西翼の鴉~神は沈黙したもう~

雨丹 釉

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十章 神々の系譜

42話

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【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
《ディアン》
ザルバの町で暮らす浮浪少年 
《テル》
旅の剣士で、風雅な印象の風来坊



 隕石のように町に墜落した魔物は、黒い翼で周囲をなぎ払う。不潔な粘液が飛び散り、腐臭が漂った。
 悲鳴を上げて、人々が引き潮のように退いていく。だがその中でも勇敢な男たちは武器を構え、目の前の化け物を成敗せんと躍り出た。
 踊り子の舞によって祝福を受けた武器は、魔物の羽毛を切り裂き、下にある肉にも届く。魔物は驚き、吠えた。人の武器に傷つけられたのは初めてだったのだ。にわかには信じられず、神にとっては許しがたい蛮行であり、ただれた身の内に更なる怒りがみなぎった。

「いける! このまま倒せるぞ!」

 人々は声を上げ、勇気を奮い立たせる。
 だが、彼らの武器が効力を発したのは最初の一撃だけで、魔物の肉に触れた部分から腐食し崩れ始めた。
 魔物は──冥府の神は、その傷からどっどっと血を噴き出させた。みるみるうちに、その体液は赤い砂に変化し、質量を増して町全体を覆う濁流となる。その激しいうねりは真っ先に聖典楽師に襲いかかり、怒り狂った神もろともに、流れの中に引きずり込んだのだった。

「ミィラス!」

 パルラが叫びながら、彼が沈んだあたりに飛び込んだ。首から上をかろうじて上に出しながら、赤い流砂の中に腕を伸ばして彼を探す。砂の鋭い破片が彼女の腕を傷つけた。
 赤い砂の流れは激しく、彼女をも渦に巻き込み、窒息させようとした。

「姉ちゃん!」

 ディアンが民家の壁に掴まりながら、パルラに手を伸ばした。
 パルラは腕を伸ばし、少年の小さな手にすがりつく。

「どうしよう、ミィラスが……!」
「今は高いところに逃げなきゃ。みんな沈んじゃうよ!」

 ディアンはパルラを半ば強引に引っ張り、建物の屋根の上に連れて行った。
 上から見下ろすと、赤い砂は絶えず蠢いて、渦の中心だけが黒く虚ろな穴になっていた。人々は砂に埋まったり、あるいは二人と同じように高い場所に避難したりしていて、もはや戦うどころではない。

 その時、遠くから馬のいななきが聞こえた。それは恐怖に駆られた家畜の悲鳴ではなかった。どこかからまっすぐに此方に向かってくる何者かの先触れだった。
 きょろきょろと周囲を見渡したパルラは、はっとして町の外にまで目を向けた。

「あぁっ!」

 なんと、街道をザルバの町に向かって疾走してくる一騎の馬がいる。
 このとき既に町を覆う赤い濁流は、街道にも溢れ始めており、正面からその馬にも迫っていた。このままでは、あの騎乗者も飲まれてしまうだろう。

 パルラは叫ぼうとした。ここに来てはいけない。駄目だ。この町はもうおしまいだ。じきに冥府の神によって滅ぼされるのだから!

 だが、その者が暗紅色の衣を着ていることに気づいたとき、パルラは思わず息を飲んだ。

 騎乗者は馬の速度を緩めぬまま、鐙から足を抜き、手綱から手を放して、低い姿勢で鞍の上に立つ。
 そして、濁流に飲まれる直前でぐんっと鞍を蹴って高々と跳躍した!

