西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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八章 祈り交わる

29話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性




 ミィラスは弾かれたように顔を上げた。
 竪琴の音。〝聖典の詩〟だ。
 どこから聞こえる?
 音の方向に目を向ければ、鬱蒼とした木々が行く手を遮っている。
 ミィラスは躊躇いなく木々の間に踏み込んだ。

「ちょっと!」

 パルラが慌ててミィラスの法衣の端を掴む。

「危ないわ」

 ミィラスは一度振り返る。不安げな顔をしたパルラと目が合った。

「あの音には聞き覚えがある。白夜城で、私が奏でた──」
「あなたの音は、あんなのじゃないわ」

 パルラがきっぱりと言ったが、ミィラスは納得ができなかった。

「待つんだ」

 テルが追いかけてきて、ミィラスの腕を掴んで強引に止めた。

「みだりに山中に踏み込むのは危険だ。下手をしたら迷ったまま出られなくなる」

 それが正論だとしても、ミィラスの心は焦燥感でじりじりとしていた。誰がこの音を奏でているのだろう。どうしても相手を確かめなければならない。

「ここまで案内していただき、ありがとうございます」

 ミィラスは言った。

「あなたのご厚意に感謝します。せめてものお礼に──」
「いや、待った」

 テルがミィラスの言葉を遮る。

「このまま行かれても気分が悪い。それに、君たちは気づかなかったのかい?」

 テルは木々の向こうに険しい視線を投げた。

「音だけじゃない。──かすかに血の匂いがする」

 彼の言葉は本当だった。
 言われてみてミィラスも気づく。すうすうと流れてくる風に、いやな臭気が混じっていることに。
 ミィラスが顔を強張らせると、隣でパルラも青ざめた。
 死の匂いだ。すぐそこに、〝聖典の詩〟を侍らせた死の気配がある。

「その辺に野生動物の死体でもあるのか、それとも……。どちらにしても、山の中で血の匂いを嗅ぐのは良いことじゃない。ここを離れたほうがいい」

 テルはそう言って戻ることを促してきたが、ミィラスは彼の手をそっとほどくと、頭を一度下げ、そのまま音の方向へ突き進んだ。
 テルが何か言っているのが聞こえたが、ミィラスは足を止めなかった。

「私も……!」

 パルラが背後からついてくる足音がする。ミィラスは振り返らず、しかし彼女を置いてきぼりにしないように、木の根や藪を踏み越えて、音の発生源へと近づいていった。

      * * *

 ミィラスとパルラが去り、残されたテルはじっと立ち尽くしていた。不穏な音色と臭気の漂う森の奥は、見えない闇に塗り込められたように、不吉な気配に満ちている。
 行ってしまった。若い二人だ、自分があれ以上言っても聞きはすまい。
  テルは伸ばしかけた手を、そっと下ろす。
 あの二人がこのあとどうするのか──あるいはどうなるのか、気になるなら追いかければ良いものだ。だが、テルはそうしなかった。彼らの決意がそれほど固いのならば、もはや自分の出る幕はないと思われたからだ。

 彼はもともと困った人を見過ごせぬ仁徳の人であり、血の気の多い若い時分には、よく他人の面倒ごとを背負い込むことが多かった。だが幾分歳を重ねたことで、自らの力量や領分を越えることはしない分別を持ち合わせるようになった。
 最初に二人を盗賊から助けた時点で、充分に手を尽くした。これ以上の介入はお節介というべきだろう。
 それに、彼が多くの〝人助け〟を引き受けることを良しとしない者もいる。

 愛ゆえにだ。

 テルは腰の剣に手を添えた。質素な剣だが、目立たないところに鮮やかな綾紐が結びつけてあった。彼の身を案じた人物が、せめてものお守りとして贈ってくれたものだ。これが無ければ、テルはもう少し無謀な人助けに加担していたかもしれない。

 あの先には、自分は行けない。行かない方がいい。

 それは恐れというよりも、行くべきは今ではなく、そこではない、という予感だった。
 テルは二人が去った方向から、視線をどかした。

 この異臭が、動物の血か人間の血か分からないものの、付近に獰猛な生き物がいる可能性は高く、運悪く襲われるかもしれない。または、ミィラスが言っていた魔物や、それに類する物の怪が潜んでいないとも限らない。

 魔物……か。

 テルはふと、ならば西翼領近辺は混乱しているのでは?と思い立った。多くの人間が殺されたなら騒ぎになっていることだろう。どこが悲劇の現場だったのだ? ミィラスは「ある場所」としか言わなかった。

