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六章 旅の道連れ
25話
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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《リィン》
竪琴の聖典楽師
「此岸の川辺に、草原を生む者とは」
清々しい青葉の香りの中で、その者は言った。低く発された声はくぐもるようで、しかし聞くに障りなく、歌うような旋律をはらんでいた。
片手に竪琴を携え、反対側で杖をついている男だ。
ミィラスは彼と対峙して、彼がまとう古びた聖典楽師の法衣をみとめ、ゆっくりと歩み寄る。どうしてかミィラスの足が踏んだ場所だけ、緑が濃くなった。
「此岸の川辺とは、神の教えに伝わる、あの此岸なのですか?」
隣に立つと、男の杖がすっと持ち上がり、先の方を示す。視線で辿っていくと、大地を蛇行する銀色の線が輝いていた。
「そこに川が見える。こちらが生、あちらが死だ。そしてドリード神のおわす天上界は……」
杖が真上を向く。ミィラスが仰向くと、橙色の残り火のほか、ほとんどが藍に染まった空が見えた。そこでは星と星とが結ばれて、複雑な絵を描いていた。
「彼岸はまことの死ではなく、天上界もまことの死ではない。天上にすら、朝と夜の生と死がある。巡って行くものは、永劫死ぬことはない」
二人の頭上を、鳥の群れが横切っていった。翼で風を打って上昇し、川をまたいで彼岸へ行ったあと、また旋回して川を越え此方へ戻ってくる。
「鳥がいます」
「鳥はどこにでもいる」
思わず呟いたミィラスに、男は答えた。
「彼らを見ろ。その身は空にあり、此岸にあり、彼岸にある。だが何も矛盾してはいない」
鳥たちを眺めていると、その一羽が黒い鳥であることに気がついた。ミィラスが胸騒ぎを覚えると、その黒い翼が大きく膨張して、またたく間に巨体に姿を変えた。
「魔物……!」
身構えるミィラスの隣で、男は悠々と歩き出しながら言う。
「君は、すでにスルフ《守護》のロケットを手に入れてここに辿り着いた」
「そのことを、なぜ」
慌てて追いかけながら、ミィラスは驚いて言った。
男は平然としながら、淡々と述べる。
「私がそれを作り、〝力ある言葉〟を封じたのだ。だが私の未熟さゆえに、うまくは作れず、未完成品がいくつも生まれた。そのうちスルフ《守護》として完成した物を、西翼の領主に授けたのだ」
「どうしてそのようなことを?」
男の後ろをついて歩きながら、ミィラスは問う。
男は答えた。
「いつか必要になると思ったからだ。だがどうやら何者かが、本来あるべき場所から持ち出し、捨てたようだな。それを偶然、君が拾った。あるいは、相応しい者の手に渡ったとも言えるかもしれない」
二人はいつのまにか、川べりにやってきていた。
男は膝をつき、澄んだ水の中に手を入れて、底の砂をざらざらとかき分けた。白い砂の中に、黄金の二枚貝が埋もれている。貝は殻の隙間から二本の管を出していたが、男の手が近づくと、ひゅっと引っ込んで固く閉じこもった。
拾い上げた貝を夕日にかざすと、不思議なことに殻が透けて、中に真珠が入っているのが見える。
「真珠とは、貝がその肉に異物を取り込み、生み出されるものだ。苦しかろうに、無理矢理暴かない限り、貝は黙してその秘密を守る。〝力ある言葉〟を封印するには、一番よい形だった」
男は貝を水の中に戻し、丁寧に砂をかけた。
地面に大きな影が落ちる。巨大な鳥が二人の上を旋回していた。身を強張らせるミィラスに、「怯える必要はない」と男は穏やかに言った。
「しかし、あれは多くの命を奪ったのです!」
ミィラスの声は震えていた。そのさざ波のような声色に、若者の怒りとやるせなさを感じ取ったはずだが、男はこともなげにうなずいた。
