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壱章 愛宕山の天狗様
四
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「平気?」
そう訊ねる声が聞こえた。
落ちていく最中の風を切る轟音は、もう聞こえない。浮遊感も感じない。
藍はおそるおそる目を開けた。するとーー
「良かった。無事みたいだね」
第一に目に映ったのは、ぼそぼそとそう言う男の顔だった。
「ひ、い、いやあぁぁぁ!!」
「え!?」
藍は寝ていた状態から起き上がると、男の襟首を掴んで投げ飛ばした。男の体は大きく宙を舞って、派手な音を立てて地面に落ちた。
かなりの衝撃だったと思われたが……男はすぐにひょいと起き上がった。
「いやぁびっくりした。君強いんだね」
「ひ!?」
「だけどさすがにこういう状況の場合、起き上がったら相手を攻撃するんじゃなくて、距離を取った方が正解じゃないかな。絶対に君が不利だし」
全く、効果がない。
男は立ち上がって土埃を払うと、再び藍に近寄って来た。
「立てる?」
そう言って手を差し出したが、藍はまだその手を取ろうとしなかった。思わず一歩引いて、相手の全身を見回した。
男は真っ黒いズボン……いや、袴を身に着け、それをふくらはぎで留めている。上半身も同じく黒い着物のようなものを身に着けていた。正確には白い着物の上に、時代劇で見た裃のようなものを羽織っている。肩からは袈裟のようなものに丸いぼんぼりのようなものがついていて、数珠を手に巻いていたり、腰から鈴を下げていたり……おまけに靴ではなく、草履でもなく、下駄を履いていた。それも一本歯の。
こんな足で山を登っている人など、さっきまで一人もいなかった。それどころか、藍がこれまで目にしたことのない恰好だった。
そろりと顔を上げると、首から上も目に入った。
真っ黒な髪は長くぼさぼさで、顔の半分を覆ってしまっていた。片方だけ見える目の下にはくっきりと隈が見える。
やはり、ものすごく、怪しい。
怪訝な顔を向ける藍に、男の人は首を傾げた。
「えーと……君、『山南 藍』……でいいんだよね?」
「! な、何でそれを……!?」
「やっぱり、そうだ」
藍はしまった、と口をふさいだが、遅かった。藍の言葉で確信を持てたらしく、男は満足げに頷いていた。
藍は自分の名前を一文字も言っていない。だとしたら、はじめから知っていたという事だろうか。思えばあんな突発的な事故で助けてもらえるというのもおかしい。
だいいち、あんな高さから落ちてきたというのにどうやって助けたというのか。まさか、飛んだのではあるまいし。
お礼を言うよりも、身の危険の方をより強く感じて、藍は竦んだ。だが、かろうじて勇気を振り絞って、訊ねた。
「あの……助けてくれたんですか?」
「そうだよ」
「ど、どうやって? 私、崖から落ちましたよね」
「落ちたね」
男はすぅっと空を指さした。その指先に従って見上げると、はるか上方に先程いたと思しき東屋がかろうじて見えた。豆粒みたいに小さく見えることから、相当下まで落ちたらしいことが分かった。
二重三重の意味で、藍の背筋は粟立った。
「あ、あんなところから落ちたのに、受け止めてくれたんですか? 本当に?」
「えーとね、受け止めたのは空中で。気を失ってたから着地してちょっと寝かせてたよ」
「……空中で? あの、どうやって?」
「そりゃあ、”飛んで”に決まってるでしょ」
そう言うと、男の人の背中から真っ黒な翼が現れた。夜の闇のような漆黒が、広がる。
藍の頭から、すぅっと血の気が引いていくのがわかった。
この男は一体何者なのか。ただの登山者ではない。それどころか、人間かどうかも怪しい。しかもそんな人に、何故か名前を知られていた。
そんな人と、藍は今、慣れない場所で二人きりだ。
あの崖から引きずり落とされた時と同じか、それ以上の恐怖に駆られていた。
「こ、来ないでください」
「どうして?」
一歩後退ると、一歩近寄ってくる。藍はかろうじて立ち上がり構えをとったが、相手は何も気にしない様子で寄って来る。
「な、何なんですか、あなた……」
「僕?」
男の人は、初めて歩みを止めた。どうしてそんなことを訊くのか、と言うように不思議そうに目を丸くしている。
「もしかして、僕のことがわからない?」
「わかりません。知るわけないでしょ」
「そう、なんだ……」
男の人は、何故か寂しそうに眉尻を下げて、肩を落としてしまった。そして、そのまま穏やかに笑みを作って、答えた。
