西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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八章 祈り交わる

30話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性




 それでも圧倒的に相手が自分を凌ぐ力を持っていることは明らかだった。
 ミィラスはぎゅっと竪琴を懐で握りしめ、相手と対峙した。

「私は、あなたのもたらす破壊を阻止するつもりでいる。そして……」

 ミィラスは言った。

「ある先達が私に示唆しました。あなたは忘れ去られた旧き神の一柱であると」

 言葉が通じるのであれば、知ることができるかもしれない。幻の光景の中でリィンが語ったような、流れのもとを辿る術を。かつて人々が安寧のために歪めた理と、本来あるべきだった形を。

「どうか、旧き神よ」

 ミィラスは前に進み出る。

「──どうか、人を赦して鎮まり給え。それができないのなら、あなたが荒ぶるわけを教えていただけないでしょうか」

 聖典楽師のゆうの動作。両手の指を組んで合わせ、腰をかがめながら頭を下げる。
 神に対する祈りと懇願だった。
 その様子をしばし眺めてから、〝ミィラス〟は鼻で笑う。

『我が名も知らぬ無知者が、我に談判しようとは。ドリードの従者なぞに与える赦しはない』

 怒りに触れたか、再び恐ろしい冷気がミィラスを取り巻き始める。皮膚を突き破って体内に侵入する痛み。息をも凍らす怖気。
 だが旧き神の分身は、すいとパルラのほうに目を移し、二度ほど瞬いて、『巫がいるではないか』と言った。

「巫……?」

 パルラは眉をひそめ、分からないというように首をかしげた。
 その様子に落胆したのか、旧き神は自嘲する。

『神降ろしも、悠久の果てに途絶えたか』

 そう言いながら、彼は法衣の裾をくるりとさばいて、袖を優雅にはらった。
 その一瞬で、旧き神による〝ミィラス〟の身体がほどけて黒い糸束のようになり、パルラに向かって勢いよく飛んだ。

「あっ……!」

 防ぐ間もなく黒い糸はパルラの口から中に侵入した。

「パルラ!」

 踊り子の身体は崩れ落ちる。ミィラスがすぐに抱き起こすも、苦痛に歪んだ彼女の顔は冷え切って、呼吸もままならず震えていた。

 あえぐように開いた口から、声が漏れ出る。

「『我が由緒正しき番いは失われた。かわりとなる巫女を……』」

 踊り子の喉の奥で蠢く闇は、それだけを言うと沈黙する。
 だがそれで終わりではなく、魔術的な白い霜が生じたかと思うと、ざわざわと彼女の身体を覆い始めた。
 パルラは身を貫く寒さと苦痛に身もだえし、瞳に恐怖を浮かべていた。彼女は身体の自由を奪われ、吐息すら今に凍りつかんとしていた。彼女を抱くミィラスは、このままではこの娘の肉体はすぐに死んでしまうと悟った。

 ミィラスはパルラの頭を支えると、半ば開いた唇に自らのそれを合わせた。本来なら暖かいはずの感触は、今は氷に口付けているかのように冷たく、薄い皮膚越しに伝わってくる神の悪意は、呪いの意志に他ならなかった。
 ミィラスはパルラの命の炎──必死に光を保とうと瞬いている──に息を吹きかけ、次の瞬間には反対に、旧き神の闇を吸い上げ始めた。
 冷たい闇は抵抗しようと、パルラの肉体の奥へ奥へと後退していく。ミィラスはそれを許さず、より繋がりを深めようとパルラをかき抱く。
  死んではいけない。死なせてたまるものか。

 ミィラスの祈りを宿した体温が、踊り子の肌に降りた霜を砕いていく。
 弱々しくなっていたパルラの心拍が、徐々に生気を取り戻し、その律動が闇を外へ押し出そうとする力となって働いた。
 ヴァインの宿で、アシェラに〝力ある言葉〟の光を吸い取られたときの感情が、一瞬だけミィラスの脳裏に浮かんで消えた。
 旧き神の恐ろしく冷たい塊に触れた。ミィラスはすかさずその端に歯を立てて、踊り子の中から引きずり出す。