「本当にそうか? いや、君が言うならそうであろうとも。人は己の欲する真実のためならば、理すら曲げるだろう。曲げられた理は、歪みを生む。本来そうでないものが、そうなるのだ」
立ち上がった男は、ぐっと腰を伸ばし、少しよろめいて杖で身体を支えた。
ミィラスは困惑する。
理を曲げるとは、いったい何なのだろう。生み出された歪みとは。この男は何を知っているのか。
「どういうことでしょうか。私は若輩で、知識もありません。先輩であるあなたに、教えを乞うことはできましょうか」
男の濡れた手が、風に晒されて冷えていくようだったので、ミィラスは自分の法衣のたもとで拭いてやった。彼の手は枯れ木のように節くれ立っていた。
「私に教えられることはない。私は結局、神の教えの真髄に至ることはできなかった」
男の手の、荒れた甲の部分に、引き攣れた火傷の跡があった。すでに教団では廃止されていたが、かつて異端者に施していたという、焼き印である。
息を飲んだミィラスに、男は言った。
「時代は混沌としていたのだ。人理は乱れ、道徳は荒廃した。人が人であるために、無数の神が犠牲となった。ドリード神はそのようにして、〝教え〟として我々の前に再度降臨したのだ」
その言葉に、ミィラスははたと顔を上げ、自分達がいた草原を振り返った。
並んでいる石祠。かつての神々。教団では一切知らされず、王都でも知られていなかった存在。
「あれらは旧き神を祀ったものだと聞いています。ドリード神の信仰とは、かつて存在したそれまでの神を否定し、辱め、抹消したものなのですか?」
「あるいは消し去り、あるいは救い、あるいは同化しただろう」
男の瞳が遠くを見つめている。地平の向こうに太陽が落ちていく。
ミィラスはすがるように、彼の手を掴んだ。
「浅学の身ゆえ、私では理解が及ばないことが多いのです。旧き神について、教団では学ぶすべもありません。ですが、ここまで旅をしたなかで、今、思い至りました。白夜城の地下にあった石碑と、石祠に彫られた文様が似通っている理由にも。あのとき、人々を無残に殺戮した魔物は、旧き神の一柱だということなのですね。あれを止めるには、どうしたらいいのでしょう」
男はじっとミィラスを、どこか遠い目で見つめる。
「それを知るには、君は道を進まねば。私は生涯をかけて流れの先へとやってきた。君は流れのもとへ」
一陣の風が吹き下ろし、黒々とした翼の巨躯が二人のそばに舞い降りた。ミィラスは恐怖におののき、後ずさる。
男は手を伸ばして、鳥の顔に触れた。黒く邪悪かと思った大鳥は、大人しくされるがままになっている。あたかも、人によく懐いた可愛げのある鳥のようだった。よく見れば顔つきも穏やかだ。鴉──とは似ているが少し違うような気もする。
「君が私のロケットを開いたことで、私の名が持つ加護が、君の肉体に与えられた。私は名を手放して、ようやく此岸を離れることができる。この鳥は旅立つべき魂を迎えに来たのだ」
彼は杖を手放すと、羽毛の背によじ登りはじめた。足場が悪く、危うくずり落ちそうになるのを、ミィラスが慌てて駆け寄り、手助けしてやった。どうしてそんなことをしているのか、自分でも分からないまま──だが、波打つ漆黒の翼は、白夜城を破壊し尽くしたあの醜悪な化け物と違い、暖かく血の通った手触りをしていた。
「ありがとう、優しい後輩よ」
彼はそう言って、聖典楽師の一揖を返した。
「君の名前はなんというのだ?」
男が問うたとき、鳥は翼を広げて、すぐにも飛び立たんとしていた。ばさばさと力強い羽ばたきが風を生み出し、下にいるミィラスの法衣が大きく煽られた。
ミィラスは声を張り上げる。
「私の名はミィラス《豊饒》です!」
それを聞いて男は初めて、満面の笑みを見せた。
「そうか。そうだろうとも。死出の川辺に芽吹かせる者よ」
巨大な身体が浮き上がり、甲高いひと鳴きとともに空へ駆け上がっていく。
「私の名はリィン《生命》だ。君が務めを果たして、再びこの川辺に辿り着くまで、君の道行きを支える杖となるだろう」
