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紋一つ ナケマメラ
図書館(ふみどころ)
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司書 は悲しんだ。岩戸の小さきに、ではない。来る者の少なきに、である。
全く、大人も小人も、本離れがあっていけない。本は人の心を、豊かにするというのに。
彼は心の中で、そう呟いた。幹の内側に作られた本棚と階段は、夕日の赤の中で渦を巻いている。
彼の名はアレン。齢十二に司書を志し、十六となればメリア公国が港町、「ナケマメラ」を任された、誠に秀でし者である。その間、夏に蛍を集めては学び、冬に積もりし雪の返す、月明かりを頼りに学ぶ、その様を日毎に繰り返した。おかげで容姿は、白髪白肌片眼鏡となった。そのアレンが、皆に足繁く図書館へ通ってほしい訳は、他にあった。
──心を豊かにするだけじゃない。そもそも皆、本を手にとって学ばなければいけないんだ。
この世界では、その国の力が基準より下回るならば、他の国より使いが来て、魔術を教えることになっている。メリア公国はクイエル王国が公爵の住める国ということもあるため、王国の生まれであるアレンは、教え人も兼ねてナケマメラが司書をやっているのである。しかし、学び場代わりの図書館へ、アレンの話を聞きに来るのはいいが、本を借りてくれはしない。そのことで彼は頭を抱えていた。
彼が大きくため息をつくと、誰かが入り口の扉を開けた。黒髪に黒き瞳、そして、白肌に映える赤き唇、容麗しき乙女が、図書館の外から入ってきた。
「──ああ、ノラか。どうしたんだ?」
「村の子供たちがちゃんと本を借りているかどうか見に来たの」
ノラと呼ばれた乙女は、そういって周りを見回した。しかしここにいるのは、アレン只一人である。
「……でもこの様子だと、だれも来ていないみたいね、あなた」
「──ああ。これにはとても参っている」
「最初は物珍しさに──まぁ、あなたを見に来るために──たくさん人が集まって、いろんな本を借りに来てくれたはずなんだけど……、もしかしてそれは、夢だったのかしら」
少し巫戯けたノラの言葉に、アレンは少し笑った。その静かな微笑は、夕日の朱によく映えた。
──ああ、この言葉を聞くのは何度目だろうか。こいつが俺の所へ来て、もう二年となった。
ノラという少女は、二つ下に年が離れた、アレンの妻である。彼女は、アレンを一目見て惚れてしまったのだという。
まだ彼女の、彷徨いたりし頃、ナケマメラに宿りし頃である。
図書館ありし大樹が元、地掃く顔麗しき少年、その様白蓮が如く。──見たるノラは、はと息を飲んだ。心臓が、ひどくはりつめていた。
下腹の奥で何かが響き、心臓あたりも苦しい。それでいて、体が仄かに熱い。遠くの少年が、白と衣服の黒にぼやけていく。──ノラは此等の、恋より起きたるを知った。
......ああ、私。一目惚れしたんだ。
黒き衣服が少年の周りは、それを知っただけで殊なるものとなった。鳥の囀りは少年を称え、木立の囁きは彼に抱き締めらるるを誘う。さらざれば、彼仄に消え行くべしや、と。
「......すまない、掃けないから袖を引かないでくれないか」
「……え?」
彼の言う通り、少女は彼が袖を引き止めていた。木々の誘いはその時のノラを惑わせるに十分であった。澄まして言うのであれば。
彼女は怖かったのである。ままにすれば、恋が実らぬまま、彼が消えゆく心地がした故に。
「ご、ごめんなさい!」
ノラは恥ずかしくなり、即ち袖を離して宿へ戻った。
「……あのときから日毎に、この図書館へ通うようになったのだよな」
アレンはノラを見ながら、そう呟いた。少女は気づく。
「独り言いってどうしたの?」
ノラはけしき顔をアレンに見せた。
