恋情を乞う

乙人

文字の大きさ
74 / 126

夫婦

しおりを挟む
「菫児。いるか。」
 人の声がした。随分と懐かしかった。

「いますわよ。」
 廃后は振り向かなかった。
「外には見張りが沢山。逃げられるわけ、ありませんわ。アリの子一匹入れやしない。」
「どうだ、調子は。」
 其処に現れたのは、妟纛アントウだった。廃后の寝台に座る。
「聞かずもがな。」
 寝台では、砒素をあおった魖闉黤が眠っていた。死んだのかもしれない。だが、医官でもない妟纛には、分からない。

「え!廃后に会いに行くのですか!」
 お付からは、大反対された。あの廃后だ、何をしでかすか分からない、と、言われた。
「それでも、行く。」
 そう言った妟纛を、一人だけ止めなかった。璡姚シンヨウだった。
「行きなさい。」
 手渡してくれたのは、廃后達の宮の錠を開ける、鍵。
「お前にとって、見捨てられる人間じゃないわね。」
 璡姚と妟纛は暫し、見つめ合う。瞳の奥にあるのは、何だろうか。この人は、何を考えているか、分からないことがある。
「夫婦は二世というもの。」
 夫婦。璡姚はそう言った。この後宮では、妃嬪はただの妾。そして、その頂点に君臨する后こそが、妻なのだ。
『貴方の寵姫である櫖姮殷リョ コウアンは、所詮、妾なの。たとえ、貴方がどれだけ愛そうと。』
 そう、訴えている様にも感じた。
『姮殷は、貴方の、父親の妃なのだから。』

「お前は、貴妃……淑妃を………どう思っていた?」
 二人は背を向けたままだ。
「櫖姮殷のことでしょうか?」
「あぁ。」
 姮殷は、廃后が入内する、はるか前から後宮にいた。櫖家の後ろ盾を持つ、貴妃だった。だが、彼女は死人の様だった。旲瑓の後宮の、圓寳闐の如く。
 まだ、妟纛が少年だった時に出会った。彼女は父の妃だった。夫の、別の妾の息子を恨んだって変ではないのに、彼女は充分、慈しんでくれた。無償の愛を、妟纛に教えてくれた。
 そんな姮殷を、妟纛は父から奪った。だが、父もまた、姮殷に心を奪われていた。それだけの価値があった。そして、それだけの魅力があった。
 そして、永寧大長公主が生まれた。しかし、それは、父の子だ。妟纛の、妹だ。それはそうだろう。年を誤魔化しているとは言え、まだ、十を少し越えただけだった。
 それでも、妟纛は永寧大長公主を、我が子と偽った。高官達は知っていたのだろう。でなければ、こんなに上手く、誤魔化せない。
 貴妃は、承香宮から移り、麗景宮という宮を与えられていた。その後、離宮にまた移された。そして、今、廃后が居るのも、麗景宮。何の因果だろう。
「分かりません。でも、憎かったのは、本当。」
 廃后は細々とした声をしていた。もう、その名を思い出すことさえ、苦痛かもしれない。
「そうか。」
 妟纛は、何も無い、殺風景な天井を仰ぐ。

『おませさんね。妟纛。』
 初恋の君、櫖姮殷は笑っていた。ませた、と言っても、三つ四つ、年をサバ読んでいたけれど。
『後宮って、寂しい場所よね。』
 全てが全て、徒花になってしまうのだから。
 愛の形は、様々だ。
 廃后が妟纛に、榮氏が旲瑓に抱く、夫への心が正当ならば、自分の愛は、歪んでいる。
 義理の母を愛してしまった。初めは、姉を求める様な。そして次第に、気持ちは愛情から恋情へと傾いてゆく。
 旲瑓もそうだったのだろうか。
 彼は、叔母である、永寧大長公主を愛した。これもまた、歪んだ愛か。
 母を求める様な、また、恋人を求める様な。全てを捧げ、捧げられ。それでも、何も、手に入れられなかった。
「咲いた徒花よ…………」
 遥か遠い記憶。もう、三十年も前になる、愛しき人が、死に際に残した言葉。
「等しく、散れ………」

「お前は、愛が欲しかったのか?」
 廃后は答えない。別に、それでも良い。口にしたいだけだ。何も言わなくて良い。
「もう、お別れだ。菫児。」
 妟纛は立ち上がる。そして、立ち去ろうとする。これが、今生の別れとなるだろう。それが、分かっていて………
「待って!」
 袖を、廃后が掴む。妟纛は振り返る。廃后は自分でも驚いている。
「行かないで!」
 妟纛も驚く。この廃后から、そんな言葉が、普通の女の様な台詞が出てくるなんて。
「私は、貴方を、愛していただろう。」
 愛してる、とは、言わなかった。
「でも、貴方には、櫖姮殷がいた。珞燁がいた。私の入り込む余地は、なかった!」
 責められている様な気持ちだ。
「結局、貴方は、私が何をしたって、何も言わなかった。ただ見ているだけだった!」
 廃后は、俯く。だが、袖を掴む力は、声に比例せずに、強くなる。
 妟纛は手を振り払う。
 そして、抱き締める。廃后はそれに、縋る様にしがみつく。
「もし、私が、皇帝でなかったら……もし、お前が、后でなく、普通の女だったら。」
「幸せだったで、しょうね。」
 廃后は天邪鬼だ。そして、愛に飢えていたのだろう。
「私は、もうすぐ、死ぬ。それは、決まっていることです。誰も変えられない。」
 廃后は笑う。嘲笑う顔でもない。清々しい笑顔。これを、妟纛は初めて見た。
「もし、来世という者が、存在するなら、また、会えるのならば………」
 廃后は懐から、何かを取り出した。
「今度は、普通の夫婦になりたいわ。皇帝と、皇后ではなくて。」
 廃后は小瓶の蓋を開ける。そして、その中身をぐっと飲み干した。
「菫児!?」
 廃后は音を立てて倒れ込む。それを妟纛は抱き支える。手から、小瓶を奪った。
「此れは…………」
 妟纛は震えた。
「砒素…………」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

神は激怒した

まる
ファンタジー
おのれえええぇえぇぇぇ……人間どもめぇ。 めっちゃ面倒な事ばっかりして余計な仕事を増やしてくる人間に神様がキレました。 ふわっとした設定ですのでご了承下さいm(_ _)m 世界の設定やら背景はふわふわですので、ん?と思う部分が出てくるかもしれませんがいい感じに個人で補完していただけると幸いです。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

魅了の対価

しがついつか
ファンタジー
家庭事情により給金の高い職場を求めて転職したリンリーは、縁あってブラウンロード伯爵家の使用人になった。 彼女は伯爵家の第二子アッシュ・ブラウンロードの侍女を任された。 ブラウンロード伯爵家では、なぜか一家のみならず屋敷で働く使用人達のすべてがアッシュのことを嫌悪していた。 アッシュと顔を合わせてすぐにリンリーも「あ、私コイツ嫌いだわ」と感じたのだが、上級使用人を目指す彼女は私情を挟まずに職務に専念することにした。 淡々と世話をしてくれるリンリーに、アッシュは次第に心を開いていった。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

処理中です...