鳥の背に乗り、古の聖典楽師は空の彼方へ去って行く。
地面には、彼が残していった一本の杖が横たわっていた。
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《リィン》
竪琴の聖典楽師
「此岸の川辺に、草原を生む者とは」
清々しい青葉の香りの中で、その者は言った。低く発された声はくぐもるようで、しかし聞くに障りなく、歌うような旋律をはらんでいた。
片手に竪琴を携え、反対側で杖をついている男だ。
ミィラスは彼と対峙して、彼がまとう古びた聖典楽師の法衣をみとめ、ゆっくりと歩み寄る。どうしてかミィラスの足が踏んだ場所だけ、緑が濃くなった。
「此岸の川辺とは、神の教えに伝わる、あの此岸なのですか?」
隣に立つと、男の杖がすっと持ち上がり、先の方を示す。視線で辿っていくと、大地を蛇行する銀色の線が輝いていた。
「そこに川が見える。こちらが生、あちらが死だ。そしてドリード神のおわす天上界は……」
杖が真上を向く。ミィラスが仰向くと、橙色の残り火のほか、ほとんどが藍に染まった空が見えた。そこでは星と星とが結ばれて、複雑な絵を描いていた。
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二人の頭上を、鳥の群れが横切っていった。翼で風を打って上昇し、川をまたいで彼岸へ行ったあと、また旋回して川を越え此方へ戻ってくる。
「鳥がいます」
「鳥はどこにでもいる」
思わず呟いたミィラスに、男は答えた。
「彼らを見ろ。その身は空にあり、此岸にあり、彼岸にある。だが何も矛盾してはいない」
鳥たちを眺めていると、その一羽が黒い鳥であることに気がついた。ミィラスが胸騒ぎを覚えると、その黒い翼が大きく膨張して、またたく間に巨体に姿を変えた。
「魔物……!」
身構えるミィラスの隣で、男は悠々と歩き出しながら言う。
「君は、すでにスルフ《守護》のロケットを手に入れてここに辿り着いた」
「そのことを、なぜ」
慌てて追いかけながら、ミィラスは驚いて言った。
男は平然としながら、淡々と述べる。
「私がそれを作り、〝力ある言葉〟を封じたのだ。だが私の未熟さゆえに、うまくは作れず、未完成品がいくつも生まれた。そのうちスルフ《守護》として完成した物を、西翼の領主に授けたのだ」
「どうしてそのようなことを?」
男の後ろをついて歩きながら、ミィラスは問う。
男は答えた。
「いつか必要になると思ったからだ。だがどうやら何者かが、本来あるべき場所から持ち出し、捨てたようだな。それを偶然、君が拾った。あるいは、相応しい者の手に渡ったとも言えるかもしれない」
二人はいつのまにか、川べりにやってきていた。
男は膝をつき、澄んだ水の中に手を入れて、底の砂をざらざらとかき分けた。白い砂の中に、黄金の二枚貝が埋もれている。貝は殻の隙間から二本の管を出していたが、男の手が近づくと、ひゅっと引っ込んで固く閉じこもった。
拾い上げた貝を夕日にかざすと、不思議なことに殻が透けて、中に真珠が入っているのが見える。
「真珠とは、貝がその肉に異物を取り込み、生み出されるものだ。苦しかろうに、無理矢理暴かない限り、貝は黙してその秘密を守る。〝力ある言葉〟を封印するには、一番よい形だった」
男は貝を水の中に戻し、丁寧に砂をかけた。
地面に大きな影が落ちる。巨大な鳥が二人の上を旋回していた。身を強張らせるミィラスに、「怯える必要はない」と男は穏やかに言った。
「しかし、あれは多くの命を奪ったのです!」
ミィラスの声は震えていた。そのさざ波のような声色に、若者の怒りとやるせなさを感じ取ったはずだが、男はこともなげにうなずいた。
「本当にそうか? いや、君が言うならそうであろうとも。人は己の欲する真実のためならば、理すら曲げるだろう。曲げられた理は、歪みを生む。本来そうでないものが、そうなるのだ」
立ち上がった男は、ぐっと腰を伸ばし、少しよろめいて杖で身体を支えた。