 彼は赤い濁流につま先を掠めながらも、華麗に民家の屋根に着地したのだった。
 馬が身を翻し、来たときと同じ速度で引き返して行ったときには、ひょいひょいと屋根を飛び越えながら「やあ」とこちらへ手を振るテルがいたのだった──

 開いた口が塞がらないとはこのことだった。

「あ、あ、あ、あなた……!」

 口をぱくぱくさせているパルラだったが、対するテルは身を乗り出して、真っ赤に覆われた町の様子を眺める。

「これはどうにも、思ったよりも悪い状況のようだ」

 ディアンが胡乱な顔でテルを見上げた。

「誰? 赤い服の人」

 赤い服の人と呼ばれたテルは振り返り、「ただの旅人さ」と言った。

「気軽にテルと呼んでくれ。君は?」
「俺はディアン。あんた、町の外からここまで来たのかよ」

 テルは「そうだよ」と頷いた。

「大事な用事があったのだけれど、この様子だと、もしかして間に合わなかったのかもしれないな」

 テルはパルラに向き直り、「ミィラスは?」と問うた。
 パルラはぎゅっと目頭に力を入れて泣くまいとしながら、首を振った。

「飲み込まれたの。どこにいるか分からないわ!」

 そんな彼女の隣で、ディアンが拳を握りしめる。

「大丈夫だよ! ミィラス兄ちゃんならきっと! 俺は信じてる」

 少年は両手で口を囲い、「兄ちゃーん!」と叫んだ。
 返事は帰って来ない。それでも彼は何度も呼び続けた。

「探すほかないな。私は彼に用事があったんだから」

 テルがそう言って腰から剣を抜く。なまくらの刃だが、彼はそれを屋根の上に勢いよく突き立てた。そして柄に結び付けられている優美な綾紐をほどくと、その端を手に握る。そのままストンッと下へ飛び降りたので、パルラはぎょっとして屋根の端に駆け寄った。

 テルは綾紐を命綱のようにして、濁流すれすれのところで器用に宙吊りになっていた。
 赤い濁流に乗って、様々なものが流されてくる。壊れた荷車や日用品、もはや用を成さなくなった武器などだ。
 その中に、彼の目に留まったものがあった。継ぎ接ぎの大きな布、それと脚が取れたらしい壊れた長机だ。

 テルは脚を伸ばしてそれらを靴先にひっかけ、引き寄せてから上に蹴り上げる。
 パルラはいきなり屋根の上に物が落ちてきたので「きゃっ」と叫んで避けた。
 屋根をよじ登り戻ってきたテルが、綾紐をもとの剣に結び直しながら言う。

「ちょうど良い物が流れて来た。これを使おう」
「何これ」

 布と長机を見にしたパルラは、次の瞬間にかっと目を見開いた。

「これって、祭壇じゃないの!?」

 顔を覆っている踊り子をよそに、ディアンが尋ねる。

「何するの? これで」

 テルは言った。

「そのまま砂に入っても身体が埋まってしまって、身動きができなくなるだろう? それに砂は自分で動いているみたいだしね。飲み込まれないようにしつつ、あの中心まで行く必要がある」

 テルが指さしたのは、赤い渦の中央にある穴だった。

「ミィラスがいるなら、きっとあの中だろうさ。あそこが〝本丸〟って感じがしないかい?」

 言いながら、テルは長机に残った脚の残骸を折り落とし、完全な一枚の板にした。そこへ裂いた布を撚って紐にし、結びつける。人が掴まるための縄にするようだ。

「よし」

 その形状は、橇に酷似していた。
 パルラは「まさか……」と言った。
 だがテルが板と屋根の角度を確認しているのを見て、確信せざるを得なかった。

 砂は流れ続け、渦は巻き続ける。
 人の力はなんと儚いことか。

 パルラはだんだんむかっ腹が立ってきた。

「まったくもう! 神様って勝手なのよ! 冥府の神も、私たちのドリード神もね! そりゃ、私たちのご先祖様が、それまでの神様を蔑ろにして、今のような信仰になったんでしょうよ! 本当にごめんなさいだわよ! でも、私たちには〝今この時〟の人生を生きるしかないのよ!」

 踊り子は、鼻息を荒くしながら、颯爽と板の上に乗った。

「行くわよ!」
「待って、俺も行くよ!」

 ディアンも素早く飛び乗る。

「いいかい? 掴まって!」

 果たして、パルラ、ディアン、テルの乗った板は、屋根の傾斜を勢いよく滑り降り、赤い砂の上へ躍り出たのだった。
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