「僕は、太郎坊。この愛宕山の天狗だよ」
そう訊ねる声が聞こえた。
落ちていく最中の風を切る轟音は、もう聞こえない。浮遊感も感じない。
藍はおそるおそる目を開けた。するとーー
「良かった。無事みたいだね」
第一に目に映ったのは、ぼそぼそとそう言う男の顔だった。
「ひ、い、いやあぁぁぁ!!」
「え!?」
藍は寝ていた状態から起き上がると、男の襟首を掴んで投げ飛ばした。男の体は大きく宙を舞って、派手な音を立てて地面に落ちた。
かなりの衝撃だったと思われたが……男はすぐにひょいと起き上がった。
「いやぁびっくりした。君強いんだね」
「ひ!?」
「だけどさすがにこういう状況の場合、起き上がったら相手を攻撃するんじゃなくて、距離を取った方が正解じゃないかな。絶対に君が不利だし」
全く、効果がない。
男は立ち上がって土埃を払うと、再び藍に近寄って来た。
「立てる?」
そう言って手を差し出したが、藍はまだその手を取ろうとしなかった。思わず一歩引いて、相手の全身を見回した。
男は真っ黒いズボン……いや、袴を身に着け、それをふくらはぎで留めている。上半身も同じく黒い着物のようなものを身に着けていた。正確には白い着物の上に、時代劇で見た裃のようなものを羽織っている。肩からは袈裟のようなものに丸いぼんぼりのようなものがついていて、数珠を手に巻いていたり、腰から鈴を下げていたり……おまけに靴ではなく、草履でもなく、下駄を履いていた。それも一本歯の。
こんな足で山を登っている人など、さっきまで一人もいなかった。それどころか、藍がこれまで目にしたことのない恰好だった。
そろりと顔を上げると、首から上も目に入った。
真っ黒な髪は長くぼさぼさで、顔の半分を覆ってしまっていた。片方だけ見える目の下にはくっきりと隈が見える。
やはり、ものすごく、怪しい。
怪訝な顔を向ける藍に、男の人は首を傾げた。
「えーと……君、『山南 藍』……でいいんだよね?」
「! な、何でそれを……!?」
「やっぱり、そうだ」
藍はしまった、と口をふさいだが、遅かった。藍の言葉で確信を持てたらしく、男は満足げに頷いていた。
藍は自分の名前を一文字も言っていない。だとしたら、はじめから知っていたという事だろうか。思えばあんな突発的な事故で助けてもらえるというのもおかしい。
だいいち、あんな高さから落ちてきたというのにどうやって助けたというのか。まさか、飛んだのではあるまいし。
お礼を言うよりも、身の危険の方をより強く感じて、藍は竦んだ。だが、かろうじて勇気を振り絞って、訊ねた。
「あの……助けてくれたんですか?」
「そうだよ」
「ど、どうやって? 私、崖から落ちましたよね」
「落ちたね」
男はすぅっと空を指さした。その指先に従って見上げると、はるか上方に先程いたと思しき東屋がかろうじて見えた。豆粒みたいに小さく見えることから、相当下まで落ちたらしいことが分かった。
二重三重の意味で、藍の背筋は粟立った。
「あ、あんなところから落ちたのに、受け止めてくれたんですか? 本当に?」
「えーとね、受け止めたのは空中で。気を失ってたから着地してちょっと寝かせてたよ」
「……空中で? あの、どうやって?」
「そりゃあ、”飛んで”に決まってるでしょ」
そう言うと、男の人の背中から真っ黒な翼が現れた。夜の闇のような漆黒が、広がる。
藍の頭から、すぅっと血の気が引いていくのがわかった。
この男は一体何者なのか。ただの登山者ではない。それどころか、人間かどうかも怪しい。しかもそんな人に、何故か名前を知られていた。
そんな人と、藍は今、慣れない場所で二人きりだ。
あの崖から引きずり落とされた時と同じか、それ以上の恐怖に駆られていた。
「こ、来ないでください」
「どうして?」
一歩後退ると、一歩近寄ってくる。藍はかろうじて立ち上がり構えをとったが、相手は何も気にしない様子で寄って来る。
「な、何なんですか、あなた……」
「僕?」
男の人は、初めて歩みを止めた。どうしてそんなことを訊くのか、と言うように不思議そうに目を丸くしている。
「もしかして、僕のことがわからない?」
「わかりません。知るわけないでしょ」
「そう、なんだ……」
男の人は、何故か寂しそうに眉尻を下げて、肩を落としてしまった。そして、そのまま穏やかに笑みを作って、答えた。
「僕は、太郎坊。この愛宕山の天狗だよ」
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