ミィラスは困惑する。
理を曲げるとは、いったい何なのだろう。生み出された歪みとは。この男は何を知っているのか。
「どういうことでしょうか。私は若輩で、知識もありません。先輩であるあなたに、教えを乞うことはできましょうか」
男の濡れた手が、風に晒されて冷えていくようだったので、ミィラスは自分の法衣のたもとで拭いてやった。彼の手は枯れ木のように節くれ立っていた。
「私に教えられることはない。私は結局、神の教えの真髄に至ることはできなかった」
男の手の、荒れた甲の部分に、引き攣れた火傷の跡があった。すでに教団では廃止されていたが、かつて異端者に施していたという、焼き印である。
息を飲んだミィラスに、男は言った。
「時代は混沌としていたのだ。人理は乱れ、道徳は荒廃した。人が人であるために、無数の神が犠牲となった。ドリード神はそのようにして、〝教え〟として我々の前に再度降臨したのだ」
その言葉に、ミィラスははたと顔を上げ、自分達がいた草原を振り返った。
並んでいる石祠。かつての神々。教団では一切知らされず、王都でも知られていなかった存在。
「あれらは旧き神を祀ったものだと聞いています。ドリード神の信仰とは、かつて存在したそれまでの神を否定し、辱め、抹消したものなのですか?」
「あるいは消し去り、あるいは救い、あるいは同化しただろう」
男の瞳が遠くを見つめている。地平の向こうに太陽が落ちていく。
ミィラスはすがるように、彼の手を掴んだ。
「浅学の身ゆえ、私では理解が及ばないことが多いのです。旧き神について、教団では学ぶすべもありません。ですが、ここまで旅をしたなかで、今、思い至りました。白夜城の地下にあった石碑と、石祠に彫られた文様が似通っている理由にも。あのとき、人々を無残に殺戮した魔物は、旧き神の一柱だということなのですね。あれを止めるには、どうしたらいいのでしょう」
男はじっとミィラスを、どこか遠い目で見つめる。
「それを知るには、君は道を進まねば。私は生涯をかけて流れの先へとやってきた。君は流れのもとへ」
一陣の風が吹き下ろし、黒々とした翼の巨躯が二人のそばに舞い降りた。ミィラスは恐怖におののき、後ずさる。
男は手を伸ばして、鳥の顔に触れた。黒く邪悪かと思った大鳥は、大人しくされるがままになっている。あたかも、人によく懐いた可愛げのある鳥のようだった。よく見れば顔つきも穏やかだ。鴉──とは似ているが少し違うような気もする。
「君が私のロケットを開いたことで、私の名が持つ加護が、君の肉体に与えられた。私は名を手放して、ようやく此岸を離れることができる。この鳥は旅立つべき魂を迎えに来たのだ」
彼は杖を手放すと、羽毛の背によじ登りはじめた。足場が悪く、危うくずり落ちそうになるのを、ミィラスが慌てて駆け寄り、手助けしてやった。どうしてそんなことをしているのか、自分でも分からないまま──だが、波打つ漆黒の翼は、白夜城を破壊し尽くしたあの醜悪な化け物と違い、暖かく血の通った手触りをしていた。
「ありがとう、優しい後輩よ」
彼はそう言って、聖典楽師の一揖を返した。
「君の名前はなんというのだ?」
男が問うたとき、鳥は翼を広げて、すぐにも飛び立たんとしていた。ばさばさと力強い羽ばたきが風を生み出し、下にいるミィラスの法衣が大きく煽られた。
ミィラスは声を張り上げる。
「私の名はミィラス《豊饒》です!」
それを聞いて男は初めて、満面の笑みを見せた。
「そうか。そうだろうとも。死出の川辺に芽吹かせる者よ」
巨大な身体が浮き上がり、甲高いひと鳴きとともに空へ駆け上がっていく。
「私の名はリィン《生命》だ。君が務めを果たして、再びこの川辺に辿り着くまで、君の道行きを支える杖となるだろう」
鳥の背に乗り、古の聖典楽師は空の彼方へ去って行く。
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