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夫婦
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「菫児。いるか。」
人の声がした。随分と懐かしかった。
「いますわよ。」
廃后は振り向かなかった。
「外には見張りが沢山。逃げられるわけ、ありませんわ。アリの子一匹入れやしない。」
「どうだ、調子は。」
其処に現れたのは、妟纛だった。廃后の寝台に座る。
「聞かずもがな。」
寝台では、砒素をあおった魖闉黤が眠っていた。死んだのかもしれない。だが、医官でもない妟纛には、分からない。
「え!廃后に会いに行くのですか!」
お付からは、大反対された。あの廃后だ、何をしでかすか分からない、と、言われた。
「それでも、行く。」
そう言った妟纛を、一人だけ止めなかった。璡姚だった。
「行きなさい。」
手渡してくれたのは、廃后達の宮の錠を開ける、鍵。
「お前にとって、見捨てられる人間じゃないわね。」
璡姚と妟纛は暫し、見つめ合う。瞳の奥にあるのは、何だろうか。この人は、何を考えているか、分からないことがある。
「夫婦は二世というもの。」
夫婦。璡姚はそう言った。この後宮では、妃嬪はただの妾。そして、その頂点に君臨する后こそが、妻なのだ。
『貴方の寵姫である櫖姮殷は、所詮、妾なの。たとえ、貴方がどれだけ愛そうと。』
そう、訴えている様にも感じた。
『姮殷は、貴方の、父親の妃なのだから。』
「お前は、貴妃……淑妃を………どう思っていた?」
二人は背を向けたままだ。
「櫖姮殷のことでしょうか?」
「あぁ。」
姮殷は、廃后が入内する、はるか前から後宮にいた。櫖家の後ろ盾を持つ、貴妃だった。だが、彼女は死人の様だった。旲瑓の後宮の、圓寳闐の如く。
まだ、妟纛が少年だった時に出会った。彼女は父の妃だった。夫の、別の妾の息子を恨んだって変ではないのに、彼女は充分、慈しんでくれた。無償の愛を、妟纛に教えてくれた。
そんな姮殷を、妟纛は父から奪った。だが、父もまた、姮殷に心を奪われていた。それだけの価値があった。そして、それだけの魅力があった。
そして、永寧大長公主が生まれた。しかし、それは、父の子だ。妟纛の、妹だ。それはそうだろう。年を誤魔化しているとは言え、まだ、十を少し越えただけだった。
それでも、妟纛は永寧大長公主を、我が子と偽った。高官達は知っていたのだろう。でなければ、こんなに上手く、誤魔化せない。
貴妃は、承香宮から移り、麗景宮という宮を与えられていた。その後、離宮にまた移された。そして、今、廃后が居るのも、麗景宮。何の因果だろう。
「分かりません。でも、憎かったのは、本当。」
廃后は細々とした声をしていた。もう、その名を思い出すことさえ、苦痛かもしれない。
「そうか。」
妟纛は、何も無い、殺風景な天井を仰ぐ。
『おませさんね。妟纛。』
初恋の君、櫖姮殷は笑っていた。ませた、と言っても、三つ四つ、年をサバ読んでいたけれど。
『後宮って、寂しい場所よね。』
全てが全て、徒花になってしまうのだから。
愛の形は、様々だ。
廃后が妟纛に、榮氏が旲瑓に抱く、夫への心が正当ならば、自分の愛は、歪んでいる。
義理の母を愛してしまった。初めは、姉を求める様な。そして次第に、気持ちは愛情から恋情へと傾いてゆく。
旲瑓もそうだったのだろうか。
彼は、叔母である、永寧大長公主を愛した。これもまた、歪んだ愛か。
母を求める様な、また、恋人を求める様な。全てを捧げ、捧げられ。それでも、何も、手に入れられなかった。
「咲いた徒花よ…………」