「いや、……Fia estamnōsia, giono niomoymō……だったか。それが結婚をせがむ言葉と気づくのに、どれほどの時を費やしたことか、考えていてな」
「……お願いだからそのことは忘れて」
夜伽を誘う色がある言葉は、ノラの口から出たものである。そして言葉は、時を経て変わっていくものである。
まだクィエルが言葉を蓄えていなかった少女は、辞書をひたむきに探し、言葉を建ててアレンに言ってみたが、その辞書が甚だ古いものであったために、その意は色めいたものになっていた。おかげで彼が向ける少女への眼差しは冷たかった。
「あのときのアレン、本当に怖かったんだから」
「確かすぐに気が付いのだからいいだろう」
「……そうね。次の日アレンが顔を赤くして私のこと見ないからすぐ気づいたわ」
「──むう、からかい返すのかノラは」
「仕返ししたっていいじゃない」
「なんだと」
「なによ」
二人はにらみ合ったが、耐えられずに笑い出した。この上なく仲睦まじき二者である。
時計の午後五時示したり。――図書館を閉ざす頃である。其処等の本棚や壁は、夕陽の朱に染まっていた。
「……もうそんな時間か」
アレンは帰りを営んだ。ノラもそれに続く。窓中の、木々の狭間より見えたる夕陽は海に浸かり、朱い足を広げている。
彼と少女は扉の前に立った。少年は息を吸った。
Soliulos Safasica Somuro torausol
Estamdormo neltius
“Estamclovo” Tamp torao
“Estamnocio” Deo toraum
Sanocia Sapara ventauluem
本棚や 梯子や壁に 告げ候
緩緩汝等 休む可し
漸漸閉ぢよ 時伝ふ
漸漸休め 陽は告げむ
夜が来る故 明日来る為
声音は天井まで響いた。本棚や幹が内につく梯子、壁などは、そろそろと朱色を淡くする。そうして、その朱は丸くなり、安らぎ与える灯となった。
「いつ聞いても澄んでいて心地いいわ、あなたの声は」
「褒めたってなにも出ないからな。──ほら、行くぞ」
彼は少女が手を引き、図書館を後にした。
全く、大人も小人も、本離れがあっていけない。本は人の心を、豊かにするというのに。
彼は心の中で、そう呟いた。幹の内側に作られた本棚と階段は、夕日の赤の中で渦を巻いている。
彼の名はアレン。齢十二に司書を志し、十六となればメリア公国が港町、「ナケマメラ」を任された、誠に秀でし者である。その間、夏に蛍を集めては学び、冬に積もりし雪の返す、月明かりを頼りに学ぶ、その様を日毎に繰り返した。おかげで容姿は、白髪白肌片眼鏡となった。そのアレンが、皆に足繁く図書館へ通ってほしい訳は、他にあった。
──心を豊かにするだけじゃない。そもそも皆、本を手にとって学ばなければいけないんだ。
この世界では、その国の力が基準より下回るならば、他の国より使いが来て、魔術を教えることになっている。メリア公国はクイエル王国が公爵の住める国ということもあるため、王国の生まれであるアレンは、教え人も兼ねてナケマメラが司書をやっているのである。しかし、学び場代わりの図書館へ、アレンの話を聞きに来るのはいいが、本を借りてくれはしない。そのことで彼は頭を抱えていた。
彼が大きくため息をつくと、誰かが入り口の扉を開けた。黒髪に黒き瞳、そして、白肌に映える赤き唇、容麗しき乙女が、図書館の外から入ってきた。
「──ああ、ノラか。どうしたんだ?」
「村の子供たちがちゃんと本を借りているかどうか見に来たの」
ノラと呼ばれた乙女は、そういって周りを見回した。しかしここにいるのは、アレン只一人である。
「……でもこの様子だと、だれも来ていないみたいね、あなた」
「──ああ。これにはとても参っている」
「最初は物珍しさに──まぁ、あなたを見に来るために──たくさん人が集まって、いろんな本を借りに来てくれたはずなんだけど……、もしかしてそれは、夢だったのかしら」
