恋情を乞う

乙人

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 膨らんだ腹から血を流した女が、横たわって、朽ちていた。

 あれから、どれくらいが経ったか。数えるだけで、憂鬱な気分になってしまう。
 榮氏は独り、寝所に閉じ篭っていた。
 最後に旲瑓が宮に来てくれたのは、随分と前だ。それからは、何処の妃をも訪れていないらしい。そして、離宮に行ってしまった。
『すぐに帰るよ。』
 そう、言っていたのに。
 膨らんだ腹を撫でて、呪いの唄を歌い続けた。
 後宮でそんな物を歌っていては、呪詛と疑われ、罰せられても仕方が無い。だが、帰って来てくれない夫を恨む気持ちは消えてはくれない。
 -放って置いてくれれば良かったのに。
 人ならぬ者として彷徨っていた時分、手を差し伸べてくれたのは、旲瑓だった。何故、と思う。
 一度は旲瑓を殺そうとした。魂を喰らおうとした。何よりも、美味しそうだった。
 あの時、一思いに殺してしまえば、こんな想いはしなかった。此処は、生き地獄だ。本物の地獄の方が、余程楽だったろうに。
(お前がいなければ。)
 ただ、産まれる子に、人の死を送る挽歌を歌い続けた。
 赦されないことと分かりながら。

 麻の、襤褸を着た、十五、六の女が、宮に忍び込んだ。暗闇に、袖から取り出した小さな壺の様なものが、微かな光を反射していた。

「お食事で御座います。淑妃様。」
 そう言って、侍女は卓上に膳を置いた。
 すかさず毒見役が参り、全ての食膳に手をつけている。
(毒か………)
 注意しなくてはならない時期だとは分かっている。
 永寧大長公主が昔、太后に毒を盛られ、身ぐるみ剥がされ、宮の外に転がされていたことを思い出した。
 榮氏は不安だった。
 チラリと毒見役に目をやった。丁度、スープを匙で掬って、口をつけていた。
 毒見役は目を見開いた。喉を押さえながら、ぜえぜえと荒く息をしている。更に腹から血を流していた。痛々しかった。死んでしまうかもしれないと、感じた。
「榮妃様、召し上がりません様に。」
「相分かった。」
 侍女は直ぐ様食膳を片付け、毒見役を部屋に連れて行った。
(まずいな。)
 殺されるかもしれない。いや、もう、殺されたか。首を斬られて。此処に居ては、それを忘れてしまうが。
(来なければ良かった。)
 恋に恋して生きる乙女の時代は、終わっていた。

「榮氏が毒を?本当に?そうなの?」
 旲瑓は、その日も永寧大長公主の離宮に居た。
「莉鸞が?」
 旲瑓は間抜けに口をポカンと開いていた。
 永寧大長公主は苦い顔をしていた。旲瑓よりも確りしている。この人も毒殺されかけた。
「榮氏は毒を吐き出さなかったの?」
「あ、いえ、淑妃は御無事です。毒見の時点で発見出来ましたので。」
 ただ、と報告に来た官は言う。
「お腹のお子はどうなられたのでしょうか。母君である淑妃が落ち込んでしまわれたら………それに、その毒見は淑妃のお気に入りでしたから。」
 毒見は、腹に子がいた。だが、それは死んでしまったらしい。
 ゾッとした。榮氏がその毒を盛られている羹を食べてしまっていたら?どうなったから分かる。だから、恐ろしい。
「よくあることよ。」
 永寧大長公主は呟いた。
「よくあるって………」
「貴方、榮氏が何処に居ると思っているの?」
「後宮だけど。」
 何も分かっていない様子の旲瑓に、永寧大長公主は溜め息をついた。
「後宮の女達は、全て貴方のために居る。そして、貴方が来るのを、永遠に待ち続けるのみ。後宮で一番寵愛されているのは、榮氏です。茶引き女が榮氏を恨むのも、筋が通るのよ。」
 旲瑓は鈍感だ。
「女の嫉妬は怖いのよ。嫉妬心で人を殺せる女だって、いるわ。愛憎蠱毒の後宮では、美しき物なぞ、何もなくてよ?」
 旲瑓は女の恐ろしさを初めて知った。美しい仮面に隠された真実を、知りたく、なかった。

 枕が濡れている。
 嗚呼、そうか、泣いていたんだ。
 怖い。不安で心が押し潰されてしまいそう。暗闇にのみ込まれてしまいそう。
『あたくしと、同じね。』
 女の声だった。ぼんやりと、白いものが目に映る。見たことがあった。耳にも覚えがあった。
「貴女、櫖淑妃なの?」
 ゆうれいになった櫖淑妃は悲しげに微笑んだ。
『あたりよ。尤も、あたくしは貴妃だった頃に此処に住まうていたのだけれど。』
 櫖淑妃が住んでいたと云う噂は、本当だった。
『貴女、泣いているのね。可哀想に。』
 櫖妃は情に厚い人だったらしい。それは、本当なのだろう。
「如何して?」
『旲瑓が来ないからでしょう?』
 図星だ。
妟纛あんとうは何も言わないのかしら?駄目ね。あの子は幼いわ。』
 よく言う。先帝妟纛は三十路なのに。
『怖かったのよね。』
 櫖妃は憐れんでいる。
『毒をもられたのかしら?見ていたのよ。毒見役は死んでしまったのね。お気に入りだったのだし、悲しむのも当然だわ。』
 理解ある人、と見て良いのだろうか。
「でも、後宮では毒なんて、序の口でしょう?殺されなかっただけ、マシと思わなくてはならないのかしら。」
『そうね。毒はよく用いられる手よ。直接手を汚さなくて済むもの。でもね、薬は人を殺さないわ。それを作った人間が殺すの。世の中で一番怖いのは、人間だから。』
 怖かった。後宮に来てから、一度も殺されかけたことなぞ、無かった。いや、一度ある。その時は、永寧大長公主が助けてくれた。
 初めてだ。ゾクゾクする。気が休まることも無くなった。
「この腹の子が死ねば、他の妃達は妾を放って置いてくれるかしら。」
 腹を叩こうとした。
『やめなさい!榮莉鸞!』
 叫ばれた。耳にツンと残る。
『その御子を殺してはなりません!さすれば、貴女も刑を受けなくてはならなくなりますよ!』
 手が止まる。
『貴女は旲瑓に嫌われたい?』
 いいえ、と榮氏は首を振った。
「嫌われたく、ないわ。」
 口に出してしまうと、ああ、もう、遅い。涙が零れ落ちる。
『愛してしまったのね、旲瑓を。』
 後宮には恋等あってはならない。どんなに願っても、旲瑓は誰か一人のための者にはなってくれない。想えば想う程、哀しくなるだけだ。
「怖いわ。妾はこのまま、朽ちるのではと。妾はもう、死んだ。罪深い女として知られるのは、嫌よ。それに、寵愛を失った女として見られるのも。」
 拾ってくれて、素直に、嬉しかった。優しい夫を手に入れられて、誇りに思った。だが、同時に、己の未来を憂いた。
「どうすれば報われるの?」
 嗚咽混じりに、泣いた。泣き続けた。きっと、無様だ。

『私ノ最愛ハ、其方そなたダヨ。』
 前に、旲瑓が言ってくれた。嬉しかったその言葉が、胸を締め付ける。心が苦しくなる。
(嘘つき。)
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