遥か遠い記憶。もう、三十年も前になる、愛しき人が、死に際に残した言葉。
「等しく、散れ………」
「お前は、愛が欲しかったのか?」
廃后は答えない。別に、それでも良い。口にしたいだけだ。何も言わなくて良い。
「もう、お別れだ。菫児。」
妟纛は立ち上がる。そして、立ち去ろうとする。これが、今生の別れとなるだろう。それが、分かっていて………
「待って!」
袖を、廃后が掴む。妟纛は振り返る。廃后は自分でも驚いている。
「行かないで!」
妟纛も驚く。この廃后から、そんな言葉が、普通の女の様な台詞が出てくるなんて。
「私は、貴方を、愛していただろう。」
愛してる、とは、言わなかった。
「でも、貴方には、櫖姮殷がいた。珞燁がいた。私の入り込む余地は、なかった!」
責められている様な気持ちだ。
「結局、貴方は、私が何をしたって、何も言わなかった。ただ見ているだけだった!」
廃后は、俯く。だが、袖を掴む力は、声に比例せずに、強くなる。
妟纛は手を振り払う。
そして、抱き締める。廃后はそれに、縋る様にしがみつく。
「もし、私が、皇帝でなかったら……もし、お前が、后でなく、普通の女だったら。」
「幸せだったで、しょうね。」
廃后は天邪鬼だ。そして、愛に飢えていたのだろう。
「私は、もうすぐ、死ぬ。それは、決まっていることです。誰も変えられない。」
廃后は笑う。嘲笑う顔でもない。清々しい笑顔。これを、妟纛は初めて見た。
「もし、来世という者が、存在するなら、また、会えるのならば………」
廃后は懐から、何かを取り出した。
「今度は、普通の夫婦になりたいわ。皇帝と、皇后ではなくて。」
廃后は小瓶の蓋を開ける。そして、その中身をぐっと飲み干した。
「菫児!?」
廃后は音を立てて倒れ込む。それを妟纛は抱き支える。手から、小瓶を奪った。
「此れは…………」
妟纛は震えた。
「砒素…………」
人の声がした。随分と懐かしかった。
「いますわよ。」
廃后は振り向かなかった。
「外には見張りが沢山。逃げられるわけ、ありませんわ。アリの子一匹入れやしない。」
「どうだ、調子は。」
其処に現れたのは、妟纛だった。廃后の寝台に座る。
「聞かずもがな。」
寝台では、砒素をあおった魖闉黤が眠っていた。死んだのかもしれない。だが、医官でもない妟纛には、分からない。
「え!廃后に会いに行くのですか!」
お付からは、大反対された。あの廃后だ、何をしでかすか分からない、と、言われた。
「それでも、行く。」
そう言った妟纛を、一人だけ止めなかった。璡姚だった。
「行きなさい。」
手渡してくれたのは、廃后達の宮の錠を開ける、鍵。
「お前にとって、見捨てられる人間じゃないわね。」
璡姚と妟纛は暫し、見つめ合う。瞳の奥にあるのは、何だろうか。この人は、何を考えているか、分からないことがある。
「夫婦は二世というもの。」
夫婦。璡姚はそう言った。この後宮では、妃嬪はただの妾。そして、その頂点に君臨する后こそが、妻なのだ。
『貴方の寵姫である櫖姮殷は、所詮、妾なの。たとえ、貴方がどれだけ愛そうと。』
そう、訴えている様にも感じた。
『姮殷は、貴方の、父親の妃なのだから。』
「お前は、貴妃……淑妃を………どう思っていた?」
二人は背を向けたままだ。
「櫖姮殷のことでしょうか?」
「あぁ。」
姮殷は、廃后が入内する、はるか前から後宮にいた。櫖家の後ろ盾を持つ、貴妃だった。だが、彼女は死人の様だった。旲瑓の後宮の、圓寳闐の如く。
まだ、妟纛が少年だった時に出会った。彼女は父の妃だった。夫の、別の妾の息子を恨んだって変ではないのに、彼女は充分、慈しんでくれた。無償の愛を、妟纛に教えてくれた。
