西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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十章 神々の系譜

40話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
《ディアン》
ザルバの町で暮らす浮浪少年 



 揺さぶられて気がつくと、ミィラスは地面に仰向けに倒れていて、こちらを覗き込んでいるディアンの顔が見えた。

「兄ちゃん! しっかりしろよ!」
「……」

 ミィラスは起き上がり、少年に声を掛けようとして口を開いた。

「……?」

 声が出ない。
 それに、身体を見下ろすと、法衣の襟から胸元までが血で染まっている。ミィラスはそれが自分の体液であると理解した。他ならぬ己の口内がひどく鉄臭かったからだ。

 すうっと血の気が引いていった。
 思わず、握りしめたままの黄金のロケットを凝視する。

 ──やられた。

 ──声帯を潰された。

 ロケットの中に封じ込めているからと油断していた。ちょっと身動きするのがせいぜいで、大したことは出来ないだろうと。だが、分身であったとしてもそれは神に違いなく、不遜にも刃向かう存在であるミィラスを抹殺するために機会を窺っていたのだろう。

「……大丈夫かよ? 喉? 怪我?」

 ディアンが不安そうな顔で見つめてくる。
 ミィラスは頷き、無言のまま少年に微笑みかけた。

「帰る? 宿?」

 頷くと、ディアンはミィラスの手を引いて助け起こした。彼はそのまま宿屋の方向に歩き出す。かすかに鼻をすする音がしたが、ミィラスは気づかないふりをしたし、気づいたところで声をかけて慰めることすらできないのだった。
 ディアンとともに宿に戻ると、案の定パルラはぎょっとして悲鳴を上げた。

「どうしたの!? その血はなに!?」

 事情を説明するために、紙にさらさらとペンを走らせる。
 それを読んだパルラは目を吊り上げ、ミィラスの手からさっとロケットを奪い取った。
 次の瞬間に響き渡ったのは、鋭い金属音だった。

「──許せない!! なにが神よ!!」

 彼女は床にロケットを激しく叩きつけたのだ。カァンッ──と甲高く反響する音が、痛ましいパルラの叫びとともに、その場にいる人間の鼓膜に突き刺さる。

「冥府が何よ! ただの人殺しの神じゃない! 破壊して傷つけるだけの、卑劣で汚らわしい悪魔よ!!」

 パルラが怒りのままに、今度は食堂の椅子を振り下ろして、ロケットを叩き潰そうとしたので、ミィラスはその手に飛びついて止めた。手から外れた椅子が床に転がり落ちて鈍い音を立てる。

「どうして止めるの!」

 パルラは憤慨して暴れたが、ミィラスにこそ怒りをぶつけるべきではないと我に返る。荒く肩で息をしながら、彼女はひとまず大人しくなった。その瞳だけは爛々とロケットに注がれ、神だろうが悪魔だろうが知るものかという気勢を噴き上がらせていたが。
 ミィラスはほっと息をつき、再びペンで紙に文字を書く。

『大丈夫。命までは取られなかった。そこまでの力は無いんだ』

 パルラはまだふつふつと怒りに沸いている様子だが、辛抱強くミィラスがペンを走らせるのを待っていた。

『おかげで町の人を守る方法も分かった。たぶん、それがとても有効だから、焦った神の分身が僕に攻撃をしたんだ』
「どういうこと?」

 ミィラスは防塁跡と、そこに遺っていた文様についての解釈を説明した。パルラは渋面のまま聞いていたが、納得はしたのか喉の奥からくぐもった声を絞り出した。

「……分かったわ。明日までに残された時間はもう無いし、その可能性に賭けましょう。でも町の人たちに、どうやって」

 ミィラスは少し考え、ペン先を自らの掌に当てて、皮膚にそのまま文様を描いた。

『直接描けばいい』
「たしかにそうかもしれないけど、いったい何人に描かないといけないと思ってるの? 町ひとつ分よ! それにもし描き間違えて気づかなかったら……」

 ミィラスはペンの反対側をパルラに向ける。そこに付属しているのは彼の印章だ。

「なるほどね。ハンコを今から彫るってこと! それならチマチマ手描きするよりも、かなり手間は省けそうだわ! 問題は、私がぶきっちょってことよ。材料は木? 石? 粘土? こんな複雑な模様を彫刻なんて……今からでも彫刻家に弟子入りしてこようかしら! たぶん百個目くらいで満足いくものが出来るわ!」