 彼らが来た方向は東だ。

 ふと地面に視線を落とすと、下草の間に何かが見えた。
 テルは身をかがめ、草をかき分けてみる。地面の一部が赤くなっているようだ。
 血──ではない。
 まるで砂のようだった。血ならば土の上に黒く染みを作るだろうが、砂状であるがゆえに鮮やかな赤色を保ち、光の加減で所々がきらりと輝いて見える。
 テルは指差でそれに触れ、つまみ取った。

「これは……水銀、辰砂か……」

 砂に触れた彼の指に、銀色の滴がついていた。テルはじっと目を凝らしたあと、衣の裾で指を拭い、立ち上がった。
 ともあれ、たった今、行く場所が決まった。
 彼がこの国に来た理由を、役目を、果たさねばならない。それはもう少し後でも良かったが、このままだと看過できない障害が生まれそうだ。早めに手を打ったほうが良いだろう。

 こうしてはいられない。

 テルは踵を返し、来た道を引き返していった。

      * * *

 木立を抜けて、ミィラスはぽっかりと広くなった場所に出る。
 道なき道を上ったり下ったりしたので、息は上がり汗をかいていた。藪でひっかいたのか、横顔に小さな傷ができ、うすく血が滲んでいる。
 少し荒くなった息を整えると、どこからか漂ってきた冷気が喉を刺す。文字通り凍えるような不快感が襲ってきた。先ほどからの悪臭も一層強い。目指すべきものは、どうやらこの近くらしい。
 パルラも追いついてきて、同じように空気の冷たさに気づいた。

「とても嫌な感じ」
「同感だ」

 ミィラスは周囲に視線を向けた。
 視界の隅に鎮座している古木。その根元。その陰。なにかいる。竪琴の音もそこからだ。

 じっとりとした黒い煙だ。滞留しているのか、煤の塊のようにも見えるし、黒い布が丸まっているようにも見える。
 ほどなくして、煙は徐々に実体をなし、人間の形に近づいていった。煙がうねって衣の裾となり、手足となり、顔となった。そのどれもが無彩色で、血色を感じさせぬ色合いである。

 古木にもたれかかり、うっすら倦んだように退屈そうな気配を漂わせ、手元の弦と戯れている男。
 その技巧は素晴らしく、繊細な弦の震えはどこか蠱惑的で、音律は聴く者を陶酔させる魔力があった。耳から忍び込み、身の内に染み渡っていく恍惚──目を閉じて聴くならば、眼裏に光が差してくるような心地にさえなったかもしれない。
 だがそう思うのは最初だけで、徐々に眩暈に似た気味の悪さを感じ始める。歪んだ鏡面を眺めているうちに、邪悪な虚像に魅入られたかのような。

 ミィラスは言葉を無くして立ちすくんだ。
 目の前にいるのは〝ミィラス〟だった。
 色の無い、黒く翳ったその姿は、ミィラスをそのまま写し取ったような姿をしていて、彼と同じ形の指で戯れのように竪琴をかき鳴らす。

「あれは何なの!?」

 パルラが〝ミィラス〟を指さして叫んだ。
 その声に、〝彼〟は演奏の手を止め、すっと視線をこちらに寄越した。すると、その身体から冷気が流れ出て、身を強張らせている二人の足許へどろどろと押し寄せてくる。

「ひっ……」

 パルラは引きつった悲鳴を上げてあとずさった。
 尋常ではない冷たさが、ミィラスの足首に触れて彼の身を竦ませた。かと思うと、瞬く間に背中まで這い上り、心臓を凍りつかせようとする。臓腑の中まで針で刺されているかのようだ。

「……!」

 ミィラスは凍えた息で咳をしながらも、完璧なスルフ《守護》を唱えて、己とパルラの周囲から冷気を退けた。
 それを見た〝ミィラス〟は、くっと小さな笑い声をあげる。

『愚かなるドリードの信徒よ──』

 彼による〝愚か〟という形容の言葉は、普通に考えれば『信徒』である自分たちに掛けられたものだろうが、彼の雰囲気からして、あるいは不遜なことに『ドリード』のほうに掛けられたものかもしれなかった。

 その声はミィラスと同じく、若くて張りがあり、かつ落ち着いていたが、〝本物〟の声にある素朴な温もりは無く、反対に冷え切った傲慢さがあった。また持ち上がった口角には、あからさまな嘲りと憐憫の情が浮かんでいて、獲物をいたぶる獣の優越を味わっていると見える。

『とくと聞け』

 それは命令のようで、ただの独り言に近かった。

『純真なる心では我に届かず、蒙昧なる知はお前を無力たらしめ、全ての研鑽はいしくれのように打ち棄てられるのだ──無謀にも我が本尊を追ってここまで来たのか?』

 その言葉でミィラスは、相手が魔物そのものではなく、分身かそれに類するものであろうと悟った。たしかにその者が持つ気配は魔物と同質だったが、悍ましさにおいては及ばず、力もまた数段劣るものだった。
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