そんな姮殷を、妟纛は父から奪った。だが、父もまた、姮殷に心を奪われていた。それだけの価値があった。そして、それだけの魅力があった。
そして、永寧大長公主が生まれた。しかし、それは、父の子だ。妟纛の、妹だ。それはそうだろう。年を誤魔化しているとは言え、まだ、十を少し越えただけだった。
それでも、妟纛は永寧大長公主を、我が子と偽った。高官達は知っていたのだろう。でなければ、こんなに上手く、誤魔化せない。
貴妃は、承香宮から移り、麗景宮という宮を与えられていた。その後、離宮にまた移された。そして、今、廃后が居るのも、麗景宮。何の因果だろう。
「分かりません。でも、憎かったのは、本当。」
廃后は細々とした声をしていた。もう、その名を思い出すことさえ、苦痛かもしれない。
「そうか。」
妟纛は、何も無い、殺風景な天井を仰ぐ。
『おませさんね。妟纛。』
初恋の君、櫖姮殷は笑っていた。ませた、と言っても、三つ四つ、年をサバ読んでいたけれど。
『後宮って、寂しい場所よね。』
全てが全て、徒花になってしまうのだから。
愛の形は、様々だ。
廃后が妟纛に、榮氏が旲瑓に抱く、夫への心が正当ならば、自分の愛は、歪んでいる。
義理の母を愛してしまった。初めは、姉を求める様な。そして次第に、気持ちは愛情から恋情へと傾いてゆく。
旲瑓もそうだったのだろうか。
彼は、叔母である、永寧大長公主を愛した。これもまた、歪んだ愛か。
母を求める様な、また、恋人を求める様な。全てを捧げ、捧げられ。それでも、何も、手に入れられなかった。
「咲いた徒花よ…………」
遥か遠い記憶。もう、三十年も前になる、愛しき人が、死に際に残した言葉。
「等しく、散れ………」
「お前は、愛が欲しかったのか?」
廃后は答えない。別に、それでも良い。口にしたいだけだ。何も言わなくて良い。
「もう、お別れだ。菫児。」
妟纛は立ち上がる。そして、立ち去ろうとする。これが、今生の別れとなるだろう。それが、分かっていて………
「待って!」
袖を、廃后が掴む。妟纛は振り返る。廃后は自分でも驚いている。
「行かないで!」
妟纛も驚く。この廃后から、そんな言葉が、普通の女の様な台詞が出てくるなんて。
「私は、貴方を、愛していただろう。」
愛してる、とは、言わなかった。
「でも、貴方には、櫖姮殷がいた。珞燁がいた。私の入り込む余地は、なかった!」
責められている様な気持ちだ。
「結局、貴方は、私が何をしたって、何も言わなかった。ただ見ているだけだった!」
廃后は、俯く。だが、袖を掴む力は、声に比例せずに、強くなる。
妟纛は手を振り払う。
そして、抱き締める。廃后はそれに、縋る様にしがみつく。
「もし、私が、皇帝でなかったら……もし、お前が、后でなく、普通の女だったら。」
「幸せだったで、しょうね。」
廃后は天邪鬼だ。そして、愛に飢えていたのだろう。
「私は、もうすぐ、死ぬ。それは、決まっていることです。誰も変えられない。」
廃后は笑う。嘲笑う顔でもない。清々しい笑顔。これを、妟纛は初めて見た。
「もし、来世という者が、存在するなら、また、会えるのならば………」
廃后は懐から、何かを取り出した。
「今度は、普通の夫婦になりたいわ。皇帝と、皇后ではなくて。」
廃后は小瓶の蓋を開ける。そして、その中身をぐっと飲み干した。
「菫児!?」
廃后は音を立てて倒れ込む。それを妟纛は抱き支える。手から、小瓶を奪った。
「此れは…………」
妟纛は震えた。
「砒素…………」
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