できない子に転生しましたが、家族と食卓があれば十分です ―人間不信だった私が、ゆっくり育つ異世界生活―

愛朱ひいろ

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30話「笑ってほしくて、えをかいた」

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台所の棚の前に立つと、
そこに並んでいるものが、前より少しだけ多く見えた。

木の器。
砂糖。
前に焼いた、あの甘い焼き物。

(……つかう)

私はテーブルの上に置かれたそれを見つめる。
前はただ並んでいるだけだったもの。
今は“どう使うか”を考えている。

胸の奥が、きゅっとする。

(……える)

忙しそうにしていた背中。
少し疲れた顔。
それでも、笑ってくれたこと。

元気になってほしい。
驚いてほしい。

そのために今できること。

私は棚の下の籠をのぞき込んだ。

卵。

(……しろいとこ)

前に見た。
お母さんが割って分けていた。

やり方は知っている。

(……やる)

椅子を引きずって台に近づく。
両手で卵を持つと思ったより重たい。

そっと、台の角に当てる。

こつ。

……力が足りない。

もう一度。

こつ。

ひびは入った。
でも、思っていたのと違う。

殻がぐしゃっと潰れて、
中が手のひらに落ちる。

黄身も白いところもいっしょ。

(……あ)

思わず手が止まる。

器の中は、ぐちゃっとしていた。
前に見たのは、もっときれいだった。

(……ちがう)

胸の奥が少しだけ重くなる。

――でも、

しばらく見つめてから私は息を吸った。

(……まだ)

もう一度やろうとしたけれど、
殻はうまく割れない。
力を入れるとこわれる。
そっとだと開かない。

(……むずかしい)

私は卵を元に戻して、台の上を見た。

しばらくして足音が近づく。

「どうしたの?」

お母さんが私の手と器を見て、すぐに分かったみたいだった。

「卵、使いたかったのね」

私は、こくんと頷く。

「……しろいとこ、ほしい」

お母さんは、一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、何も聞かずに卵を受け取った。

慣れた手つきで割って、
白いところだけを別の器に入れる。

「はい」

差し出された器を両手で受け取る。

(……ある)

私はそれを抱えてテーブルに戻った。

次はこれ。

スプーンを持って、器の中を見る。
透明で少しとろっとしている。
光が当たると、きらっとする。

(……まぜる)

腕に力を入れて、動かす。

くる。
くる。

でも、すぐに重くなる。
動きが遅くなる。

(……うごかない)

腕がじんじんする。
肩が上がらない。

スプーンが止まった。

「……できない」

小さく言うと、その声を聞いたみたいにお母さんが近づいてきた。

「どうしたの?」

私は器とスプーンと、
それから、クッキーもどきを順番に指さした。

「これ、ふわふわにする。まぜたい。えるに、あげたい」

言葉は少し足りない。
でも、精一杯だった。

お母さんはしばらく黙って聞いてから、
私の横にしゃがんだ。

「泡みたいにしたいの?」

私は、こくんと頷く。

「じゃあ一緒にやろうか」

そう言って器を支えてくれる。

私はスプーンを握り直す。

今度は、動く。

くる。
くる。

前より軽い。
白いところが、少し変わってきた気がする。

(……かわる)

砂糖を少しだけ入れる。
混ぜる。

くる。
くる。

甘い匂いが少しだけする。

(……いい)

時間はかかる。
何度も手を止める。
そのたびに、お母さんが少し手を添えてくれる。

「焦らなくていいよ」

その声を聞くたびに、
胸の奥が落ち着いた。

やっと白いところがふんわりしてきた。

私は、指でそっと触る。

(……やわらかい)

「疲れてない?かわろっか?」

「……だいじょうぶ」

腕がぷるぷるしてきたけど、一生懸命にがんばった。

ひたすらまぜて、まぜて、
ようやく白い泡は、つのが立つようになった。

「これくらいかな」

お母さんの言葉に、私はこくんと頷いた。

(……え、かきたい)

のせるだけじゃ、ちがう。

(……え、いる)

スプーンを持つ。

すくって、
落とす。

ぽと。

白い山。

(……ちがう)

もう一度。

すーっと、
引いてみる。

でも、太くてにじむ。

「むずかしいね」

お母さんが静かに言う。

私は台所を見回す。

木のさじ。
布。
紙。

それから、
端っこが少し細くなった、
小さな木べら。

(……これ)

先っぽにちょっとだけ、白いのをつける。

そっと、
触れる。

すー。

線。

ゆがむけど、
つながった。

もう一度。

まる。
ちょっとつぶれたまる。

(……め)

気づくと息を止めていた。

肩が少しこる。

でも、やめない。

白い線が、少しずつかたちになる。

まる。
まる。
その下に、
にょろっとした線。

(……かお?)

私は、クッキーもどきを少し離して見る。

へん。
ゆがゆが。

でも。

(……え、だ)

お母さんが隣で笑う。

「ふふ。描いたんだね」

私はこくんと頷く。

「……える、わらうかな」

お母さんは少し考えてから言う。

「きっと、ね」

私はクッキーもどきをそっと並べる。

上手じゃない。
きれいじゃない。

でも。

(……つたえたい)

胸の奥があたたかい。

(……える)

顔を思い出す。

驚くかな。
笑うかな。

胸の奥が、またあたたかくなる。

全部はできなかった。
ひとりじゃ無理だった。

でも。

やろうとした。
考えた。
混ぜた。

その全部がここにある。

私はできあがったそれを見つめた。

(……だいじ)

明日持っていこう。

なんだかちょっと楽しみになった。
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