入って来た恭弥を視界に入れた途端、心臓の鼓動が早くなり、みっともなく狼狽える。その滑稽な女の心の中のほとんどを占拠していたのはたった一つの感情。
その時雨の態度の意味にいち早く気づいた倖月瑠璃に親の仇でも見るかのような目で乾いた微笑を向けられる。そんな瑠璃からの視線と笑みの意味にも気づきもせずに時雨は無茶苦茶な内容の授業を終えると、逃げるように教室を後にした。


 それから時雨は授業がないときは職員室で頬杖をついて視線を空中に彷徨わせていた。唇を右手で摩りながら物思いにふける時雨はさぞかし美しかったことだろう。
 いつの間にか、時雨に視線が集中しているのに気付く。主に若い男の教員からであったが、その恍惚の表情からその意味は十二分に察することができた。

 それからお昼時になる。
 やけに胸元の空いたスーツを着た一見してホストにも見えるチャラい茶髪の男性教員とガタイが良い胸やけしそうなほど爽やかな笑顔を浮かべる美丈夫の教員に付き纏われることになる。二人とも二十台前半で家柄もよく、学校の女生徒の中ではかなりの人気を誇っていた教員達だ。
 彼らの中で、いままで常にあった時雨に対する恐怖は慕情にすっかり置き換わってしまっていた。
 時雨は幼い頃から『影月』として、倖月家を代表とする魔術師として人前で常に演技を強いられてきた。その演技を続けるうちに演技は疑似的な人格まで昇華してしまう。その疑似的人格による化粧が剥がれ落ちるのは、決まって自宅の一室内だけ。それがあのメルヘンな部屋の正体だ。そう。今の時雨は『影月』ではない倖月時雨になっていた。
 二人の男達があまりにしつこいので遂に時雨はイザナミにバトンを渡して心象世界の中に潜ってしまう。
 こうして、イザナミは倖月時雨として思う存分、この人間界の一日を満喫することにしたのだ。

 この際だから時雨の地に落ちている評判を上げてやろうと、やけに豪勢な学食とやらで、二人の男性教員と食事をした。まあイザナミは奴らの話すことに相槌を打っていただけだが、二人とも完璧に舞い上がってしまっていた。そんな異様な光景を生徒たちも騒めきながらも遠巻きに眺めていた。

 その後も、主に男子生徒にワラワラと纏わりつかれたり、顔を真っ赤にした女生徒に古文を教えてほしいなどと懇願されたりと実に有意義な一日を過ごし、教員宿舎に帰る。
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