 パルラが咳き込み、その勢いに乗って闇の化身は聖典楽師の身体の中に飲み込まれた。
 途端に、ミィラスの目の前に黒い火花が散った。
 身体中に痛みが走り、四肢が壊死したかのような弛緩に襲われる。

 花が枯れるように、果実が落ちて腐るように、泉が干上がるように、砂がこぼれるように──抗えぬ強制力によって命は流れ出て、幾重にも砕かれ、ちりぢりになっていく。息は詰まり、死の本流が魂を飲み込んでいくのが分かる。

 生の喪失がミィラスをじっと注視し、心を支配しようと手を伸ばす。人間の命など根こそぎ刈り取る力によって、彼は今、凍えた暗黒の向こうへ囚人のごとく引きずられ行かんとしていた。

 ミィラスは苦痛に耐えながらも、強く念じる。
 立ち向かうのだ。
 今このとき、最も近いところで、この神に触れている。

 ミィラスの眼裏に光景が浮かんだ。

 鳥たちが行き交い、先達が旅立った、あの此岸の川辺だ。美しく寂しい、清浄で晴れやかな世界の黄昏。
 竪琴をかき鳴らす。それは〝聖典の詩〟に属さない音楽だったが、ミィラスが己を鼓舞するためのものであり、同時に憐れな闇色の神に捧げるためのものであった。

 かの者から授かりし加護の名──リィン《生命》。
 此岸を芽吹かせる我が名──ミィラス《豊饒》。

 この闇に抗い、闇を抱き、闇を宥め、私の魂を此岸へつなぎ止め給え……!

 ミィラスの内に金色の光が生まれる。それは徐々に固く凝縮していくようだった。やがて形を持った〝それ〟はてのひらに乗り、ミィラスが既に知っているものになった。

 川辺にせせらぐ水面の下にあり、秘密を守るもの。

 ミィラスははっとして懐をさぐり、黄金のロケットを引き出した。
 蓋を開けると、岩塩の欠片がころりと地面に転がり落ちる。ミィラスは空になったその場所に口付けて、邪悪の分身を吐き出した。
 丸く凝固したそれは、黒真珠のように照り輝き、冷気を放っている。ロケットの黄金に抱かれ、思うように身動きができないのか、もぞもぞと居心地悪そうに何度か転がった。

 パチン、とロケットを形作る二枚貝の蓋を閉じる。持ち主の意図を汲んだのか、黄金の貝は厳然と秘密を守るべく、中身を封印して押し黙った──

 ミィラスはばったりと倒れ込み、肺一杯に空気を吸い込んだ。死の気配も臭気も消え、周囲は緑と土の匂いに満たされていた。
 ミィラスは伏したままマクールの形見を拾い上げる。桃色の岩塩は木漏れ日に当たってきらきらと光を放っていた。
 隣で同様に倒れていたパルラが、ミィラスにくっつくように寄ってきた。暖をとりたいのだろう、ミィラスの着ている法衣の裾を、まるで毛布のように自身に巻きつける。

「それ、なに?」

 掠れた声の問いに、ミィラスは答えた。

「マクール殿が遺したものだよ。今まで渡せなくてすまない……」

 岩塩の欠片が、ミィラスの手からパルラに渡る。
 パルラは指先でつまんだ形見をしばらく観察し、「兄さんの……」と呟いた。
 そして、そのまま彼女は岩塩の欠片をぱくっと口に入れてしまった。

「しょっぱい!」

 彼女は叫ぶ。

「……でも口直しにはぴったりね。マクール兄さんには感謝しなくっちゃ。さっきの黒いやつの味ときたら、この世の終わりかと思ったもの!」

 それを聞いて思わずミィラスは吹き出し、身体を折り曲げて笑った。
 大笑いする彼の姿に驚いたのか、パルラは一瞬呆けたが、つられて笑みを浮かべる。
 踊り子の笑顔を見つめ、ミィラスは言った。

「たしかに、本当にひどい味だった。口直しは必要だ……僕の分はないの?」

 その言葉に彼女はぱちぱちと瞬きする。

「あらまあ、ごめんあそばせ。小さな欠片だったから全部食べちゃったわ。ちょっと待ってね」

 パルラがミィラスの顔の横に手をつき、暖かな唇で触れてくる。
 塩の味とほのかな肌の匂いが、ミィラスを包み込んだ。
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