少し巫戯けたノラの言葉に、アレンは少し笑った。その静かな微笑は、夕日の朱によく映えた。
──ああ、この言葉を聞くのは何度目だろうか。こいつが俺の所へ来て、もう二年となった。
ノラという少女は、二つ下に年が離れた、アレンの妻である。彼女は、アレンを一目見て惚れてしまったのだという。
まだ彼女の、彷徨いたりし頃、ナケマメラに宿りし頃である。
図書館ありし大樹が元、地掃く顔麗しき少年、その様白蓮が如く。──見たるノラは、はと息を飲んだ。心臓が、ひどくはりつめていた。
下腹の奥で何かが響き、心臓あたりも苦しい。それでいて、体が仄かに熱い。遠くの少年が、白と衣服の黒にぼやけていく。──ノラは此等の、恋より起きたるを知った。
......ああ、私。一目惚れしたんだ。
黒き衣服が少年の周りは、それを知っただけで殊なるものとなった。鳥の囀りは少年を称え、木立の囁きは彼に抱き締めらるるを誘う。さらざれば、彼仄に消え行くべしや、と。
「......すまない、掃けないから袖を引かないでくれないか」
「……え?」
彼の言う通り、少女は彼が袖を引き止めていた。木々の誘いはその時のノラを惑わせるに十分であった。澄まして言うのであれば。
彼女は怖かったのである。ままにすれば、恋が実らぬまま、彼が消えゆく心地がした故に。
「ご、ごめんなさい!」
ノラは恥ずかしくなり、即ち袖を離して宿へ戻った。
「……あのときから日毎に、この図書館へ通うようになったのだよな」
アレンはノラを見ながら、そう呟いた。少女は気づく。
「独り言いってどうしたの?」
ノラはけしき顔をアレンに見せた。
「いや、……Fia estamnōsia, giono niomoymō……だったか。それが結婚をせがむ言葉と気づくのに、どれほどの時を費やしたことか、考えていてな」
「……お願いだからそのことは忘れて」
夜伽を誘う色がある言葉は、ノラの口から出たものである。そして言葉は、時を経て変わっていくものである。
まだクィエルが言葉を蓄えていなかった少女は、辞書をひたむきに探し、言葉を建ててアレンに言ってみたが、その辞書が甚だ古いものであったために、その意は色めいたものになっていた。おかげで彼が向ける少女への眼差しは冷たかった。
「あのときのアレン、本当に怖かったんだから」
「確かすぐに気が付いのだからいいだろう」
「……そうね。次の日アレンが顔を赤くして私のこと見ないからすぐ気づいたわ」
「──むう、からかい返すのかノラは」
「仕返ししたっていいじゃない」
「なんだと」
「なによ」
二人はにらみ合ったが、耐えられずに笑い出した。この上なく仲睦まじき二者である。
時計の午後五時示したり。――図書館を閉ざす頃である。其処等の本棚や壁は、夕陽の朱に染まっていた。
「……もうそんな時間か」
アレンは帰りを営んだ。ノラもそれに続く。窓中の、木々の狭間より見えたる夕陽は海に浸かり、朱い足を広げている。
彼と少女は扉の前に立った。少年は息を吸った。
Soliulos Safasica Somuro torausol
Estamdormo neltius
“Estamclovo” Tamp torao
“Estamnocio” Deo toraum
Sanocia Sapara ventauluem
本棚や 梯子や壁に 告げ候
緩緩汝等 休む可し
漸漸閉ぢよ 時伝ふ
漸漸休め 陽は告げむ
夜が来る故 明日来る為
声音は天井まで響いた。本棚や幹が内につく梯子、壁などは、そろそろと朱色を淡くする。そうして、その朱は丸くなり、安らぎ与える灯となった。
「いつ聞いても澄んでいて心地いいわ、あなたの声は」
「褒めたってなにも出ないからな。──ほら、行くぞ」
彼は少女が手を引き、図書館を後にした。
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