 いきり立っているパルラの袖を、ディアンがぐいっと引っ張る。

「なによ!」
「ん」

 ディアンは蝋板を掲げる。

「蝋でやりゃいいじゃん」


 喋ることのできないミィラスは、町の自警団や親方衆への説明をパルラに任せ、文様を彫ることに専念していた。その後は自警団、親方衆たちが手分けして、町の人々に説明に回ってくれるはずだ。それまでに充分な数のハンコが必要だ。
 突拍子もない話を、聖ドリード教団の神職、しかも聖典楽師がそう言っているからという理由で受け入れてくれるのだから、彼らには感謝するしかない。

 ミィラスはじっと彫り途中の文様を見た。

 鏡文字だ。

 ミィラスがよく知る〝力ある言葉〟──スルフ《守護》とリィン《生命》という、偶然にも彼が取り戻した言葉を、鏡文字にして重ねると、この文様に酷似したものとなる。かなり歪な形状ではあるが。
 ドリード神からもたらされたとされる言葉は、いにしえの時代の旧き神々から受け継がれ、年月を経て形を変えたものだったのだ。

「終わったわ! 私も手伝うわよ」

 パルラが戻ってきて、蝋と尖筆を手に取る。
 だが、彼女はその言葉通り手先が器用とは言えなかった。
 妙な場所に力が入ったり、形が歪んだりして、ひとつ作るだけでも苦労しているようだ。
 ディアンが身を乗り出す。

「俺がやろうか? 蝋ならもう慣れたもんだぜ! へへ」
「むむむっ……」

 一刻もすれば、彼らのもとに町の人々が大勢やってきた。どうやらありがたい護符らしきものを授けてもらえるそうだ、と彼らは理解していた。先にハンコを肌に押した者から、後からハンコを押す者を手伝う、という流れで、スルフ《守護》とリィン《生命》の加護は町中に広がっていった。

「ほらっ! すっかり私も綺麗に描けるようになったんだから!」

 パルラはそう言って、意気揚々と黄金のロケットに直接文様を描き込んだ。ミィラスは中にいる分身に同情したが、何も言わなかった。言えないからだ。

「これでもう悪さはできないわね」

 町中に加護が行き渡った頃合いであった。周囲が加護だらけになり、既に早い段階で分身はすっかり萎んだように大人しくなっていた。そこへパルラの手でトドメを食らったというわけだ。

      *

 ザルバの町から夜闇が去ろうとしていたとき、なおも西方のキアル山は夜の帳を被って黒々としている。だが夜通しで準備をしていた自警団の声や、武器を運ぶ荷車の音、そわそわと浮き足立つ人々の気配は、前日から一度も途絶えることなく、夜と朝の境目を跨ぎ超えようとしていた。 

 仮眠から目覚めつつあったミィラスの、夢うつつに閉じているまぶたの裏には、三角形にそびえる山の稜線より、黒い影が現れ出でる光景が浮かんでいた。

 その影の中から視線を感じて、夢の中であれミィラスは目を凝らした。

 蒼色の瞳がこちらを覗いている。それは遥か遠くにいるにもかかわらず、まるで、すぐ側にいるかのように感じ取れた。あの日感じた芳醇な肌の匂い、艶めいた息づかい、黒絹のような髪のさらさらとした手触り、手や唇の温度さえも、今このとき傍らにあるかのように錯覚する──だが、ミィラスはそれが幻にすぎない魔術であることを見抜いていた。

 その向こうに、本当の姿がある。

 薄明の光を受けた女の額は青白い。アシェラは痩せ細った身体で魔物の背に、ほとんど黒い羽毛と同化してしまったかのような様子で貼りついていた。少女のようだった容姿も今は枯れ木のようになり、血すら乾ききったのではないかと思わせるほどだった。

 ミィラスは静かに目を開き、天井の板を見つめてから、机の上のロケットに視線を移した。黄金は朝日を浴びて輝き、じっとうずくまっている。

 けたたましい警鐘の音が鳴り響いたのは、そのすぐ後だった。
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